ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

キリストと人々

 
  キリストと人々
 
 
神の性質として言われていることがあります。全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、など。
 
信仰者が知るべき人の性質があります。全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない、ということです。
 
信仰において、人間が知るべきことは、神の性質を求めることではなく、神の性質から、人間が不完全であることを知ることです。それが、罪深さの自覚になり、敬虔の自覚につながります。
 
 
あるカルトは言っていました。信仰によって完全になるのだと。カルトたるゆえんであります。信仰は完全になるためにあるのではなく、完全ではない自分を知ることです。完全になれないゆえに、罪の赦しと救いが必要なのです。それが人間らしさなのです。
 
 
自分はダメだなあ・・と思うとき、ダメでない人格的存在を想っています。聖書を読んで、ダメでない、完全な存在を想います。それが神であります。しかし、神について、あれこれ考えても、ダメでない存在、完全な存在を理解することは出来ず、そういうあり方を得ることはできません。
 
ゆえに、そのような御方がいることを、分からないけれど、導いておられることを、願い、信じ、仰ぐ、それが、神への、祈りの信仰であります。ここにおいて、大事なことは、神の意志と行為と計画を、人が知ることはできないということです。
 
信仰は、物品のように、書物のように、受け取るものではありません。この地上で、与えられる、絶対の神と相対の人の関係性であります。その関係が信仰であり、きっと関係を持ってくださると信じて、希望とします。希望だから、慢心する何ものもなく、祈りに終始します。
 
 
キリストに救われた人たちは、正直であり、正直に言い、正直に答えた人であります。それ以外の、いかなる飾りも持っていない人たちでした。これを、心貧しい、というのです。
 
正直な告白と祈りが大切だということです。嘘や飾りを神に捧げられるでしょうか、否です。嘘や飾りを神に向かって言う人ということになるだけです。社交とは違うのです。福音書でも、欠点や障害や罪を隠さず表した人が救われています。
 
神の前においてだけは、心を裸にするべきです。隠したり、飾ったり、嘘を言うことは、自ら、信仰を軽視する態度です。神に対して、社交と同じように、世辞を言い、嘘を吐くことは、固定すれば、嘘の祈りが常態化すれば、赦されない罪になります。
 
ゆえに、祈りで、嘘を吐いたことに気づいたら、別の機会をもって、その罪を告白し、訂正するべきです。そうすれば、正直な信仰に戻ることになります。神は、寛容であり、いつも、正直な祈りを待っておられるのです。
 
 
信仰とカルトの違い:
 
信仰は、心の共感により、本質的には箇条書きできない感性によって、心に生まれます。
 
カルトは、決めつけの豪語から始まることが多く、その内容は、超常現象に彩られています。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の、唯一の希望の同伴として、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
教条やイデオロギーは、何度も繰り返されるから、感動を呼ぶことはなく、理解の不細工な仮面となって、人間を、雑句雑句と靴音を立てる行列にしてしまいます。集団を同じ顔にしてしまい、嘆きの声から悲しみを消して、笑いと怒号のプラカードにしてしまいます。
 
 
 
キリストと救われた人々の出会い
 
キリストが出会って救いの宣べ伝えた人々は、キリストが選んだ人々であり、人前に、神の前に、誇るような能力を持っていない自覚のある人々であり、かつ、理解できるかどうかよりも、聞く耳を持ち、余計な先入観を持たない、即ち、心の貧しさを持っている人々であります。
 
パリサイ人や律法学者
 
人の前に尊大であり、神の前に、人よりも優れていることを誇るような人々であり、神を喜ばせるよりも、自尊を誇り、常に、教える立場にいるつもりで、優越感と自己満悦感に満たされて、ゆえに、救い主さえも殺すような者たちです。(一部に例外があります)
 
 
 
新共同訳において
聖書を安い道徳におとしめた罪:
 
マタイ5:28(口語訳)
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 
女 (口語訳)→ 人の妻(新共同訳):
 
 マタイ5:28は、道徳ではなく、
 神レベルの戒律であり、
 人には、誰も守れないゆえに、悔い改めが必要
 という、キリスト教の根幹となる教えです。
 
 神レベルの守れない教えを、
 不倫禁止だけの安い道徳に書き換えて、
 これなら守れるでしょ・・と得意がる罪。悪魔性とさえ感じる。
 
神を恐れる→神を畏れる。
 恐るべき神の前には瞬時に滅びても不思議のない人間の在り方を
 神の前に畏まる社交のエチケットに変質させる
 神と悪魔の区別もしばしば間違える人間の罪です。
 
いずれも
神と人の関係が何も分かっていない者の所業。決して小さくない罪です。
 
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、
祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって、独りで祈る心得は、
正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、
やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた、
神の下にある罪人であります。
 
そのような人間が、救いを求めるためには、
豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、
正しさでもなく、
ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすることが大切です。
 
その一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 

       

          尽きることのない希望を信じ仰ぐ姿勢
 
 
(2022年10月17日)
 
 
 
  夢 Ⅱ
 
狭い道を歩いていた
古びた石の壁、細い溝に沿って
井戸があった
誰もいない家があった
一人か二人出会ったが
知らない人だった
入り組んだ路地を通り抜けると
また同じ道に出てしまう
何度も同じ道に。
誰かに会いたかったのだろう
愛しさに熱く泣きたかった
乾いた石の中で
のどが渇いた
 
水際の岩場で
人が撮ってくれた写真に
友人と私、
私と友人が写っていた
二組も三組も同じ写真に写っていた
さわやかな顔をしていた
どちらかの体が傾いて立っていた
懐かしかった
でも懐かしむほどの友人はいない
 
テーブルの上に
絵本が積み重ねられていた
今できたばかりと
作者が宣伝していた
瞬く間に売れていった
漫画のような絵本
コミカルな線が人を描いていた
曲線の巧みなデフォルメ
折れ線の細い危うさ
それらに囲まれた
白い未来 空白の飢餓
 
質素な食卓で食べた果実は
禁断の果実ではなかったか
苛立つ頭を巻き込んで
胸がやけ
後頭部に響く強い酸が上がってきた
塊が糸を引いて連なり
充血した眼で唾液を引きずり
胃の底まで吐き出してしまった
赤い実は溶けかかっていたが
子供の頃から知っているような気がした
森の中で見つけて眺めていた
今、火の内臓にしみこんでいく
血の流れを黒く染めながら
絶え入るばかりの罪の流れだった
聖なる嘔吐に清められたかった
暗い床の凹凸に伏していた
動物のように邪気もなく
信じられるものを求めていた
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間見られなかった空間

排泄するために
欠けていく勾配
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 

 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった

人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省を「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという人間離れの詭弁で正当化しても、罪は罪として、地上でも、神の前でも、履歴が積み重なってゆきます。神の全能において、訂正不能に、神聖を侮り否定して悔いない罪は、救いが永遠であるように、裁きも永遠なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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