ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

コンニャク説教

 
  コンニャク説教
 
   人のことを決めつけてはいけない?
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41503450.html
   記事とコメント。
   私のコメントは私の記事専用です。書き込みません。
   彼らに巻き込まれて、気持ちの悪い人間にならないためです。
 
 
具体的には何も言えなくなっている楽山の、コンニャク説教が始まります。このような話をする人にだけは、なってほしくないという例です。貧相な人格が、賢者の真似をすると、こうなるのでしょう。
 
例えば、異教の人でも、常識があれば、ここまでシャロームの異常性を増長させることはしないでしょう。
 
 
(まず、記事です)
 
>敵意をもつ眼には徳も大きな欠陥と映ろう、
>(『薔薇園 イラン中世の教養物語』サアディ―著 蒲生礼一訳)
 
徳のない人も大きな欠陥と映るでしょう。どういうつもりなんでしょう。発言は、根拠に基づいて言わないといけません。ああでもない、こうでもない、という方向に持ってゆこうとする楽山の説教が、記事になっています。
 

「この人はいい人だ」と思うと、すべてがいいように見え、「あの人はわるい人だ」と思うと、すべてがわるく見えたりする。

 
当たり前のことですが、徳のない人は、「この人はいい人だ」と思われることはないのです。また、当たり前のことですが、悪い人は、悪く見えるわけです。「あの人は悪い人だ」と思われるのは、悪いことをしたからだ、ということなのですが、いったい、小学校の道徳でも通用しないような、どういう謎かけ問答を始めるのでしょう。そういう、程度の低い気どりこそが、悪いと気づかないのでしょうか。
 

でも実際のところは、どっちの人にも、いいところもあれば、わるいところもある。誰でも、いいことをするときもあれば、間違ったことをするときもある。

 
いいところ、悪いところが、が全く見えていない人が言っています。そして、みな、同じ、どっちもある、という、ぬるい話をしています。徹底的に、議論をする気のない人が、議論をなめてかかるときの詭弁です。無反省と無責任の罪をごまかすための、さらに無責任な醜い保身の便法なのです。自尊に見合う誠実のない者の、言ってもしょうがないような、ごまかしの便法に過ぎません。
 
それは、感心できないね、しかし、悪いと決めつけることも出来ない・・云々、という、楽山の言い逃れの詭弁に惑わされないでください。卑怯者が、弁明が成り立たないときに、こういう、世辞のような、社交のような、あいまいな、どっちつかずの正当化をしてきます。
 

だから、そう簡単には、この人はいい人だとか、わるい人だとかは言えない。この点、「人のことを決めつけてはいけない」というのは、本当にその通り。

 
簡単には決めつけてはいけない、と言いながら、当てつけだけは、ちくちく、ねちねちと、してくる者たちからは、何も助けになる言葉は生まれません。決めつけてはいけないと決めつけて何を言っているのか分からずにいるのです。ここからは、糧になる経過も結果も生まれません。まさに、気に入らないことは無視するアドラー教の、無益な言葉遊びに過ぎないからです。これで、世渡りから、説教から、道徳まで、語ったつもりでいる愚かさなのです。
 

でも、「人を決めつけない」というのは、言うは易し行うは難しで、実践するのはすごく難しい。恥ずかしながら、自分はどうも極端から極端にブレる悪癖があって、なかなかこれができない。

 
このように、言うそばから、どっちつかずの、具体性のまるでない、見かけだけの謙譲が決めつけてゆく先に、軟派カルトの偽善、という、無責任があります。極端から極端にぶれる悪癖の果てに、どこへも行けない不自由な精神を、許容せよと読者を誘惑しています。
 
具体性のない話しぶり、その者が、既に、徳も、賢さもないことを証明しています。堕ちた人間性は、何も決めることが出来ない、という決めつけに陥り、これは自由ではなく、ただの迷いを、楽だと思っている人の言であります。
 

でも、ここのところは、人として踏ん張らなきゃならないところではある。すぐにはできなくても、いつかはできるようになると信じて、少しずつ少しずつでも頑張ってみよう。〈了〉

 
何も具体的なことを言わずに、少しも、頑張ることも踏ん張ることもしないでいながら、何を言っているでしょう。このような薄弱な一般論、小学生でも、騙されません。偽善者の、極めて程度の低い、言い逃れです。子供のような、頑張ってみよう、の前に、明らかにしたことも、自覚することも、何もないのです。やさしさに見せかけた、いい大人の、退行なのです。
 
 
(ここから、コメント欄です)
 
(シャローム
楽山(自由)さん こんばんは
いちばんむずかしい人生ゲームの挑戦ですね。
 
(私)
このように、ゲーム、すなわち、遊びであることを、うっかり認めています。シャロームには、いつも、なめて、軽く決めつけて、せせら笑っている態度があります。決して、それ以上深いことを語らないのが、偽善者同士の、空っぽの、なごみの会話なのです。何も、具体的には一歩も、前には進みません。
 
(シャローム
仏陀は修行し、悟り、涅槃寂静の境地によって達成したようです。
絶対もなく、相対もない、無我の境地でしょうか。
 
(私)
シャロームは、修行せず、ゆえに、達成も知りませんが、にもかかわらず、達成を語れる気でいるのです。
絶対もなく、相対もない、いったい、何を言っているのか、無我というより、無視の駄地獄
 
(シャローム
私の座右の銘はヤジローベェであれ!
無我の境地なんてとても無理ですから、ヤジローベェ人形のようにどんなに揺れることはあっても、しっかり支点に支えられ、支点から離れないことがベストですね。
2019/3/13(水) 午後 9:59 [ shalom ] 返信する
 
(私)
仲間ぼめ同士で、慰め合う、二人自慰行為です。やじろべえは、寝てはおらず、立っています。揺れているのは、活動があるということです。それでも、やじろべえでは、進むことが出来ません。
(私)
シャロームと楽山の二人には、まるで、支点がありません。活動もありません。なのに、支点があるかのように、自己正当化のために、いつものように、嘘を吐いています。こういう軟派カルトにつかまると、人格も人生も、無思慮という怠惰に明け暮れるようになるのです。
(私)
シャロームの、やじろべえは、既に、ひっくり返っているようです。
 
(楽山)
shalomさん、おはようございます。
 仏典に描かれた釈尊の無執着はすごいですね。
 筏の譬えとか、好ましくないことだけでなく、好ましいものにも執着しないとか。
バランスについては、自分も大事だと思ってます。
ただその基準は、特定の主義や思想ではなくて、人情、情緒、良心とかかなと思います。
2019/3/14(木) 午前 6:48 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
そして、その大嘘を、まともに、受け入れて、事態を一層悪くする楽山です。無執着と無視を混同し、それを、バランスだと言っています。そして、特定の主義や思想ではなく、人情、情緒、良心と言いながら、
人情も情緒も良心も無視して、感じ得なくなり、人間の活性を捨てることで、中庸になっているつもりの思い込みの主義と思想が、人を害してゆくのです。
(私)
こういう人たちは、自らの醜さに無頓着で、気づかない特徴があります。
しかし、いっさいの指摘を無視するので、誰も救いようがないところにいるのです。
(私)
もはや、言論とも説教とも呼べないものになっているのに、教えようとするのです。
彼らに触れるのは、腐った実をを見て、食べられるかなと嗅いで気絶するようなものでした。
(私)
こうならないように、活性を持つ人間であるために、
シャロームと楽山の偽善者コンビには、いっさい、関わらないほうがよいと思います。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「バランスについては、自分も大事だと思ってます。
ただその基準は、特定の主義や思想ではなくて、人情、情緒、良心とかかなと思います。」
 西欧キリスト教世界はヒューマニズムに基づく合理主義による反自然的な特定の主義や思想を基準とし、日本、インド、中国は自然に根差した人情、情緒、良心と言えるのでしょうか。中東イスラム世界は戒律が基準なのでしょうか。
2019/3/14(木) 午前 8:54[ shalom ]返信する
 
(私)
シャロームの、数行での呆れるような断定の斬り方が表れています。いつから、人間世界をこんなに純化してきたのでしょう。
 
(シャローム
日本と中国、インドはアジア圏ではありますが、中国、インドはとても合理的な側面があり、仏教、儒教に基づく良心を基準とし、日本だけは島国で、流れ込む異教文化、宗教を自然宗教である神道と同化し、他に流し出すことのない地勢のために特異な日本教的な人情、情緒という“空気”を基準にしているのかなと思いますが、どうでしょう。
いずれにしても自然や長い歴史によって培われたアイデンティティとなり、世界観、価値観、人生観となっているのでしょうから、それぞれ異なる基準であることは避けられないでしょう。ますます世界はグローバル化していくのでしょうから、適応するには執着を克服し、違いを違いとしながら、バランスという適応性が必要不可欠になり、むずかしい世界になるでしょう。
2019/3/14(木) 午前 8:54[ shalom ]返信する
 
(私)
シャロームは、知りもしないことを断定した後で、執着を克服、バランス、適応性、などと、辻褄を合わせ、さらに、難しい世界になる、と言っています。シャローム以外の人々にとっては、すでに、十分、難しいのですが。他者をけなせばけなすほど、自分が高まると思うからでしょうか
 
(楽山)
私が言う人情、情緒、良心とかは、言い換えれば愛、慈悲、仁、忠恕とかかなと思います。
 特定の主義や思想などに凝りすぎると、意見の異なる者に対して、反動、異教徒、悪魔などと簡単に決めつけてしまいがちだし、場合によっては反対者に対して、人を人とも思わぬ行為に出てしまわないとも限らないし、それよりは人間らしい心、相手の気持ちを思いやる心を大事にしたいと…。
これを実践するのはなかなか難しい時もあるけれど、これが一つの理想像ではあります。
2019/3/14(木) 午後 8:01[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
似たような言葉に言い換えただけで、何を言いたいのでしょう。特定のアドラー教に凝り過ぎている自分に気づかず、人を決めつけることを戒めているようだが、楽山がしているところの、気に入らないことを無視することは、気に入らないことがなかったかのように思うこと、すなわち、最も酷い決めつけなのです。他者の言論に対する死刑なのです。
(私)
つまり、楽山は、思いやる心を大事にしたいと言いながら、人の言うことを殺して生きているということです。難しいどころか、むしろ、自分教を押し通して自分で思いやりを捨てているのです。優しそうな言い回しに騙されないでほしいと思います。楽山は、カルトを広める人です。
 
(楽山)
基準について言えば、大方の先進国では、人権が共通の基準になってそうではあります。
 
(私)
そんなことはありません。楽山の甘さが出ています。物質的生産量や情報量の増加が著しい先進国は、ますます、利益優先になりつつあると思います。人権が共通の基準だなどと、よくやすやすと言ってのけるものです。問題意識のなさに呆れます。
 
(楽山)
何を言うにしても、何をするにしても、人権に反していると判断されれば、バツ判定される。
たとえ事実であっても、差別を生みそうなことは口に出してはいけないし、もし口に出したら差別主義者と糾弾されるとか。
もはや人権尊重という空気に、水を差すのは不可能といってもいいようだし、今後この傾向はますます強まって行くのだろうなあと思います。
人権は大事だけど、さすがにこれは息苦しいですね。
2019/3/14(木) 午後 8:08[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山は、少なくとも人の言論の人権を無視していて、自らの安楽のみを味わいたいカルトです。人権尊重が、本来の意味以外で、言葉狩りになっているというようなことが書けずに、人権が息苦しいと言っています。楽山という人は、そういう不備で迂闊な言論をしてしまう人なのです。
(私)
差別を生みそうなことを口に出したいのでしょうか人権尊重という空気に水を差したいのでしょうか。
 
 
(2019年03月19日アップ)
 
近況)
3月18日、月曜日、母が退院しました。昼前に病院に行きました。医師から経過説明を受け、入院費の支払いを済ませ、また、介護施設のほうに戻りました。敗血症ではなく尿路感染でとどまったようです。
これからのことなど、いろいろ考えているうちに気が滅入って、訪問が滞っております。すみません。
 
 
私が書いている「ウソの国ー詩と宗教」ブログ
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人間世界に永遠はないことは分かるけど、生きていて、普通に続くものと、意識もせずに思い込んでいたことの誤りを改めて痛感します。