ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の作為と悪意(1)

 
  楽山の作為と悪意(1)
 
 「発言の場の自由について 
  ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~」を読んでみた。
 2020年09月06日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26156774.html
 
 
早めにアップしておきます。こちら長崎県、風が強くなってきました。
 
確か楽山は、最近、批判者から離れる、と言っていたと思いますが、ここでは、また、批判者に、膨大な疲労物質を投げてくるようです。リンク等、大方省略します。本文も、全部相手には出来ないので、省略しているところが結構あります。
 

*忘れてた
 先日、LEOブログを見たら、この記事が目にとまった。

・発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~ - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 」
 おそらく批判されているのは、この記事なのだろう。

・★ 言論の自由について (言論の場の自由など) - 楽山日記
 」
LEO氏の記事については、楽山ブログのどこかに感想メモを書いた気もするが、書いた内容も場所も忘れてしまったので、今回あらためて感想記事を書いておきたい。

 
やはり、批判者を相手にしないではおれないようです。自己愛による過大な自尊があるために、とにかく、何でもいいから、言い返してくるのでしょう。
 

*強制移動
ほとんどのアンチブログは強制移動されたが、そうされなかったブログもあるというのはその通り。

わたしレオから見たら、正当性があるなら、なんで多くの信者ブロガーから嫌がられて通報されるわけ?しかも、第三者の運営さんが、その通報を受けて、現に殆どのアンチブログを追放処分にしたのは何故でしょう?
言論の自由以前に、多くの人たちに対する迷惑行為を行なっているとの判定がなされて、それゆえ追放されたのではないでしょうか?
 」
ちなみに強制移動されなかったアンチブログの一つが楽山日記だ。
というか、当時の楽山日記は、強制移動どころか、通報対象にもならなかった。
このやりとりは忘れてたが、過去記事を読み返していて思い出した。

・アマミさんの記事を読みました - 楽山日記
・アマミさんの記事を読みました 2 - 楽山日記
 」
今は違っているかももしれないが、当時の楽山の立ち位置はこんなものだ。信者ブログのなかには、楽山に批判的なものもいたろうが、そればかりではなく、紳士的と評価する人もいたわけである。
ここでは信者は批判的言論は一切認めないわけではなかったこと。アンチ全員を排除しようとしたわけではなかったことなどは再確認しておきたい。

 
楽山が紳士的に見えるのは、見せかけです。約1年半の批判の中で、ケダモノのような楽山の単方向、自己中、無反省、無理解、訂正不能、自己満悦の、頑迷さが、明らかになってきました。楽山は、自己愛性人格障害、且つ、精神の詐欺師であるという見解に至っています。
 
つまり、いつも、いい加減なことしか言わないお調子者が、学者を気取り始めて、こうなったのでしょう。
 

*多義性
ここでは、言葉の多義性が無視されている。

法的権利としての、いわゆる【言論の自由】とは、国家・政府による言論統制、政治権力による抑圧からの自由の保障という意味であって、どこでも好き勝手に自由に発言する権利がある、などという意味ではありませんから。
 」
言葉の意味は一つではなく、いろいろあるものだ。言論の自由もそうだ。これは、本来は、公権力からの自由の意味であろうが、家庭、会社、宗教などにおいて、発言の機会が与えられなかったり、意見を言いたくても言えない圧迫があったときに「言論の自由がない」と表現したとしても、それは別におかしいことではない。アンチらがいっていたのは後者の意味であったろう。

 
楽山は、国家・政府の言論統制からの自由という大きな話から、家庭、会社、宗教などを持ち出して、自分を、言いたくても言えない圧迫を受けている被害者のように言っています。またしても、詭弁によって振り回そうという楽山の企みに過ぎません。
 
家庭、会社、宗教などにおいて、発言するときにも、人の話を聞かなかったり、言いたいことだけ言って責任を負わなかったりすれば、無責任として批判されたり、叱られたりするわけです。
 
小中学生レベルの楽山には、叱りつける人がいないので、また大きな迷惑でもあるので、批判をする必要があります。
 
何度も書いてきたことですが、言論の責任を負わないものに言論の自由はありません。
 
一見、やさしそうに見せかけている楽山という病質者が、一日も早く追放されることを願ってやみません。
 

LEO氏はこういう相手の心情を切り捨てて、自説に有利になるように「言論の自由」の意味を狭くとらえようとしている。コウ氏はLEO氏のことを、人の思いを汲もうとしない人物だ云々と評していたと記憶しているが、おそらくこういうところを言ったのだろう。

 
楽山は、特別です。特別に悪質な詭弁家なのです。平気で嘘を吐きます。楽山が何か言っても、気色の悪い疲労だけがもたらされるだけで、何の糧にもならない約1年半でした。やさしさ芝居にだまされないでください。
 
楽山は、他の批判者とは違うのです。楽山を変えようとしても無駄です。楽山は追放するしかないのです。むしろ、楽山批判は、読者に対して、楽山の欺瞞と偽善性を説明するためにあります。
 
楽山が、自らの詭弁を弄して抗弁してきても、伝わってくるのは、悪意と詭弁だけです。
 

議論を有利に進めるために、言葉の意味を狭義に解釈したり、広義に解釈したりするのは、よくある戦法だ。

 
楽山が話を法律から家庭に持ってゆくのは、それで言論の自由を振り回して、無責任を合理化するのは、よくある戦法ではありません。あってはならない卑怯な詭弁です。
 

でも議論を意義あるものにするには、そんなディベートの真似事をするのでなく、相手の言葉の真意を理解しようと努めることが大切だ。LEO氏がそういう姿勢が欠くのは残念に思う。

 
楽山には、嘘と芝居と詭弁はあっても、真意というものがないのが特徴です。だから、やり取りしていると、病的な疲労だけを与えられます。病質者と関わると、賛同して似たような者になるか、反対して病的な疲労をこうむってしまうかのどちらかなのです。
 

*スクショ無し
 これは分からん。

(追記;このアンチは、自由という美名を使って好き勝手を主張するくせに、自身の発言の責任について語ることが無い。この時の主張もまさにソレでした。そしてまた、自分の主張の問題点を指摘されると、その部分だけコッソリ修正を加えるという姑息な改竄も行います。悪質で狡猾です)
 」
自分はそういう記憶も、記事発表当時のスクショもないので、これについては否定も肯定もできん。
でもそういう指摘があるなら、楽山は発言の責任について語っていなかったことにしても、こちらは別に構わない。

 
楽山は病気です。しかも、今のところは言論において、精神的に、極めて他害性の大きな病気です。
 
「楽山は発言の責任について語っていなかったことにしても、こちらは別に構わない。」
・・こういう発言は、言論者にはあり得ないことです。構わない、ではなく、不備があれば、謝罪か、少なくとも訂正をするべきところです。しかし、楽山は、何の正当性の返しも、謝罪も訂正もしないままに、構わないと言っています。だったら書くなということです。これは、悪の開き直りに他なりません。
 
一日も早く、楽山の嘘と詭弁と欺瞞を見ないで済む日が来ることを願ってやみません。
 

自分の記事のテーマは、「ある言論が、正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのは難しい」ということなので、発言責任に触れても触れなくてもその論旨にはさほど影響はない。

 
批判か中傷かを区別できないわけですから、楽山には、言論の資格がないということです。それで、何でもOKだから、そこを前提にして、責任を負う必要はないと言っているのであれば、もはや、楽山は、大人の言論者ではありません。まさに、異常な自己愛と学習障害が生んだ荒らしです。
 

*自由と責任
LEO氏は、発言責任が云々と繰り返すけれども、

言論は自由です。けれども、その自由には責任が伴います。
権利の主張ばかりではなく、自由の行使を誤った場合の、責任の取り方についても言及がほしいところです。
 」
こういうことは、テーマと立場の兼ね合いによるのだから、あまり意味のない議論だ。たとえば、自由と責任のどちらに重心をおくかは、次のようにテーマと立場によって、コロコロ変わる。

 
愚かです。テーマと立場によって、責任は負わなくていいと言っているのです。気づいてほしいです。楽山は体質的な病気です。大人の人格が、ふつうに考え認める責任について否定して、自分は無責任でいいという妄想の中から言っているだけです。自分勝手な子供人格の言い張りです。
 
だんだん退行しているのかもしれません。元々異常なのかもしれません。どの宗教かカルトかということではなく、楽山の自己愛・自己中からの、無責任境地の主張は、いつでもどこでも、全否定されるべき暴言であります。楽山は、話せば分かる人ではなく、いくら話しても分からない人、有害なだけで同情の余地のない病者です。
 

①言論
アンチ「批判は当然だ」
信者「言論は自由でも、誹謗中傷はゆるされない。発言には責任がともなう」
②霊言
信者「霊言は真実だ。宗教行為だ。禁ずることはできない」
アンチ「霊言による誹謗中傷はゆるされない。霊言だからといって何をいってもいいことにはならない。霊言発言の責任逃れはできない」
こういう構図を思えば、「アンチは責任について考えてない」というのも、「信者は責任について考えてない」というのも、どっちも一局面を見てそう言っているだけで、ただの決めつけにすぎない。

 
楽山は、無責任の指摘そのものを、決めつけと言って、否定してきました。何も弁明できないことの証しです。構図がどうとかではありません。責任問題を、一局面と言っています。とんでもない、いかなる言論にも責任、即ち、文責は吐いてくるのです。それは嫌なら書くな、ということです。
 

LEO氏はアンチは発言責任について語らないと繰り返すけど、それは自説に都合のよい局面だけを切り取って言ってるだけ。
ちなみに、無責任な霊言による被害は、この辺りを読めばわかる。

手塚るみ子さん「最近『手塚治虫の霊言』という頭の痛い本が出版された。」
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)
 」

 
無責任な霊言による害を、霊が分かるっぽいと言って霊能者気取りの楽山に、指摘する資格はありません。楽山は、キリスト教を、小中学生レベルの、幼稚な言いがかりで否定してきました。また、別の記事では、クリスチャン芝居もしてきました。主張の軸がどこにもありません。
 
だから、発言にも一定の主張が成り立たないのです。楽山には、ふつうの大人レベルの理路もない発達障害という病気なのです。だから、相手をしていると、異様な疲労だけがたまってゆきます。これ以上、人間と社会と言論者に破壊が蓄積するような迷惑をかけないでほしいです。
 

*立ち位置
これだと、楽山はアンチの先頭に立ってHS批判をしていたみたいだ。

(当時このアンチは、邪教批判をすることは、世の中を正すために必要な批判であり、正義の言論である、と主張し、だから幸福の科学を批判する権利が自分にはある、といった主張をしていました。)
 」
LEO氏にどう見えていたが知らないが、実際の楽山は、アンチの中ではおとなしく、みなから少し離れてアンチと信者のやり取りを見ながら、感想をもらすという感じの立ち位置だった。
今も昔も、「自分はHS批判するぞ! 自分にはその権利があるんだ!」と、ガツガツ行くことはない。このことは当ブログのアーカイブを見れば確認できるだろう。

 
カルト批判において、楽山のような人格異常者が批判者として存在していることは極めて迷惑です。カルト思想の持ち主が、カルトを批判していることになるからです。
 
つまり、楽山は、自己愛性人格障害からの、自分教カルトなのです。だから、他のカルトを批判して、正義の味方ぶって、信用を得たいだけなのです。批判されても批判が分からず、自分が書いても書いたことが分かっていない人なのです。言論など、無理というものです。
 
ネットの言論の世界の、修復不能なワームかバグ、あるいは、治療法と予防法が見つからないウイルスとして、楽山は存在しています。
 
 
(2020年09月07日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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