ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

パウロに擬するのか

 
  パウロに擬するのか
 
   わたしは福音を恥としない
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28925891.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
前半部に引用されている人も、もはや、シャロームに抗議してもよいはずなのですが、好きなように利用されています。それだけ、シャロームが、罪悪感を感じない人であることを示しています。
 

+++++++++
★今日のみ言葉★((2016.2.22)
+++++++++
「明らかな良心」
先日、わが家での集まりの時、
使徒行伝23章前半を自己発見型バイブル・スタディのやり方で共に学んだ時のことです。
ここで、わたしはパウロが言っている言葉に心が留まりました。
初めて読んだところではないのですが、23章1節の言葉です。
話の背景を簡単にお話しします。
第3回の伝道旅行を終えた後、エルサレムに帰ってきたパウロ
神殿にいる時に、ユダヤ人たちに捕らえられました。
パウロは神殿の外に引きずり出され、人々に殴られ、殺されそうになりました。
その時、エルサレムの町中が大混乱になったことの知らせが、
ローマ軍の守備大隊の千人隊長の耳に入ったのです。
結果的にはパウロはローマ兵に捕らえられ
、二重の鎖につながれ、ユダヤ人暴徒の手から引き離されました。
その翌日、ユダヤ議会で裁判の席に立たされたのです。
そのなみいる議員たちの前で最初に被告人パウロの口から出てたのは次の言葉です。 
パウロは議会を見つめて言った、
「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」
使徒行伝 23:1口語訳)

 
パウロは、パリサイ人で迫害者でしたが、悔い改めたのち良心に従いました。シャロームは、人を騙し自己の正当化を手段を選ばず守ろうとする保身の心に従って悔いることがありません。
 


ユダヤ人宗教家たちの目からは、律法違反、神殿を汚したなどの罪に問われていたパウロでした。
ところが、宗教裁判の被告人席に立たされ、
自分は神の前に良心に恥じるところのない生き方をしてきたのです、と言い切っています。
このように大胆な言葉を言い切ることのできた、この時のパウロはどういう心境だったのでしょうか。
少なくとも、恐れによって自分を守ろうとしたり、弁解するような気持ちはなかったようです。
人々の裁きの目、憎しみの目にさらされていながら、
恐れることなく、このように言い切ることが出来たのです。
それはまさに、このパウロの言葉が嘘ではなかったあかしであるとも言えます。

 
今まで、何度も言ってきたように、シャロームは、何度も嘘を吐いてきました。その大元の嘘は、シャロームは、悔い改めることがないのに、自分をキリスト者だと、牧師だと言ってきたことです
 

「明らかな良心にしたがって」と言っています。
自分の生き方、やってきたことのすべてが裁かれるというこのような厳しい状況にあって、
このような言葉をすっと口にできたのです。
これは常日頃から良心に恥じない生き方を心がけている人でなければ
言えない言葉ではないかと思います。
どう思いますか。

 
シャロームは、常日頃から、他者を馬鹿にして、平気で嘘を吐き、キリスト信仰とは正反対の妄想を言い張るほどに、罪悪感を持ち得ない精神において生きてきたのでしょう。良心ではなく、シャロームは自分の妄想に従ってきたのです妄想だから、整うこともないのです。それによって、今までも、今も、これからも、明らかに良心を破壊してゆく必然を持っています。
 

《shalomのコメント》
宗教裁判の被告人席に立たされている使徒パウロはかつて
パリサイ人で裁く立場に立ち、大祭司の信任状を与えられ、
クリスチャン迫害の先頭に立っていました。
迫害者サウロはシリヤのダマスコのクリスチャン迫害に向かう途上
よみがえられたイエスさまと出会い、その光に打倒され、目が見えなくなり、ダマスコで
エスさまに遣わされたアナニアの祈りによって目が見えるようになったのです。
迫害者サウロ(パウロ)はかつて、神の律法に従うことにより
神から義とされ、救われ、祝福されると信じて生きていたパリサイ人だったのです。
サウロにはイエスの十字架の血によって罪あがなわれ救われると信じるユダヤ教ナザレ派は
神の律法を否定し、神を汚し、呪われ、裁かれるべき異端だったのです。

 
今回のシャロームは、先ず、ボロクソ節を、パウロに向けているようです。手段、選ばないんだね、と言ってよいでしょう。
 

しかし、使徒パウロとして、裁きの座に立っている今は、
エスの十字架の死により成就された罪の裁きと呪いによって、
律法は成就され、神による罪の赦しを与えられた者と変えられていたのです。

 
シャローム自身が、はっきり書いています。パウロは、神による、罪の赦しを与えられた者だと。
 
元々から、罪なき者ではなく、また、罪など気にしなくていい、とか、悔い改めは与えられるからしなくていい、とかではなく、罪ある身であったパウロは罪を赦されたのです。
 
つまり、認められない罪は、赦されることはない、ということです。パウロが赦されたこと自体が、パウロが罪を認めたことを表しているのです。シャロームとは、全然違うのです。
 
ここに至って、シャロームは、自らをパウロになぞらえて、パウロを、シャロームと同じで、罪を認めないが赦しを与えられたもの、という同類に見なそうという詭弁を弄しています。身の程知らずもここまで来ると、もはや、人間とさえ思えません。
 
はっきり言えることは、パウロは、迫害者であったという罪を認め、悔い改めて、使徒となったということです。そのことは、迫害者であったサウロ(パウロのもとの名)が、使徒であり福音伝道者パウロとなっていることが、事実として明らかに示しているのです。
 
シャロームは、パウロの、迫害する者から、迫害を受ける者に変わった、という事実を、全く理解できていない、ということを知ってください。人間として考えることが出来なくなっているのです。
 
これが、人間性を否定して、信仰の総てを、神の業、神の業と、人間離れした奇跡だけを言い張ってきたシャロームという男の精神の末路なのです。シャロームは、奇跡によってパウロが別人のように迫害者から伝道者に変わったとでも言うのでしょうか。それは人間の信仰ではありません。ゆえに、人間が学べる信仰ではありません
 
今もなお罪を悔い改めなくても赦されるという妄想を詭弁によって広めようとするシャロームと、パウロとは、全然違うのです。信仰や教理云々よりも、シャロームは、人間なら分かるはずの、人間としての事実の筋道が、全く理解できなくなっています。シャロームは、正気を失って、妄想に満悦してゲラゲラ笑っているとさえ思われてきます。あらゆる敬虔を捨てた男の末路です。
 
 (使徒行伝、口語訳)
22:7
わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。
22:8
これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。
22:9
わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。
22:10
わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。
 (使徒22:7-10、新約聖書
 
このパウロ(サウロ)から、迫害者である罪を自覚しているパウロの心の内を読み取らないのは、光を見ることがなく、キリストの声を聞くこともない者でしょう。言うまでもなく、シャロームです。
 

かつてパウロにとって律法は罪責感と神に対する恐れの根源でした。
神への恐れと良心の痛みに呻き苦しみ、律法を命がけで守り、神の祝福に与るために
異端者ナザレ派に対する怒りと憎しみを駆り立てて、迫害していたのです。

 
シャロームの理路が全く狂っています。律法は罪責感と恐れと言いながら、恐れと良心の痛みに苦しんだなら、迫害するでしょうか。パウロは、悔い改めるまで、情熱と強迫観念によって誤った迫害者であるパリサイ人の道を進んでいたのです。シャロームは、全く筋の通らないことを書いています。
 

しかし、使徒パウロと変えられた今は、イエスさまの十字架の死によって
律法による罪の宣告と罪責感から解放され、神から与えられた平安により、
恐れ、良心の痛みを癒され、自分がかつて裁き、獄に投じた人の立場に立たされながら、
だれの裁きをも恐れないものと変えられていたのです。

 
復活したキリストが、パウロに、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかけたことが聖書に書いてあるのに、シャロームは、キリストの死によってパウロが罪責感から解放され平安を得たなどと、聖書語を組み立てようとして滅裂になり、全く筋の通らない詭弁になっています
 
救い主キリスト・イエスが、死に打ち勝ち、復活して、生きていることこそ、悔い改めと赦しが成立し、パウロが迫害者から使徒へと変わることを可能にしているのです。シャロームは、何も分かっていない。
 
シャロームは、ずっと、いつも、生ける神とか言いながら、神とキリストと聖霊が目に見えないことをよいことに、好き放題の妄想を垂れ流してきました。ゆえに、シャロームが書く文章は、すべて、反キリスト信仰を表すものになるとなっています。そして、それを見抜けない部外者の楽山を餌にしています。
 
キリスト者は、神もキリストも聖霊も、生きて働く存在として、恐れをもって、祈りを捧げます
 
シャロームは、もともと良心の痛みを感じない人なのでしょう。そういう人だから、そういう人として、神に対しても、キリストに対しても、聖霊に対しても、恐れを知らないのだと思います。
 

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、
すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。
(新約・ローマ人への手紙1章16,17節)

 
福音は、良き訪れ、パウロはもちろんのこと、誰も恥とするものではありません
 
恥ずかしいのは、ただただ、シャロームその人であります。
 
恐ろしいことです。シャロームは、
行ってしまえ、というキリストの言葉が聞こえないのでしょうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 (マタイ7:22-23、新約聖書
 
不法しか語らなかったシャロームは、いったい、どこへ行くのでしょう
 
 
(2019年03月22日アップ)
 
私が書いている「ウソの国ー詩と宗教」ブログ
「批判」カテゴリー:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
3月末でナイスできなくなるって、次から次に、むごいこと。引っ越しも始めてるし、いまさら、たいして驚きもしませんが、人間世界に永遠はないとは思うけど、生きていて普通に続くものと、意識もせずに、思い込んでいたことの誤りを改めて痛感します。