ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

不正について

 
  不正について
 
 
今回は、私が疑問に思っていた聖句です。引用、長いです。
 
キリストのたとえ話です。一貫して言われていることは、神の正しさと、人の思っている正しさとの違いです。そのことは、人の定める倫理・道徳の相対性を示しており、さらに、自分は正しいと信じている信仰者?への批判となっています。批判対象は、戒律主義者、教条主義者、カルト、聖書の中では、パリサイ人と律法学者でしょう。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
16:1
エスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。
16:2
そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
16:3-4
この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
16:5-6
それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
16:7
次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
16:8
ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
16:9
またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
16:10-11
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
 (ルカ16:1-13、新約聖書
 
このたとえ話の登場人物:
金持ち(主人)、家令、負債者たち。
 
金持ちの主人は、神に喩(たと)えられています。
 
神は、神の基準で人を裁く御方です。神は、人のしたことを、この世の善悪の基準ではなく、かといって、量や効率でもなく、心の中を総て見抜いたうえで、裁くのです。その喩えが、この家令の話に、表されています。
 
家令は、信仰者に喩えられています。人間ですから、狡い心を持っている設定です。
彼は、負債者に、証書を書き換えるように言っています。現実に起これば、法律的には不正です。
 
聖句「職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう」という、「その家」が何を意味しているのかが、分かりません。主人が神であり、その主人に職をやめさせられるのだから、「その家」を、永遠の住まい、つまり、神の国、天国、とするのは無理があります。
 
この喩えは、分からないと正直に認めて、保留するべきところです。何でも分かったことにする傾向は、熱心で強迫的な聖職者や信徒に起こりやすく、さらには、カルトにおいては著しい特徴として見られます。
 
しかしながら、たとえ話で、主人が自ら家令を褒めていることから、ここでは、はっきり分かったことにはしないが、たとえ話なのだから、また良い導きもあり、別に住むところもあるだろう、つまり、生きることを否定されることではないだろう、すなわち、神に見捨てられたり裁かれて罰を与えられたり地獄に落とされたりすることはないだろう、というくらいに考えておきます。
 
キリストは、9節以降では、教えを語り、パリサイ人たちを批判しているのですから、パリサイ人たちが、いかに、大事に忠実なふりをして、小事さえも疎かにしているか、という文脈として、たとえ話と教えを受け取るべきでしょう。パリサイ人は、戒律や儀式ばかりを重視して、人それぞれの心を疎かにしているからです。
 
ゆえに、不正の富とは、たとえ話の中では、負債を減らしてあげる行為ですから、人の世界で不正であっても、神の御心は人の見方とは異なることがあるという意味であり、神の御心は、小さい悪を見逃さないが、また、そこに隠れた小さい愛も善も決して見逃すことはないということでしょう。
 
人間は、実に、善悪を自分で決めつけるところがありますが、全能の大きな懐においては、人の判断など絶対ではなく、神から見れば、不正の富が信仰として褒められることもある、ということなのです。"人の判断の相対性"に結び付くものだと考えます。
 
つまり、この聖句全体としては、人が判断する倫理・道徳の相対性が、神の正しさと比較して、述べられています。判断はするけれど、絶対ではない人の性質、それは不完全で相対的で、罪の性質を含むことが、不正の富が御心に適うことがある、という、たとえ話と説教で、ここでも、表されているのです。
 
ここで、不正とは、負債を軽くすることです。貧しい人に対しての思いやりの性質を持ちますから、単純に不正だとは言えない、ということが分かります。
 
そして、負債は、総て、元々、神に喩えられた主人の、つまり神のものであることに注意してください。神の愛の意外性とともに、神の愛の寛容さを表しているのです。
 
つまり、たとえ話では、主人すなわち神から借りていることから、負債が、即、信仰上の不正とも言いにくく、主人である神が褒めているところからは、神は、不正行為が他者の負債を軽くすることをもって、不正の富を是としているのです。

つまり、神が好むことと、世が好むこととは違う、ということを言っているのでしょう。そういう意味での"不正"なのでしょう。
 
ゆえに、私たちは「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」、それは「一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじる」のが人間の性質だから、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」という文脈に繋がります。
 
誰をもって、主と仰ぐか、人間は、人間の道徳や思い込みに、また、個人のしつらえた教条に、無条件で支配されると、人間の不完全性によって、思いが偏り、ゆくゆくは尖鋭化した刃物になってしまうことがあります。
 
神への恐れを捨て去って、恵みばかりを強調したがるカルト的思想は、神を恐れるがゆえの不完全で罪深い自分自身を意識できなくなって、人間離れしてゆくのでしょう。
 
あらすじと表現上の疑問については今後の学習に期待するとして、この聖句は、一貫して、神の愛の寛容さとともに、神の絶対性に対する人の非絶対性すなわち相対性を説いています。
 
人には、この地上で、カルトのような、教えを守って完全になれるんです・・みたいな思い上がったゴールはありません。
 
神の民として、あくまで人間らしく、不完全な存在として、神に仕えることを、聖書は、神のみの絶対性を通して、一貫して説いています。
 
 
(2020年04月17日)
 
 
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