楽山の見栄2
楽山の見栄2
ヨブ記についてのメモ(『聖なるもの』オットー著)
2021年05月29日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/29280555.html
楽山は、何も弁明できないまま、また執拗に書いてきます。神も信仰も、楽山の机上・紙上の勝手な思い込みで、ボンヤリ言語をもって書き続ける楽山を信用しないでください。言論において、無反省・無責任は致命的で、自己愛者(NPD)の単方向の勝手な言い分は、人格を破壊するだけです。
批判されて、反論も弁明も出来ないことで、時々、怒りと恨みだけが、半ば発作的に湧きあがり、衝動的に書くことで、憂さを晴らしたいのかもしれませんが、約2年分の、妄想的な単方向の記事、自己正当化のためだけの引用、など、既に、悪と偽善の証拠が山積みです。
あがけば、あがくほど、深みにはまる底なし沼に、自ら跳び込んで、泳いでいるつもりが、ブクブクと沈みながら、なお、ゴタクを並べないではおれない、という症状でしょう。楽山には、恥を知らないということの、深く、止むことのない報いが、無限の堕落として続いています。
人格の破綻した楽山は、また、いつものように、書き始めに著者の説明をしないという怠慢が表れています。読者のことをまるで考えないで、書くことが出来ること、それが、既に、節操を失った人格障害の、罪悪感と羞恥心の欠如した症状なのです。
オットーだけで、数十の候補が出てきます。「オットー」「聖なるもの」で検索しました。
(ネットより)
ルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869年9月25日 - 1937年3月6日)は、ドイツの哲学者、宗教哲学者。マールブルク大学教授。
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*つまみ読み
『聖なるもの』を読みたいと思ったのだが、自分には難しすぎたので通読はあきらめてつまみ読みをしていたら、ヨブ記について書いてあったのでメモしておきたい。
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楽山は、通読が難しいと言いながら、「つまみ読み」で、公開できるような何かを書けると思うのでしょうか。公開するということに、恥ずかしさを感じないのでしょうか。あるいは、開き直って、読者をバカにしているのでしょうか。野卑が、増しているようです。
今までのことから、楽山が、なぜ、つまみ読みでもして記事を書くかといえば、理解も出来ないまま、楽山に都合のよい文言だけをさがして、自分の恣意で引用して、自己正当化に利用したいからです。いつまでも、いつまでも、神と、人と、著者と読者を、舐め続ける楽山です。
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*ヨブの友人ら
まず著者は、ヨブの友人らに対する態度を正当とし、友人らの意見を批判している。これは内村鑑三も同じ見方をしていたのだった(「ヨブ記講演」)。
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前と同じです。教条的で、説得力のなかったヨブの友人たちです。ヨブが正当だったということではありません。聖書を理解していないことが表れ続けてきた楽山が、またしても、自己正当化のために、言い張っているということです。
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「
ヨブはエロヒムに反抗して友人らと議論した。友人たちに対するかれの態度はあきらかに正当である。かれらはヨブに対して黙せざるをえない。神を「正当化」しようとするかれらの試みは失敗に帰する。そこでエロヒム自身がおのれの義を弁明しようとして姿を現す。
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.169)
」
これについて自分はどう考えるかといえば、恥ずかしながらヨブ記をはじめて読んだときは、友人らの意見は正論であり、ヨブは間違っていると思ったのだった。でもその後は著者のような読み方に理があると合点が行くようになった次第である。
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エロヒムは神のことです。ヨブが議論することは、神への反抗ではありません。その議論が、噛み合わなかったのは、双方に責任があるでしょう。ヨブは、悔い改めました。友人たちはどうでしょう。楽山は、理解も反省もしないで、また、「合点が行く」などと軽口の虚言に堕しています。
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*神義論
著者は、ヨブ記の38章を神義論として勝れたものとしている。
「
この神義論はヨブの友人たちのそれより勝れたものであり、ヨブ自身に非を認めさせうるほどのもの、認めさせうるばかりか、同時に、懐疑に悩まされていたかれの魂を、そのもっとも深い部分から落ち着かせることができるほどのものである。
(同上、p.170)
」
正直な感想をいえば、自分はこの部分についてはよくわからない。ただ悩み苦しみ、心は荒れ乱れているときであっても、神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろうとは思う。
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楽山には、神の前での平安はありません。嘘と詭弁に塗れてきたからです。そのヨブ記38章を引用しない楽山です。メモは、自分のためにするもの。そして、楽山は、聖書を理解していない。公開に足る理由は何もない文章が続きます。
自己愛性は、ここまで人間を、身の程知らずの愚か者にしてしまうという例です。楽山は、以前からですが、何も、分かち合う気はないということです。
38章から、神が、顕れて、ヨブを叱るところです。全部引用はしません。
(ヨブ記、口語訳)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
(ヨブ記38:1-2、旧約聖書)
まさに、楽山のことを言っているようにさえ思えます。楽山は、聖書を理解していませんが、聖書を読んでもいないのでしょう。楽山の言は、神にも、人にも、通用しない言葉遊びに過ぎません。
「神と向き合えたならその瞬間に平安を得るだろう」・・楽山の無理解が表れています。神と向き合う、ということの恐ろしさを、楽山は知りません。ヨブは知っていました。私たちに人間は、神の前で、一瞬で燃え尽きても不思議はないのです。そういう神を、特に旧約聖書は伝えています。
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いささか話は飛ぶが、臨死体験談では光りに包まれた存在との出会いによって心癒される話があるけれども、おそらく神との出会いはそのようなものだろう。
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ここで、楽山の、信仰ではなく、超常的な臨死体験を持ってくるところが、楽山の体質を表しているのですが、楽山は、まともなつもりでいます。楽山は、光に包まれたいのでしょうか。実際は、闇を徘徊しているだけの楽山です。いいかげん自己愛からの愚昧を表すのは止めてほしいです。
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*目的論、因果律
著者は、「~のために」という考え方をあまり歓迎してはいないらしい。
「
エロヒムの行為の目的は、信仰者を試し浄めるためだとか、各人が苦悩を抱えつつ適応していかねばならないことがら一切のためだとかいったことである。合理的な概念から出発すれば、人はこの対話がそんな台詞で締めくくられることを望んでやまない。
(同上、p.171)
」
自分はいまだに「~のために…」「~だから…」という思考から離れきれてはいないので、上のような対話を望んでしまうクチである。38章に心から感動できないのは多分このためだろう。
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「対話を望んでしまうクチ」・・正直さを全く持っていない楽山は、神と対話したいというゴタクを並べています。楽山は、聖書を理解していないのだから、その怠慢をもって、裁きの主である神と、早く対話して、その罪悪と偽善を裁かれ、すべての人が、それ知るようになってほしいと思います。
楽山の「~のために…」「~だから…」というのは、楽山の超常に逆上(のぼ)せた高慢と、自惚れを表しているに過ぎません。楽山は、恐らく、何事にも、何物にも、感動したことはないと思います。どのためでもなく、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるものです。
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*超越者
これは難しい文章だが、著者の宗教観と38章の読み方がおぼろげながらも分かってくるような気がしないでもない…。
「
結局のところ、この章は合理的概念で論じ尽くせることがらとは完全に異なるものに依拠している。それはすなわり、あらゆる概念を越え、だから目的概念も越えたところにある不可思議さそのもの、純粋に非合理なかたちをとっている神秘、しかもミルムでありかつ逆説的なものとしての神秘である。
(同上、p.171)
」
はなから理を放棄するのは論外ではあるが、理があるならば理によらないものも無くもなかろうし、その可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う。
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「分かってくるような気がしないでもない…。」・・極めて悪質なボンヤリ言語です。楽山は、何も分かっていません。笑いながら書いているのでしょうか。児戯であり、笑止であります。ここに至っても、まともだという見栄だけは張って来るから恐ろしいのです。なんとも女々しいのです。
「理があるならば理によらないものも無くもなかろう」・・いい加減で、この文脈の理路として成り立ちません。理があるならば、理によらない何があるか、邪悪か、矛盾か、楽山は正気か。こういう人は、結局、死ぬまで、何を言うか、何を言うか、と繰り返すような宿命なのでしょう。
「可能性をも否定するのは理に反するということにもなろうとは思う」・・ボンヤリ言語で、かつ、根拠が無く、思い付きで辻褄合わせをしようとして、議論の要素を、全く見失っている楽山です。今に始まったことではないですが、二度と、キリスト教と信仰の言論に、現れてはいけない人物です。
焼き切れる 焼きが回る
(2021年05月31日)
(2022年06月03日、再録+加筆)
崩壊
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
「
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
」
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2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
<
いわゆる、ただのお調子者ということでは片付かない楽山なのです。実に、評論家気取りの口調で書いてきて、しばしば、語尾が曖昧で、しかも、誘導と刷り込みの意図だけが明らかなのです。何らかの、人をだます企みのもとに書いているとしか思えません。
楽山は、集団でしょうか、仲間がいるのでしょうか、単独でしょうか。いずれにしても、楽山が負う気のない責任から逃れることを許してしまうと、また、どこかで、似たような嘘と詭弁を弄して、人をだましてしまうのでしょう。楽山は、今までの害悪によって、完全に退場するしかないのです。
楽山のツイッターですが
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心機一転★こも楽山
@komo266
護教論のために不都合な信者のことは、真っ当な信仰者でないと切り捨てるとは不人情すぎる。
自殺、精神崩壊などは、信者アンチの立場に関係なく話すべき大問題だろうに。
午前9:34 · 2021年5月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1398799953787461632
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自己愛のために、人を人とも思わず、無視し、切り捨ててきた楽山には、何も言う資格などありません。無反省に無神経に無責任に、他者の精神を崩壊させるようなことを、ずっとしてきたくせに、正義の味方を気取っても無駄なのです。楽山の被害者が、自殺しないように、楽山は、黙るべきです。
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心機一転★こも楽山
@komo266
無表情で、どんよりしてますね。
深刻な悩みを抱えてそう。
午前7:08 · 2021年5月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1398763196295434242
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中学時代のORとのことです。「無表情で、どんより」は、楽山自身を連想させます。しかし、平気で、人を振り回し、疲労させ、その精神と人格を破壊してくる楽山は、深刻な悩みなど、全く持っていないのでしょう。そういう高等感情を、自己愛性人格障害者は持ち得ないのです。
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心機一転★こも楽山
@komo266
幸福探検隊氏の提示する論点は、お金の話、霊言の真偽、三帰誓願の意味、教えと実態の乖離、過去世変更など、どれも当然の感想、問いかけなのだけど、これにきちんと回答できる信者はほぼ見当たらないようだ。
HSは伝道のための基本的な問答集さえ作成してないんだな。伝道する気ゼロだね 顔文字(にやにやした顔)
午後8:24 · 2021年5月30日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1398963460340293635
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楽山の提示する論点はありません。あるのは、宗教の先入観でしかないホラーと霊の話です。他者のことには、いろいろ言いますが、自分の考えが、まともでなく、まとまってもいないのは、ツイッターもブログも同じです。何より、一度も、きちんと回答したことがありません。
宗教を語る上での基本的な理路が楽山には通用しません。宗教も批判も、体裁だけのガセに過ぎず、真面目に論ずる気はゼロであります。誰にも通じないツイートを書いて、気持ち悪い笑いの顔文字で、あざ笑って、独りだけで満悦しているのです。精神の貧困を極めている楽山です。
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★こも/楽山日記3
@komo266
傍からは、HSがそんな風に見えてますよ。
いつも人の悪口
他宗教の神様、教祖の悪口ばかり言ってる
言うことがコロコロ変わって信念がない
自分で自分を汚してる…
みたいに。
最近は、嬉々としてウクライナを悪く言う信者が目立ってるけど、そういうのは止めたほうがいいと思います。
午前6:06 · 2022年6月1日
<
楽山こそ、キリスト教の神を、いないとか、おかしいとか、無理解のまま、執拗に言ってきた人です。まだ、言うつもりのようです。神を、お伽噺とホラーと、小学生レベルのイメージと概念だけで、楽山は言い得たつもりになる人です。楽山には、忠告も、弁護も、批判も、する資格はありません。
楽山は「嬉々として」ではなく、インテリ気取りで得意げに語る偽善者です。楽山には、インテリジェンスはありません。理路もありません。感性もありません。共感もありません。とても程度の低い、自己顕示欲だけで、人を批判したつもりになるペテン師です。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
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(ブログ記事をコピペすることあり)
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