ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の言い訳2

 
  楽山の言い訳2
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を見てみた 2
 2020年10月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26496790.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の、後付けの言い訳が続いています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の絡み突くような鬱陶しさと面倒臭さを感じます。
 
 

そういえば、ヤフーブログ時代に、シャローム氏が小室直樹の本の要約を書いたら、st氏はそれをシャローム氏の意見だと思い込んで批判しているのを見た記憶があります。私はこのときに、st氏は、語り手の立場、視点などが分からない人だと思いましたが、今回もまた同じ感想を持った次第です。

 
それは、記憶にありません。そのことを言って、けなしたいなら、引用したらどうですか。楽山の、このやろう、このやろうと、重箱の隅をつついているのが目に浮かぶようです。語り手が楽山なら、そこには、立場も視点もないと思っています。
 
 

*過去と現在
でも近頃は、霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなったせいか、そういう超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった。

 
「霊能、神通力、奇跡…という超自然的なことは、前ほどは信じなくなった」ということは、前ほどではないが少しは信じているわけです。楽山の問題点は、信じ方を知らないまま、信じることを否定していることです。宗教的見解が甚だしく幼稚のまま、書いてくるので、明らかに迷惑~有害です。
 
「超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった」というなら、なぜ、超常の記事が多いのでしょう。楽山は、また白々しい嘘を吐いています。楽山は、超常~心霊趣味で、そこからしか語れないために、人間らしい理解が皆無なのです。
 
楽山の言う「近頃」というのは、どれほどのタイムスケールなのでしょう。仏様の声が分かるっぽい発言は、昔のことであっても、それをブログで語っているわけです。祈りや聖句などを書いてクリスチャン芝居をして記事に書いたのは、大昔というわけではないでしょう。それを訂正していないのです。
 
自分の興味によって、ころころ、立場を変えているだけという節操のなさは、宗教を語る者として、どこまでも身勝手であり通用しないです。今までの無反省と無責任ぶりから、ひょっとしたら、楽山は、自分が書いたことを、覚えていないのかもしれません。
 
 

概して、人の心は、現在過去未来で断絶しているのではなく、連続しているものでしょう。だからそこに書いてあるのは「超自然的なことは、〝まったく〟信じなくなった」ではなくて、「超自然的なことは、〝前ほどは〟信じなくなった」ということです。

 
「まったく」と「前ほど」で、言い訳をしている楽山ですが、霊言の記事を、最近も熱心に書いていたわけです。霊が分かるっぽい楽山の自覚は、ずっと盛んなのです。また嘘を吐いています。言えば、言い逃れの嘘ばかり、書けば、詭弁で誘導してくるのが楽山です。
 
言い方に注意です。「超自然的なことから離れてものごとを見、判断することにさほどの抵抗は感じなくなった」、つまり、ふつうの見方もそれほど抵抗がない、ときにはする、ということですから、一方の、眉唾物の超自然的な見方は、ずっと楽山の主要な精神のままなのです。
 
楽山は、弁明するような書き方で、結局、またしても、霊が分かるっぽいと宣言しているようなものなのです。誘導であることが、バレています。どこまでも、責任を負わない自己中の無責任発言です。社交と世辞で関わっていると、うっかり騙されてしまうような言い方が、楽山の悪性であります。
 
楽山に霊能力があるかどうか直接は知りようもありませんが、もしあるのなら、こういう悲惨な様にはなっていないと思いますし、この期に及んで、霊のことを持ち出すのは、事態が分かっていない、つまり、よほど、鈍感で安っぽい霊のお世話になっているのでしょう。まず、信仰は霊能力ではありません。
 
 

また、「前ほどは信じなくなった」といっても、それはあくまで自分の中の基準での話であって、世間一般の人々からみたら、今の自分であっても相当に信心深い方になるかとは思います。

 
また、否定と肯定を曖昧にして、煙に巻こうとしている楽山です。それに、宗教については、ずっと霊能で考えてきたことが記事に表れている楽山です。それで、信心深いなどと言っているのですから、楽山の霊能者気取りは、今後も続くということです。つまり、信仰者ではなく異常者だということです。
 
 

st氏は、「前ほどは信じなくなった」という程度問題の話を、信じるか信じないかという、あれかこれかの話だと解釈しているので、私の立場が180度くらい大きくコロコロ変わっていると勘違いするのでしょう。

 
信仰に、前ほどは信じなくなった、という本質があるでしょうか。それは、元々、宗教など何も信じてなどいない興味本位か、または、心霊を信じているのに嘘を吐いているかなのです。恐らく、楽山の教祖願望は、とても、いい加減なカルト+宗教の混濁した認識だということです。
 
つまり、前と大して変わらないところがあるわけだから、霊能かぶれの楽山は、現在形であり、脅威なのです。楽山らしく、ころころと言葉をいじっては、結果として、さらに、自らの汚い臓物をさらす結果になっています。爽やかな潔さとは対極にあって粘着する因業です。
 
 

*二つの方法
信仰心旺盛だった頃は、信仰がなければ真実は分からぬと考えていたけれども、近頃は信仰が強すぎれば現実が分からなくなると考えるようになったのである。

 
楽山の宗教観は、現実が分からなくなる現実離れの宗教つまりカルトの認識だと思います。楽山の超常趣味にも符合します。しかし、同時に、今の宗教全体を毛嫌いしており、取って代わるのは、自分だと思っているのでしょう。つまり、教祖願望なのです。
 
楽山に信仰心旺盛だったことなど無いと思います。それは、たぶん、超常に浮かれていた頃のことを、そう言っているのでしょう。楽山にとって、宗教に気分をよくしているときは、超常へ興味が向かうときで、宗教に悪口を言うときは、史実にこだわったり、幼稚な疑問だらけになるようです。
 
楽山は、自己愛のために現実が分からなくなっており、好き勝手に、こだわり方を変えて、仮想現実のような世界に浸かっています。楽山の半端な理路では、現実問題に答えることなど出来ませんし、奇跡の見方とか、妙に浮かれた言葉を並べるとか、不安定な精神状態が、ずっと表れてきたのです。
 
 

HSでは、信仰を続けることが第一目的になっているので、その邪魔になる現実は無視したり、霊的な理由付けによって無効化することがよくあります。上の文章はそういうことを念頭においたものです。

 
であれば、宗教と信仰について、一般的な書き方はするべきではなかったし、ましてや、キリスト教と信仰を否定するなど、以ての外であります。楽山は、迂闊であることを、自覚もないのに、明かす結果となっています。恐らく、これも、苦し紛れの出まかせの言い訳です。
 
 

また、キリスト教関連の本で、聖書の読み方には大きく分けて二種あり、一つは宗教的直観によって読むことで、もう一つは聖書研究の成果に基づいて読むことであり、どちらの読み方も大事だという話を読んだことがあります。

 
違います。どちらの読み方も、楽山のように、言葉面に執着して、小理屈だけをこねるようになったら、おしまいなのです。人間の心として受け取れるかどうかが、信仰の器ということです。それをしなくなったら、楽山のような、とても迷惑な廃物と汚物の宗教観?信仰観?になるでしょう。
 
 

私の宗教への向き合い方は、この影響を受けています。宗教的直観に頼るばかりで史実を無視するのではなく、明らかにされた史実だけを見てそれ以外は意味のない妄想として否定するのでもないということです。

 
霊能者気取りの楽山に、宗教的直観はないのです。また、史実にこだわって、神はおかしい、と言っていた楽山と同じ向き合い方をするようになる信仰は、クズ同然となってしまいます。根っこにおいて間違えて、しかも訂正しないのが、楽山です。どっちつかずは、結局、何も得てなどいないのです。
 
 

そういえば以前、某掲示板のキリスト教スレで議論したときに、相手方から、リベラルと評されたことがありました。この指摘の通り、私は自由主義神学に近いところがあるようです。

 
自由主義神学 - Wikipedia
自由主義神学(じゆうしゅぎしんがく、英: Liberal theology, Theological liberalism、リベラル、リベラリズム)は、キリスト教プロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用する立場。
自由主義」の語は社会学政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた[1]。
 
楽山は、理知的判断を表したことはありません。字面の浅い先入観による思いこみばかりを書いてきました。安っぽい、いちゃもんで、学者レベルのことを書いたつもりでいるのです。楽山は、少なくとも、キリスト教を、真っ当に解釈したことなど一度もありません。
 
 

あとは、奇跡の見分け方の記事というのは、これのことでしょうか。
・奇跡の受け止め方 (『ドーキンス博士が教える「世界の秘密」』) - 楽山日記
ドーキンス無神論者として有名な人ですが、『神は妄想である』は名著だと思います。ドーキンス無神論に入れ込み過ぎて、まるで無神論信仰のようになっていると感じられるところはあるし、不可知論に対する批判は極端に過ぎるところもあるとは思いますが、それでも『神は妄想である』は著者の情熱に満ち溢れていて、迂闊に触れれば手に火傷をしかねないほど、熱く、すごい本ではあります。

 
無神教カルトのドーキンスについて「『神は妄想である』は名著」と言っているのは、無神教カルトであることの証拠となります。無信仰カルトから「熱く、すごい」火傷を、既に負って、二目と見られない顔になっている楽山です。
 
批判に返すのではなく、訂正するのでもなく、「熱く、すごい本」などと、学者を褒めて、またしても、同列の学者・評論家レベルであるかのように、ぼんやり、自分を高めようとしています。真に受けないでください。学者らしい人の引用で、低劣な自分の自己正当化を企む楽山です。
 
ドーキンスという無神教カルトの書いた本です。神がいるなら証明して見せろ、証拠を見せろ、証明できたら信じてやる、といった乱暴なことを言っている人です。証明できたら、信じる必要はないのです。
 
 

*信仰は捨てよ
現実をありのままに見ようとするなら、信仰は捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといた方がよかろうと…。本来、信仰は尊いことだろうけれども、それが思い込み、決めつけ、偏見のようになっている場合は、信仰が目のウロコになってないかどうか、注意が必要なんだろうと思う次第である。

 
またしても、おかしな思想背景から、ほどほどにしといたほうがよいなどと、信仰を程度問題にしています。信仰は有無であり、ほどほど・・なんてのは、ありません。信仰は現実において生きるためにあります。正直さを持たない楽山には、正直な祈りもなく、信仰はあり得ないのです。
 
楽山にとって、信仰は非現実、という、とても安っぽい先入観が働いているわけで、そのことこそが、楽山の、信仰を語ることにおける致命的な欠格を表しているのです。楽山こそ、信仰の本質を、何も理解できていないのに、非現実を語って迷惑をかける荒らし行為を、一切やめるべきです。
 
「捨てよとまでは言わないが、ほどほどにしといたほうがよかろう」という信仰?など、持つ価値など全くない信仰?であり、真の信仰に救われた人々に対する最大の侮辱です。信仰の奥深さを全く知らない者の著しい誹謗中傷であり、単純な無知が、傲慢による無恥を伴うと、こうなるという例です。
 
 

「信仰は捨てよ」というのは、仏典にある有名な言葉です。また仏陀は無執着を説き、筏のたとえによれば、仏法にさえも執着してはならぬとしたといいます。私の言葉はこれらを下敷きにしています。

 
それに、信仰は、超常や奇跡を思い込むことではないということです。楽山は、またしても、今度は、仏教の教えを悪用して、字面だけを取って、語弊満載の「信仰を捨てよ」と言ったことを正当化したいようです。楽山は、何も分かっていないのに、執拗に、悪口を言ってくる執念深い異常者です。
 
よくは知らないが、執着を捨てよ、という意味でしょうか、"空" の思想でしょうか。楽山は、そういう説明が全く出来ないので、字面だけで味方と思い込んでいます。楽山は、食い違ってきて、反省するでもなく、絆創膏を当ててごまかすような後付けの言い訳をして、かつ、忘れるのです。
 
 

「ほどほど」というのは、「弦は、きつく張り過ぎれば切れてしまうし、緩くては音が出ない、ほどほどがよい。悟りもこれと同じで、苦行からも、怠惰な生活からも離れた、その間にある」という話を念頭においています。信仰もこれと同じで、本来は尊いものであっても、極端に傾けば、決めつけ、偏見、教条主義にハマり込むこともあるから、そこは警戒すべきだということです。

 
信仰の是非は、決して程度問題では語れません。語弊満載の楽山の言葉について、楽山は、言い訳も詭弁に終始しています。明らかになるのは、楽山が、信仰には全くの無理解であり、そして、実に言い訳がましいということです。決めつけと偏見に、はまり込んで言い張る楽山であります。
 
 

善悪は絶対的なものであるという考え方すれば、このような思考はおかしいと感じられるかもしれませんが、善悪は相対的なものであるという考え方からすれば、たとえ本来、善である信仰であっても、時、場所、相手、程度をまちがえれば悪に転化するというのは、特におかしくはなかろうと思います。

 
善悪を相対的と言いながら、楽山は、自身を訂正不能、つまり、絶対化していることに気づきません。絶対は、神のものです。そして、信仰は程度問題ではありません。妙な先入観を広めるのは、早く止めてほしいです。不遇の恨み返しに、できるだけ多くの人を駄目にしたいのでしょうか。
 
人間に絶対はありません。人間に出来るのは、正直な祈りと、反省と、努力だけです。楽山は、言い訳として、観念的なことばかり並べて、具体的なことを何も書いていません。こういうことだから、楽山は、実質に触れることが出来ず、何を言っても話にならないのです。
 
 

st氏は、これらの背景に気づかないままに「おかしな思想背景」と評していますが、これこそ仏教の教えを侮辱するものです。

 
楽山は、手段を選ばす、今度は仏教を悪用して、何でも人のせいにして責任転嫁してきます。背景を書かなかったのは、楽山です。書こうとすれば、必ず、書けていないことが、明らかになる楽山なのです。楽山の「おかしな思想背景」、仏教とは何の関係もありません。誰も、関わらないでください。
 
 

ちなみに、HSではしばらく前から、次のような信仰論が説かれているといいます。
「君よ、涙の谷を渡れ」(省略)
傍から見れば、何も考えず、何も判断せず、大川隆法を信じて、その言葉に従いなさい、というのは馬鹿げた話に思えるかもしれません。でも、HSによって救われたという体験を持ち、それによってHSこそ真の信仰だと信じている信者は、これを真に受けてしまうこともあるのです。
上の言は、こういうHSの信仰論や、その実態をも考えた上でのことです。だから、この宗教で救われた、真の信仰を得たと思った時であっても、冷静な自分を保つべきだというメッセージを込めてあります。

 
楽山は、常時、短絡して、のぼせ上がっている人です。冷静ではありません。冷静な記事を書いたことなどありません。いい加減で、無責任な記事しか書けないのです。だから、書けば書くほど、トラブルになっているのです。こういう偏見の固まりに、妄想は語れても、宗教は語れません。
 
上の引用、HSでは・・と書かれていますが、やはり、楽山は、アンチHSではないようです。だまされないように注意してください。楽山に、いかなる思想の軸もないと思います。私を批判するのに、仏教も、HSも、利用しているのでしょうか。血迷っているのかもしれません。
 
 

st氏は、楽山憎しの思いが強すぎて、楽山の文章を素直に読むことが出来なくなっており、その字面だけをみて、その真意も、背景事情も察せず、関心も持たず、やみくもに否定し、ひたすらに悪口雑言を繰り返すばかりになっています。どうかもう少しだけでも冷静になって欲しいと思います。

 
このようになります。これが、楽山のやり方です。批判を、憎しみに置き換えて、あとは、どう見ても、悪口でしょう。これが、楽山の読解無能力であり、責任転嫁であり、これで、批判返しのつもりなのです。付き合うと、肯定以外、大方、こういう扱いになります。つまり、楽山は、言論者ではないのです。
 
批判しても意味はないでしょう。しかし、批判しないことは、楽山という厄介を放置することになり、暗黙のうちに、受け入れてしまうことになるのです。それは、私が、生きて、何か書けるあいだ、断じて出来ません。被害に誰も遭わないように、関わらないように、努めて、批判記事を書くわけです。
 
 

*目的 
  「st、楽山 問題を振り返る」2019-12-20
  https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12561107920.html
  楽山日記(a)( 楽山日記(LD)とは別のブログです)
*実際のところ
ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。

 
今までのことから、楽山は、悪人であり、偽善者であって、決して、平凡ではありません。平凡なことを綴っているのでもありません。楽山の言は、真に受けると、とても、危険な詭弁と誘導です。根こそぎ、否定するしかないのが、今も、結論であります。
 
 

yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。

 
そういう、おもに、女性とか、気の弱い人を、楽山はターゲットにするということです。自分が何をしているか、まだ分からないようです。反信仰として批判するということは、楽山ブログの閲覧者ゼロを目指すということです。誰にも、楽山には、関わってほしくないということです。
 
 

st氏は他人をコントロールしたがり過ぎだと思います。〈自分は楽山とは関わらない、そのブログも見ない〉というだけではすまず、〈誰も楽山と関わってはいけない、そのブログも見てほしくない〉という風に、他人も自分に同調することを求めます。

 
同調ではなく、楽山が、それだけ危険だということです。嘘と詭弁の楽山と判断してから、危険ですと伝えて、広めるしかないのです。嘘と詭弁と誘導で、相手の気持ちや意思をコントロールして遊んでいるのが楽山です。ここで書いていることも、自身のプロパガンダ記事なのです。
 
 

シャローム氏に対しても似たような感じでした。シャロームと話をする人がいなくなり、そのブログも無くなるまで批判を続けるとか…。どうして、こうなってしまうのでしょう。

 
シャロームは、偽牧師ですが、ヤフーブログ終了とともに、所在不明です。ただ、私のライブドアのブログに、荒らしコメントを入れてきたことがあります。それに対しては、その都度、批判記事を書いています。楽山に、高慢な姿勢が似ていて、成りすましも疑っています。
 
 

ところで、シャローム氏の次は、楽山が標的になったようですが、楽山はいったい何人目の標的なのでしょうか? 楽山がいなくなったら、次は誰を標的にするのでしょうか?

 
長く批判したのは、シャローム、楽山です。批判する基準は、サイコパスか、サイコパスになりそうな自己愛性人格障害の要素がある場合です。文章を読めば、だいたい分かります。そして思った通り、批判を全く受け取らないことが、最初の証拠となります。
 
 

私は次の犠牲者は出したくないので、なるだけブログは続けようと思います。私がブログを続けていれば、その分だけ、st氏の攻撃は私に集中し、他の人に向けられる可能性は減るでしょうから。

 
楽山は、自分が加害者として批判されていると思っていないようです。犠牲者を出すのは、楽山のほうです。批判を受け取らず、批判に反論も弁明もせず、全部、批判者が悪いという決めつけで、根拠を示さず、嘘と悪口だけを向けてくる楽山に、批判が集中するのは、当然のことです。
 
勝手なことを言い続けたい欲望を「犠牲者は出したくない」と、これまた、あざとく正当化して、正義の味方の尊い犠牲であるかのように見せかけています。病的ナルシストは、こういう考え方しかできないのです。一日も早く、楽山が書かなくなることを願って止みません。
 
 

また仮に、私が記事更新しなくなったとしても、st関連の記事は残しておきます。次の犠牲者が出たとしても、これによってst氏の人となりを知れば、何を言われたところで気にする必要はないことが分かると思うので。

 
このように、楽山は、理路を整えて批判しても「気にする必要はない」という結論しか持たない病質者なのです。他の誰が、楽山と交流を持っても、回復不能疲労を受けることはあっても、何かの良い教訓を得ることは、決してないと言えます。
 
楽山もシャロームも、自分の異常性に気づかないか、無視しているのです。どこに行っても、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、我を張って、自己顕示して、無反省で、無反応で、無理解で、無共感で、無責任の、災いをもたらすでしょう。二人は同一の成りすましでしょうか。
 
理路は、宗教と信仰について、読者に向けて書いています。楽山は、理路を理解しないので、厳しい比喩や雑言を楽山に当ててゆきます。理論家気取り、評論家気取り、宗教家気取り、被害者気取りの偽論客、楽山が、一日も早く退散することを願ってやみません。
 
 

        

             偽論客の空しいあがき
 
 
(2022年10月21日、再録+加筆)
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  まえがき 契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
 
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
 
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
 
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
 
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
 
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
 
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
 
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山には、罪悪感がありません。反省をしません。非を認めることがありません。自身にマイナスの言葉を当てるときは受けを狙っての芝居です。「反省。とほほ」というのが最悪でした。にもかかわらず、常識人を気取ります。楽山は、成り立ってるつもりなのです。瓦礫の歴史しか持たないのに。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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