ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

スルーの詭弁2

 
  スルーの詭弁2
 
   スルーする人、しない人。2019年06月11日
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41551426.html
   → http://mn266z.blog.jp/archives/19076330.html
   楽山のブログ、楽山日記(LD)の記事を改めて批判。
 
 
楽山は、気に入らないことは無視する、という自己中心カルトの、アドラー教を宣伝してきましたが、音楽家らしい人の記事で、センスが物を言う音楽と、節操が大事な宗教とを、同じように扱って、いったい何を言っているのでしょう。
 
スルーと言って、まともに見せかけても、人の意見を無視する楽山の独善は、最悪、最低です。
 
ツイッター見てたら、次のツイートが流れてきた。
>「批判はスルーすべし!」という考え方のようだ。
 
楽山は、自己肯定をもって、スルーする力が大事であるように言っています。しかし、お手本として挙げているのは、自分の才能に自信を持つことが必要なミュージシャン、ギタリストなのです。こんな常識はずれな言い分が通用すると思っている楽山は、異常です。
 
楽山は、軟派カルトであり、他者を無視する不感不応の自己正当化に、また詭弁を弄しています。楽山は、自分の宗教の才能に、芸術みたいに自信を持ってしまったのでしょうか。はっきり言って、これは、傲慢な自惚れ教カルトにしかならないのです。楽山は異常です。
 
宗教と信仰は、つまり、神を信じることは、才能ではありません。楽山が持たない心の問題です。楽山は、成り立たない自己正当化のために、詭弁と嘘しか言えないのです。
 

ここで、ハタと思い出したのは、
ケリーサイモンさんは批判には、
きっちり反論する人だったということ。

 
はっきり言えることは、楽山は、いかなる批判にも、「きっちり反論」したことがないということです。楽山が、ボンヤリ言語の婉曲と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかすのを、もはや、通用させてはいけません。
 
音楽や芸術の場合、感性の才能というのは、人によって質的にも違うのでしょう。自分の才能を疑っていては前に進めない分野だと思います。しかし、楽山のやっていることは、宗教そして信仰という公の義と議論のあるべきことです。少なくとも、節操や分別の必要なことなのです。
 
楽山の見当違いと的外れは甚だしいものです。宗教と信仰にも感性は必要ですが、それは、人並み外れていなくてもよいことです。むしろ、共感をもって、公共に向かって、自分の考えを発表するべきであり、人の意見を無視してよい分野ではないのです。
 
恐らく意図的なのでしょう。今までも、ボンヤリ言語で、他者を無視することを刷り込んできました。そして、批判者に対しては、嫌味を言って、保身しようとしてきたのです。楽山は、正面を向くことがありません。狡猾に企み、疲労物質をもたらしてきます。
 
宗教と信仰において、気に入らないことは無視してよい、などというアドラー教の信条は、語るべき何ものも持たない者の、言い逃れに過ぎません。それを宣伝していたのが、楽山です。その通りに、自らの罪業によることでも、気に入らないことを無視してきました。
 
その正当化に、またしても、ボンヤリ言語で、ごまかしながら、アーティスト・ミュージシャンをあげて、それと同じような自身の感性の世界を主張するとは、ナルシシズムも、ここまでくると、手段を選ぶとか題材を選ぶとかいう常識さえも失ってしまったようで、呆れます。
 
つまり、楽山には、文脈を考えて、文章に仕上げる知性と感性が、まるでない、あるいは、意図的に操作して、読者に刷り込もうとしているとしか思えません。体質のために知性も感性もどんどん鈍化してゆく楽山に引き合いに出されたほうが、いい迷惑でしょう。
 
>でも記事を読み直してみると、
>あんまりくだらん悪口は、スルーするとしてるかな。
>通報して終わりと。
>こうしてみると、やっぱり、スルー力って大事なんだな。
 
この辺が、芸術と音楽を悪用して、自分を同じ根拠に立っているかのように見せかける詭弁でしょう。楽山は、こういう企みに満ちた根っからの病質的虚言者です。
 
>ではどうしたらスルー力をみにつけられるかと考えてみると、
 
ここでは既にスルーすることが正しい?という前提になっています。音楽家の個人の必要で語られ、誰も認めてはいないのです。楽山は、このように、理由があってスルーすることと、総て無視することという違う意味を、表面的な類似によって同一視して、成り立たない詭弁を捏造します。
 
>どうも圧倒的な自己肯定力が要になってそうではある。
>あとは、世の中はそういうものだから、しょうがないという諦観かな。
 
楽山の圧倒的な自己肯定力は、人間とは思えない無節操で不感不応によるところの、他者を圧倒する傲慢な無視の力であります。楽山には、読む限り、圧倒的な、いかなる才能も見い出すことは出来ません。霊が分かるっぽいという霊能者気取りなどの、気取りばかりです。
 
芸術家や音楽家と同様の独自性を全く持たない楽山が、言葉だけ借りてくるのは、滑稽だが、人間関係においては最悪です。これで、気に入らないことは無視する、というアドラー教の信条をすり込んでくる人です。やむを得ない、しょうがない、という言い訳まで挟んでいます。悪質です。
 
>自己肯定と諦観って、
>正反対のもののような気がしないでもないけど、
>どっちも大切のようだ。
 
ここで、変な理屈からの感慨を述べて、楽山が言う自己肯定は、この場合、我執の自己正当化を大切と言っているのです。覚えておいてほしいです。楽山は、こういう人なのです。自分の都合しか考えない人です。楽山ブログは、手段を選ばない自己中宣伝ブログなのです。
 
自己肯定と諦観は、世の中の壁に当たると生まれやすいものですが、楽山は、誰の何の壁にも当たることなく、都合の悪いこと総てから逃げているだけです。したがって、自己肯定でも諦観でもなく、卑怯な遁走であります。
 
罪と非を認めず悔いることも改めることもしないシャロームや、荒らしでナルシシストの理屈倒れの易坊に、かなり共通しています。楽山を加えて、この3者には、同一人物による、危険な罠だらけの成りすましという疑惑があります。
 
正々堂々ということから正反対のところで、人を欺こうとする者は、自らが設けた罠に嵌って、ますます、その卑怯な詭弁と、暗示による悪魔的な優しさ気取りの欺きを増悪させてゆくようです。だんだん、本性を表し、恐ろしさを増してくる楽山です。
 
楽山、シャローム、易坊に、どうか近づかないでください。感性においても思慮においても、身の程も弁えず、引用の自己肯定を勘違いして、スルーという言葉で無視にすり替えて美化し、都合の悪いこと総てを無視し、性懲りもなく企んで書き続ける、という、とても怖い者たちです。
 
付き合うと、恐らく、なんとなく、楽山を肯定し続ける人がいるかもしれません。それは、人格を自分で破壊する結果になります。つまり、仲間になってからでは、遅いのです。それに、いかなることにも、楽山は、責任を負う気はありません。
 
楽山の壊れ具合に、お手本として出されたアーティストが、いい迷惑でしょう。楽山は、他者に対して、言い方だけ白々しい丁寧さですが、侮辱しているのと同じです。こういう記事を、ボンヤリ言語で、さらっと書いて、まともなつもりでいるのは、きわめて異常です。
 
人の迷惑を考えない楽山には、誰も近づかないでください。塵、ホコリ、汚れの類だと思って、それこそスルーしてください。関わって、得られるものも、与えられるものも、良きものは、何もありません。楽山ブログは嘘吐きブログと結論してよいと思います。
 
 

      f:id:stdsts:20210712235926p:plain

             嘘つき自己中
 
 
(2019年06月22日)
(2021年07月13日、再録+)
 
 
 
  暗鬼
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
 
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
 
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考になるかどうかは、私には分かりません。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
動画を見たけど、またもや他宗教の神々を低くして、エル・カンターレが一番偉いといってるようだ(笑)
午前9:07 · 2021年7月11日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1414013492231741444

 
「(笑)」うことしかできないようです。恐らく、真面目な批判など、したことがないのでしょう。こういう根性で、楽山は、キリスト教の神を否定したのですが、不真面目で、怠慢で、いい加減で、ゴシップ好きな者が、成長につながらない揶揄だけをしてきたに過ぎません。
 
自己中で、いちばん偉そうにしている、批判者気取り、宗教家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなのは、楽山です。ころころ変わるような揶揄には、どこにも真実に向き合う態度がありません。今も、まだ、人も神も下に見て、何か言えると思っている、醜態のピエロです。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
日本の悪いところばかりでなく、よいところも知ろう、日本らしさを大切にしよう、日本も主張すべきことは主張しようとかならまだしも、
HSは、日本が一番偉い、日本は他の国々よりずっと上だと公言して憚らないからヤバい。しかもその根拠は霊言だという…(笑)
午前9:16 · 2021年7月11日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1414015681385746434

 
楽山は、他者のことばかり言います。楽山は、自分を見ることが出来ません。楽山は、日本らしさも、人間らしさも、全く知らないで、人に教えようとします。人の言うことを聞く気のない楽山に、人に何かを教える資格も伝える資格もありません。だから「(笑)」うしかないのでしょう。
 
楽山は、自分が他の人々よりずっと上だと言い続けているようなものです。ゆえに、いつも、他者のことを笑っています。その結果として、人の言うことを聞いていません。霊が分かるっぽいつもりの子供時代からです。霊が分かる言っても、楽山は、人間が分からないままなのです。
 
楽山は、人の言うことを受け取る器を持っていないのです。もはや、オートマチックに、楽山の言うことの大方が、楽山に返ってゆくのですが、それに全然気づかない楽山です。人のことを言い、自分を見ないということの、持続的な報いが向かってゆく地獄の方向を表し続けています。
 
 
 
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楽山の悪用2


  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25292787.html
  を改めて批判。
 
 
キリスト者でもない楽山が、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 

「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。

 
楽山は、反キリストですから、「その通りだと思う」ことはないと思います。勝手に、懐疑という言葉で、いつもの短絡理路によって、我が意を得たりとばかり、言っているに過ぎません。ただ否定したいだけの楽山は、言葉の表面に反応していますが、児戯に過ぎません。
 
キリスト者の懐疑は、今までの楽山の記事に書かれたような低劣な短絡ではなく、もっと深く、もっと真剣なものです。そういう懐疑には、この世の必然があり、試練があり、むしろ目を背けることのほうが、罪深いと言えるでしょう。そこから、信仰は新しく成長するからです。
 
実に余計なお世話なのです。反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 

次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。

 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。楽山は、何も明らかにならず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を刷り込む輩です。
 

そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。

 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・嘘だと思います。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりませんが、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。99%も100%もありません。定量で表せるものでもなく、喩えられるものでもないです。
 
楽山は、自身の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。人間の信仰は、いつも、不完全、という自覚が必要です。
 

そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。

 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、1%の信じる心の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
今まで言ってきた嘘や詭弁を、チャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、総て、発言の断片だけの悪用であろうと思います。
 
ろくなことは書けないくせに、狙いが、反キリストであり、かつ、とても、卑しいからです。楽山の、無反省と無責任から他者の言葉を利用すれば説得力があるじゃろ・・という気安い企みに、だまされないようにしてください。信仰は、最終的に、神に評価をお任せします。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山の言は、大方、都合に合わせた芝居なので、信用するとひどい目に遭う、という性質のペテンであります。
 
信仰は有無であります。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、反省しない限り、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)に出会って、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。腐った性根は、それぞれの記事に表れてきました。シャロームは所在不明ですが、楽山は、今も、時々書いてきます。罪悪感と羞恥心がないからです。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25309964.html
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に、書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類です。
 
理路が全く成り立っていません。楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。
 
人のことなど言う資格の全くない人であり、そういう状況に、まるで、気づかない病者であります。いつまで、恥を重ね、罪を重ね、偽善を重ね、悪意に悪意を重ねたら気が済むのでしょう。他者の、特に有名人の言葉を悪用してまで、神を否定したいだけの人です。
 
楽山が認める信仰は、信じ過ぎるのもよくない、信じないのもよくない、という、とても、いい加減な、無理解な楽山の、腐った理路の中の、平板で実体のない粗暴な道徳律に過ぎません。しかも、そういう、ありふれた道徳さえ、楽山は守っておらず、嘘と詭弁を繰り返し書いてくるのです。
 

福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。

 
今度は、信仰を、自己催眠と言い出しました。楽山というカルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないまま、人に意見してきます。楽山に出会うこと自体が、不幸の始まりなのです。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性・性癖・悪意があります。ゆえに、この浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきました。
 
まさに、楽山は、我が強く、我欲・我執となり、いつまでも、いつまでも、自らの過ちを認めることなく、自分が「正しいと判断した自分は正しい」という循環に陥って、反省することなく「自分には本質を見抜く眼力がある」という妄想的確信から書き続ける亡者となっているのです。
 

自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、

 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、馬脚をあらわして、楽山の嫌らしさが増幅されてゆくだけなのです。しかし、恐らく、嘘です。楽山は、もはや、嘘を吐いて、自分を保つしかなくなっているのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習せず、感動経験のない、鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機で、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 

それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。

 
信仰は、思い込みではありません。思い込み信仰は、人間を破滅に導くでしょう。聖書において、救われた人々には、思い込みはなく、悲しい現実がありました。そういう心の危機において、キリストに出会っているのです。自分を、何か言える人と思い込んでいるのは、楽山です。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型生物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、ということでしかありません。
 
こちらとしては、楽山の、言い訳がましく、またしても、人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ、批判を貼りつけて否定してゆくしかない、という成り行きになっています。
 

自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。

 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の詭弁を平気で言い続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような楽山には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という、私が関わってきたところの、約2年以上の履歴が、積み重なってきました。もう、恐らく、楽山が、まともに戻る可能性は、絶望的ではないかと思っています。
 
楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。芝居好きの楽山と、シャロームは、キャラを変えていますが、同一人物の成りすましではないかという疑惑が続いています。
 
他者に頑張ってほしいと言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも、図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる精神の詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者に、一切、妥協してはならないのです。
 

そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。

 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、楽山の無反省と無責任に気づいた後、とんでもない人だと気づきました。もう、誰も、楽山に、だまされてはいけません。
 
楽山は、こちらの理路を混乱させて、じわじわと精神的な拷問のような疲労だけを与える人であり、何の実感もなく、字面のきれいごとを並べ、高慢によって増長し、経過と結果において、さらに情緒障害を来たして、気色の悪い芝居で欺いてくる口先だけのペテン師です。
 
 

      f:id:stdsts:20210711234754p:plain

              詭弁・欺瞞・誘導
 
 
(2020年07月01日)
(2021年07月12日、加筆して再録)
 
 
 
  楽な痛み
 
何もしない日
何かしている
楽しくはない
ぴりぴりと痛む
楽だが
気楽ではないこと
後頭部だろうか
ずっとぴりぴり
ピリオドが打てない
 
 
  失意
 
失意の意思を想う
外を見るための窓は
視野を四角に区切り制限している
その死角の向こうを
実は補って見ている外
 
失意の狭窄に補える
円(まど)かなる空と雲のような
意思があるなら 失意よ
もはや緩急はなく
寒暖は滅却され
沈めるために空を見たい
 
 
  病める「べき」
 
「べき」は頭が痛い
到達点や目標は気が遠くなりそうだ
苦痛にしかならない重荷だ
何の癒しにも励みにもならない
暇は腐るほどあって
そのまま腐らせている
「べき」にも無数のステップがある
今日のステップ
今のステップ
短く低い身近なステップ
暇は腐るほどある
それはよろしい
そのままを何か
読み書き
一章あるいは一節
一頁あるいは一行
祈り
小声あるいは内語
思いの丈(たけ)あるいは一言
「べき」のステップほんのちょっと踏んで
休んでいる
暇は腐るほどあって
大方腐らせている
 
(90年代か)
 
 
 
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楽山の人間離れ進行

 
  楽山の人間離れ進行
 
 神秘体験の初歩段階
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29757122.html
  を批判。
 
 
ジェイムスの本は、何度も取り上げて書いてくる楽山です。批判に対して、不感不応で、何も気にせずにいられて、あざ笑うように書いてこれる楽山の意地の悪さは、まさに、サディストの所業であります。人間らしい感じ方や表し方を失ってゆくプロセスでしょう。
 
ちょっとした不思議なことを、心霊と結びつけるのは、子供には、よくあることですが、いい年した大人が拘泥するのは、成長していないからでしょう。そういう生き方は、人間の繊細な心を損なってゆきます。その典型的な症例となる楽山です。
 

*気づき
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験の入口について書いてあったのでメモしておきたい。

神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.186)
 」
これはいわゆる「気づき」という感覚だろうか。「気づき」は、ものを考える人であれば誰でも経験はあるだろうし、これを神秘体験というのは大袈裟な気がしないでもない。
でもよく考えてみれば、これは口ではうまく説明できない不思議な感覚であるし、神秘体験と言われれば確かにその通りかもしれぬ。
ちなみにここでは、「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます、

 
自分を神秘体験者と言いたい自己顕示欲の強さが表れています。だから、気づきさえも、神秘だと言いたいのでしょう。霊能者気取りの安っぽい合理化・自己正当化です。宗教を、人間としての必要性から求めず、人生の問題として考えない者の習性~性癖~症状でしょう。
 
このような性癖で、宗教も信仰も考えておれば、魔術的で、一気に何でも単純に解決できるのが、宗教だ、信仰だ、そうならないキリスト教の神はいない、とでも言うつもりでしょうか。いったい、どれだけ、日常を、疎かにして、人間をやめてきたのだろうと思います。
 
「「神秘的経験」とは「神秘体験」のことだろうと解釈して読んでます」・・"的" が付くのと、付かないとの違いは、遠慮か、不確定かもしれませんが、楽山は、強迫的で、お気楽な偏見から、こだわっています。神秘とか霊とかいう言葉への盲信~依存症~中毒でしょう。
 

*既視感
同書では、デジャヴについても書いてあった。
神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前にここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。
(同上、p.188)

 
デジャブを、不思議だね・・で済ませずに、証拠であるかのように、不思議化して、神秘化してしまう者は、ついには、あらゆる現象に、神秘的な意味を付け加えるようになるでしょう。ただ、そこは、鉄格子の中かもしれません。
 
遠い遠い昔が身に迫ってくるとか、におってくるとかの、既視感デジャブというのは、精神症状としても書いてあることで、ゆえに精神病とまでは行かなくても、そういう感覚に神経を集中してゆくと、だんだん、正常な心から離れてゆく可能性はあるでしょう。
 
こういう考えに囚われるときには、気分転換が必要です。でないと、のめりこむように、異常心理と精神病理に嵌っていって、楽山みたいになってしまいます。そうなってしまったら、今、表れているように、人間として、おしまいになります。
 

これは誰もが知っている感覚だろうと思う。だからこそ、「既視感」という言葉もあるのだろう。
こうしてみると、神秘体験というものは、少なくともその初歩的な段階のものは、特別な人にしか経験できないものというわけではなく、誰もが経験し得るもの、またはすでに経験済みのものなのだろう。

 
正常人にも、たまに、人によってはある、という既視感デジャブ、という精神症状です。ということは、精神疾患には、多いのかもしれません。私も、たまに、経験することはあります。あまり、そこに、集中しないほうがよい、という感想を持っています。
 
そこに、神秘的な意味を貼りつけて、神秘、神秘、というほどのことかどうか、誰にも分かりません。楽山のように、決めつけて、我こそは、神秘体験者なり、特別なり・・と、書いてしまうのは、情けないほど、貧乏くさいことです。余裕のない、欲望の卑しさを感じます。
 
楽山は、自分は神秘の人、という印象を吹き込みたいのです。「初歩的な段階」を想定しているようです。このことからも、楽山は、いってしまった人なのでしょう。「誰もが経験し得るもの」から、神秘の世界、実際は、精神症状の世界に、楽山という病人が、仲間を求めています。
 

またもし神秘体験は一部の人に独占されるものではなく、多くの人々が経験し、または経験し得るものだとすれば、それを経験したからといってその者が霊的に特別な存在であるということを証明することにはならないものなのだろう。

 
既視感から、ここでは、霊的に特別ということを否定しているようですが、楽山は、子供のときから "霊が分かるっぽい" と書いていましたから、さらに、自分は、上を行っているということが言いたいのでしょうか。今の楽山の、擦り切れたような精神が、それを全否定しているのに。
 

自分はいまだに神秘体験と霊性の優劣を関連付けてしまう悪癖から抜けきれていないので注意したいと思う。

 
関連付けてしまう悪癖に注意しているなら、上のようなことは書かないはずです。楽山の意図は、真逆だと思います。心霊をネタにしたペテンらしくなってきました。客観的な注意力は、楽山にはないと思います。そのために、視野狭窄となり、あらゆる面での理解力を失っているのです。
 

*猛将パットン
蛇足ながら、思い出したことがあるので一言。
パットン将軍は自分は前世でも軍人だったと信じており、初来訪の土地であるにも関わらず、前世で来たことがあるのでよく知っているとして目的地までの道を間違わなかったという逸話をもっているが、ひょっとしたらこれも既視感の一種であり、その発展型なのだろうか。

 
心霊をネタにしたペテン師は、このように、既に死んで、詳しい体験を知りようのない人を、しかも有名人を、好きなように利用して、同類であるかのように扱い、褒め讃え、宣伝してゆくのです。その先には、誘導から洗脳が待っているかもしれません。注意、警戒してください。
 

さらにはパットン将軍は第二次大戦が終わってほどなく、交通事故に遭い、あっけなく世を去っている。それほどの大事故ではなく、他の当事者たちはみな無傷であったのに、パットン将軍だけが打ち所が悪く重症を負い亡くなったのである。まるで軍人として戦うために生まれ、その役目が済んだらすぐに天国に還ったでもいうように。
思えば、パットン将軍という人物とその生涯は不思議であり、実に神秘的である。

 
このように、どこまでも、神秘のほうに、話を進めてゆきます。有名人であろうとなかろうと、事故で亡くなったことへの共感より、神秘的な不思議話のほうを優先する人は、いずれ、死体の前で哀悼の意を表するのではなく、死体に愛着するようになるかもしれません。
 
楽山の書く文章が、楽山を表します。そして、楽山は、進行してゆくのです。楽山こそが、神秘的な人、不思議な人・・と言われたいのでしょう。このことのほうが、よっぽど、怖いと思います。キリスト教の天国とも、信仰者の人生とも、何の関係もないオカルト話です。
 
楽山は、今まで、宗教と信仰の言葉を、好きなように超常ホラー言葉の数々で、けがしてきました。概念が、すべて、人間からも、人間の宗教と信仰からも、ズレている人です。しかも、そのことに気づかない鈍感でもあります。高等感情鈍麻と言います。超常趣味というより超常中毒です。
 
短い人生を、地上の人間として生きずに、いつも、超常世界の話をしますが、その分、人間性が壊れてゆきます。病識がありません。善悪・正邪の区別がつきません。罪とか恥とかが分かっていません。無視と忍耐を混同して、記事を書き続けています。どんどん的を外れてゆくのです。
 
気をつけてください。楽山を受け入れると、学習と成長が止まります。知性と感性の鈍麻と、先入観と偏見の固着が進行します。私は、楽山は柔和だと勘違いして、コメントの遣り取りをしていた数か月間、そうでした。子供じみた変質者に過ぎません。もはや誰もだまされてはいけません。
 
 

f:id:stdsts:20210710234539p:plain

                 変質の足跡
 
 
(2021年07月11日)
 
 
 
  正気への警告
 
夜見る夢も昼見る夢も
ただれた眼で見ている
おぼろげな幻想に過ぎないが
よい夢も悪い夢もあるのに
目覚めてみれば
現実も幻想に満ちている
夢とは違って
幻滅という必然が待っているから
よい幻想はほとんどない
さらなる幻想に逃げようとすれば
死は幻想を保証しないのだから
正気を失うしかない
 
耐え難い重荷が限度を超えたとき
正気を失うということが
肉体を守るための
防衛反応に思えてならないことがある
 
例えば鏡に映る顔が
生き生きした何ものもなくて
気持ちと全然一致していないとき
心神は残る力を振り絞って
限界に注意を喚起し警告を発している
鬱(うつ)による意欲低下は
これ以上の無理は無理と
心身を休ませるため
さらに感情の麻痺や鈍麻は
重さを感じなくて済むように?
 
それがわずかに残された
正気の辺縁をめぐる
ただれた眼の日常となって久しい
 
(90年代か?)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考にもなるかどうか分かりません。
 
 
 
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楽山の嘘2

 
  楽山の嘘2
 
 『大学4年間の宗教学が10時間でざっと学べる』島薗進
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25363963.html
  を改めて批判。
 
 
やはり、楽山は、書いてきます。書かずにおれない自己愛と自己中と、物事や事態を感じ取れない体質だからでしょう。何故なら、その体質のうちに、他者無視という絶対自己中心の体質を持っているからであり、既に、成長なき慢心に住んでいて、実際は、自己崩壊を待っているだけなのです。
 
しかし、それゆえに、楽山は、修正なき反省は成り立たない、という症例として、自らをさらしてゆくことになります。反省がなく学習がなく、成長しない成り行きで、同じことを言い続ける一方通行を歩み続ける楽山です。
 

本書ではいわゆる世界宗教や日本の宗教史、近現代における宗教の置かれた状況、課題などについて解説されている。概論的なものなので個々の問題についてはあまり深く掘り下げてはいないが、特定の宗教だけではなく、宗教全体を把握するには読みやすくてよい本だ。文章だけでなく、図、イラストも多用されているので、記憶にも残りやすい。
ちなみに自分は本書を読んで、宗教に関する知識の不足を実感させられた。本書で説明されているのは、宗教の基礎の基礎であろうに、それさえ知らないことばかりだというのには凹まないではいられない。とほほ。

 
何ごとも「深く掘り下げてはいない」のが、楽山の特徴です。楽をしたい、快感を得たい、心優しい人ですねと褒められたい、そのために嘘を吐く、私が、偽の反省として名付けた、トホホ言語の「凹まないではいられない」です。弱みを見せたように見せかける楽山の印象操作です。
 
何故なら、今までの、得意げな、自慢げな、キリスト教否定の言は、間違っていたこと総ての反省と修正の言なしには、いかなる立派なことを言ったつもりでも、嘘臭さ・・だけしか伝わってこないために成り立つことはなく、虚妄のうちに死へ向かうだけだからです。
 
つまり、このような楽山の言い逃れの詭弁は今に始まったことではなく、自分は心構えが出来ている人、という印象を、表面的な言辞をもって、後付けで吹き込もうとする印象操作として続いています。
 
今さら、反省めいた発言だけしても、長い無反省の履歴が否定しているのです。その時その場で、都合の良い方向に持っていこうとする楽山の自己正当化が、刹那的に続くだけで、恐らく、何を言ったかの記憶もなく、エサを求める小動物の所業になっています。
 

でもおかげで学習意欲を掻き立てられたのはよかった。自分は年を取って知識欲は減退し、向学心も枯れてしまった気はしていたのだが、そういうわけでもなかったようだ。これはうれしい発見ではある。
とりあえずは、前々から気づいていたことではあるが、本書を読んで自分は神道など日本の宗教についての知識が足りないことがよく分かったので、その方面を意識的に調べてみるつもり。

 
人の言うことを無視してきた前歴と、著名人らしい人の言葉から都合の良い言葉を自己正当化に利用してきた前歴は、消えようもなく、読まれるたびに、語られるたびに、楽山の怠慢と自己中と性根の狡さを物語ります。
 
今さら、「宗教に関する知識の不足を実感」「学習意欲を掻き立てられ」などと書いてくるのは、楽山が、反省もするし学習意欲もある自分、という方向に印象付けるためなのです。それは、今までの経過が、ことごとく否定しているのです。
 
人間の性根つまり体質は、そんなに軽く改めることは出来ないだろうと思います。つまり、楽山は、これから何を主張するにしても、言いたい放題というわけにはいかなくなるということです。前後関係を気にしない楽山は、それも、気にしないでしょうけれど。
 
自分を作為的に美化することは、自分の首を絞めることです。
 
修正なき反省のきれいごとは通用しないのだから、楽山は、反省・学習が嘘ならば、どんどん、荷が重くなってゆく、ということです。
 
嘘の前提の上に、真実を積むことは出来ないのです。
 
 
 知的正直さについて(『嘘をつくなかれ』大川隆法著)
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25364037.html
  を改めて批判。
 
 
楽山は、HSを批判していたようですが、大川隆法の本を出してきました。それで、あとのほうで、閉じてしまったと書いていますが、批判するのかと思ったら、そうでもないようです。その段階で、記事を書いて公開するには不十分だと考えないのでしょうか。
 
つまり、楽山にとって、宗教とは、その程度のものだということでしょう。万事において、いい加減で、自分勝手な楽山です。自分が書いたのだから、公開しても大丈夫と思うところは、自己愛性人格障害NPDらいいと言うべきか。

 
それとも、以前から、白々しい嘘を吐いてきた楽山です。挑発的なことを言って、疲労させ、イライラさせるだけが目的で、結局、笑いたいのでしょうか。
 
学習障害というより、学習する気がない、勉強大嫌い、都合の良い言葉だけ漁っている、我執だけが物凄いために、書くことを止めない、だまし方を、次から次に練ってくる、それが楽山だと、思っています。1年余り、記事を読み、批判した経験からです。
 

先日、大型書店に立ち寄ったついでに、アンチHS界隈で話題になっていた『嘘をつくなかれ』をチラ見してみたら、知的正直についての説明で、試験でカンニングしてはいけないとか、問題集の回答をみてはいけないとか、基礎からきちんと勉強しようとか、そういう学校の勉強法のことばかり説明されていたので驚いた。

 
正直さに、知的も情的もないと思います。難しいことはありません。楽山に対しては、ただ、嘘を吐くなかれ、ということだけです。つまり、楽山は、自ら賛同した意見を、自ら裏切ってきた、ということです。嘘を吐くのはよかろうと思うのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いてきたのに、当然の勉強と学習について、何を、驚いているのでしょう。その正直さを、楽山は、一度も、身につけたことがありません。楽山にとって都合の良い、自分に従え、自分を尊べ、他者を無視しろ、他者にかまうな、というような内容を期待していたのでしょうか。
 

自分は、知的正直とは、自分の心に正直になり、分かるものは分かる、分からないものは分からないとすればよいのであり、分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふりをする必要はないということだと思っていた。

 
正直とは、自分の言いたい放題ではないということです。書いていることとは逆に、楽山は、分からないものを分からないと言わずに、分かっている前提で語り、かつ、人の意見も批判も受け取らずに、ごまかしのボンヤリ言語と詭弁で、我欲の自己顕示だけを書き続けています。
 
「分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふり」をしてきたのは、まさに、楽山その人であります。短絡した理路、部分で全体を語る、全体のおおまかなことを個別に当てはめる、意味の似て非なる言葉を混同して自己正当化をする、などが、楽山の履歴として残っています。
 
その証拠に、楽山は、批判に対して、一度も、反論も弁明も成り立ったことがありません。それで、同じことを、文章の形だけ変えて、まともに見せかけながら、繰り返すしかなくなっているのです。
 
こういう人の言うことを真に受けていると、真実は、うすぼんやりとした霧の中に隠れてしまい、否定も肯定もせずに、感動なしに、なんとなく受け取ることになります。それが、楽山特有のボンヤリ言語による、意識されにくいところの、人格破壊なのです。
 

たとえ世間的にはどんなに高く評価されており、名著とされているものであっても、その良さが分からなかったら分からないとし、世間的にはさして注目されていない雑書の類であっても自分は価値があると思うなら価値があるとするなど。

 
分からないと言わずに、極めて拙劣な知識と思考で、表面的に肯定するか、逆に否定してきたのが、楽山です。しかも、その前提になっているのは、楽山の頭の中の皮相な概念であり、とても、根拠になどならないことです。つまり、楽山の、自分勝手なサディスト宣言になっています。
 
つまり、楽山は、自分の自己顕示欲の価値観を反省しないばかりか、その欲に従う欲望への、信じ込告白をしているのです。自分の邪悪な欲求だけで動いているのは、悪魔です。つまり、楽山は、悪魔への信仰告白をしています。
 
例えば、神がいるなら悪があるのはおかしいと、楽山は言いますが、真実は逆で、神への信仰は、むしろ、楽山のような者からの悪と偽善に、苦しめられたところから、自らの不完全と非力を知って、救いとして求められてゆくものです。
 

でも本書では知的正直について語りながらも、こういうことには触れられず、学校の勉強の話ばかり…。これには唖然としてしまい本書を読み続けることができず中途で閉じてしまったのであるが、はたして本書の後半では勉強法だけでなく、自分の気持ちを偽らないことについても説明されているのだろうか。どうだろう。いずれ再チャレして、どうなっているか確かめるつもりではあるが、大川隆法と自分とでは、渡部昇一の『知的生活の方法』という同じ本を読んでも、その理解にはこれだけ違いがあるというのは面白いことだなと思う。

 
何が面白いのでしょう。結局、HS批判にも何にもならない記事を書いたということです。何も、まとまらない、これが、楽山の、思想?なのでしょう。誰のためにもならず、生きるヒントにもならず、散逸し霧散してゆく楽山の妄想に、誰も付き合わないことを、祈り願っています。
 
楽山は、恐らく、勉強が大嫌いなのでしょう。殆ど根拠もなく「自分の気持ちを偽らないこと」を、他者の意見を無視して我を張ることの正当化に置き換えて、宗教についても何も本質を知らずに、訂正不能に妄想的に確信して書いてきたのです。
 
その分、平気で、人を無視してきました。人に嘘を吐いてきました。人に詭弁とボンヤリ言語で刷り込みをしてきました。楽山が言っていることは、自分の身勝手な自尊過大に従って人を、余計なもののように無視することでしかありません。
 
根っから、虚偽であり、嘘であり、罪悪感がなく、だます者であるからこそ、詭弁の誘導を2年以上してきて、2年以上批判されてきて、なお、今も、平気で、書き続けることが出来るのです。恥ずかしいという感情がないのです。
 
訂正不能の妄言には、成長可能な批判を当てなくてはいけません。
 
言葉を裏切る者は、結局、言葉に裏切られるのです。
 
 

      f:id:stdsts:20210709234340p:plain

               裏切りに集うもの
 
 
(2020年07月04日)
(2021年07月10日、再録+、同日一部修正)
 
 
 
  裏切り
 
肌と肌は
合わせられた汗が乾くように
いつか離れてゆくだろう
残されて冷めた皮膚の下に
毒々しい鮮血の筋肉を
ときおり凍らせ
ときおり焼きながら滅ぼすまで
 
影と影は
互いに召されたように遠く
いつか盲信のように
沈黙の厚い衣を纏(まと)い
すでに独りであることさえ
忘れながら踞(うずくま)るだろう
影は一滴の黒い雫(しずく)を落とすが
それは何処にも到達しない
もはや土に帰るよりも先に葬られ
薄れゆく皮肉である
 
 
  冬の生殖
 
胸は吹き抜けの希望に満ちている
くまなく暖めるのは至難の業(わざ)だ
腹は吹き溜まりの欲望に満ちている
ほどよく排泄しないと痼(しこり)になる
頭は吹きさらしの妄念に満ちている
直しても整えても破裂し続ける炎症だ
飛んでけ飛んでけ
消えるも加わるも風の生殖だ
枯(から)びた指南の技(わざ)だ
 
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、参考にもなるかどうか分かりません。
 
 
 
  理由+
 
 
私は、宗教と信仰というものを、自分が、生きられるか生きられないか、という考え方をするしかない人です。上手く生きるかどうかは、二の次です。ご利益などは、私の思いにおいては、圏外です。
 
しかし、巷の宗教、特にカルトの話を聞くと、上手に生きる、楽しく生きる、完全になる、何らかの利益を得る、満足する、というものばかりのようです。
 
上手には生きられません、楽しいばかりではありません、人間は不完全です、ご利益など、満足など、無理です、というふうにしか見えないのが、私が見る世界です。自分の心を見れば、悔いることや、嫌なことのほうが、より多く、思い出されるからです。内にも外にも。
 
それを耐えて生きるには、生き甲斐というより、むしろ、生きる理由が必要です。なぜ、悲しかったり苦しかったりの人生を、生きることに耐えなければいけないのでしょうと、仰ぐところに、私の場合、神、そして、キリストがいる、という成り行きであります。
 
そのことを無視することは出来ません。そこに、現実と、信仰の、交差点があります。
 
楽山が言うような超常と空想の話は、全く信仰にも反信仰にも根拠を持ちません。
 
(2020年07月8日の私の記事の一部を再録+)
 
 
 
 楽山と思われる"taka"サイトですが
 

taka
@taka84156681
·7月4日
物申す系YouTuberは「必ずしも物が言えるとは言えないが、いかにも自分は何でも言える風に見せる」これがその本質だと思う。メディアに出てる人はテレビだろうがネットだろうが見せ方が大事なんだと思った。
午後3:31 · 2021年7月4日·Twitter for Android
https://twitter.com/taka84156681/status/1411573383091814412

 
インテリ気取りで、「いかにも自分は何でも言える風に見せる」のが、楽山なのですが、本人だけが気づかないままなのです。楽山の言は、理路は整っておらず、賛否両方言って一貫性もなく、共感などの情性は欠如して、いっさいが、何の参考にもなりません。
 
なのに、しつこく書いて、本質を語ったつもりになるのです。そして、見せ方が大事などと言いますが、本質が嘘と詭弁しかない楽山には、見せ方は、だまし方と同じです。楽山には、Youtuberのことなど、言う資格はないのです。我が身を見ない者の、恐ろしいまでの、迷惑と惨劇です。
 
 
 
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不毛な楽山

 
  不毛な楽山
 
 不毛な議論からの卒業
 (マグマリのブログを見て思ったこと)
 2021年07月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29731274.html
 
 
何処に助けを求めているのでしょう。嘘は嘘を呼んでいるようです。
 

*愛と平和
 マリア氏のブログを見たら、こんな記事があった。

・人間だけが|マグマリのブログ
人間だけが、信じてる宗教宗派の違いで
排他して血を流す。
神様は、そんなこと願っていないのに。
 」

 
誰か血を流したのでしょうか。歴史のことを言っているのでしょうか。楽山という神も信仰も知らない人が、嘘を吐いて、今日も、人をだまそうとしています。宗教と信仰を学びたい人は、先ず、楽山から、完全に離れてください。
 


・人が、幸せになるには、、|マグマリのブログ
人が、幸せになるには、、、
家族や、周りとの愛と調和が必要です、、。 」
 」

 
反キリスト・反宗教の詭弁屋と、調和は存在しません。楽山は、どこまでも、追及され、神とも、宗教とも、信仰とも、人間とも、縁のない孤独な偽善者です。病質の、異常人格です。百害あって一利なしと言っていい人です。
 
愛と調和、当たり前だがそうはいかないという類です。こういうきれいごとを言う人には、気をつけたほうがよいという教訓になるでしょう。つまり、きれいごとの詭弁でごまかすのが、楽山の体質であり、習性であり、それだけしか出来ないで、満悦するような低劣な人格なのです。
 

これは、人を裁くより、愛と平和をとるということかな。
自分の場合は、議論に熱心でなくなったのは、一言で言えば面倒くさいということなのだが、それと比べたらマリア氏はずっと宗教的な考え方をしてるようだ。

 
マグマリとは、自称マグダラマリアのことだろうか。だとすれば、キリスト信仰者ではなく、逆らうと豹変して「プププ」とか「けろっ」とか、変な擬音語か擬態語のようなことを書いてくる怒りんぼカルトだと判断しています。楽山の味方をして、ますます愚かになりたいのだろうか。
 
宗教について話すのを面倒臭いと言っている時点で、楽山はアウトなのです。興味がなくなったからやめるのは、宗教も信仰も持っていないことを表しています。そのくせ、いちゃもんばかり言っているのだから、信仰を舐め続けてきた責任は、どこまでも追及されるでしょう。
 

*不毛な議論からの卒業
「議論は面倒くさい」では格好がつかないので、一応、自分が議論に冷めてしまった理由を書いておくと、それは次の通りだ。
有意義な議論は、数度のやり取りで終わることがほとんどだ。

 
数度の遣り取りで終わるなどということはありません。真実の追求に終わりはないのです。また、都合のよい、見た目、良さそうなことを書いて、己の罪業を、正当化しようとしている楽山です。興が冷めたら止めて掘り下げない軽薄さなら、議論など、最初からするなということです。
 

もし議論が長引くなら(批判・反論が止められないなら)…それは相手に腹を立て、感情的になっている証拠である。これではまともな対話が成立するわけもない。早々に切り上げるのが吉。

 
楽山が、こちらを怒らせていることを、あっさり除外している楽山。これが、楽山の詭弁です。自分に向けられそうなことを相手に向けてきます。まともな対話など、楽山相手に成り立つことはないのです。楽山は、社会の敵、自己愛性人格障害サイコパスだから。
 

思想宗教の正しさは客観的に事実確認することはできない。だから議論をいくら続けても決着がつくこともない。

 
著しく、人道を外れている者には、死ぬまで、批判が続いても、おかしくはないのです。宗教の正しさを事実をもって客観的に確認することは出来ないと言う前に、楽山は、まともな議論をしたことなどないのです。詭弁で、信仰をおとしめてくるだけです。ゆえに、楽山は、どこまでも外道。
 

人にはそれぞれ個性があり環境も違う。必要とする思想宗教もそれぞれ異なる。自分からみて間違った思想宗教にみえても、それによって救われる人もいる。

 
個性の違いと、宗教の違いを、混同する詭弁です。神に対する最低限の節操というものがあります。楽山には、それが無いのに、キリスト教と信仰を否定して、改めないのだから、宗教者・信仰者からも、全否定されるべきであり、救われる云々ではないです。
 

自分は完全ではない。間違うこともある。だから自分の意見を他に強要することはできない。自分は自分の意見を述べるだけだ。それに賛同するかしないかは各人の自由である。

 
不完全を、誰よりも、知らないのが、楽山です。そして、訂正不能に、宗教と信仰への侮辱をしてきたのです。意見を述べるなら責任を持つべきです。楽山は、好きなように言って、責任を負わず、反省もしない非常識の、人でなしです。つまり、人格も能力も劣悪、あるいは、非人間です。
 
「賛同するかしないかは各人の自由」・・当たり前のことです。決して楽山には賛同しないから、おかしいことばかり言う人、楽山を、批判しているわけです。こっちの当たり前を、楽山は、分かっていないで自由云々と言っていること自体が、楽山が欠陥人間である証拠なのです。
 

人が人を導こうなんておこがましい。それは神様の御心によるものだ。
人生は短い。不毛な議論をしている暇はない。

 
楽山は、人を導くのではなく、嘘と詭弁を、人に刷り込み、破壊しようとする者です。今さらの嘘っぱちの言い逃れにだまされてはいけません。楽山を、決して、許してはなりません。今さら、神の御心などと、体のいいことを言っても無駄です。他者の人生を不毛に導いているのが楽山です。
 
楽山は悪魔性と書きました。実に、長い間、成り立たない悪口を、繰り言のように、繰り返した楽山ですから、完全に黙るまで、批判は続くでしょう。なお、楽山は、すごい暇人だと思います。楽山のような人に成り立つ仕事は、殆どないからです。
 

もし重要な異論反論をもっており、そのこたえを欲しているなら、相手に直接言わないではいられないものだ。もしそうしないならそれはさほど重要な話ではないか、相手に面と向かってはいえない悪口にすぎないのだろう。それならいちいちとりあう必要もあるまい。

 
何が重要かどうか、信仰者でもなく言論者でもない、心なきペテン師の楽山に、分かりはしません。また、楽山の自己愛からの思い上がりの発言が出ています。さらに、こちらは、楽山と話し合いたいわけではありません。一途に、ネットの言論から、早く消えてくださいと言っています。
 
決して、楽山と、直接の遣り取りをしてはいけません。人格と精神を破壊されるからです。楽山の悪魔性を、人間扱いしてはいけないのです。楽山からは、永遠に、縁を切ってください。楽山は、根腐れの、すでに破壊された異常人格です。
 

その他いろいろ。
こういう考え方は、「人を裁くより、愛を選べ」という思想からすると、あまりにも現世的にすぎるようではあるが、自分はこれによって思想宗教に関する議論に熱中することはなくなった次第である。

 
真っ赤な嘘です。楽山には、高等感情、即ち、愛、共感、罪悪感、羞恥心、謙虚さ、などが微塵もないことが、今まで表れてきました。楽山は、いつも、ニヤニヤ笑って、口先三寸で、どうとでもなると、高を括っているような、とても傲慢なペテン師です。決して楽山に近づいてはいけません。
 
既に2年以上批判しています。楽山は、批判に何も答えられないのに、言うことだけは止めない。こういう症状は、現実検討能力が欠如していると言います。だから、楽山は、何事も、はっきり言えなくて、それを、柔和みたいに飾ってくるだけの偽善者です。主張にも人格にも軸がないのです。
 
楽山の、あたかも、議論できるかのような、インテリ芝居、今日も全開です。「思想宗教に関する議論に熱中することはなく」なって、「愛を選」ぶなら、とうに反省しているはずです。高等感情の中に、愛があります、共感があります。楽山には、まるで無いものです。
 
前に、楽山は、殴られるだろうと書いたことがあります。楽山は、どこにも通用しない人です。エスカレートすると、結局、楽山は、殺すか殺されるか、犯罪者か、同情されない被害者になるでしょう。世の中には、乱暴でキレやすい人が、いっぱい、いますから。
 
ゆえに、誰も、楽山に近づいてはいけません。精神衛生を考えて、身を守りましょう。楽山の味方などと思われてはたまりません。人間らしい節操と情感を、まるで持っていない楽山、下手に議論仲間などと思われてはいけません。とばっちりは、ごめんです。今回は、以上、アンチ楽山でした。
 
 

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               まさに不毛の人
 
 
(2021年07月09日)

(2021年07月10日、若干修正)

 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
(90年代か)
 
 
 
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だだもれ楽山

 
  だだもれ楽山
 
 『吉田松陰留魂録』紀平正美著
 2021年07月07日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/29719726.html
 
 
聖書もろくに読まないし、曲解しか出来ないのに、やはりいつものように、有名人の書いたことを、またいつものように、都合のよいところだけ引用して、こんな本も読んだんだぞ・・と自慢してくる読書家気取りしかなれず、ついに、大事なことだけは学ばずに、凝り固まってゆくのでしょう。
 

積読本発掘
本書はいつどこで購入したのかは覚えてないのだが、我家の積読コーナーで見つけたので引っ張り出してみた。大きさは文庫サイズで、本文と巻末の付録を合わせても143頁の小さな本である。前半は松陰の生涯とその時代についての説明、後半は留魂録とその註釈という構成となっている。奥付によると、昭和18年第7刷(初版昭和15年)とある。
全体を通読してみたところ、自分は次の三点に強く興味をひかれた。

 
楽山の「興味をひかれた」というのは、都合がよかったということです。公平に中立に読み取っていないことは、本の記事の漁り方、その感想の書き方に、哀れなほど、滲み出てきたのです。それで、文章を書くことが面倒になっているのでしょうか。
 
そして、写真を出すということは、読んで自分で感想文を書くのが面倒くさいからでしょう。ほれ、証拠の写真じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。見たという写真と、読んだという文章が、まるで、一致してこなかった楽山の怠慢と欠陥が、同時に表れています。
 

*松陰とイエス
まず一つ目は松陰とイエスとを並べて論じているくだりである。これは意外な組み合わせにも思えるが、一読してみるとたしかにこういう見方も可能かもしれぬ。
DSCN2974 松陰とイエス

 
「たしかにこういう見方も可能かもしれぬ」・・楽山の、いい加減な心性がむき出しになります。「たしかに」で、どうして、「かもしれぬ」なのでしょう。写真を出して、証拠あるから嘘じゃないと言うつもりなら、写真だけ出して済ませるという無理解と作文嫌いが出てしまいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 (マタイ27:46、新約聖書
 
神と人の関係において、人は、神に見捨てられたかのように死んでゆく、という預言かもしれず、また、それ以上に、苦難と悲しみの、これ以上ない共感を、キリストが、自らの心と体で、示している聖句であります。
 

天皇
二つ目は天皇に随順することについての記述である。自分にはよく分からぬ論理ではあるが、考え方の筋道はどうにかして理解したいとは思う。
DSCN2975 天皇

 
「よく分からぬ論理」と書きながら「どうにかして理解したいとは思う」と書いて、どう理解したのでしょう。また、再度、熟読するつもりでしょうか、積読処理だから、違うと思います。できない・しないことを、まともに見せかける体質が、ガス漏れしているのです。だから、臭い。
 

*至誠と言葉
三つ目は「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)」という言葉である。松陰はこの言葉に突き動かされてあのような生涯を送ったのだとすると、言葉というものはやはり非常に大きな力を持っているということだろう。

 
「言葉というものはやはり非常に大きな力を持っている」ということが要旨でしょうか?・・違うと思います。言うだけではなく、行動することの大切さを述べているのではないでしょうか。なのに、言葉のほうを取るのでしょうか。ズレまくってはいないでしょうか。
 

残念なことに、自分の言葉はどうしようもないほど軽いのではあるが、今後はもっと言葉を大切にしたいと思う。また前に読書を中断したままになっている『講孟箚記』ももう一度はじめから読み返してみたい。

 
「自分の言葉はどうしようもないほど軽い」「もっと言葉を大切にしたい」・・おかしなところを、きれいごとでごまかす、という楽山の、いい加減な筆致と体質と人生が、だだ漏れしています。楽山の自己愛性・自己中体質では、何度読んでも一緒だろうと思います。
 
このように、本から、都合のよい文言を引っ張り出して、自分に都合のよいように、利用~悪用する体質であることは今までに明らかになっていますから、今後も、嘘八百の詭弁と自分飾りが続くだろうと思います。
 
書いて、批判されて、また書いて、また滑る楽山です。こういう生業を、恐らく、一生続けることになるのでしょう。しかも、それを、丁寧語で、言いふらして、ある程度、受け入れられてきたようですから、体質的な災いの恐ろしさを思います。
 
自分で書いて自分で矛盾を深める、言い訳しようとして失言を重ねる、こういうことは、ある程度、経験している人もいるだろうとは思います。私もそうです。問題なのは、楽山において、それが常態で、矛盾や失言を気にする心が無いのです。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 

     f:id:stdsts:20210707234632p:plain

                 だだ漏れ
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 本当のことは言われたくない?(信者が逆ギレする理由)
 2021年07月07日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10157620.html
 
楽山はこの記事をツイッターで宣伝していますが・・
https://twitter.com/komo266/status/1412525692760125443
どこまで嘘が通用すると思っているのでしょう。
批判されることを、相手の逆切れだと罵りたいのでしょうか。
 
 
楽山は、都合のいいこと以外、何も思い出さない人です。楽山は、例えば信仰など、本当のこと、即ち、真実を、何一つ理解できず、ごまかすために、嘘を吐き、詭弁で通そうとする人です。世辞と空想が大好きで、本当のことを、いちばん、言われたくないのが、楽山です。
 

*思い出した
前記事を書きながら、思い出したことがあるのでメモしとく。
*一つ目
もう大分前のことになるが、宏洋氏が「HSでは何でも大川隆法と同じに考えなければならない」という主旨の批判をしたときに、HSはそんなことはないと猛反論していたのだった。「HSは自由な団体だから、そういう全体主義のようなことはしない」云々と。
HSは常日頃から、大川隆法の考えに自らを合わせるべきことを繰り返し説いているのに、それをそのまま言われたら激しい拒否反応を起こしたわけである。

 
楽山とは、決して自由な議論は成り立ちません。徹底した利己主義・自己中心です。人のことを言えば、同じことを、自分が言われることを、全く理解しない体質的欠陥者です。霊能者気取りの、のぼせ感覚で、独裁を夢想~妄想しているのかもしれません。丁寧語にだまされないでください。
 

*二つ目
また先日はツイッター上にて、アンチ側が「信者は大川隆法を絶対視している」と指摘した際に、信者側からそんなことはないという猛抗議があり、プチ炎上したのだった。
いつもいつも、「大川隆法は正しい、異論は認めない」という類の発言を繰り返しているにもかかわらず、大川隆法を絶対視していると言われたら感情的になる信者が続出したのだ。

 
いつもいつも、物わかりのよさそうな言い方をしながら、疑問・批判を向けたら、途端に、被害者面をして、さらに無視してくるのが楽山です。批判者に対しては、悪口を返すか、無視してきます。どちらにしても、対話が全く成り立ちません。わがままと怨念だけで出来ているような人です。
 
反対を言い、賛成を言って、断定していないから責任はない、という言い分でした。反対したら反対した責任が、賛成したら賛成した責任が付いてくることさえ分かっていないのです。駄々をこねる小学生レベルですから、話し合おうなどとは思わないでください。精神衛生を害されます。
 

*逆ギレの理由
このあたりをみると、HSとその信者は鏡を見ないのかなと疑問に思うし、もしかしたら内心では自分たちの信仰のあり方はどこかおかしいと薄々気づきつつもそれを認められず抑圧しようとしているから、そのことを明確な言葉で指摘されるのが嫌なのかもしれないとも思えてくる。的外れな批判には失笑するだけで腹を立てることはなくとも、的確な批判で図星を指されたときは大きく動揺させられ激怒するのはよくあることなので…。

 
楽山が、いかなる批判にも反応しないのは、高等感情がないのだろうと思います。つまり、罪悪感や羞恥心などがないのでしょう。だから、何か言っても、聞かなかったことに出来るのです。自己愛性人格障害だと思います。真面目に言ったこと、楽山は笑ってると思ったほうがよいです。
 
賛同意見は、中身ではなく、賛同だから歓迎します。人間としての深みがなく、自己顕示欲に忠実で、そこからの、無反省・無責任が、密着・固着しています。この男、何を言っても無駄、何を聞いても無駄、ということを少しでも周知するために批判を続けています。
 

お節介で申し訳ないが、上の批判にキーッとなる信者さんは、この点についてよく考えてみても損はあるまいと思う。

 
このように、アドバイスをしたがります。自分は、心配ない人で、分かっている人で、君らの上にいるのですアピールをしてきます。同じ地平に立つことのできない、思い上がりがとても醜い、哀れな、病的ナルシストなのです。よく読めば、文章は拙劣で、言い放って終わりとなります。
 
上から忠告することが、楽山にとって唯一の快感なので、「お節介で申し訳ない」などとは、全く思っていません。中身の伴わない世辞を、真に受けないでください。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、すべて、気取りだけで出来ている人です。
 
こういう楽山に対しては、楽山が人の言うことを無視するように、こちらも、批判者以外は、楽山を徹底して否定し無視するしかないのです。中身のあることは、いっさい言えない人ですから、一人前以上だと独り思い込んでいる孤独で哀れな人が、また言ってる・・と思ってください。
 
楽山は、迷惑極まりない、一つの、口と悪意周辺の、現象に過ぎません。双方向で成長可能な人格として成り立っていません。楽山は、他者の言を平気で捨てますから、こちらも、楽山の言を捨てる以外ないと思います。
 
楽山にとっては、ヒューマニズムによって同情されることが、何よりの好物なのです。婉曲ボンヤリ言語と、嘘の謙虚芝居トホホ言語に、だまされないでください。いかなる知性と情性をもって生まれてきたとしても、生まれ育って、責任と反省力を捨てた人は、人間を捨てた人なのです。
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 
  挫折
 
捻(ねじ)れた火の玉である
守ろうとすればするほど
疼(うず)いて返される炎である
誰からとも知れず無作為に
ばらまかれる如何(いかが)わしいメールを
送られてくるたびに削除する程度の
勇気があればよいのだ
 
飛ぶこともできず枝の上で
跳ねているだけの手負いか病の小鳥の
指で抓(つま)んでも折れてしまいそうな
脚(あし)よりも細く
垂れて弛(たる)んでいる脂肪の中に
隠れている細い筋に
頼るほどに倒れそうな歩みのうちに
まるで罪滅ぼしでもするかのように
罪を滅ぼすことなどできない
と分かっているのに
今は自らの踝(くるぶし)を
挫(くじ)けるだけ挫いている
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。
 
 
 
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無自覚者楽山

 
  無自覚者楽山
 
 「背徳者」ジッド著
 2021年07月06日
 http://mn266z.blog.jp/archives/29708390.html
 
 
楽山の文章は、大方、醜いのですが、今回は、特に、吐き気を催すような自己満悦の腐った臭いがします。どうしたら、人間、ここまで、厚顔無恥になれるのでしょう。
 

*実感したこと
「背徳者」の再読終了。
前に読んだときは病身の妻にひどい仕打ちをする主人公はエゴイストで嫌な奴ではあるが背徳者というのは大げさだと思ったり、「狭き門」「田園交響楽」と比べたらちっとも面白くないと感じたのではあるが、今回キリスト教についてある程度の知識を仕入れてから読み直してみたら、本作には同性愛、無神論、棄教など宗教的タブーに触れる記述が溢れていることや、ヨブ記との関連も示唆されていることもよくわかり終いまで興味を持って面白く読めた。

 
楽山は「キリスト教についてある程度の知識を仕入れて」などいないと思います。楽山が知識と呼んでいるものは、楽山という自己愛者のフィルターを通して捏造された曲解と妄想に過ぎません。人間らしい心を育て損なったサイコパスの訂正不能の悪だくみが続きます。
 
楽山は「同性愛、無神論、棄教など宗教的タブーに触れる記述が溢れている」ことが面白いのでしょう。他者の罪を面白がる楽山は、溢れるほどの自らの罪と偽善には、全くの不感不応であります。楽山は、いつも、人のことを言い、人生で、一度も反省などしたことはないと思います。
 
楽山が、別の記事で言ったことですが、まさに「死体に群がるハイエナ・砂糖に群がるアリ・炎上に群がる物申す系」の典型が楽山であり、いわゆる荒らしなのです。ゴミ箱を漁るように、他人の弱みを探して涎を垂らしているのです。
 
今も、またしても、キリスト教を、知識もなく、好きなように、ディスりたい楽山の凶暴な悪意が、全開のようです。サディスティックな興味を持って読んだのでしょう。楽山が、キリスト教と信仰に触れえないのは、反キリストの宿命でしょうか。
 

西洋文学を理解するにはキリスト教の知識が必要だというけれども、これは本当にその通りであるらしい。もちろん自分は本作を完璧に理解したというつもりはないが、それでもキリスト教を全く知らないより、ある程度の知識はあった方がよいというのは実感できた次第である。

 
楽山は、何文学も理解していないことが、ずっと表れてきたのです。楽山は、キリスト教と信仰を全く知りません。それで、知ったつもりの偏見と妄想で語るから、批判されることになり、どういう自尊か知らないが、今も「知識はあったほうがよい」などと知ったかぶりをする嘘吐きです。
 
体質的な恐ろしい因業で、自らの醜さに気づかない楽山の醜態は、何事もなかったかのように、前と同じような、知識人気取りの文章を書いてくる、という症状によって、不治を示しています。それを、真に受けられては困るので、一つ一つ否定してゆくのが、批判目的となっています。
 
正常なら、ある程度批判されると、なぜ、そう言われるのか、自分を振り返るものですが、そういう正常な精神の機能を、楽山は、全く持っていないようです。人間性における欠陥が自覚されないと、ここまで、執拗に、無駄な攻撃をすることになるという精神病質の症例であります。
 
楽山の知識は偏見と妄想であり、楽山の実感は見栄張りと自尊過大からの虚言であります。これほどまでに、醜くなる人格が、楽山の自己愛性人格障害の証拠となってきたことさえ、楽山は無視しているから、また書いてくるのです。
 

*生き難さを感じる人
話は少し変わるが、人は死と向き合う経験をすることによって、限り有る自分の人生をより充実させようと努力するようになる場合もあれば、生の無意味さを思い知らされ何事にも打ち込めず虚無的、冷笑的になる場合もあるものだが、本作の主人公は後者寄りに描かれているようだ。

 
楽山は、どちらでもなく、つまり、充実もせず、虚無的な自覚もなく、悪意によって冷笑し、人の嫌がることを、わざとしてくるサイコパスであります。このような人は、人に関われば迷惑にしかならないので、被害の経験者として、全否定を病質人格に向けるしかありません。
 
楽山は、公開記事など書かず、一日中、鏡に向かって、なんて美しいんだ、エヘヘ・・と笑っておればよいのです。楽山という人物は、整わないだけでなく、文章を見るたびに、その歪んだ性根が表れて、実に、気色悪い、変態と言っていい人です。
 

これは純文学の主人公としてはよくあるタイプではあるが、自分はやっぱりこういう人物はどうしてもすきになれない。

 
楽山は、純文学を語りたいのでしょう。自分は純文学を知っていると言いたいのでしょう。この高慢こそが、ナルシストであり、その実質が、全く表れて来ず、代わりに、小学校レベルの幼稚な駄々だけを捏ねているのが、楽山です。
 
小説家のことを、「純文学・・よくあるタイプではある」・・こう言ってしまう人が、評論家気取りで、その精神で書いた文章は、小学生よりも、偏った無反省の自慢となれば、読むたびに、鼻が曲がりそうです。悪臭の虫、楽山、こういう人に関わると、人格水準が低下します。
 

ただ本作の主人公は他とは異なる特別な自分に得意になっているナルシストではなく、自分の異質さを持て余し生き難さを感じているらしいところには気の毒ではあった。本当に個性的な人は、その個性の強さに優越感を持ち得意になるより、他と違うことを重荷と感じ苦にすることが多いのかもしれないと思う。

 
「特別な自分に得意になっているナルシスト」は、自覚だけの妄想屋として、言うまでもなく、楽山が典型です。人間が、いかに見苦しくなるかという小説でも書こうというなら、楽山は、そのモデルになるでしょう。
 
楽山は、他者を、「気の毒」と言いながら、性懲りもなく、暗に、ヒーロー気取りで自己満悦しています。「個性的な」ために「重荷と感じ苦にする」・・などと言っていますが、楽山は、個性的なのではなく、病気です。楽山は、関わる人を、生き難くする人であり、百害あって一利ありません。
 
どうしたら、人間、ここまで、厚顔無恥になれるのでしょう。ボクはできるんだ、できるんだ、インテリなんだ・・的な自己満悦は、批判と揶揄の対象になるだけであり、食物が不味くなる類です。
 
 
私は、学問も、純文学も、分かっているとは言えません。その分、文章を書くことには、謙虚にならざるを得ません。それを教えてくれたのが信仰であります。文学も信仰もを全く理解していないのに、理解したふうを装う高慢な者には、最低の評価すなわち全否定の批判しかないのです。
 
楽山を放っておいても、私は、詭弁屋の楽山に影響されることはないでしょう。しかし、楽山の丁寧語とインテリ気取りにだまされた人から、楽山ブログに、優しいお人柄ですね・・というようなコメントが付くこともあったので、楽山の正体を周知するために批判を続けています。
 
 
 
 権威におもねらないこと(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』)
 2021年07月06日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10145408.html
 
 
あたかも、反骨であるかのようなタイトルですが、楽山には、義という骨も、心という温度もありません。ただ、自己正当化に酔っている訂正不能の病的ナルシストに過ぎません。
 

*心の自由
前記事を書くために、漱石の書簡集を調べていたら次の文章を見つけた。

即ち君の様なものを私の力で私と同意見にする事を好まない。然し君に相当の考えと判断があって夫が私と同じ帰趣を有つてゐるなら已を得ないのです。
(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』夏目漱石岩波書店、昭和51年、p.415)
* 旧字は新字に改めた
 」
これは本当にその通りだ。自分は妄信するのもされるのもいやだし、心の自由、独立性は大事にしたいと思う。

 
誰か「同意見に」しようとしたのでしょうか。また、楽山は、「心の自由」などと言っています。そして、引用しては、自分の都合のよいように曲解して、自己正当化に悪用します。理解ということを、一度もしたことがないのかと思います。自分を見ないからでしょう。
 
キリスト者は、神を決めつけたりしません。楽山は、神をいないと決めつけてきました。楽山の言には、全く根拠が無いから批判しているのです。楽山は、神を、存在か不在かという2進法で決めつけでしか考えられない狭量なのです。
 
つまり、楽山は、知ってもいないのに、知っていると言い、知識を得たと言い、かつ、キリスト信仰を、根拠なく、妄想的に否定してきました。楽山こそが、他者の自由と独立性を侵しているのです。それを、指摘しても理解せず、自由などと言ってくるのは、良心のない我執によるのでしょう。
 

権威主義
でもこれは宗教では通用しない考え方ではある。たとえば、幸福の科学(HS)で、教祖の意見に反対し、異論を述べたらこんな風に断罪されるのがオチだ。
「総裁先生を否定するとは、なんという傲慢さだ。あなたは総裁先生より高い見識をもっているつもりなのか? 総裁先生を超える実績があるのか? 思い上がるのもいい加減にしなさい! 謙虚になりなさい!」
こういう信者は、表向きは「謙虚であれ!」という人の道を説いているとみせかけて、その実、自分の権威主義を押し付けてくるばかりだから始末が悪い。
人の心を救おうとする宗教をつかって、人の心を縛ろうとするなんて、皮肉なものである。

 
いちばん始末が悪いのが、楽山です。証明でもしたかのように、神の不在を決めつけて書くのは、悪口を宣伝しているのと同じです。そして、その決めつけという方法は間違っています。人は、神の存在も不在も証明できません。ただ、信じて仰ぐかどうかだけであり、ゆえに、信仰なのです。
 
楽山には、仰ぐ気も、信じる気もなく、何やら、もっともらしいことを言って、知識人だと思われたいという自己顕示欲しかないと思います。そこに、まるで依存しているかのように、書くことをやめませんが、そのことが、さらに、楽山のインチキぶりを確定してゆくことになります。
 
楽山は、神を、信じないし、いないと思っているが、楽山の言い分は、概念の皮相をいじくり、矛盾だ矛盾だと言い張ってくるだけなのです。それは、概念で、神の存在を語れるという酷い勘違いを表すだけであり、ゆえに、執拗に書いてくることこそ、不治の病質なんだねという証拠なのです。
 
楽山の言は、いかなるアンチでもなく、ただ、聞き分けのない頭で、言い張っているだけの子供じみた譫言(うわごと)に過ぎません。それは、いつも、自己顕示欲を満たすためだけに、インテリ気取りの高慢から言い張るので、もはや、臭くて吐き気を催すものとなっています。
 
こういう、一方的で修正機能を失った者たちによって、キリストは殺されました。いつの世にも、こういう人はいて、信仰にも、宗教にも、人間的共感にも、一貫した理路にも、感動や共感にも、反応できず、縁のない、薄っぺらで中身のない詭弁屋のナルシストが行き着く袋小路なのです。
 
恥ずかしくないのでしょうか、恥ずかしくないのです。恥の感覚と感情がないのでしょう。これも、前から書いてきましたが、全然、変わりません。罪悪感も羞恥心もないからでしょう。知識とかで決まるのではなく、罪悪感をいだけない人は、信仰に縁はないと思います。
 
 

     f:id:stdsts:20210706235512p:plain

              腐敗臭
 
 
(2021年07月07日)
 
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
 
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
 
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
(90年代か)
 
 
 
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