ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

虫のように迷惑(1)4

 
  虫のように迷惑(1)4
 
 2019年11月12日
 『神は妄想か?』の感想つづき
 http://mn266z.blog.jp/archives/22036873.html
  楽山日記(仮)
 
 
過去の批判記事を、加筆修正して、再録、批判します。楽山の無理解と幼稚さが表れています。
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、幼稚な辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めることは出来ません。自己中からの短絡した妄想です。
 
 

マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。

 
(ネットより)
アリスターエドガー・マクグラス(Alister Edgar McGrath、1953年1月23日 - )は、北アイルランド出身の聖公会の執事でキリスト教神学者、哲学博士、名誉神学博士Doctor of Divinity。前オックスフォード大学歴史神学教授。2008年9月からロンドン大学教授。彼は講義と著書で「科学的な神学」(scientific theology)を提唱し、科学的な無神論に反対している。

ja.wikipedia.org


 
完全に理解されることはないでしょう。理解したら信じる必要など無いわけです。しかし、神について、人間として弁えるべきことはあるのです。そのことを全く理解しないで、理解されえないということからキリスト教を否定する楽山は、自己正当化をしているだけで、かつ、いつも失敗しています。
 
神の救済を、何かの現象と同じように考えて、人間に理非が分かるかのような前提で、楽山が語っても、神を否定も肯定も出来ません。神の存在と救いの実証的根拠など、人間は持ちえません。それが、キリスト信仰の前提です。つまり、楽山の言は、ことごとく無意味です。
 
キリストに救われた人々が、自分で救いを求め得ないような、そういう人だったというのが根拠であります。自分で、自分の胸を打つほどに悔いたことがなく、何事にも真剣味がなく、うっすらボンヤリ物事を単純短絡で考えている楽山には、近づくことさえ出来ない世界なのです。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
 (ルカ18:11-14、新約聖書
 

通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)

 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは、キリスト信仰において、行為義認と呼ばれ、間違いの典型であります。しなくていいというのではなく、人間が、善行に励んでも、神に及ぶべくもないということです。それで救われると思ってはいけないのです。
 
つまり、人に気に入られようとして詭弁と嘘を垂れ流す楽山の、虚偽の処世の話で、神を語ることは決して出来ません。楽山は、俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、神と人と信仰をけがしています。俗物根性も、ここまで来ると、欠陥人格と判断せざるを得ないのです。
 
人間には、心に感じるということがあるのが正常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも受け取ることが出来ないのでしょう。だから、神に対しても条件交渉みたいなことしか考えられないのです。最初から間違っています。
 
前にも書いたことを繰り返します。心貧しさは、余計な先入観を持たないことです。楽山などの、高慢と自己満悦からの精神の貧困は、余計な先入観しか持っていないのです。
 
 

この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。

 
人の信仰の有無と正当性をを判断し裁くのは、神であります。神の裁きは、人間に理解できるものではありません。ゆえに、神の存在と意志と行為について、人が、とやかく言えるものではないのです。私たちに、神の完全は、理解できません。楽山が、汚い口で文句を言っても、一切は無駄です。
 
楽山の、悪意に満ちた、また、他者の口を借りた雑言が続いています。未熟で幼稚な反キリストは、誰とも共感できないので、誰でも騙してやろうと思うしかないのか、自己満悦と悪意だけで書いてきます。この楽山のように、恐れを知らず、文句を言い続ける者が、典型的な反キリストであります。
 
人の善行は、高が知れています。人間が、神に捧げられるのは、精いっぱいの、正直さだけなのです。正直な祈りをして、あとは神に任せるべきことに、お粗末な理屈を振り回す楽山は、他者の言も、無視するか、悪用するだけです。罪悪感がないので、迷惑行為に気づかないからです。
 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。違うと思います。浅薄な知識を、自慢のように振り回すほど、楽山は、ますます見苦しくなるばかりです。
 
人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、個別を全体のように見なす短絡によって雑言を吐いているだけです。こういうのを、決めつけと言うのです。無反省で無責任の楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
 

ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。

 
信仰を持たず、信仰の行いも見られない楽山が言っています。楽山は、行いによっても、信仰によっても義とされない自分を証明しているのです。なお、大した行いが伴わなくても、信仰者は、神の前に正直であれば信仰の義とされるでしょう。
 
何も分かっていない楽山です。キリスト教内部の対立を面白がる楽山です。行いが伴うことと、善をなしていると思い上がる偽善とは、全然違います。反キリストや無神論者は、そして楽山も、そういうところで、とても短絡した論理にとどまっています。楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化している偽善者です。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、不十分でも信仰者らしい言動が伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャローム同様、極めて質(たち)が悪いのです。批判を受け取ることなく、書き続ける姿は、病理としか思えません。
 
人類の敵は、国でも国家でもありません。人類の敵は、サイコパスです。それが疑われる楽山とシャロームの二人については、同一人物の成りすましの可能性も考えています。人間の知能を持ちながら、それを欲望を満たすためにしか使えず、かつ、悔いることがありません。
 
 

最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、

 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、善行は、非信仰者も努めるべきことでしょう。その最低限さえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、信仰の本質であるかのように書き加え、知りもしないのに、キリスト教が、迷っているかのように主張しています。次元が低すぎるのです。
 
キリスト教の人々が、一枚岩だとは思いません。内外に、理解不十分や、誤解や、曲解などや、また、偽者や、カルトがいるということも現実でしょう。しかし、キリスト教は、人の不十分と不完全を、神が、承知の上で、裁き、救うべき人を救って成長に導く宗教なのです。
 
キリスト教も信仰も、何も知らず、何も分かっていない楽山のような者が、口出ししてくるのは、自己顕示欲によるものでしかなく、ゆえに、楽山を、大迷惑な信仰の敵、即ち、反キリストと判断しているわけです。楽山の語るキリスト教と信仰は、ルサンチマンの妄想と怨念に他ならないのです。
 
 

現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。

 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。「信仰のみ」という言葉について、理屈ではなく、人間の在り方として考えてください。楽山に云々できることではありません。
 
真の信仰を与えられた人間は、どう行動するでしょう。信仰だから特別とばかり、勝手な理屈をこねて、楽山やシャロームのように、無反省に無責任に、嘘と詭弁で偽善を働くでしょうか、否です。シャロームも楽山も、自らの言葉によって、自らの腐敗を表しているのです。
 
楽山やシャロームに、いちばん、だまされやすいのは、詭弁というものをよく知らない一般の人か、いい言葉を一途に求めている宗教人でしょう。だますために、いい人と思われるために、いい言葉に見えることを並べようとするのが、楽山とシャロームなのです。
 
 ※
 
訂正不能の無神教カルトとなって教祖願望の絶対を欲しがる楽山には絶望的ですが、訂正不能にしないということは、成長するということです。正直な祈りを通して、聖書と体験からの感動と共感が、その原動力となるでしょう。
 
低劣な詭弁を弄する楽山に、決して誰も関わることのありませぬように
イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 
 

       

             知ったかぶりの地獄
 
 
(2021年)
(2022年12月06日、再録+加筆)
 
 
 
  水と空気
 
ときに無常
ときに空しさ
 
形の定まらないもの
汚染されやすいもの
汚染されているかどうか
わかりにくいもの
 
しばしば意識されないが
無いと生きてゆけないもの
わかりにくいけれど
必要不可欠
 
水と空気のような
知・情・意
分けられない心の中から
 
汗、涙、唾、息、……
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエス
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと 
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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