ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の無理と我執2

 
  楽山の無理と我執2
 
 
 楽山日記(LD)
 真理と言葉 2014年03月03日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512375.html
   を改めて批判。
 
 
楽山の、8年前の記事ですが、短くて、中身は、さらに短い、というより、中身のない文章で、楽山の精神病理を表すデータになると思います。書いたけど、めんどくさくなった、しかし、自分の書いたものだから何かあると思う自己愛によって、載せた・・ということでしょうか。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、いつも、他者の思考や感受性、即ち、知性と感性を鈍らせるようなことを言ってきます。恐らく、楽山自身が、病質のために、知性と感性が欠乏しているルサンチマンから書いていると思います。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情[1]。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと[1]。
ウィキペディア
 
 

真理とは、言葉では語り尽くせないものだといいます。とすると、真理として語られた言葉は、真理そのものではなく、真理そのものの一面を言葉で表現したにすぎないのでしょう。

 
言葉は、伝達と表現のための暗号です。だから、国によって違います。楽山は、真理という言葉で、何を表しているのでしょう。真実を伝えるのには、言葉以外の方法も、芸術関係や、ドキュメンタリーの映像など、ありますが、言葉に頼らないでは、伝えにくく、生きにくくもある世界なのです。
 
楽山は、言葉以外の方法を身に着けているのでしょうか。一度も、見たことも聞いたことも読んだこともありません。「一面を言葉で表現したにすぎない」と言って、何を伝えたいのでしょう。否定して放置でしょうか。この楽山の言も、私の言も、言葉を使って書いているのです。楽山の主旨が不明です。
 
霊感のことでも言いたいのでしょうか。しかし、この記事、後に2行書いているだけで、他には何も書いていないのです。発言の意図が不明です。つまり、数行の作文、全く不十分であり、的に達していないということです。このような、主張の不明な作文が、楽山の特徴です。
 
 

そうであれば、真理として語られた言葉を、真理そのものだと思い込むことは、貴人の肖像画を貴人本人と信じ込むくらいに愚かなことかもしれません。

 
真理を言葉で書くことが、愚かなことなのでしょうか。だとしたら、何によって表せというのでしょう。それを言えない以上、この作文の意義はないと判断されます。このように、楽山は、奇を衒(てら)って、常識を否定して、いい気になって・・、それだけ、ということが多いです。
 
真実を求める作業は、人間には、学習し成長するために必要なことです。完全な真理ではないが、必要な真実というものがあります。これは即席に示されるものではなく、知性と感性をもって、追求するべきものです。そのことを、的外れの譬えで、否定してくるのが、楽山というペテン師です。
 
 
楽山が言いたいのは
1.自分が、いい加減なことを書いてきたことの不可避の言い訳。
2.霊が分かるっぽい自覚から、霊感を主張したい。
3.自分こそ宗教指導者、という教祖願望。
といったことが考えられます。
 
それにしても、中身のない文章ですから、それも言葉をけなしてくるだけで、書く意味のない文章だと思います。楽山の文章は、表面的に、もっともらしい体裁だが、よく読んでみると無意味という特徴があります。だから、私は、何度も、丁寧語にだまされないように、と書いてきました。
 
楽山の世界は、虚無なのだと思います。その表れなのかもしれません。基本的に、拠って立つ所がなく、言葉も、楽山の存在も、何もかも虚無だから、好きなことを好きなように言い放ち、反省もせず、責任を負わないでいられるのでしょう。
 
楽山は、仏様の気持ちが分かるっぽい?という妄想様の体験を持っています。自分が、言葉で何かを表すことが出来ないから、一般に言葉は空しいことにして、霊能によって真理を伝えられるという自負でしょうか。しかし、楽山に、霊感インスピレーションの、ひらめきや洞察を感じたことは、皆無です。
 
楽山が書いてくることは、通念的なことを冗長になぞってくるか、理路や意味が、妄想や偏見によるもの、そして、作為の嘘と詭弁、いちゃもん、という類のもので、真理について、有益な情報も、感動も、何か参考になることさえも、受け取ることはなかったのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)においては、真実など、自分が分からないことは、自分の無能でも無恥でもなく、むしろ、逆で、本質的に分からないのだということを見抜いた自分の優れた洞察だとでも思うのでしょう。
 
つまり、都合の悪いことは、皆、他者のせいにするわけです。こういう人と付き合うと、疲労し、人格を破壊されるという根拠でもあります。実際には、自己愛性人格障害の楽山にだけは分からないことがあります。深い情感、羞恥心、悔いること、改めること、など、つまり、良心の産物です。
 
 
 
 性善説性悪説
 楽山日記 2014年03月03日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512376.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の、善悪についての、お粗末な感慨です。人間は、善だから、悪だから、ということが決まっているから、という前提で、生きているわけではありません。
 
 

「世の中、捨てたもんじゃない。根っからの悪人はいない。人は素晴らしいものだ」と思うときもあれば、「“義人一人もなし”とは本当だ。エゴイストでない人はいない」と思うときもあります。性善説性悪説、どっちが正しいのかよく分かりません。

 
性善説性悪説、どちらかが、正しいということなのでしょうか。おかしいです。楽山は、人間は、良心もあれば、悪意もいだく、言い換えれば、動物より高等で、かつ、動物より悪意をいだく、ということが、理解できないのでしょうか。楽山は、読んでもヒントにもならないことを書いてきます。
 
 (聖書より)
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 
 (ローマ人への手紙3章10~12節)
 
完全なる善は神のみであり、人間には、罪なき人はいない、ということでしょう。神を知るということは、不完全な自分を知るということです。楽山のように、自分の非を認めない者は、神の存在を知ることもない、ということにつながります。
 
楽山は、神への不満から、神の不在を、詭弁と妄想をもって語り続けています。まさに、人間としての好ましい気づきと悟りから、最も遠い者です。楽山は、偉いと讃えられることもなく、有能と褒められることもない者が、憤怒と恨みから、他者のせい、神のせいにするときの、湿った路地裏です。
 
 

ただ人に対して、やさしい目を向ければ性善説が正しく見え、厳しい目を向ければ性悪説が正しく見えるような気がします。

 
楽山の「やさしい目」や、やさしい言葉や、コメントに寄せられた "やさしい人柄" という褒め言葉は、楽山の三文芝居であることが明らかになっています。やさしさの実質が、書いたものにさえ、その内容と文脈において、皆無だからです。
 
ゆえに、楽山は、性善説を知りません。また、罪を認めないのだから、性悪説も知りません。他にも、神、信仰、救いについても、知らないことを、自覚せず、自己中の、知ったかぶりだけで、学者気取りで、安い芝居で、書いては破綻を表している実情です。決して真に受けないでください。
 
 
 
 善人も、悪人もいない?
 楽山日記(LD)2014年03月04日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512377.html
  を改めて批判。
 
 
楽山は、以前にも悪を指摘されていたのでしょうか。自己正当化に必死で、しかも詭弁です。
 
 

「この人は善い人だ」と思っていた人が悪いことをしたり、「この人は悪い人だ」と思っていた人が善いことをしたりすることがあります。
結局のところ、人はその時々によって、善いこともすれば、悪いこともするのであって、そう簡単には「この人は善人だ」「この人は悪人だ」などと決めつけることはできないものなのでしょう。

 
人のことを善人だというとき、その人が、永遠不変に善人だと思って書いているでしょうか。否です。その時の誉め言葉に過ぎません。楽山の傾向として、全か無かに走るところがあります。その分、言論は雑になり、極端になり、幼稚になります。
 
完全な善は神のみであって、人間には、完全な善はないということです。悪魔は、神に勝てませんから完全でない悪ということでしょう。悪人は、どうでしょう。楽山などの精神病質サイコパスは、乱暴とは限らず、やさしい言葉でだましたりもします。善の部分は、なかなか見つからない病質です。
 
楽山は、自分を悪と決めつけるなと言いたいようです。完全な悪もないと思っていましたが、楽山という人物には、悪意の嘘と詭弁ばかりが目立っていて、善なるものの欠片も見たことがありません。決めつけではなく、楽山の悪を否定するための楽山の善の根拠が見つからないということです。
 
楽山は、あちこちに、学者気取り、評論家気取り、読書家気取り、そして、同情芝居、謙虚芝居、などで、自らを飾り、善人アピールをするのですが、無反省・無責任で、言ってることが嘘偽りなら、信用など出来るわけがありません。既にバレているのに書いてくるのは、そういう病気だからです。
 
 
 
 「わからない」という幸福
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512378.html
  を改めて批判。
 
 
楽山は、わからなくて答えられない人を、幸福だと言っています。しかし、楽山がしてきたことは、そういう人への、誘導のためのインチキアドバイスでしかなかったのです。経過が、すでに長い間、楽山の発言を否定しているのに、楽山は、この時も、今も、自己正当化と誘導の詭弁を弄するのです。
 
楽山には、わからないという立場にはいません。いつも、嘘と詭弁で、こちらの言うことに返してきました。楽山は、分からないと言えない人なのです。しかも、返しも詭弁なので、議論も交流も、成り立ったことはなく、今後も成り立つことはないでしょう。楽山は、欠陥人間です。
 
 

愛とは何か?
死とは何か?
真理とは何か?
人生とは何か?
信仰とは何か?
こたえのない問いに明確にこたえられないのは幸福です。なぜならそれはマインドコントロールされていないこと、考える能力があることを意味するからです。

 
楽山にマインドコントロールされないようにしてください。楽山はとても悪質な詭弁屋です。詭弁で刷り込まれると、思考力が奪われます。無神教カルト教祖願望の楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、良心、羞恥心、罪悪感、悲哀の情緒、などが欠損した病質人格です。
 
答えられないのと、知らないことにお構いなし、というのは違います。ゆえに、後者の場合、考える能力がない可能性を考えてみるべきです。すなわち、答えられないのは、必ずしも、上の「考える能力があることを意味する」とは限りません。楽山の詭弁がそうです。褒め言葉にだまされないでください。
 
ゆえに、答えられないことは、幸福と関係ないということです。むしろ、幸福なのだと誘って、考える能力を奪い、自らの奴隷のように見なしてゆくような、自己中のペテン師を警戒するべきところなのです。楽山は、いつも、明確でない嘘と詭弁と刷り込みを用意して欺いてきたのです。
 
むしろ、楽山は、マインドコントロールする側の加害者です。良心と高等感情の欠如した欠陥人格からの、無反省、無責任、無理解、無節操、学習不能、虚言、妄想からの根拠のないインテリ気取りなど、様々な気取りは、殆ど、詐欺に近い悪意に基づいています。
 
愛とは何か?死とは何か?真理とは何か?人生とは何か?信仰とは何か?・・誰もが考えるテーマですが、本気で考えると、楽山には都合が悪いのです。楽山は、愛を知らず、死を恐れず、真理を求めず、人生を軽視して、信仰を侮辱し続ける、高等感情の鈍麻したペテン師です。
 
 

       

                滅裂風土の雑音
 
 
(2021年)
(2022年10月19日、再録+加筆)
 
 
 
  風に開く
 
風はひととき息になって
わずかの冷気を与え
わずかの熱を奪い
失意の胸を過ぎて
街角をさまよう
風は善し悪しを知らない
風はどれだけの人が
身を任せているかを知らない
風にとって自然に開く扉はないから
閉じられた扉の前で
風は乱れ分かれ
町を過ぎて
波の上を
川を過ぎて
森の中を
針葉樹のあいだを
連山の尾根に
吹き上げ
吹き下ろす
風は扉になって
自然に向かって開かれてゆく
 
 
  医者だった頃・三段論法
 
時々入院はするけれど
あの頃は気持ちも落ち着いて
調子は悪くないはずの患者さんが
医局にやってきて医局秘書さんに尋ねた
「○○先生はどこな」
「○○先生は今は会議です」
「・・・だけん、どこな」
「だから会議って」
「・・・だけん、どこなって」
と患者さんは粘った
 
口調は割と穏やか
落ち着いてはおられるようだが
○○先生は会議
会議中は会えない
ゆえに○○先生に今は会えない
という
三段論法の常識部分が不十分で
会議なら会議場へ行けば会える
という論理らしい
 
デスクで聞いていた私は言った
「会議で忙しかけん今日は会えんよ」
かくして三段目まで補足され
「あ、そですか」と言って
患者さんはあっさり帰った
「あれ?」と笑いながら
医局秘書さんは首を傾(かし)げる
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実たち
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった無数の貝殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
この2行の意味するところは、反省、謝罪は、実践が難しいのが人間の性だから、自分も人間だから、反省できないのです、という言い訳と自己正当化です。こういう詭弁を、よくも、平気で書けるものだと思います。人間の性なんでしょうかね、違います。楽山の悪と病気です。
 
 
 

青霄
@__ll_l_ll
えーーーこんなこと言ったら日本人の殆どが自己愛性パーソナリティじゃん……汗汗汗
資料みてもデマだとか陰謀論って言い続ける……汗
>>引用ツイート
戸田聡
@st5402jp
自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
偽善者の特徴でもあります。
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
<<
2022年10月18日

 
「日本人の殆ど」が「誤りを認めない」「笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない」でしょうか。おかしなことを言ってる人がいます。楽山の悪意と偽善を批判して追及しています。楽山の仲間なのでしょうか、同類でしょうか、本人の成りすましでしょうか。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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