ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

安い楽山の読書

 
  安い楽山の読書
 
 『存在の耐えられない軽さ』クンデラ
 2022年12月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/35144693.html
  を批判。
 
 
カルトは、人間には分からないはずの超常のことを分かったと言って豪語します。楽山のような無神教カルトは、神がいるなら悲劇は起こらないはず・・という単純な短絡で、神はいないと言ってきます。信仰者は、悲劇に耐え忍ぶために、神聖について、心に響くことを受け取ります。
 
無神教カルトなのに教祖願望を持っている楽山は、際限もなく、実に気安く、大きなテーマについて、軽口を叩いて決めつけてきます。その軽口を本質のように語って、看破したつもりになりますが、結果として、宗教と信仰について、無知を、的外れを、さらに無恥を、自ら曝してゆくのです。
 
楽山は、体のよさそうな偏見の刷り込みで宣伝に使われるだけのネトウヨなのでしょう。つまり「存在の耐えられない軽さ」だけで、褒められることを求めて、当然、得られず、仕方なく、自画自賛してゆくしかない人間、つまり、軽薄な思いつきだけで決めつけてくる妄想分子なのだろうと思います。
 
 

『存在の耐えられない軽さ』を通読してみた。本作はプラハの春の時代を舞台とした作品であるが、頁を繰るうちに監視社会の窮屈さ、理不尽さにやるせない気分にさせられた。こんな社会では自分は到底生きては行けまい。

 
「監視社会の窮屈さ、理不尽さにやるせない気分」・・この短い、月並みな台詞、やるせなさが伝わってくるでしょうか。言葉だけ大仰な感想です。楽山は、このような感想文しか書けません。実感がないのです。それで、一人前の大人の感想~感性を気取って満悦するのです。
 
私は、読書障害の傾向があって、本は、あまり読みません。パールバックの「大地」を読んだときには、読書スピードが遅いので、恐ろしく時間・日数がかかりました。しかし、読んで、もし感想を書くなら、このような気安い感想文で満足することはないでしょう。読み終わったら想いが溢れるからです。
 
今まで、ずっと、楽山の読書感想文には、読んだという自己顕示しか表れていません。粗筋さえ書いていません。把握できていないのではないでしょうか。それで平気なのです。自分を見ないから、気取っていられるのでしょう。パンツいっちょで演壇に上がっているようなものです。
 
 

結局、人は生存欲旺盛なのが一番なのかもしれない。共産主義であれ、資本主義であれ、他のどんな社会であれ、生きることを厭い、何事もすぐに面倒に感じてしまう質の者はやすやすと排除され、生きることに執着し、

 
それは、楽山のことです。楽山は「何事もすぐに面倒に感じて」書くことが、思いつきだけになります。ゆえに「やすやすと排除され」「生きること」だけに「執着し」・・読んだ自慢のような感想文を書いて、成し遂げた満悦気分に浸るのでしょう。暇人が、自分の暇を、読者の迷惑に変えてゆきます。
 
 

そのためには他を押し退けることも躊躇せず、厚顔無恥な者がよい位置を占めるものなのではなかろうか。このことはわざわざ歴史を調べずとも、バーゲンセールを見物すればすぐ分かる。生存競争に生き残り、いい暮らしをするためには、ガツガツ戦略最強である。

 
楽山は、訂正不能の自己愛のために、批判に対して不感不応となり、批判を無視して、先入観と偏見の決めつけだけで、自己満足してゆきます。書くことだけは、止めることが出来ません。今まで騙しおおせてきたことに満悦して、不毛の砂場から、ガツガツ貪ろうとするのです。
 
 

ちなみに本作は、あのカラフルな世界文学全集で読もうと思っていたのだが、何気なく入った本屋で集英社文庫のものを見つけたのでこちらで読むことにした次第である。アマゾンのレビューにある両者の翻訳の比較を読むと、自分の選択は間違っていなかったようで一安心だ。

 
文学全集と、単行本と、出版の違いで大きな違いがあるのでしょうか。楽山は、本を読んでも、その深みを読み取っていないと思います。それが、感想文の短さと、それで「間違っていなかった」と読んだ気になっている記事の満悦ぶりに表れているのです。
 
読み方が浅いから多くを感じず多くを書けないということを、楽山は感じないのです。気安く読書を済ませて、短くて通念的な言葉だけの浅い感想文を書いて、また、満悦するのでしょう。そして、評論家気取りで、一人前を気取って「一安心」などと根拠のない安楽を表しています。
 
 

ただ文学全集は解説が充実しているようなので、小説の内容を忘れないうちに、一応そちらも見ておくつもりではある。

 
「一応そちらも見ておくつもり」・・完全欲のために言葉だけ補足したのでしょうか。「一応」です。「見ておくつもり」・・楽山は、本を真剣に読むことが出来ません。言葉の表面だけを、安っぽい概念で眺めて、傍観者として、とても単純な言葉で、感想を述べたつもりになるのです。
 
実のあることを書けないのに、書けるという慢心から、書いたという自己満足に至る溝の中を、繰り返し往復して、ときにグルグル回って、出来たと満悦します。先入観だけの楽山の深みのない偏見からは、生きる糧は生まれません。楽山は生きているのではなく経過しているだけです。
 
 
ひどい目に遭ったという数か月の経験があるので、楽山との議論~コメントの遣り取りは禁忌です。とてつもなく無意味で耐えがたい徒労と疲労を与えてくる人です。つまり、意味のない脇道へ誘導して詭弁で話をどんどん逸らして疲れさせる技だけを持っています。理解力のない偽言論者です。
 
楽山は、話し合うことが出来ず、言いたいだけの人です。そうして、相手を疲れると "疲れたんじゃないですか" などという労わりの偽りの言葉を書いて、実は優越感に浸り、楽山には敵わないという先入観を相手の心に刷り込んできます。解決も合意も生まれないので、即、門前払いの対象です。
 
徹底して拒否で臨むべき対象です。そういうことを繰り返し書いてきましたが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、書くことをやめることが出来ないようです。つまり、楽山批判は、楽山を変えるためではなく、楽山に近づかないように、警戒を呼びかけるのが目的です。
 
 

     

          経過するだけの無分別
 
 
(2022年12月14日)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  経過と欠損
 
作られたが最後
壊されるまでの永い間
動くことを許されず
立ち続けなければならない像も
存在しながら滅びの跡を
欠けた骨格や
剥(は)がれた表(おもて)や
変色に残してゆくのに
あらゆる名の生命体が
生きながら残してゆく総ての
連続的に起こることは
連続して知られることも
連続して見られることもない
 
欠けてしまった
失せてしまった
変わってしまった
あるいは出来てしまったと
あるとき突然
出会(でくわ)して驚く
不可逆の深遠である
故に経過は欠損の上に成り立っている
逆に欠損は経過の上に成り立っている
不可避に消滅するまでの短い間
どこからともなく深遠である
 
 
  個と種
 
違う遺伝子を持ち
違う学習を経た
個はあくまで個であるから
理解し合えることはないだろう
 
同じ遺伝子と学習経過を
一部に持っている種は
あくまで種であるから
他の種との協力よりは親密に
協力し合うことはあり得るだろう
 
誤解を許容した上での話で
他の種との共存を肯定した上での話で
はるかにヒトより永い淘汰の歴史を持ち
一途(いちず)に子孫を残すことだけのために
強化された遺伝子を持っている他の種に
無謀な戦いを挑もうとしなければの話だが
 
 
  (抜粋)
 
ありもしない故郷を
久しく遠く離れた気分で
見聞きしながら歩く
とある田舎道で
通りすがりに男は突然
答のような迫力を聞く
 
うちゃ、なぁ~も知りまっしぇんとよ
 
ここにも守るべき秘密があり
何歳になっても
守ろうとして一所懸命だ
迷走の果てに辿り着いた路上で
愕然(がくぜん)とした男は
細い目を開けたまま動かず
音もなく
頭の天辺(てっぺん)から崩れてゆく
 
無数の欠片へ粒子へ粉塵へ
どこへ吹く風にか飛ばされ
掻き消えて漸(ようや)く
いつ終わるとも知れぬ
時間の広がりと奥行きを
短い永さのうちに
風の中で過ごすことになるのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省しない人は成長しない。つまり、楽山は、成長しない人です。ゆえに、無反省は、人間の性ではなく、人間をやめた人の性です。つまり、楽山のコメントは、自分の欠点を、詭弁で言い逃れしていることになります。どこに行っても、成り立ちません。即ち、言論する資格はありません。
 
楽山は、善きことを、自分のための学習と成長を、信じることを、何ひとつ実践していません。その有り様を、まるでそれが善きことであるかのように、言葉を浅はかにつないで、見せかけを捏造し、その評価を、自分の中だけで高めてゆくのでしょう。虚無へ向かう人格崩壊の、傍迷惑な袋小路の住人です。
 
 
 
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