ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰の理屈?(2)

 
  信仰の理屈?(2)
 
   『カラマーゾフの兄弟 2~5』ドストエフスキー著、亀山郁夫訳〈光文社古典新約文庫〉
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41543518.html
   楽山のブログ
 
 
終わりに近づくほど、超常から、曖昧で、単純で、宗教に無理解な楽山の、誰もが、きれいな風景や荘厳な雰囲気を感じるときの、はっきり言えないけど・・、というような話になってゆきます。
 
>「 引用不明瞭はじめ
        ジーベル
                  ご挨拶、おそれ入ります。
   (メフィスト―フェレスを横から見ながら、小声で)
あいつ、●を引いてやがるな?
(『集英社版 世界文学全集14 ゲーテ ファウストⅠ・Ⅱ』井上正蔵訳、1980年、p.74)
偶然かどうかわからないが、先日に読了した『心霊電流』にもそれっぽい表現があった。
 
廊下を近づいてくるジェイコブスは、わずかに足を引きずっており、体は心持ち右側に傾いていた。
(『心霊電流 下』スティーヴン・キング著、峯村利哉訳、文藝春秋、2019年、p.74)
 
ジェイコブスは元は牧師だったが、妻子を悲惨な事故で失ったことで、信仰を棄てて、自分の研究のためには犠牲者が出ても構わんというマッドサイエンティストみたいになってしまうキャラだけど、この場面はイワンやメフィストフェレスと関連付けられているんだろうな、たぶん。
 
自分は、表現の自由は尊びたい方なので、言葉狩りには懐疑的な立場ではあるけれども、こういう身体的な特徴と悪魔を関連付けるのはどうなんだろう。これは何か嫌な感じはするし、よくないことのように思う。
 
< 引用不明瞭おわり 」
 
引用も自分の事情中心で不明瞭ですが、要は、小説に出てくる超常の悪魔の姿ということなのでしょう。身体的特徴を悪魔に関連付けることは良くないと言って終わりです。ならば、(1)において、なぜ、引用したのか。どこが衝撃的と言ったのか。
 

*恥ずかしがらないでよい
人は悪いことをしたときはもちろん、善いことをしたときも恥ずかしくなったりするけど、これは一体どうしてなんだろうと思う。
(引用)
未熟な俗世の人間というのは、ごくごく正当な自分のふるまいさえ、そんなふうに恥ずかしく思いがちである。
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.403)
(楽山)
これは、ゾシマ長老の言葉だそうだけども、本当にその通りだと思う。善いことをしたことを、他人に知られるのは恥ずかしいし、おおっぴらに褒められでもしたら、それこそ穴があったら入りたいくらいに恥ずかしくなり、どうか知らんふりして放っておいてくださいという気持ちになったりする。
本来なら、「褒めてくれてありがとう。よし今度はもっと善いことをしよう」という風に、さらりとした気分でいるのが理想なんだろうけど、これはなかなか…。

 
善いことをしたことがあるのか。穴があったら入りたいのに、なぜ、書くのか。
本当に、それは、善いことなのだろうか、ということを考えないのだろうか。
善いこととは何かは、テーマになるが、善いことをした自分は、テーマになるだろうか。
無駄口で、やたら長い文章になっていることに気づかないのだろうか。
 

次の言葉は、アリョーシャが少年に向けて言ったものだけど、これも全くその通りのように思える。
(引用)
滑稽がなんです? 滑稽な目にあうことなんてざらですし、滑稽に見える人だって、それこそ山ほどいるでしょう? おまけに、いま能力のあるほとんどすべての人が、滑稽になるのをひどく恐れて、そのためにかえって不幸になっているんですよ。
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.130)
(引用)
人間はしばしば、善良で立派なものをあざ笑いますから。でもそれは、浅はかさから生まれるものなんです。けれども、みなさん、ぼくはきみたちに保証します。思わずにやりとしたにしても、心はすぐにこう語りかけてくるでしょう。『いいや、笑ったりして悪いことをした、だって笑ってはいけないことなんだもの!』ってね
(『カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.59)
(楽山)
世の中には、「善良で立派なもの」を嘲笑する風潮は確かにある。一生懸命に頑張ってる人をわらいものにするとか…。
また、せっかく善いことを思いついても、人目を気にして、それを実行できない人も少なくなさそう。この辺りのことは、自分も気をつけるようにせねば…。

 
楽山が、人のコメントを、公平に見ないのも、他者、特に、批判者を敵と見なして、シャロームの味方をして、片落ちに、あるいは、元々策略として、高みから嘲笑う姿勢であります。
 
シャロームが、「失礼しました」の後〔負けるが勝ち(笑)〕と書くなど、平気で嘘を吐くのも、妄想を書いてくるのも、人を嘲笑っていることになります。そして、楽山は、根拠もなく、そういうシャロームの味方をしたのです。
 
批判者を、滑稽と見なす尊大さ、シャロームは露骨であり、楽山は曖昧に当てつけてくるようです。
 
>*悪魔の目的

(楽山)
今回、『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて、一番ドキッとした箇所はどこだったろうと考えてみると、悪魔がイワンに放った台詞だった。
(引用)
ぼくはきっと、信仰と不信のあいだを連れまわしてあげますよ。ぼくの目的はそこにあるわけですからね。新しい手法を用いるんです。だって、きみはぼくの存在をまったく信じなくなったかと思うと、すぐにまた、ぼくが夢じゃなくてれっきとした実在だと、面と向かってぼくに信じ込ませようとする。ぼくはきみのことがちゃんとわかってるんです。そこで、ぼくの目的は達せられるというわけです。
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、pp.382-383)
(楽山)
最近の自分は、たぶん、不可知論という立場なんだろうけれども、そのなかでも、有神論に傾いたり、無神論に傾いたりしている。

 
大昔の不可知論なら知りませんが、恐らく、嘘です。楽山の文章は、そもそも、論になっていません。単純に、人は神と神の意志を確定的に知りえない、ということを私は書いています。
 
楽山は、不可知論ではなく、無神論であり、伝統宗教については、反信仰だと思います。
楽山は、キリスト教を知らないから、自身の曖昧な理屈で、信仰を語ろうとしますが、それでは、信仰者として生きることにはならないのです。
 

以前、ネット上で知り合ったある人は、自分の立場を説明するのに、不可知論者ではあるが、神はおそらくは存在しないだろうという無神論寄りの不可知論者だと言ってたけど、どうも自分の場合は無神論寄りと有神論寄りの不可知論を行ったり来たりしているらしい。この点において、上の悪魔の台詞にのっかっていうならば、自分は悪魔によって信仰と不信のあいだを連れまわされているということになる。怖ろしい。

 
記事によって、アドラー教で誘惑し、弱い人間を連れまわそうとしているのは、楽山に他なりません。
 

ただどういうわけか、自分の場合はかなり無神論寄りになっているときでも、心の底では神様を信じている感じがあるから不思議ではある。仮に、「神はいない!」と言ったとしても、心の底ではそんなことを言っている自分のことを神様が見ているという感覚があったりする。

 
楽山は、ボンヤリ言語で、神様が見ているという感覚がある、と言っていますが、楽山のこういう感覚は、「心の理論」における楽山の著しい勘違いもあり、その危険性を私は書いてきたわけです。シャロームと同じように、人の意見を、見ない、聞かない、自説を言うだけは好きなように言う楽山です。
 

また無神論に共感しているときに、何となしに神様から「お前は無神論を勉強し、無神論者の気持ちを理解できるようになりなさい。それができるようになったら、また呼び戻すから、その時まで無神論寄りでいなさい」と背中を押されている心持ちがしたりもするのだからおかしい。

 
楽山が、オカルト寄りのカルトであることを示しています。自問自答を、自己暗示で、神の行為と結び付けているのは冒涜です。
 

こういうことは、一般目線から見れば「ただの妄想」ということになるのだろうし、宗教的に見れば「悪魔が神のふりをしている。悪魔に騙されている」ということになるのかもしれない。はたまた「自己正当化のためのエゴイストらしい屁理屈だ」という分析も有り得るかもしれない。

 
いかなる理屈としても成り立たず、ただ、身勝手な感覚の思い込みに過ぎません。その感覚に見合うだけの実のある文章を、楽山の書いたものに見たことがないからです。
 

まあどれが正解かは分からないが、こういう感覚というものは自分の意思ではどうにも変えようがないし、無視することもできないのだから、ここはそういう感覚に正直でいるしかなかろうとは思う。
ただそれはそれとして、これまでの経験から考えると、信仰と不信のあいだに揺れ動くというのは、すごく時間の無駄であるように思えてならない。神はあるかないかという、この世では解決できるわけもない問題の答えを求めてさまよっても仕方ない。
最近はようやくこの問題をいくら追っても徒労に終わるしかないことを受け入れることができるようになってきたようなので、ここはよかったと思う。自分はどうも「これこそが正しい」というような考え方は苦手のようであるし、仮に特定の思想宗教に凝ることがあっても、じきにその思想宗教が窮屈になって、狭い棺桶に閉じ込められて地中深く埋められている気分に陥り、何が何でも外に出たくなってしまう。

 
感覚だからどうしようもない、と言うのは詭弁です。弁えとして、感覚には解釈を付けることが出来るはずです。このような詭弁によって、楽山は、自分の鈍麻を、自分のアドラー教の考え方で正当化して、これこそは正しいということが出来ないことをもって、曖昧で、ああでもない、こうでもない、何も決めない、判断さえもしない、というアドラー教を通して、中庸とか柔和の人格を気取りたいだけだと思います。
 
人を根拠なく決めつけてきたのは楽山なのです。そして、批判に弁明も反論も出来ないのも、シャロームと並んで、楽山なのです。しかも、成り立たないことを認めずに、訂正不能に、長い文章をだらだらと書いてくるのです。
 

人付き合いは距離感が大事だというけれども、自分にとっては思想宗教もこれと同じであって、そういうものとは適切な距離をとって、何事も決めつけることなく、ある程度の余裕を持った生き方が性に合ってるらしい。

 
その距離の適切を自分で判断するのだから、詭弁です。都合の悪いことを無視して、不寛容であり、婉曲的悪口は言っても、適切な距離など知らないのが人間ですが、楽山は自分で決めてゆくのです。楽山の言う余裕は、シャロームの不感不応の沼と同じように、無関心、無頓着、感情の鈍化、無視の無意識化、言語の曖昧、といった責任逃れの手段に過ぎないのです。
 
>*因果応報と短気
>もう一つドキッとした言葉を挙げておくと、これもそうだった。

『あなたがたの量るそのはかりで、自分も量られるだろう』これはわたしの言葉ではなく、マタイ福音書に書かれた教えです。あなたが量ったそのはかりは、あなた自身をも量るのです。
(『カラマーゾフの兄弟4』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.648)

 
私は、その聖句を知った上で書いています。
楽山は、聖句があるのだからキリスト者なら書くなと言いたいのでしょうか。
冗談じゃない、カルトについて、批判できる間、できることをするのです。
その聖句を知ったうえで、キリスト者の務めがあるということです。
 

ずいぶん前に、ロニー・ジェイムズ・ディオのインタビューで、「自分がしたことは、まわりまわって自分に返ってくる」という話が出ていたのを今でも覚えてるけど、こういう因果応報的な考え方は怖ろしいけれども、何となしにリアルに感じてしまう。

 
恐らく返ってくるでしょう。楽山が、シャロームが、人を嘘で騙そうとしたことは、自分に返ってくるでしょうし、みだりに神の名を唱えたことも、自分に返ってくるでしょう。
 

自分が何かしようとしたら、それがやがて自分に返ってくるのを想像してゾッとしてしまうとか。自分の身に面白くないことがあったときに、自分の過去をよくよく振り返ってみると、そういうことが自分の身に起きても仕方がないと思えるようなことを自分はしていたなあとか。
こういう感覚は、「そんなものは迷信だ。妄想だ」と思い込もうとしても、それは一時的には成功しても、長くは維持できないのだから、どうにもやっかいではある。

 
聖句は迷信でも妄想でもありません。人間として心で受け取れることです。心のないパリサイ人は受け取りませんでした。受け取った人々の信仰が今につながっています。
 
楽山には、因縁付けとしか思えず、ゆえに厄介としか受け取らないのでしょう。
むしろ、したことや、しなかったことによって、得たとか、避けたとか思っても、実際には、そのために大事なことが失われて、いずれ影響してくるとも言えるでしょう。
 

結局のところ、この手の強迫観念から解放されるには、人のことをむやみに責めたりしないようにするということしかないのだろうと思う。巷には正当な批判というものもあるだろうし、そういうことに抵抗感を持たない人もいるだろうけれども、自分はどうもその方面には向いてないらしい。
次の言葉は、思わず「その通り」と膝を打ちたくなるような言葉である。

 
むやみに責めたりしないようにと言って、楽山は、自分を責めるな、批判するな、という当てつけがましいボンヤリ言語の婉曲的な言い方は、もう常套手段になっているようです。
 

(引用)
「ジュピターよ、君は怒った、とすると君は正しくないのだ」という一句を引用した。これは傍聴席に無数の好意的な笑いをひきおこした。(同上、p.664)
(楽山)
一口に「怒った」と言っても、そのなかには急所を突かれたゆえの逆ギレ、逆上もあれば、不正に対する義憤、正当な怒りというものもあるだろうけれども、これらの怒りの是非はともかくとして、怒ってしまうと理性的な判断ができにくくなるというのは本当のように思われる。
特に、傍から見ていて、取るに足りないほど些細なことに対して、大激怒してしまうほどの短気を起こしてしまった場合は、その傾向は強まりそう。
 自分もけっこう短気なところはあるので、ここは気をつけなければ…。短気を起こせば、いずれは短気を起こされる側にまわされることにもなりかねないので。

 
怒りには、義憤というものがあります。それは、怒りを動機として、恨みや悪口や暴力を返すのではなく、どこが、おかしいのかを、できるだけ冷静に書いて、まとめて、指摘してゆくことです。それを批判と言います。
 
いつも冷静ではいられずに、怒りの言葉も言いますが、そうなるのは、対象が、全く反省もせず、反応もせず、相変わらず尊大な教える立場から、同じような空疎な言葉を並べるときです。
 
相手には効かないでしょうが、実に、楽山、シャローム、荒らしの易坊には、無効のようですが、私の発散と冷却にはなることがあります。だから、私は、いつも冷静ではありません。しかし、いつも、はぐらかしながら、まわりくどく、なじってくる無礼よりはマシなのです。
 
>*イワンとは正反対の世界観
>次の言葉は、病気で亡くなった17歳少年(ゾシマ長老の兄)が言ったことだという。

(引用)
「泣かないでよ、人生って天国だんだから、ぼくたちみんな天国にいるのにそれを知ろうとしないだけなんだよ。その気になれば、明日にでも世界中に天国が現れるんだから」だれもがそういう兄の言葉に目をみはった。  
(『カラマーゾフの兄弟2』ドストエフスキー著、亀山郁夫著、光文社、2007年、p.365)
ぼくのまわりにはこんなにすばらしい神の栄光が満ちていた。鳥たち、木々、美しさや栄光にまったく気づかずにいたんだ (同上、p.368)
「天国は」と彼はつづけた。「わたしたちひとりのうちに隠されていて、現にわたしのなかにもそれがあり、わたしもその気になれば、明日にもじっさいに天国がわたしに訪れ、それがずうっと一生つづいていくんです」 (同上、p.407)
(楽山)
ざっと読んだ印象としては、これはイワンとは正反対の世界観のように思う。自分の理解では、イワンは、この世界に起きた凄惨な事件を並べ立てた上で、神がいるなら、なぜこのような悲劇が放置されているのかという風に、神とこの世界を否定していた。
でも、ゾシマ長老の兄は、この世界はすでに天国であって、それに気付けるかどうかだと考えていたらしい。

 
解説もなく、あっさり、この世界はすでに天国、気づけるかどうか、と書くだけというのは、いかにも乱暴であり、天国について、超常の言葉以外知らないという証拠であります。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書
 
人間が垣間見る天国は、心ある人間の感性に響く癒しと安らぎであり、それは多く悲しみを経てもたらされます。楽山やシャロームが天国?と呼ぶものとは全く異なっていると思います。
 

たとえて言えば、この世界は、イワンにとっては地獄のようなもので、ゾシマ長老の兄にとっては天国だったということかな。こういう正反対の認識があるというのはおもしろい。
また、ゾシマ長老の兄は、神のみを素晴らしいとするのではなくて、草木、鳥たち、すべてが素晴らしく、美しいとしている。誤読かもしれないが、神の被造物を讃美することで神をたたえるというよりも、神とは別にこの世界を独立したものと認めた上で讃美しているニュアンスも若干あるようでもあるし、もしそうだとしたら、ここも興味深い。

 
このように、楽山の語る宗教の世界は、被造物讃美を経て、シャロームの誇大的讃美の打ちまくりと同様の、アニミズム的なものを含み、美しいと言うのと変わりなく、一人の人間さえ救うことの出来ないものだと思います。
 
ただし、心の背景に、それを求めるものがあったとき、心を動かすことはあるでしょう。
例えば「草木、鳥たち、すべてが素晴らしく、美しい」という言葉は、信仰による救いとして成り立つことはなく、個別の特殊な、そう感じる心があって、成り立つ言葉です。そう感じる人間の心の追求を抜きにして語ることは出来ないと思います。
 

それから上の考え方は、ある意味、谷口雅春の「生命の實相」と似てるところはあるかも…。「生命の實相」は難しい本だけども、自分の理解では、生命の實相は本来は完全円満であるから、それを覚れば周囲の現実も生命の實相と同じく完全円満となるという考え方だったかと。
こういう谷口雅春の考え方と、この世界はすべてが素晴らしく、そのことに気付きさえすれば、その通りの世界になるというのは、ほんと、そっくりな世界観のように思える。
イワンの世界観が正しいのか、ゾシマ長老の兄の世界観が正しいのか、実際のところは分からないけれども、どっちが幸福になることができるかといえば、たぶん、後者の方だろうな。宗教の必要性も、この辺りにあるのかもしれない。

 
このように、楽山の宗教の世界は、言葉だけの世界観があって、人間がいない世界なのです。言葉があって理屈があって、心がない世界観になります。言葉を組み合わせて、良さそうなことを書いているだけのようです。だから、人が、超常に向けて、これもいい、あれもいい、と言う言葉しかない宗教になります。
 
 
(2019年05月24日)
(2019年05月25日、一部修正)
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]