ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の悪用2


  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25292787.html
  を改めて批判。
 
 
キリスト者でもない楽山が、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 

「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。

 
楽山は、反キリストですから、「その通りだと思う」ことはないと思います。勝手に、懐疑という言葉で、いつもの短絡理路によって、我が意を得たりとばかり、言っているに過ぎません。ただ否定したいだけの楽山は、言葉の表面に反応していますが、児戯に過ぎません。
 
キリスト者の懐疑は、今までの楽山の記事に書かれたような低劣な短絡ではなく、もっと深く、もっと真剣なものです。そういう懐疑には、この世の必然があり、試練があり、むしろ目を背けることのほうが、罪深いと言えるでしょう。そこから、信仰は新しく成長するからです。
 
実に余計なお世話なのです。反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 

次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。

 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。楽山は、何も明らかにならず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を刷り込む輩です。
 

そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。

 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・嘘だと思います。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりませんが、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。99%も100%もありません。定量で表せるものでもなく、喩えられるものでもないです。
 
楽山は、自身の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。人間の信仰は、いつも、不完全、という自覚が必要です。
 

そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。

 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、1%の信じる心の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
今まで言ってきた嘘や詭弁を、チャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、総て、発言の断片だけの悪用であろうと思います。
 
ろくなことは書けないくせに、狙いが、反キリストであり、かつ、とても、卑しいからです。楽山の、無反省と無責任から他者の言葉を利用すれば説得力があるじゃろ・・という気安い企みに、だまされないようにしてください。信仰は、最終的に、神に評価をお任せします。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山の言は、大方、都合に合わせた芝居なので、信用するとひどい目に遭う、という性質のペテンであります。
 
信仰は有無であります。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、反省しない限り、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)に出会って、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。腐った性根は、それぞれの記事に表れてきました。シャロームは所在不明ですが、楽山は、今も、時々書いてきます。罪悪感と羞恥心がないからです。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25309964.html
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に、書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類です。
 
理路が全く成り立っていません。楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。
 
人のことなど言う資格の全くない人であり、そういう状況に、まるで、気づかない病者であります。いつまで、恥を重ね、罪を重ね、偽善を重ね、悪意に悪意を重ねたら気が済むのでしょう。他者の、特に有名人の言葉を悪用してまで、神を否定したいだけの人です。
 
楽山が認める信仰は、信じ過ぎるのもよくない、信じないのもよくない、という、とても、いい加減な、無理解な楽山の、腐った理路の中の、平板で実体のない粗暴な道徳律に過ぎません。しかも、そういう、ありふれた道徳さえ、楽山は守っておらず、嘘と詭弁を繰り返し書いてくるのです。
 

福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。

 
今度は、信仰を、自己催眠と言い出しました。楽山というカルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないまま、人に意見してきます。楽山に出会うこと自体が、不幸の始まりなのです。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性・性癖・悪意があります。ゆえに、この浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきました。
 
まさに、楽山は、我が強く、我欲・我執となり、いつまでも、いつまでも、自らの過ちを認めることなく、自分が「正しいと判断した自分は正しい」という循環に陥って、反省することなく「自分には本質を見抜く眼力がある」という妄想的確信から書き続ける亡者となっているのです。
 

自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、

 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、馬脚をあらわして、楽山の嫌らしさが増幅されてゆくだけなのです。しかし、恐らく、嘘です。楽山は、もはや、嘘を吐いて、自分を保つしかなくなっているのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習せず、感動経験のない、鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機で、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 

それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。

 
信仰は、思い込みではありません。思い込み信仰は、人間を破滅に導くでしょう。聖書において、救われた人々には、思い込みはなく、悲しい現実がありました。そういう心の危機において、キリストに出会っているのです。自分を、何か言える人と思い込んでいるのは、楽山です。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型生物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、ということでしかありません。
 
こちらとしては、楽山の、言い訳がましく、またしても、人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ、批判を貼りつけて否定してゆくしかない、という成り行きになっています。
 

自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。

 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の詭弁を平気で言い続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような楽山には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という、私が関わってきたところの、約2年以上の履歴が、積み重なってきました。もう、恐らく、楽山が、まともに戻る可能性は、絶望的ではないかと思っています。
 
楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。芝居好きの楽山と、シャロームは、キャラを変えていますが、同一人物の成りすましではないかという疑惑が続いています。
 
他者に頑張ってほしいと言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも、図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる精神の詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者に、一切、妥協してはならないのです。
 

そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。

 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、楽山の無反省と無責任に気づいた後、とんでもない人だと気づきました。もう、誰も、楽山に、だまされてはいけません。
 
楽山は、こちらの理路を混乱させて、じわじわと精神的な拷問のような疲労だけを与える人であり、何の実感もなく、字面のきれいごとを並べ、高慢によって増長し、経過と結果において、さらに情緒障害を来たして、気色の悪い芝居で欺いてくる口先だけのペテン師です。
 
 

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              詭弁・欺瞞・誘導
 
 
(2020年07月01日)
(2021年07月12日、加筆して再録)
 
 
 
  楽な痛み
 
何もしない日
何かしている
楽しくはない
ぴりぴりと痛む
楽だが
気楽ではないこと
後頭部だろうか
ずっとぴりぴり
ピリオドが打てない
 
 
  失意
 
失意の意思を想う
外を見るための窓は
視野を四角に区切り制限している
その死角の向こうを
実は補って見ている外
 
失意の狭窄に補える
円(まど)かなる空と雲のような
意思があるなら 失意よ
もはや緩急はなく
寒暖は滅却され
沈めるために空を見たい
 
 
  病める「べき」
 
「べき」は頭が痛い
到達点や目標は気が遠くなりそうだ
苦痛にしかならない重荷だ
何の癒しにも励みにもならない
暇は腐るほどあって
そのまま腐らせている
「べき」にも無数のステップがある
今日のステップ
今のステップ
短く低い身近なステップ
暇は腐るほどある
それはよろしい
そのままを何か
読み書き
一章あるいは一節
一頁あるいは一行
祈り
小声あるいは内語
思いの丈(たけ)あるいは一言
「べき」のステップほんのちょっと踏んで
休んでいる
暇は腐るほどあって
大方腐らせている
 
(90年代か)
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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