ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山を信じないで

 
  楽山を信じないで
 
 映画『夜明けを信じて。』を見てきた。
 2020年10月30日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26796606.html
 
 
楽山の駄文です。いつも駄文です。思い付きだけです。感性も知性も原始的で、オリジナルではない既製品の教養を振り回しますが、実質的根拠を示せたことがありません。
 
批判しても、罪悪感と羞恥心のない病質の楽山に対しては無駄ですが、読者が楽山の災いに巻き込まれることのないように関わらないようにしてほしいと思って批判を書いています。
 
価値なき者は、無視されてきた腹いせに、忠告と批判の一切を無視して、他者の価値を損なうことを悦びとするのでしょう。本当の生きる喜びではなくて、楽山が一途に求めているのは、そういうサディスティックな悦楽なのでしょう。
 
他者を無視して、自分だけの悦楽を求めて、何もかもを自分だけのために扱おうとするような、楽山の世界に、幻はあっても、夜明けはありません。果てしなく闇に向かって、トンネルを掘っているだけだからです。
 

*メモの整理(ネタバレあり)
映画を見ながら、心に浮かんだことをメモしておいたので、ここで簡単に整理してみる。

 
読んでみた感じとしては、何も整理されていないと思います。整理されていないおもちゃ箱を、そのままひっくり返して、バラまいた感じです。楽山の心に浮かんでくるものは、まるで整理不能で、思い付きのようにランダムなものなのでしょうか。
 
楽山が書いているものに、ストーリーの全体と関わりがあることの説明がなされていません。登場人物についても、要領を得ません。つまり、楽山は、読者のことを考えずに、好きなように書いて、書いたと、満悦するようです。
 
恐らく、楽山は、万事が、そういう、いい加減である、ということを表しているだけでしょう。楽山の人格を見る上では参考になります。傍らに人無きが如き恣意の勝手と、惜しみなく不躾(ぶしつけ)の、楽山の性格が表れているということです。
 

・映画がはじまる前の予告集はおもしろい。どの作品も、見てみたいと思える。でも難病ものは苦手だ。その手のものは敬遠したい。

 
なぜ難病ものが苦手なのでしょう。恐らく、楽山には、こういうことになったら大変だろう、という共感性がないからだと思います。楽山は、超常とか霊とか、何か派手で、でっかいことが好きで、弱さや、悲しみに共感できないのです。
 

・本作は、『さらば青春、されど青春。』のリメイク作品らしい。千眼美子清水富美加)は、本作でも前作と同じ役どころのようだが、これは随分珍しいことではなかろうか。前の作品でもリメイクでも同じ役を同じ女優が担当するというのは聞いたことない。

 
この映画は、HSの製作した映画、つまり、宣伝用の映画のようです。千限美子はHS信者のようです。楽山は、HS批判をしていたつもりだったと思いますが、何が言いたいのでしょう。
 
HS映画の批判でなければ、嘘を吐いていたことになります。プラス・マイナス、つまり、賛同・批判、どちらにも、ふらふらしていることになります。同一性障害でしょうか。
 

・主人公の一条悟は、品行方正で、努力家で、才能もあり、周囲からも高く評価されている人物として描かれている。女性にもモテる。これが大川隆法にとって、理想の自分なんだろう。

 
カルトの一般的特徴として、当たり前に、教祖は、頭も、人格も、飛びぬけている天才か予言者か聖人かスーパー霊能者ということが多いです。楽山は、スーパーな人物を好むようです。しかし、楽山は、HS批判をしていたはずですが・・。
 

・一条悟が兄を責めたり、友人に向かって傲慢発言をするところもあるが、これは反省シーンのための伏線で、わざと間違いを犯させているようだ。
・マスコミは、宗教家としての一条悟を高く評価し、好意的に報道している。一条悟は誰からも好かれ、尊敬される人。

 
この辺も、教祖を思わせたいのでしょうか。恐らく、「わざと間違いを犯させ」たということにして、あとで反省するというのでしょうか。楽山は反省の実質を表したことがありません。
 
「宗教家」として高く評価されたいのは、楽山でしょうから、感情移入しているのでしょうか、それとも、本能的に保身しているのでしょうか。
 

・風の声を聞かないかというのは、村上春樹の『風の歌を聴け』みたいだ。
千眼美子の演じる立花美穂が、一条悟の乗った車を追いかけている。この役どころは、そんな風にバタバタしない人のような感じがするけど…。なんというか、立花美穂も、それ以外も、女性キャラはみな、昭和のおじさんが理想とする清純派として造形されている。フェミ、ジェンフリ、ポリコレ…などは苦手だが、こういう女性像ばかり見せられると、それらも必要ではないかと思えてくる。千眼さんらは、こういう女性の描き方に違和感はないのかな。

 
カルトに出てくる女性は、大方、淑女であり、稀に、女傑や、女予言者みたいなキャラになるのではないかと思われます。楽山は、ここで、自身の女性の好みについて語っています。HS批判ではないのでしょうか。
 

・母の回想、子供時代のエピソードはいい感じだ。『平凡からの出発』で紹介されていた話らしい。でも寒い寒いと言いながら重ね着してるのに、半ズボンを履いているのはどういうわけか。あのお母さんなら、ズボン下を履かせそうだけど。

 
楽山は、HSに対して批判をしていたはずですが、半ズボンにこだわるのでしょうか。
 
>・映画としては『さらされ』よりも、よい出来だ。
 
「よい出来」?・・なにが、どこが、・・楽山は、HS批判をしていたはずですが。
 

・いま、二位を50点引き離したと言ったかな? それはいくらなんでも…。
・成績一番の生徒が、他のクラスメイトから反発される例が多いというのは、自分にはリアリティがない。自分の周囲では、一番とか先頭グループにいる者は、勉強だけでなく、道徳的にもきちんとしていて、他から嫌われたり、攻撃されるタイプはいなかった。

 
リアリティがないでしょうか。様々だと思います。楽山は、優等生が好きだったのでしょうか。優等生にゴマを擂っていたのでしょうか。
 

・「だいじょうぶ、だいじょうぶ、ぜったい、だいじょうぶよぉ」って、すごい大根役者。大川隆法の本で、文化祭で舞台に立ったら、演劇部からスカウトされたという話を読んだ記憶があるけど、それはなさそう。

 
人をけなせば、返ってくるものです。ブーメランですね・・。楽山の記事の、クリスチャン芝居は、あざとくて、白々しくて、むずがゆくて、読めたものではなかった。つまり、大根役者の楽山が、身の程も弁えずに、別の三文芝居をけなしています。
 

・図書室での出会い。男女が同じ本を取ろうとして手が重なるなんて…。HS映画は、本作に限らず、人との出会いのエピソードは、なんかおかしい。

 
「なんかおかしい」の「なんか」を説明できない楽山。書く必要のなかった記事。評論家気取りの、評論家としての資質の無さだけが、惜しみなく表れています。小学生の感想文でも、もう少し、まとまっているものがあるでしょう。つまり、これも、感想文としての実質はなく、結局、いつものように、楽山が、体質的に、唯一書けるところの、いちゃもんなのです。
 

・女が眼を大きくして、男を正面から見つめている。こういうタイプの女性が無遠慮に男を見るなんて、いまいちリアリティがない。ロマン・ロランの『ピエールとリュース』では、ヒロインは男の方を振り向きもせず、目をそらしているようでいながら、実際にはじっくり観察していたが、こちらの方が本当らしい。

 
全くの自分の好みだけで、楽山は、映画の演技指導まで始まました。教える立場に、立ちたい、あるいは、既に、立っているつもりの楽山の自己顕示欲が表れています。「リアリティがない」という断定表現でもあります。「いまいち」は、楽山の、いつもの、ボンヤリ言語の類でしょう。
 
つまり、楽山は、何も確信のないところから、確定してくるのです。言い換えれば、根拠のないところから、決めつけてくるわけです。その萌芽というか、片鱗というか、そういったものが、日常的な作文にも表れてくると言いたいのです。それで、責任を負わないのだから、話にならない。
 
>・図書館の一条悟。筆圧はものすごく強そう。これでは長い文章は書けなかろう。
 
これは、揶揄でしょうか。なんだこれ(笑)、という感じの書き方です。意味はないと思います。
 

・これはいくらなんでも、あまりに一方的な恋だ。旧太陽の法では、ほとんど話をしたこともない相手に、小包にしてラブレターを送ったが、うすい手紙一枚の返事でふられたとしていたし、宏洋氏の証言だと、大川隆法は大学時代に駅で女性を待ち伏せした話を自慢げに話していたということだが、どれも自己中心な恋であることは共通している。

 
他者の言うことを無視して、"一方的" に決めつけて、けなしてくる楽山に言う資格はないと思います。楽山は、無条件に、自分を正常人のインテリという立場に置いているようだが、実際には、それとは逆の証拠しか表れてこなかったのです。
 
自己中は、無反省無責任と並んで、楽山の大きな特徴です。
 
このように、一方的な人格というのは、自分のことをまるで自覚できないことが、今までの文章にも、ここにも表れているのです。楽山は、恐らく、双方向の、話し合いも、議論も、恋愛も、経験がないのだろうと思います。
 

・挿入歌の歌詞は相変わらず説明調だ。カタカナ英語もすごい。
・女の手紙の内容は、高橋信次の霊言にあったジイドの『狭き門』解釈と同じだ。男が女を理想化しすぎると、女は現実の自分を男に知られ幻滅されることを恐れ、自ら身を引こうとする云々という話。

 
楽山のゴシップ好きが表れています。真面目な題材よりも、おふざけで語ろうとする傾向が、文章全体に、ブログ全体に、表れてくるのです。そして、揶揄して、面白がるのです。
 

・自分が受け取ったラブレターを、ずっと持ってる女性がいることは知っている。そういう人と会ったことはある。ドストエフスキーの『地下室の手記』の後半にも、その手のエピソードはある。でもこの映画の女性なら、一条悟に断りの手紙を書いたときに、それまでに受け取った手紙は全部返送しそうではある。なぜそうしないのだろう。

 
「それまでに受け取った手紙は全部返送」するのですか?・・私、殆ど経験がないけれど、返送するより、踏ん切りをつけるなら、捨てるんじゃないですか、それが出来なければ思い出として取っておくでしょう。「なぜそうしないのだろう」・・楽山の偏執的な恋愛模様が、想像されます。
 

・思想的に間違っていると思うことは、それを指摘しないではいられないというのは分からなくもない。でも事実関係についての議論ならまだしも、思想、信仰に関する議論では、ああ言えばこう言うにしかならぬし、時間の無駄でしかないとは思う。

 
ようやく本題に触れてきました。しかも、ついでの、当てつけの、嫌がらせです。さらに、楽山が前にも言ったことを繰り返しているだけです。もう通用しないことが分からないから、平気で書いて、それゆえに、無反省・無責任という判断になっています。
 
信仰に関する議論において、「ああ言えばこう言うにしかならぬし、時間の無駄でしかない」と同じようなことを言って、こちらの批判も解説も読まないで、反論も弁明も出来ない楽山は、信仰と神についての大いなる誤謬と偏見を訂正することもなく、幼稚な言いっぱなしのまま、無視することを是としたのです。
 
ネット・ブログという公共の場における文責というものを、全く弁えていないのが楽山です。それゆえに、楽山だけは相手にしないほうがいいと、機会あるごとに、批判記事を書くたびに、私は書いています。楽山は、成人としての節操が育たなかった人なのです。
 

・バケツの中に入っているのは小鮒のようだが、岩や石がごろごろしている浅い川では、小鮒は釣れなかろうと思う。
・えっ!? 芳本美代子? 母親役かあ。これは本作では自分にとっては一番の驚き。
・『愛のあとさき』を会社で配っとる。しかも「聖少女」が注目されてる。ちなみに、「聖少女」は、こちらでよめる→「『愛のあとさき』大川隆法詩集より」。改めて読むと、「デザート」もすごいが、「聖少女」もすごい。この他の詩でも、処女へのこだわりは露骨なのだった。また、ここでも自分の美化された部分だけ好かれて、汚い部分はそうでないという薀蓄がでてる。

 
全般に、楽山ブログを通して、自分の都合の良いところだけ積極的に書いて美化して、汚い大部分について、事実も批判も無視している楽山であり、今回も、別のテーマであっても、その体質をもろに表してしまう楽山です。
 
さらに、今回も、性懲りもなく、しでかした愚事と、おのれの愚かさについて、無視したまま、何事もなかったかのように、一人前のインテリ評論家気取りで、いちゃもんだけを書いてくるのは、社会にも正義にも怨念だけを持っていて、ゴミ屋敷から汚物をまき散らすどこかのオジサンのようです。
 

・下戸なら、オレンジジュースより、ウーロン茶の方がいいのではなかろうか。見た目的には。
・夢に向かって努力する立花さんの方が、僕は好きだなというのは、いかにも若者らしい発言だ。「わたしのために、あなたの夢をあきらめないで」とか、「僕のために、きみの夢をあきらめないでほしい」とか、そういうやりとりは、上昇思考の強い若者の間では実際あることと思う。そういえば、これはC7にも通じるものがあるかな。「あたしには あなたより 大事なものがある あなたには あたしより 大事なものがある~♪(【中日歌詞】GO!GO!7188 - C7)」

 
楽山は、関わる人の、夢も意見も節操も踏みにじる男です。完全自己中というのは、そういうものであり、神も人も公共も恐れない厚かましさを持っています。
 
"善" という漢字が入っていて最も醜いのが偽善というのに似ています。讃えるふりして、見下すのが、楽山です。楽山の言うことを信頼してはいけません。
 

・「本当のあなたは、一体、何者なの?」って、立花さんほどの人物であっても、その本質を見抜けないほど、一条悟は大きな存在だといいたいのだろうか。
・HS映画の悪魔は、いつも分かり易い存在だ。最後の山場は、いつものように降魔シーンになっている。
・二人は別れたかと思ったら、また会っている。デートでカレー。二人共、スパイシーな息を吐くということか。二人はすごく親密だったり、他人行儀だったりと、分かり難い関係だ。

 
ふつう、分かったと感じたところを書くのが感想なのですが、「本質を見抜けない」「大きな存在」「分かり難い関係」なら、何も書かないことです。
 
楽山の書く文章には、文章から、感動とか感慨とか、大事なものを取り去った鶏ガラのような印象があります。味が無くて、腹も頭も心も壊してしまいそうなので、飲みこむことが出来ません。
 
>・一条悟の退社時に、同僚たちが頭を下げて詫びている。
 
この一行では詫びる情景もあらすじも浮かんでこないこと、お構いもなく、思いついたら書いてゆく、という楽山の、いい加減人生の話になります。
 
>・万年筆を立てて書いている。カリカリ音が聞こえてきそうだ。
 
だから、何なんでしょうか。
 

・ラストシーンでは、一条悟はひとりで山の方へ歩いている。「ひとり」が強調されているようだが、神道では、山というのはあちら側の世界ということになっているのではなかったか。また山頭火の句に「分け入っても分け入っても青い山」というものがある。青山とは墓場のことだという。このラストシーンには、何か意味がありそう。

 
さて、もう一度言いますが、楽山は、HSを批判していたのではなかったでしょうか。何が言いたかったのでしょう。受け入れたのか批判したのか、肯定か否定か、この記事を書いた目的が不明です。いったい何を読者に伝えたかったのでしょう。
 
注意し警戒してください。人生至るところに青山あり、というのもありますが、人生、どこに、落とし穴を設けて、自己中カルトが待ち構えているかも分からないのです。
 
特にネットには、どんでもない人物が、責任を問われても無視すればよいと、ネットの気軽さに乗じて、だまし文句の詭弁を、そして、見かけだけの優しさを、共感もなく独り笑いながら用意して待っているのです。
 
楽山は、青山には独りで行くように。
 

・一番最後に「この映画は事実に基づいたフィクションです」と断り書きがでてる。そりゃそうだろう。
以上、映画を見ていて、こんなことを思った次第である。
メモはもうちょっとあるけど、全部書き写すのは大変なので、とりあえずここまで。

 
私としては、楽山が、いかに不真面目な文章を、考察もなく自己満足だけで書いてくるか、ということを表すことが、ずっと、務めになっています。
 
楽山の、思ったこと、というより、思いつきを、そのまま人に見せる、という、読んでもらうための手続きを全く考えない自分勝手な趣味の放言であり、無駄が多く、ゆえに、やたら長くなっていて、全体にも、部分にも、自己中な性格が、にじみ出ている記事でした。
 
そして、楽山には、誰も近づかないでください。楽山は、登るのに楽な山に落ちている空き缶のような人です。片づける必要があるのに誰もやらないくらい面倒なのです。楽山に関わることは、人生の時間の無駄というばかりでなく、取り返しのつかない人格破壊という墓場に続く道です。
 
 

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           むだ
 
 
(2020年10月31日)
 
 
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