ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の害

 
  楽山の害
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
● 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
批判する意志を持たずに読めば、気づかないうちに、楽山を、そう言えばそうかな、みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになります。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
まさしく楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。
 
即ち、曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが改変されてゆくでしょう。これは、成長の要素が皆無であり、人格破壊と言ってよいと思います。
 
似て非なる言葉の同一視による刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」という言葉の妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、前者二つは個人の意志の尊重であり、後者の自己中とは全く違います。
 
お笑いのペコパにも似ていますが、楽山のは、笑うどころか、極めて有害で人格破壊的な詭弁の一種であるところの、「と言えなくもない」「と否定できなくもない」「なさそうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」「なんだろうな」等々の言い回しもあります。普通の使い方とは違う、一種独特な、責任回避のための、捏造の婉曲表現です。
 
● 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。
 
つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。こういうのは、読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが、必要です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による精神の詐欺行為であります。
 
つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄仮面の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘であり、楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けないでほしいと思います。
 
楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てたり読み取ったりすることも出来ないことが、錆びたオモチャを並べるような文章を書いていることに表れてきたからです。そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけで、訂正不能になっています。
 
楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧にすることがないわけですから、実際上、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用・悪用して、飾り、だますしか、なくなるのです。高名を悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為など、バレないと、高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、1年半~2年近く批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような返しを時々してくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師という判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
自分への害だけを考えるなら、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至っておりませんので、今後、生きておれば、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
 

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                 騙す者
 
 
(2020年12月16日)
 
 
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