ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の流涎2

 
  楽山の流涎2
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を見てみた 2
 2020年10月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26496790.html
 
 
楽山の、後付けの言い訳が続いています。絡み突くような面倒臭さを感じます。
 

そういえば、ヤフーブログ時代に、シャローム氏が小室直樹の本の要約を書いたら、st氏はそれをシャローム氏の意見だと思い込んで批判しているのを見た記憶があります。私はこのときに、st氏は、語り手の立場、視点などが分からない人だと思いましたが、今回もまた同じ感想を持った次第です。

 
それは、記憶にありません。そのことを言って、けなしたいなら、引用したらどうですか。このやろ、このやろうと、重箱の隅をつついている楽山が目に浮かぶようです。
 

*過去と現在
でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。

 
楽山の言う近頃というのは、どれほどのタイムスケールなのでしょう。仏様の声が分かるっぽい発言は、昔のことであっても、それをブログで語っているわけです。祈りや聖句などを書いてクリスチャン芝居をして記事に書いたのは、何年も前というわけではないでしょう。
 
自分の興味によって、ころころ、立場を変えているだけという節操のなさは、宗教を語る者として、どこにも通用しないです。
 

概して、人の心は、現在過去未来で断絶しているのではなく、連続しているものでしょう。だからそこに書いてあるのは「超自然的なことは、〝まったく〟信じなくなった」ではなくて、「超自然的なことは、〝前ほどは〟信じなくなった」ということです。

 
「まったく」と「前ほど」で、言い訳をしている楽山ですが、霊言の記事を、最近も熱心に書いていたではありませんか。霊が分かるっぽい楽山の自覚は、ずっと盛んなのです。また嘘を吐いています。
 
言い方に注意です。「超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった」、つまり、ふつうの見方もそれほど抵抗がない、ときにはする、ということですから、一方の超自然的な見方は、ずっと楽山の主要な精神なのです。
 
楽山は、弁明するような書き方で、またしても、霊が分かるっぽいと宣言しているようなものなのです。酷い誘導だ。
 
楽山に霊能力があるかどうかは知りませんが、もしあるのなら、こうはなっていないと思いますし、この期に及んで、霊のことを持ち出すのは、事態が分かっていない、つまり、よほど、鈍感で安っぽい霊のお世話になっているのでしょう。
 

また、「前ほどは信じなくなった」といっても、それはあくまで自分の中の基準での話であって、世間一般の人々からみたら、今の自分であっても相当に信心深い方になるかとは思います。

 
宗教を、霊能で考える楽山です。それで、信心深いなどと言っているのですから、楽山の霊能者気取りは、今後も続くということです。脅威です。
 

st氏は、「前ほどは信じなくなった」という程度問題の話を、信じるか信じないかという、あれかこれかの話だと解釈しているので、私の立場が180度くらい大きくコロコロ変わっていると勘違いするのでしょう。

 
信仰に、前ほどは信じなくなった、という本質があるでしょうか。それは、元々、宗教など何も信じてなどいないか、または、心霊を信じているのに嘘を吐いているかなのです。ここは、恐らく後者でしょう。
 
つまり、前と大して変わらないところがあるわけだから、霊能かぶれの楽山は、現在形であり、脅威なのです。楽山らしく、ころころと言葉をいじっては、さらに、自らの汚い臓物をさらす結果になっています。爽やかな潔さとは対極にあって粘着する執念です。
 

*二つの方法
信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。

 
楽山に信仰心旺盛だったことなど無いと思います。それは、たぶん、超常に浮かれていた頃のことを、そう言っているのでしょう。楽山にとって、宗教に気分をよくしているときは、超常へ興味が向かうときで、宗教に悪口を言うときは、史実にこだわったり、幼稚な疑問だらけになるようです。そんなに前のことではありません。
 
楽山は、自己愛のために、現実が分からなくなっており、好き勝手に、こだわり方を変えて、仮想現実のような何でもありになることがありますが、楽山の半端な理路では、現実問題に答えることなど出来るはずもありません。奇跡の見分け方についての記事とか、妙に浮かれた言葉を並べるとか、不安定な精神状態が、楽山の書くものに表れてきました。
 

HSでは、信仰を続けることが第一目的になっているので、その邪魔になる現実は無視したり、霊的な理由付けによって無効化することがよくあります。上の文章はそういうことを念頭においたものです。

 
であれば、宗教と信仰について、一般的な書き方はするべきではなかったのです。楽山は、迂闊であることを、自ら、明かしています。恐らく、これも、苦し紛れの出まかせの言い訳です。
 

また、キリスト教関連の本で、聖書の読み方には大きく分けて二種あり、一つは宗教的直観によって読むことで、もう一つは聖書研究の成果に基づいて読むことであり、どちらの読み方も大事だという話を読んだことがあります。

 
違います。どちらの読み方も、楽山のように、言葉面に執着して、小理屈だけをこねるようになったら、おしまいです。人間の心として受け取れるかどうかが、信仰の器を作ります。それをしなくなったら、楽山のような、とても迷惑な廃物の宗教観?信仰観?になるでしょう。
 

私の宗教への向き合い方は、この影響を受けています。宗教的直観に頼るばかりで史実を無視するのではなく、明らかにされた史実だけを見てそれ以外は意味のない妄想として否定するのでもないということです。

 
史実にこだわって、神はおかしい、と言っていた楽山と同じ向き合い方をするようになったら、信仰は、クズ同然となってしまいます。根っこにおいて間違えて、しかも訂正しないのが、楽山です。
 

そういえば以前、某掲示板のキリスト教スレで議論したときに、相手方から、リベラルと評されたことがありました。この指摘の通り、私は自由主義神学に近いところがあるようです。

 
自由主義神学 - Wikipedia
(ネットより)
自由主義神学(じゆうしゅぎしんがく、英: Liberal theology, Theological liberalism、リベラル、リベラリズム)は、キリスト教プロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用する立場。
自由主義」の語は社会学政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた[1]。
(ウィキのURLが恐ろしく長いので省略)
 
楽山は、理知的判断を表したことはありません。字面の浅い先入観による思いこみばかりを書いてきました。安っぽい、いちゃもんで、学者レベルのことを書いたつもりでいるのです。楽山は、少なくとも、キリスト教を、真っ当に解釈したことなどありません。
 

あとは、奇跡の見分け方の記事というのは、これのことでしょうか。
・奇跡の受け止め方 (『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』) - 楽山日記
ドーキンス無神論者として有名な人ですが、『神は妄想である』は名著だと思います。ドーキンス無神論に入れ込み過ぎて、まるで無神論信仰のようになっていると感じられるところはあるし、不可知論に対する批判は極端に過ぎるところもあるとは思いますが、それでも『神は妄想である』は著者の情熱に満ち溢れていて、迂闊に触れれば手に火傷をしかねないほど、熱く、すごい本ではあります。

 
批判に返すのではなく、訂正するのでもなく、「熱く、すごい本」などと、学者を褒めて、またしても、同列の学者・評論家レベルであるかのように、ぼんやり、自分を高めようとしています。真に受けないでください。
 

*信仰は捨てよ
現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。

 
またしても、おかしな思想背景から、ほどほどにしといたほうがよいなどと、信仰を侮辱しています。信仰は現実において生きるためにあります。楽山にとって、信仰は非現実、という、とても安っぽい先入観が働いているわけで、そのことこそが、楽山の、信仰を語ることにおける欠格を表しているのです。
 
楽山こそ、信仰の本質を、何も理解できていないのに、非現実に遊んで、迷惑をかけるのは、ほどほどにして、いや、直ちに、止めてください。
 
「捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといたほうがよかろう」信仰?など、むしろ、持つ価値など全くない信仰?であり、真の信仰に救われた人々に対する最大の侮辱です。信仰の奥深さを全く知らない者の著しい誹謗中傷であり、単純な無知が、傲慢による無恥を伴うと、こうなるという例です。
 

「信仰は捨てよ」というのは、仏典にある有名な言葉です。また仏陀は無執着を説き、筏のたとえによれば、仏法にさえも執着してはならぬとしたといいます。私の言葉はこれらを下敷きにしています。

 
ならば、それを先に書くべきでしょう。それに、楽山は、またしても、今度は、仏教の教えの、有名に頼って、字面だけを取って、語弊満載の「信仰を捨てよ」と言ったことを正当化したいようです。
 
よくは知らないが、執着を捨てよ、という意味でしょうか、"空" の思想でしょうか。楽山は、そういう説明が全く出来ないのです。次から次に、食い違いが出てきて、反省するでもなく、謝罪するでもなく、絆創膏を当てるような楽山の成り立たない後付けの言い訳が続いています。
 

「ほどほど」というのは、「弦は、きつく張り過ぎれば切れてしまうし、緩くては音が出ない、ほどほどがよい。悟りもこれと同じで、苦行からも、怠惰な生活からも離れた、その間にある」という話を念頭においています。信仰もこれと同じで、本来は尊いものであっても、極端に傾けば、決めつけ、偏見、教条主義にハマり込むこともあるから、そこは警戒すべきだということです。

 
語弊満載の楽山の言葉について、楽山は、言い訳に専念しています。これで、明らかになるのは、楽山が、いかに不用意な人であるかということです。そして、実に、言い訳がましいということです。決めつけと偏見に、はまり込んできたのは、楽山その人であります。
 

善悪は絶対的なものであるという考え方すれば、このような思考はおかしいと感じられるかもしれませんが、善悪は相対的なものであるという考え方からすれば、たとえ本来、善である信仰であっても、時、場所、相手、程度をまちがえれば悪に転化するというのは、特におかしくはなかろうと思います。

 
絶対は、神のものです。人間に絶対はありません。楽山は、言い訳として、抽象的な場合のことを並べて、具体的なことを書いていません。こういうことだから、楽山は、話にならないのです。
 

st氏は、これらの背景に気づかないままに「おかしな思想背景」と評していますが、これこそ仏教の教えを侮辱するものです。

 
このように、責任転嫁してきます。背景を書かなかったのは、楽山です。そして、この記事でも、背景を書き得ていません。書こうとすれば、必ず、書けていないことが、明らかになる楽山なのです。どうか、誰も、関わらないでください。
 

ちなみに、HSではしばらく前から、次のような信仰論が説かれているといいます。
「君よ、涙の谷を渡れ」(省略)
傍から見れば、何も考えず、何も判断せず、大川隆法を信じて、その言葉に従いなさい、というのは馬鹿げた話に思えるかもしれません。でも、HSによって救われたという体験を持ち、それによってHSこそ真の信仰だと信じている信者は、これを真に受けてしまうこともあるのです。
上の言は、こういうHSの信仰論や、その実態をも考えた上でのことです。だから、この宗教で救われた、真の信仰を得たと思った時であっても、冷静な自分を保つべきだというメッセージを込めてあります。

 
楽山は、常時、短絡して、のぼせ上がっている人です。冷静ではありません。冷静な記事を書いたことがありません。いい加減で、無責任な記事しか書けないのです。だから、書けば書くほど、トラブルになっているのです。こういう偏見の固まりに、宗教は語れません。
 

st氏は、楽山憎しの思いが強すぎて、楽山の文章を素直に読むことが出来なくなっており、その字面だけをみて、その真意も、背景事情も察せず、関心も持たず、やみくもに否定し、ひたすらに悪口雑言を繰り返すばかりになっています。どうかもう少しだけでも冷静になって欲しいと思います。

 
このようになります。批判を、憎しみに置き換えて、あとは、どう見ても、悪口でしょう。これが、楽山の読解力であり、責任転嫁であり、これで、批判返しのつもりなのです。
 
批判しても意味はないでしょう。しかし、批判しないことは、楽山という厄介を放置することになり、暗黙のうちに、受け入れてしまうことになるのです。それは、私が、生きて、何か書けるあいだ、断じてできません。意地ではなく、誰も、楽山の被害に遭ってほしくないから、近づかないように、関わらないように、批判記事を書くわけです。
 

*目的 
  「st、楽山 問題を振り返る」2019-12-20
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)( 楽山日記(DL)とは別のブログです)
*実際のところ
ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。

 
今までのことから、楽山は、悪人であり、偽善者であって、決して、平凡ではありません。平凡なことを綴っているのでもありません。楽山は、真に受けると、とても、危険な詭弁と誘導の文章を書きています。根こそぎ、否定するしかないのが、今も、結論であります。
 

yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。

 
自分が何をしているか、まだ分からないようですね。反信仰として批判するということは、楽山ブログの閲覧者ゼロを目指すということです。誰にも、楽山には、関わってほしくないということです。
 

st氏は他人をコントロールしたがり過ぎだと思います。〈自分は楽山とは関わらない、そのブログも見ない〉というだけではすまず、〈誰も楽山と関わってはいけない、そのブログも見てほしくない〉という風に、他人も自分に同調することを求めます。

 
嘘と詭弁の楽山という危険があるから、そこは危険です、と伝えて、広めるしかないのです。
 

シャローム氏に対しても似たような感じでした。シャロームと話をする人がいなくなり、そのブログも無くなるまで批判を続けるとか…。どうして、こうなってしまうのでしょう。

 
シャロームは、ヤフーブログ終了とともに、所在不明です。ただ、私のライブドアのブログに、荒らしコメントを入れてくることがあります。それに対しては、その都度、批判記事を書いています。
 

ところで、シャローム氏の次は、楽山が標的になったようですが、楽山はいったい何人目の標的なのでしょうか? 楽山がいなくなったら、次は誰を標的にするのでしょうか?

 
長く批判したのは、シャローム、楽山です。批判する基準は、サイコパスか、サイコパスになりそうな、自己愛性人格障害の要素がある場合です。文章を読めば、だいたい分かります。そして思った通り、批判を全く受け取らないことが、最初の証拠となります。
 

私は次の犠牲者は出したくないので、なるだけブログは続けようと思います。私がブログを続けていれば、その分だけ、st氏の攻撃は私に集中し、他の人に向けられる可能性は減るでしょうから。

 
批判を受け取らず、批判に反論も弁明もせず、全部、批判者が悪いという決めつけで、根拠を示さず、嘘と悪口だけを向けてくる楽山に、批判が集中するのは、当然のことです。
 
勝手なことを言い続けたい欲望を、犠牲者は出したくないと、これまた、正義の味方の尊い犠牲であるかのように見せかけています。病的ナルシストは、こういう考え方しかできないのです。
 

また仮に、私が記事更新しなくなったとしても、st関連の記事は残しておきます。次の犠牲者が出たとしても、これによってst氏の人となりを知れば、何を言われたところで気にする必要はないことが分かると思うので。

 
このように、楽山は、理路を整えて批判しても、気にする必要はない、という結論しか持たない病質者なのです。他の誰が、楽山と交流を持っても、回復不能疲労を受けることはあっても、何かの良い教訓を得ることは、決してないと言えます。
 
楽山もシャロームも、自分の異常性に気づかないか、無視しているのです。どこに行っても、我を張って、自己顕示して、無反省で、無反応で、無理解で、無共感で、無責任の、災いをもたらすでしょう。
 
 

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                すさむ
 
 
(2020年10月09日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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