ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

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  返信(2)
 
 

先日コメントをさせていただいた者です。
返信をどうもありがとうございます。
今回も非公開コメントとして送信いたします。


人を信じすぎる、と言われてしまったからでしょうか。不確実性の中で、無自覚な共依存が増大し、自分の判断、考えというもの、それこそ自信(自分の責任)が保てない乱暴な社会になってしまっているように小生も含めて感じています。

 
様々な共依存が支配しているように思います。縛りと気安さがあると思います。そこで、同じことを言い、讃美し合い、団塊となるのが、安心なのでしょうか。そこから離れると、言い知れぬ不安・孤立感・孤独に襲われるのかもしれません。
 
できることは、極めて限られているけれど、この地上で、精神において個として自立するために、神聖の存在を信じているのに、そこでも集団への従属が強いられているところがあるのでしょう。
 

私は、一人の信仰者として信仰を持つ者を思う気持ち(愛)を示されている戸田様の言葉を贈り物として受け取っただけです。神の御前で人間である自らの正しさを疑う姿勢、謙虚で敬虔な姿勢について共感を抱きました。

 
「自らの正しさ」が否定されて、疑いに満ちた行き場のない状況で、キリストの共感と、神の寛容が、救いになっていると思います。
 

信仰こそが人を救う、それが最も尊重されることならば、その神髄を聖書全体が通して語っているはずで、それに気づかせていただいたように思います。私はメシアニックという立ち位置から聖書について学んでいましたが(互いが互いを補足しあうという事から旧約も新約も通しで。無意味なものを神はこの世に残されはしないとも思い…)、基本的には聖書が説くのは宗教ではなく、神と私(人間)の関係であると思っております。響くことしか受け取らない、というのは本来の形かもしれません。それこそ聖霊の成すことなのかもと思います。

 
私は、聖三位のうち、聖霊という存在が、いまいち、分かりにくく、キリストの臨在、神の導き、ということと区別できずにいます。いずれも目に見えない御方ですが、神については旧約に、キリストについては新約に、その言動が記されているので、どういう御方か、少なくとも想うことが出来ます。嘘を嫌う御方だろう、そして、愛と共感に満ちていて、不完全な被造物である人を救う意志のある御方だろう、そして、とても、寛容な御方なのだろうと思っています。
 
聖霊については、ヒントさえも書かれていないような気がして、霊+聖で、聖霊と言われても、概念上の言葉のようで、ピンときません。
 

今、信仰に情熱を持ち、自分が正しいと信じ、隣人愛を前面に押し出した多くの宣教者を目にします。(聖職者ではないです)「隣人愛から私は●●をしている、自分は謙虚、神の言葉を代弁している。」と言い、ただ…何かが違います。キリストもパウロもこんなことを口にせねばならなかったことはないのです。

 
この宣教者の発言は、自慢ですし、「神の言葉を代弁している」と言った時点で、自らの罪性を無視して、絶対性と無謬性を唱えているので、私に言わせれば、人の立場を弁えない背教に思えます。
 

正しさの根拠は、歴史であり、書物であり、科学であり…人が作ったものです。そのどれが正しいと判断するのも人間で、まるで謎解きが出来たことを知らしめているだけのような怖さを感じます。心情が異なると根拠が異なり、順じて説くことが異なってしまうのです。聖書は万人のためのもの、なのにです。

 
謎解きが出来て何でも分かっているつもりになっているところが、既に、おかしいわけです。こういう発言を見るたびに、人間の、罪性、不完全、非絶対性、ということを再認識します。信仰者であろうと、聖職者であろうと、同じですから。
 

「キリストにおいて生まれ変わったら人間の罪の性質はなくなるのだから、信じたらそれはもうない」と豪語する人たちは自分の偽りに気づけていないように思うのです。そうであるために、たくさんの戒律を守るのです。個人的には、戒律を守ることで本当に嘘偽りなく罪を遠ざけられ、またそこに確信(不完全である自覚)が伴うのならすべきだと思いました。キリストは『法律や預言を廃止するために来たのではない』と仰いました。

 
律法を成就するために来たという聖句があったと思います。パリサイ人は、律法を、戒律として守ればよいという主義によって、人間の深い心情を損なっていたからだろうと思っています。キリストの言葉は、律法のための人、ではなく、人のための律法、という意味の成就だろうと思っています。
 

私たちが本当に生まれ変われるとしたら、それは肉であるこの体がなくなるときではないのでしょうか。

 
よく分からないのですが、生きているあいだ肉は付いていますから、死ぬ時という意味でしょうか。死後のことは人には分からないので、神に任せるしかないと思っています。
 
だとすれば、そういう超常のことより、もっと、地上で、倒れそうな時に、死んでしまったような気持ちから、生きてゆこうと思い直すという人間の人生の再出発のことを人の復活として考えたいです。
 

こうしてお話をさせていただきながら思うことは、『わたしの軛は軽い』『自分の十字架を背負って』というのも、多分『授けられた信仰の度合いによって』と同様に、各人が信仰を何と心得るのかで軛も十字架も異なり、それは自由意思の範疇にあるのかもしれません。伝わり辛い思考・表現かもしれません。

 
『わたしの軛は軽い』・・キリストが、人々の罪を背負って十字架につくゆえに。キリストが与える荷は軽い、キリスト者への縛りは自由意志を妨げるものではない、というくらいの意味に受け取っています。おかげで、今、自由に考え、書いています。
『自分の十字架を背負って』・・十字架は、罪のしるし、しかし、罪なきキリストが負うたゆえに、逆説的に、信仰による解放のしるしとなっていることでしょうか。
『授けられた信仰の度合いによって』・・信仰者それぞれに、役割・使命は違うということでしょうか。生きて証しを立てるか、死んで証しを立てるかを含めて。
 

私は、聖書にはすべての答えがある、そう思って勉強していました。今も、まだそう思っています。何が何のために、そしてなぜ創造されたのか(自分も含めてです)。何がどうして善とされ悪なのか。どこからきて、何を全うしどこへ行くのか。神は分別を教えてくださると思っています。しかしそれを行うのは自分で、神は自由意思を最大限尊重されるお方です。でもだから、人間の私はいつも不完全です。

 
聖書と信仰生活上の体験とでしょうけれど、私は、何らかの楽しみをもって、祈りの暮らしを送れたらいいと思っています。
 

私たちが生涯理解することのない皆無・零から万物を創造された方の偉大さを、それを想像することですら成しえない無力さを、信仰の理由にしています。なくても生きていける人がたくさんいるのに、弱い私は考えずにいることなんてできない。これからもです。

 
キリスト者として共感いたします。拝。
 
>※記事についている写真と一言、個人的には楽しんでいます。
 
手持ちの画像が少ないので、色を変えたり、文字を入れたり、
・・似たような画像が多いと思います。失礼。
 
 
これも、記事にしたいと思います。
 
信仰は、人間としての、思慮においては分別、情においては共感であります。
 
 

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(2021年04月06日)
 
 
※ 上の記事とは別儀であります。
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
初期のHS本では
批判は、自分の至らぬところを教えてくれ、さらには自分の名を広めてくれる有り難いものだとか
自分は間違ってなくとも、相手が怒っているなら、自分の何かが相手を不快にさせたのだろうから、そこは謝るべきとしてたと思う。
この点、荒井氏はHSよりも心の教えに忠実ですね。
午前6:45 · 2021年4月5日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1378826145399889922

 
楽山は、至らぬところを指摘しても、返してくるのは、いちゃもんだけで、不感不応の無視であります。楽山は、自分の名を広めるためだけに書いてくるとしか思えません。書かないと自尊が保たれないので、衝動的か、反射的に、性分だから書くのかもしれません。
 
楽山は、アンチHSではありません。楽山という自己愛性人格障害者は、幸福の自分教の奴隷であり、言ったことの責任を負う気などありませんから気をつけてください。宗教の教えとか忠実ということから、最も遠い人です。楽山の言うことを真に受けないでください。
 
楽山の詭弁は、丁寧語に隠れて、直ぐには気づかない人が多いかもしれません。私も、数か月、楽山の嘘と詭弁に、だまされ、すかされ、ごまかされ、はぐらかされ、疲労しました。
 
よって、その場で短いことを書く感じのツイッターベースではなく、おもに、じっくり考えて書けるブログ記事ベースで批判を続けています。ツイッターにもコピーはしています。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·4月4日
信者は減ってない、増えていると主張するとは、
大きく出ましたな。ははっ。絵文字(笑った顔)
https://twitter.com/komo266/status/1378523943653441537

 
楽山は、真実を分かち合うという姿勢がなく、ただ「ははっ」と笑うことで満足するようです。人が、いさかうのを、楽しんでいるようです。人が、自分に負けるのを、悦びとしているようです。誠意の欠片もないと思ったほうがよいです。
 
 
(2021年04月06日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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