ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰とカルト

 
  信仰とカルト
 
 
キリスト信仰とカルトとの違いを考えてみます。
 
キリスト信仰について:
 
きっかけは讃美歌であったり
キリスト者(クリスチャン)の話であったり
ネットで聞いた説教であったりしますが
結局は、聖書から学びます。
 
聖書の解釈について
本やネットで学ぶこともあるでしょう。
あるいは
教会に行けば聞くことも出来るでしょう。
 
心得ておくべきことがあります。
それぞれの説教者は
当たり前のように自分の教団の解釈と教理を述べます。
少なくともそれをベースとしています。
 
違う教派の解釈は邪悪なのか。
邪悪な教団もあります。
ネットで教えている者には悪魔みたいなやつもいます。
 
しかしスタンダードだから良いというわけではありません。
信仰を受け取るのは、あくまで、求道者その人です。
どう受け取ったらいいのかを考えておく必要があります。
 
 
聖書には、はっきりとは分からないところがあります。
分かっている、などとは、あまり言わないほうがよいのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
9:40
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41
エスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:40-41、新約聖書
 
「見える」は、分かっている、と言い換えてもいいと思います。パリサイ人に言われていることは、私たちに対しても、大きな戒めであります。我が身の戒めとして受け取らないで安穏とすることこそが、カルト的信仰への道なのです。
 
分かっていないという自覚、これが、何より、キリスト教とキリスト信仰の芯となります。信仰の出発点といっても真髄といっても過言ではないのです。
 
先ず、聖書が全部分かっていると言う人は、カルト的パリサイ人的信仰者であり、嘘吐きです。
 
いかなる解釈にも、もっと良い解釈が、今後、明らかになる可能性はあります。神は、総てを人に教えてはいません。人の解釈には、今の時点の判断という付箋が付いていると思ってください。
 
ただし、解釈の中には、これを否定するなら、宗教も信仰も救いもなくなるなる、と思えるところがあります。新しい解釈は、新しい意味を持って表れますが、以前の解釈を全否定せず、かつ、新しい意味付けを持って光となるようなものでしょう。
 
この点は、欲望から発しているカルトの言い分が、全くのナンセンスであることの根拠となるでしょう。
 
人間は不完全なので、神の意志と行為が全部分かる、ということはありません。聖書を読んで、個人としても、集団としても、精いっぱいの判断をして実行しているに過ぎないのです。だから、折に触れて反省そして悔い改め、すなわち、祈りが必要です。
 
神は、そのことを総て承知の上で、人を救います。キリストの使命も、そこにあります。
 
しかし、カルトはもちろん、キリスト者でさえも、そこを勘違いしていることが多いのです。
 
そして、噛み合わない不毛の解釈が論争になり、論争にしたくなければ、批判禁忌としてしまいます。そして、その批判禁忌によって、カルトの温床となるのです。
 
 
キリスト教系カルトというのは、聖書やキリストの名を出して人を騙すからそう呼ばれているようですが、カルトは、全くキリスト教系ではありません。カルトはカルトでしかなく、その本質は、キリスト教とキリスト信仰からは真逆の反キリストであります。
 
キリスト教の内部からカルトが生まれる兆候とは何でしょう。それは、新しい解釈と称して豪語し始め、異なる解釈を拒んで遠ざかり、批判者を無視するようになり、しまいに考えることをやめるのが信仰だなどと言い始めたら、要注意というより、キリスト者は逃げるべきであります。豪語と、真面目な意見の無視は、キリスト信仰にはありません。
 
カルト化した者に流されて聞いているだけでも人格が偏り、いずれ破壊されるでしょう。それくらいカルト願望、すなわち、人の知らない真理を得たい願望は、超然としたい欲望や、自己顕示欲とともに、人間の罪の性質であり、誘惑に対して弱いのです。
 
本来、弱いから救いを求めた、そして、信仰者になった。ところが、そこから、強くなったかのような錯覚をいだき、分かっていると思い込もうとする、そして、弱さを忘れる。そこに、カルト信仰の芽は、いつでも、生まれてきますし、そこから、人に教えたがるようになります。
 
信仰を守りたいならば、人間ならば誰でもそうなりやすいのだと弁えて、反省を忘れないことです。そして、それは、祈りとして捧げるべきことと同値であります。
 
カルトの主張は、いつでも、強くなれる、目が開かれて分かるようになる、見えなかったものが見えるようになる、完全になれる、などと言ってきます。
 
信仰について、分かる、見える、知っている、これらは、対象も主客も神のみの性質です。ゆえに、神は、在って在るものと言われます。すなわち、全知全能、完全絶対、永遠不変、という神の性質を、少なくともこの地上で、人が対象として理解することはなく、人が求めうると思った先は、罪性を捨て去ったカルトにしかならないということです。
 
 
カルトに騙されないように、だけでなく、キリスト者自身が、カルト的にならないように、という戒めが必要です。
 
それを可能にするのは、ただ一つを心がけてください。神の前で、神に対して、つまり、祈りにおいては、故意に嘘を吐かないこと、精いっぱい、正直な告白をしてください。
 
ずっと言ってることですが、神の前に正直以外は通用しません。人の真善美の主張は、神に伍することはありません。それは、カルトとパリサイ人など偽善者の口であります。
 
飾れば、飾ったと、嘘を吐けば、嘘を吐いたと、神は、正確に覚えられます。嘘を吐いたり、飾ったりしてしまったときには、気づいたときに改めて祈ってください。
 
例えば、辛すぎるので逝かせてください、性欲が亢進して困ります、ある人に対して死ねばいいと思いました、神様なんていないと思うときがあります、等々、本心であるならば、本気で祈る人に対して、神は、どこまでも寛容です。
 
なお、神の前に正直なキリスト者なら、人の前でも、あまりに白々しい、故意に欺くための嘘は吐けなくなるでしょう。だから、人に対しての戒律や教条としてではなく、ただ、神に対して、正直であることだけでいいのです。
 
 
(2020年04月20日)
 
 
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