ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(19)

 
  アドラー教について(19)
 
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
 https://twitter.com/PositiveSalon
 
 
言葉だけの辻褄合わせで、短絡して豪語、という性急で一面的な語り口が、表れています。
 

あら探しをしたり悪口を言うことは、嫌いな人の為に時間を使っているだけ。
つまり、嫌いな人の為にその人の短所を見つけてあげては、教えてあげようとしてるだけです。
そんなことに自分の大切な時間を使うなら、自分の幸せの為に時間を使おう。
嫌いな人の為に使う時間は、忙しいあなたには無い。

 
嫌いな人の悪口を言うことは、嫌いな人のために時間を使って、教えることだと言っています。悪口を言うこちらは、どうなのでしょう。相手は、嫌いな人だと言っているのでしょうか。あら探しをしたり悪口を言うことを、ブログ主は、その人の相手は、嫌な人だと言っているのでしょうか。とても、おかしなアドバイスです。
 
このツイッターの記事が、あとから見ると、消えているようだが、不都合を、あとで消して、最初から書いていなかったことにするというのは、隠蔽操作です。訂正~間違っていたから削除した、ということを書くべきです。記事を書くべきです。
 

人生で起きる出来事は、全てが後から見ると単なるネタに過ぎません。
本当に耐えられないようなことは、人生では起こらないのです。
必ず耐えられて、乗り越えられる困難以外は、あなたの身には起こりません。
明けない夜が無いのと同様、終わらない苦痛は無い。
乗り越えると、その分幸せがある。

 
人生について、単なるネタ、というのは、どういう人生観なのでしょう。
 
2行目は、どの立場で言っているのか、どういう条件で言っているのか、もしそうであれば、いかなる宗教も説教も必要ないはずです。ほぼ、説教者は、自己否定しているのと同じです。
 
3行目からは、結局、激励したいんだ、ということが分かります。でも、感情に流されているので、実質のない、きれいごとです。
 

話が通じる人と通じない人は必ずいるもの。
同じ民族で、同じ言語を使っているからって、話が通じると思うのは大間違いです。
自分の頭で考えようとしない人に、何を言っても分からないのです。
学習能力の無い人にイラだったり、悲しむのはエネルギーの無駄ですので、相手にしないで距離を取ろう。

 
学習能力のない人は、確かに、います。訂正不能の自己中で、同じことを繰り返し、批判すると、嫌がらせしか返せない人です。単なる能力の問題ではなく、人格異常だと思います。しかし、そういう人は、例外的なのです。
 
このことと、単純に、そのとき話が噛みあわないという一時的なこと、こちらが、未熟である場合、などを、いっしょにしないようにしてください。でないと、こちらが自己中になってしまいます。
 

人生を変えたいのなら、不完全ながらも行動を起こすしかない。
ただ悩んでいるだけでは、今までと同じ日々を繰り返すだけだ。
行動することで、良くも悪くも変化します。
行動を繰り返しながら、良い方向に変化させられるように努力する以外、良い人生を生きる方法はない。
考えるより行動しよう。

 
考えて、行動しましょう。ブログ主は、かなり、感情に走っています。だから、言っていることに、勢いはあっても、深みがないのです。
 
考えてばかりいないで、悩んでばかりいないで、行動に移すべきときもある、ということを、短絡した性急な言い方にしてしまいます。
 

他人の顔色をうかがう必要は無い
他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではない
自分の課題に加えて、他人の課題を背負うから辛くなるのだ
自分の課題と他人の課題を区別して、お互いの課題には介入しないようにしよう
お互いに不幸になるだけ。

 
こういう場合、顔色をうかがう、という悪い言葉と、思いやる、という良い言葉の境界が不明瞭になります。こういうことだから、課題の分離といった術語にしがみついて、断定・豪語するのは、危険なのです。当てはまることと、逆に、事態を悪くすることと、ごっちゃになった表現です。
 

誰を嫌いになるのかは、あなたの勝手ですしそれはそれでいい。
人には相性というものがあるからです。
しかし、嫌いだからといってもその人を否定しようとしてはいけません。
人間が人間を否定する道理は無い。
わざわざ喧嘩はせず、嫌いなら極力関わらないようにする。
それだけで十分なのです。

 
嫌いな人を無視するような言い回しをしてきて、ここで、嫌いな人を否定してはいけないというのは、説教者自身が、矛盾を感じても、それも言ったよと、言い訳できるように、言葉だけ辻褄を合わせようとしているのでしょう。それは、言い訳にはなりません。
 
説教自体、思想自体に、不完全が表れているということです。人間の言葉を絶対化すると、このようなことが起こり、それを教条主義と言います。
 

悪口や非難には、本人のコンプレックスが潜んでいます。
非難はその人達が自分のコンプレックスを、あなたに投影して自分を攻撃しているだけ。
あなたを攻撃している訳ではない。
人は他人のことなんて、そこまで見てはいないものです。
自分のことに興味があるのは自分だけ、自分らしく生きよう。

 
悪口と、批判を、区別してください。悪口には根拠がなく、批判には根拠があります。
 
それと、投影という心理学用語は、カルトが、批判に対して何も返せないときに、やたら使うことがあります。何か専門用語を書けば、偉く見えると思っているようです。
 

誰が何を言おうと関係無い、自分の道を突き進もう。
自分の人生の責任は、自分にしか取れません。
人は他人のことになると言いたい放題ですが、他人の人生の責任を取ることは無い。
周りに流されては不本意な人生を生きて、自分のせいではないと世の中に文句を言い続ける人生なんてつまらないだけ。

 
ですから、誰が何を言おうと関係ない、ということは、勢いも内容も、自己中の勧めになります。
 
ブログ主は、他者のことばかり言い続けている自分の責任を、どう取るつもりでしょう。
 
周りに流されないことと、自己中の他者無視とは、違います。依存しない自立した生き方と、他者を無視して自己中に生きるのとは、全然、違います。ブログ主の言い方は、両者が、混同していることがあります。思考がめんどくさくなるのか、ブログ主は、感情の勢いに走りやすいからです。
 

親切は見返りを求めないからこそ価値がある他人への貢献なのです。
親切に見返りを求めること自体が間違いであり、見返りが欲しいなら事前に話を付けるべきです。
勝手に見返りを求めて親切を働くなんて、いやらしいことこの上ない。
親切にすることを通して、自分の中で幸せという見返りを得よう。

 
親切について書いていますが、見返りを求める行為は親切とは言いません。見返りを求めない好意からの行為が親切です。当たり前です。親切を働くという言い方をして、嫌らしい親切があるかのように言っていますが、おかしいです。
 
自分の中で幸せという見返りを得よう、などと、唐突に、甘い言葉を言って、自己満足でしょうか。それとも、ブログ主には、ファンがいて、なんでもかんでも、ブログ主が言えば、それだけで深く頷いてくれるのでしょうか。
 
人に、教えるということは、人間同士なのだから、自分の弱みを隠して、完全を装っても、成り立たないということです。理屈の正しさではなく、共感性が必要なのです。ブログ主には、苦い体験がありそうです。それを話さないで、実感と説得力のある話は出来ないでしょう。
 
 
(2020年02月25日)
 
 
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