ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の独り言2

 
  楽山の独り言2
 
 KENTO氏による楽山批判(5)(ネット上の議論についての反省)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月07日
 http://mmknky21.blog.jp/archives/8621012.html
  を改めて批判。
 
 
去年の楽山の記事です。何の説明にも弁明にもなっていないことを、的を逸らして、お互いさまみたいに言って、今まで同様、自己正当化してくるわけです。これが、病質者のやり方だと思ってください。悔いることなく書き続けるのは、後悔の念が湧かない、という病質の症状なのです。
 
深く感じるということがないために、いつも、いつまでも、書いてきます。書けば批判されて不快になるという条件反射付け以外なく、それ以上に、被害者を減らすために、楽山は有害だという情報を広めるために批判しています。楽山を自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断します。
 
 

*反省メモ
今回の議論についての、反省点をメモしておきたい。
メモしないと、すぐに忘れて、また同じ失敗をしてしまいがちなので(笑)。

 
議論は双方向のはずですが、楽山は、人の言うことを受け取って考えることが出来ません。つまり、議論はしていないわけです。さらに、楽山は、無反省なので、反省点のメモも、自己正当化だろうと予想がついてしまいます。まだ、まともなつもりで書いて、だませると思っているようです。「(笑)」が醜い。
 
 

*過去の教訓
まずは、ネット上の議論について、過去の教訓を思い出してみる。
リアルでの議論なら、長くても二、三時間で済む。でもネット上の議論は延々続く。他のことをする時間を奪われる。

 
何を基準に、二、三時間で済むと言っているのでしょう。真実の追求は、一生涯にわたることもあると思います。いつものことですが、根拠のない楽山の気安く甘い見方です。いかに、本気で考えていないかが表れています。楽山への批判は、世辞で終わらせないゆえに、永久に終わりません。
 
こっちの言うことを、まるで聞いていないのですから、しかも、自らを省みず、責任も負わないわけですから、「時間を奪われる」というのが、まず、被害妄想でしかありません。ふつう、無反省・無責任は議論で通用しない、ということが、楽山には分からないのです。
 
 

事実関係の議論なら結論が出ることもあるが、宗教・思想など価値観に関する議論は、水掛け論になり延々続く。時間を奪われる。

 
楽山が相手だと、水を掛け合うのではなく、楽山が勝手に掛けてくるだけなので、「時間を奪われる」というのは、気力を奪われるということです。これが、無反省・無責任を相手にするときに、まず、うんざりすることです。自分が被害者みたいに言っている時点でアウトであります。
 
楽山の掛けてくる水は、廃液であり、そこには、説得力や真実や、その糧になるようなものや、正直さが、まるで含まれていません。小便を引っ掛けられているようなものです。まともに受け取らないでください。すべて罠ですから、楽山に対しては全否定するしかないのです。それが、病質者というものです。
 
楽山は、ここでも、問題を、双方同じという方向に持っていこうとします。話し合う気がないものだから、このようなことを書いて、そっちも悪いということにするのです。みんな嘘さ♪・・という歌がありましたが、まさに、楽山は、疲労の上塗りをするサディストです。
 
 

意見の相違、対立だけならまだしも、それはじきに感情的な対立にすすみ、やがては恨まれて、延々粘着されることになる。そうならないうちに議論は止めるべし。

 
楽山は、最初から、単方向で言いたいだけで、議論する気がありません。体裁だけ、議論について話しているように見せかけています。したがって、止めるかどうかではなく、楽山と議論しよう、議論できる、などと思うことが、元々間違いです。
 
檻の中の猛獣が唸っている、あるいは、自動販売機が勝手に作動しているのに、それに向かって、しかし僕は・・なんて言っても、通じるはずはないのです。いつの日も、独り言に過ぎないのが、楽山です。議論を止める云々ではなく、楽山の言は、最初から、議論になっていないのです。
 
このように、「感情的な対立にすすみ」と言って、楽山は、自分の原因、即ち、無反省・無責任、高等感情の鈍麻、高慢、間違いを認めない、つまり、間違いを認める性質が全く欠如している人格です。このような、人間とは思えない精神病質ですから、どこまでも、非を認めず、平気でいられます。
 
全く違う人種なのです。まともな人間とは違うのです。普通に生きることの出来ない異常者なのです。楽山のような人、やり取りするだけで失うものが大きい相手、即ち、エナジーバンパイアを、相手にしてはいけません。楽山が近づいたら逃げるしかありません。このことを広めるためだけの批判であります。
 
 

人格批判は無視すべし。人格批判に反論すれば、議論は本題からどんどんズレてゆく。
人の意見は変えられない。好悪の感情も変えられない。議論によって相手が変わることを期待してはいけない。

 
楽山については、人格を中心に問題としてください。人格の病気なのです。楽山相手に、議論は、どこまでも、成立しません。総てがズレているのは、楽山です。広い意味での精神異常ですが、訂正不能なのは、基本的に、治療不能であり、それが、楽山という体質です。
 
自分で「相手が変わることを期待してはいけない」と言っています。つまり、お互いが、柔軟に話し合って、双方が、改善されてゆく、成長する、という議論や交流の方向性が、楽山には無いのです。それを、まさに、楽山が白状しています。
 
議論めいた言葉を使うのは、自己満悦のための手段であり、詭弁であり、成りすましであり、それが、楽山の体質なのです。そういう迷惑な企みが生き甲斐なのでしょう。ですから、楽山に、真剣味はゼロです。意義もゼロです。楽山と関わる時間は、人生の無駄~害毒になります。
 
 

悪口を書かれれば反論したくなる。でも反論を始めてしまえば、これで終わりということはなく、延々やりあうことになりキリがない。

 
自分勝手な気持ちで自己中に「キリ」を設定してはいけないのですが、楽山は、勝手に、終わりにして、食い下がれば、ストーカーと決めつけ、スルーと言って無視もするのです。こういう者を批判するときには、人格を問題とするしかないのです。まさに、人格に全ての問題があり、それだけが表れてきます。
 
楽山は、自分勝手が病気になると、こうなるという例なのです。誰も、楽山を相手にしないでください。批判するならば、人格を中心に批判するしかありません。総てが、そこから始まっています。あとは、何も成り立っていないということなのです。受け取っているように見えるのは、嘘であり、芝居です。
 
 

分かるヤツはすぐ分かる。分からないヤツはどんなに説明されても分からない。話が通じないヤツとの議論は、さっさと切り上げるべし。

 
先ず、楽山の書いた文章を分かる人はいません。分かったと思うのは、むしろ、だまされ、ごまかされている証拠だと思います。無反省で無責任で無神経に書かれた文章は、誰にも理解されることはないのです。「分からないヤツ」という乱暴な言い方に、楽山の傲慢が表れているのが分かると思います。
 
分からない、話が通じない、ということを、楽山が決めています。我執と我欲だけで生きているサイコパスの特徴です。だから、平気で、「さっさと切り上げる」と言うことができるのです。こういう人こそ、「分からないヤツ」であり、「話が通じないヤツ」なのです。
 
楽山が、アドバイスめいたことを言っても、決して受け取ってはいけません。精神衛生の問題として、さっさと切り上げて、というより、あらゆる個別のテーマについて、楽山の人格が問題であり、議論できない人であり、議論禁忌の相手であります。平気で、人を傷つけて、屁とも思わない病的人格です。
 
ただ間違っているだけではなく、それ以前に、議論できない病気の人格だということです。何を言って来ても、人格の欠損だけを指摘し続けるしかない相手です。あらゆる個別のテーマの議論において、楽山が言ってきたことは、有毒ガスと思っていたほうがよいと思います。ボンベが悪質なのです。
 
そういう人なので、楽山は、自分が悪趣味を楽しむために、人格批判禁忌を何度も言ってきました。治らないからです。インテリ気取りの、いい気持になりたいだけの、楽山の誘導の罠にはまらないために、相手にしないでください。いろんな言い回しを、しばしば使って、ごまかしてくるのが、楽山です。
 
 

その他いろいろ。
今回はこれらの教訓を破ってしまったところがあるので反省。

 
楽山は、反省しない人です。ボクって、ヨワくて、ごめんなさい、という、受けねらいです。気色悪いトホホ言語の反省芝居です。その虚偽については何度も何度も指摘してきたのですが、楽山には、欲望はあっても、教訓はないのです。教訓という言葉を言って、その都度、でっち上げてきた詭弁です。
 
 

*今回の教訓
今回の教訓は、事実に関する議論と、評価に関する議論はきちんと分けようということ。
自分は、この議論は、盗用の有る無しという事実に関する議論だと思ったのではあるが、よく考えてみたらこれは事実に関する議論ではなく、評価に関する議論であり、ある意味、価値観に関する議論に踏み込んでいたのだった。
自分は迂闊にもこの辺りのことを見誤り、盗用問題の議論は、事実に関する議論だと思い違いをしていた。これは失敗。ひたすら反省。

 
評価や価値観に踏み込まない議論はないと思います。どうあるか、だけでなく、必ず、どうあるべきか、ということは問われているのです。ゆえに、論者の人格のあり方は、いつも問われることです。そこに議論についての真摯さが表れてくるからです。その点で、楽山は、既に、まったくの欠格です。
 
このように、楽山は、言葉と理屈をもてあそんで、混乱させて、大事なことから逸らせて行きます。理屈の迷路に誘って、自分は分かっているふうを装います。事実を挙げるのは評価のためです。楽山の論理は、悪意の偽りによって、ダメージと疲労を与える強毒性なので、相手にしてはいけません。
 
 

*評価に関する議論
ちなみに、この手の議論はHS界隈ではよくある。
たとえば、代表的な事例としては、「大川隆法仏陀か否か」というものがある。大川隆法は存在するというのは事実に関する話だろうけれども、「大川隆法仏陀か否か」というのは、評価に関する議論なので、大方の人々が仏陀ではないと判断し、それが事実であったとしても、仏陀であると言い張る信者に意見を変えさせることは困難だということになる。
「霊言は本物かどうか」という議論も同じ構図だ。大方は霊言は嘘だと判断し、それが事実であったとしても、「霊言は本物だ」という信者の評価を覆すことはできない。

 
信条を覆すことは出来ない、ということを、まわりくどく、あたかも、論理であるかのように、言っている楽山です。このような、論者気取りに、どれだけの人が、だまされてきたのでしょう。楽山は、分からないくせに、でっち上げの屁理屈を何行も書いて、疲労だけを与えてきます。
 
信条の問題には、心情が深くかかわってきます。楽山は、人の気持ちが分からないし、高等感情の、悔いる心や、罪悪感や、思いやりや、共感が欠如しているから、こういう書き方しかできないのでしょう。柔らかい布が必要な時に、トタン板をガタガタ言わせて、働いているふりをする手合いです。
 
 

HSから離れて、極端な例を挙げるとすると、殺人事件にもこれと似た構図がある。ある人がある人を死に至らしめたのは事実としても、それが殺人であるか、過失致死であるかの判断については、一方が正しく、もう一方は間違いであるとはっきり決めることは困難だ。大多数が殺人と判断する場合でも、過失致死だと言い張る人にその判断を変えさせるのは難儀だろう。

 
殺人か過失致死かは、はっきり決められないで済ませていい問題でしょうか。何のために捜査と裁判があるのでしょう。それで、警察や裁判所は成り立つでしょうか。楽山は、誰か、殺すか、殺す予定でもあるのでしょうか。楽山は、先回りして、弁解しているのでしょうか。とても危険です。
 
殺人か過失致死かは、犯人が判断することではなく、社会の要請に応じて、警察と裁判が判断することです。楽山は、よりによって、とんでもない方向へ話を持ってゆくようです。事の重大さというものが全く分かっていないと、こうなるのです。真剣には何の判断もせず、責任も負わない楽山が表れています。
 
 

したがって、ある論文には他の論文と同じ文章がいくつも発見されたという事実に対して、大方が盗用だと判断したとしても、盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ。ことに大川隆法仏陀であり、霊言は本物だと判断する人がそのように主張する場合にはそうなる。

 
「盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ」・・まわりくどい言い方です。一般的に、悪いことを排除しないでおくことはないのです。人間は、努力の経過で出来ています。努力しない楽山は、自分の嘘がバレるものだから「完全」は無理だと、部分否定と全否定を混乱させているのです。
 
意見を交わすのに、反対意見を「排除」する目的で、書くでしょうか。排除されるべきは、双方向の成り立たない無反省と無責任の楽山だけであります。楽山の、こういう理屈を見ることで、楽山が、言論者ではなく、相手に、混乱を与え、あらゆる解決から遠ざける人だと分かるのです。
 
ちょっと考えれば、分かると思いますが、当たり前のことを、楽山が、いかに、もったいぶって言っているかということです。元々低劣な理路が無理をすると、このような、蟻地獄のような、堂々巡りのような、原始的な、実に、まわりくどい話になります。
 
恐らく、楽山には、自覚がないのでしょう。高尚なことを書いているつもりなのです。・・君らには分からないかなあ・・とでも言いたげに。腐った人間性が、偽りによって、詭弁によって、生き延びようとしています。決して許してはならないと思います。
 
 

こうしてみると、やっぱり評価に関する議論はやっかいだし、深入りしてもしょうがないということになる。

 
厄介なのは、楽山という人格だけです。自分で、こじらせて、自分で、言い訳して、自分で、納得してゆくような、孤独な作業に明け暮れるしかない楽山です。
 
評価に関する議論は、厄介ではありません。正常な人は、いつも、やっていることです。誰も深入りしてなどいません。楽山が、独りで、迷惑な、空回りをしているだけです。
 
 

まあ今回は、盗用問題を話題にし、ネット上に記録を残せたという点ではよかったとは思うが、自分の中では上の区別…事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か…があいまいになってたところは、やっぱり反省しなくちゃならん。今度は間違わないように注意しよ。

 
「まあ」という、いい加減さで始めて、当たり前になされている「事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か」を、「あいまいになってた」などと言い、またしても、オチャメを装った反省芝居で、「注意しよ」という、いい加減さで、まとめたつもりになっています。もうバレているのです。
 
訂正・謝罪は、一切ないことを、見逃さないでください。自分のための辻褄合わせです。そして、それが、楽山という人格の産物です。楽山という成り立たない理路です。楽山という詭弁です。楽山という悪意だけの口臭なのです。
 
楽山の言うことを、本気にしたり、まともに受け取ったりしてはいけません。楽山は、何か、テーマや議論の方向を限定して書いていたのでしょうか、否、思いつくままに、好きなように書いていただけです。それが、自己愛性パーソナリティ障害の症状なのです。
 
事実を言い、根拠と評価を言い、判断を言う、それが言論であり議論であります。それが、全く整理されておらず、できておらず、殺人と過失致死の話にすり替えてピントをぼかして、お茶を濁している楽山の作為です。まともなことは、ひと言も言っていないと思います。
 
楽山のような病的に自己愛だけが強い異常人格を相手にするのは、とても疲れる作業です。できることは、こういう、話にならない人がいるという情報を公開し広めて、決して近寄らないように警戒を呼びかけることだけでしょう。
 
楽山の納得は、誰の納得にもなりません。楽山の言論は、誰の言論にもなりません。そして、何の意義もなく、何の糧にもならないのです。ただ、やたら、病的な疲労をもたらしてくるだけです。腹が立っても、不治であるために、無視して、深入りしないようにしてください。楽山は不治の悪疫なのです。
 
 

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               絡みつく悪意
 
 
(2021年02月08日)
(2022年02月12日、再録+加筆)
 
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
だまし言葉を、山のように使って、そして忘れて、反省は言葉だけ書いて、実際一度もしたことのない楽山です。楽山は、今まで、本当の好意も小さな親切もなかっただろうと思います。楽山の、化膿創のような根腐れを開いて見るのは、誰も楽山を相手にしないで済むようにという目的があるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
このたとえ話は、すごく分かりやすい。
以前、当てこすりを繰り返す相手に、度々、反論をしていたら、「しつこい」「粘着質」とレッテルを貼られ、悪者にされてしまったことがあったが、こんな風に切り返しとけばよかった…。

 
楽山の無理解は悪意の病質ゆえなのでしょう。「しつこい」「粘着質」は、まさに楽山の言論の筆致であります。しかも、ことごとく無根拠なのです。言われて当然であります。しかし、楽山は反省もせず、改めることも出来なかったのです。楽山が、他者に何か言うと、それは楽山に当てはまります。
 
したがって、楽山の言は、「当てこすり」、そして、相手を悪者にして決めつけることです。それ以上の「反論」など、一度も出来たことはありません。理路の整わない楽山は論理など全く持っていません。ゆえに「反論」も出来たことはないのです。もはやブーメランに振り回されているだけです。
 
(引用リツイートに書いてあったこと:)

自分がルール違反を繰り返すのを棚に上げ
 」

 
無反省、無責任、無視、詭弁、嘘など、言論のルール無視、および、マナー違反を繰り返してきたのは、楽山です。またしても、自分が言われそうなことを、他者の言を悪用して、批判者に向けています。今までの経過が、楽山を既に否定しているのです。どこまで汚い詭弁屋なのでしょう。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
「本人が変わるかどうかは本人の問題。」
宗教信者には、他人に対して改心を強く迫るなど過干渉気味な人が多い印象があるせいか、
信者さんがこういう課題の分離というか、個人主義的な発想をしているのを見ると、すごく意外だし、新鮮な感じがするなあ。

 
悪と偽善に対しては、批判と告発があり、「過干渉」とは言いません。個人主義と、自己中心とは、違います。反省と学習と成長のない楽山は、苦し紛れの断末魔的な詭弁を弄しています。
 
(楽山が引用したリツイートです)

本人が変わるかどうかは本人の問題。
あの世には閻魔も赤鬼もいますから、この世でどうなるかに拘泥しません。
われわれが為すべきは、惑わされる人を減らすため、周りに啓蒙したり警鐘を鳴らすこと。
これは同時代に生きるわれわれの責任でしょう。
 」
 
引用元は書いています。「為すべきは、惑わされる人を減らすため、周りに啓蒙したり警鐘を鳴らすこと」・・楽山は、視野狭小のために、墓穴を掘っているのです。「同時代に生きるわれわれの責任」・・まさに、そういうことです。楽山が自分に都合の良いことしか受け取っていない証拠です。
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をコピー・リンク)
 
 
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