ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

原初から3

 
  原初から3
 
  2012年02月24日の記事
  「原初から」を修正再録
  http://st5402jp.livedoor.blog/archives/105626.html
 
 
原初の信仰が生まれるとき
それは復活の類似体験である
と言えば、かなり語弊があるかもしれません。
復活=死人が蘇る
という先入観があるからです。
 
キリストの復活と違って
ここで信仰における復活というのは
それまでとは違った命の体験として
人が解放されるということです。
 
原初体験は
自由意思による神への服従の決意へと導きます。
つまり
神への服従
神と違う不完全で罪深い人間の自覚です。
そのことが
人の世の様々な執着からの解放という恵みになります。
 
勘違いしてほしくないのは
人の世を無視するということではないということです
無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても
それに耐えて生きるための信仰であります。
 
つまり神への服従というのは
襲い来る不幸に
いつまでも泣いて過ごすか
信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと
そうとも言えない神秘の部分があります。
不思議な御縁ということです。
 
原初体験は出会いであり
縁付くことであり
絆(ほだ)されることであり
これらは
人間的な知情意への働きとして
ある種の直感~直観であり
芸術の享受にも似るが
恋愛や結婚にも似ている。
 
具体的に言うと
イエス・キリストを好きになることです。
言い換えるならば
キリストからの共感を聖書で学び
キリストに共感することです。
 
むしろ享受しながら
そこから何を目指すことになるか
という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか
自分の確信で自分を縛り付けてゆくか
自己陶酔に陥るか
であるなら
これらは目に美しく耳に心地よい偶像に
人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであり
人間の作為は
原初の面影すらないところへ向かうでしょう。
 
信仰は
自由と服従のバランスではなく
思いわずらいからの自由と
人間らしさへの一途な希求であります。
 
ゆえに信仰においては
神に対して
自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく
 
よって常に信仰はその原初から
自他による思いこみや固定観念
吹き込まれたり糊塗されたりすることの
理不尽を拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は
個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために
こうせよという一つの言葉で確定できるものではないと思います。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰であるために
祈りだけは必須ということになるでしょう。
そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは
嘘と飾りは通用せず
ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
完全な信仰などあり得ません。
信仰によって人間が完全な正しさを手に入れることではありません。
完全なのは、神だけです。
 
信仰とは
人間の不完全を
神によって赦されて生きることです。
 
人間が受けるのは信仰の義です。
絶対で完全な神の義ではありません。
 
信仰は人間が立派になることでも
正しくなることでもありません。
出来るだけ正しく生きる
という道徳の教えでもありません。
 
ある時 正しくても 正しくなくても
 
信仰の恵みは
罪人の弁えをもって
神に正直に祈る時々を得て
この地上を生きる人になることです。
 
 

      

                 原初
 
 
(2012年)
(2020年)
(2022年11月03日、再録+加筆)
 
 
 
  飲兵衛さんの思い出
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の
飲兵衛(のんべえ)さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞(ふさ)がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが
鬱積(うっせき)しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我(けが)をさせるか
喧嘩(けんか)になって
こちらが怪我するかも知れない
しかたないと諦(あきら)めて
エンジンを止めて紙切れを見た
 
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
飲兵衛さんの
顔が和(なご)んできた
のに気づいた
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
 
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかったのだ
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
しかしこの飲兵衛さん
にだってプライドがあった
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人
から聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのだろう
 
あのとき思った
案外精神科医に向いている
かもしれないという見込み
は見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
・・・・・・・・・
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  真実
 
宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに
 
子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている
 
地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく
 
宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように
 
面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
自己愛性の病質のために、のぼせ上がって、分かりもしないことを、だらだらと書いてくる楽山を、どうか相手にしないでください。楽山の性(さが)は、人間の性ではありません。人の道も、信じ仰ぐ敬虔も、「だよなあ」「そんな風」「でしょうかね」で語れるものではありません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、アドラー教(アドラー心理学)の影響もあって、楽山は、反省をしません。後悔もしません。罪悪感がありません。しんみりとした悲しみの情がありません。だから、ふざけ半分の白々しい作文になり、自己正当化の権化となっています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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