ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

インテリ気取り

 
  インテリ気取り
 
   『神は妄想か?』の感想つづき
    2019-10-02 07:10:37NEW !
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12531694550.html
   楽山日記(a)
 
 
以下のように、楽山は、執拗に、人の批判には答えないまま、何でもわかるつもりのインテリ気取りのために恐ろしく狭小となった視野から、通用しない駄々を並べて、ねちねちと、言い続けないではおれない体質なのです。
 

マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)

 
行為義認ではなく、信仰義認であるということです。つまり、善行を施したから救われるとか、神に、おべっかのような讃美をしまくったから救われるということでは決してないということです。そのようなことをしたり、言ったりする者は、シャロームがその典型ですが、福音を傷つける者であり、福音に与る者ではない、ということを、シャロームの弁護者である楽山が、図らずも、ここに書いているわけです。
 

この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラりの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。

 
これも、同じです。義とされるのは、信仰によるのであり、善行によるのではない、ということです。
この関連で、私は、何度か、神の前に、即ち、祈りにおいて、正直であることが唯一大事、ということを記事に書いてきました。楽山は、信仰義認を知らなかったのでしょうか。こういうことを知らないまま、キリスト教について、云々してきたのでしょうか、呆れます。
 

ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。

 
 (ヤコブの手紙、口語訳)
2:14
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16
あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
 (ヤコブ2:14-16、新約聖書
 
この聖句は、明らかに、言うだけで行わない、という、偽善を戒めているのです。罪は悔い改めによって赦されるが、偽善は、悔い改めず善のふりをするので、キリスト信仰の最大の敵です。
 
これに、よく当てはまるのは、神を言葉だけ讃美しまくりながら悔い改めをしないシャロームのような人です。楽山は、偽善を戒める話を、行為義認であるかのように、刷り込もうとしています。どこまで汚いやり方なのでしょう。本性が、だんだん露骨に表れてきて、・・吐き気がします。
 
学者気取りの小学生レベル、楽山は、いちゃもんを付けるためには、使徒さえも、おのれの机上において、批判しているようです。身の程知らずもここまで来ると、小学生が相撲取りと相撲を取るようなものでしょう。楽山のような者の、ここまでの思い上がりについては、けがらわしいとでも言うしかないようです。
 
使徒たちの間で、意見が一致していなかったということはあったでしょう。しかし、キリストのしもべであることに、何の変わりもなかったのです。
 
嘘吐き楽山に騙されないようにしてください。明らかになったのは、楽山は、聖書を読まないか、読めないか、理解できないか、理解する気がないか、ということだけです。悪意しかない者には、聖書は、当然、難解になるのです。
 
この聖句で「確かに衝突しているようではある」などと使徒を卑しめる楽山こそ、キリスト信仰者の不和を願って止まない、悪魔のような存在に思えてきます。気をつけてください。
 

最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。

 
この楽山の言を信用しないでください。楽山は、「信仰のみ」ということを、全く理解しているとは思えないからです。
 

たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、

 
このように、神をプレイヤーにして、楽山のお粗末な理屈でジャッジしようとしています。神と人は、双方向です。それは、聖書に表れています。しかし、私たち人間は、神の全知全能の世界を分かってはいません。その自覚こそが、信仰の弁えなのです。神は、楽山の論理なんぞで動いてはいません。
 

それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。

 
前にも書きましたが、私たち人間は、自らの行為の影響と結果を、最後まで辿ることはできません。人は実行するときの自覚で、善悪を判断しているに過ぎません。
 
ゆえに、人は、反省のために、祈りにおいて、神の前に自らを正直に捧げて、その都度、神を仰ぎ、神のほうを向く、これが悔い改めであり、その祈りを通じて、成長してゆくのです。
 
そのために必要なのは、人間としての弁えであり、神がかりでも人間離れでもなく、机上の興味本位の屁理屈満タンの空論でもなく、神と信仰を対象としてしか見ない傲慢カルトのボンヤリ言語でもなく、人間の元々持っている良心からの知性と感性による心の信仰理解であり、楽山のように臓物を扱うような暴虐とは全く無縁のことなのです。
 

神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。

 
信仰の問題を、知行合一で片付ける楽山は何も理解しないでしょう。善行は、信仰の結果として表れるもので、善行は、救われる前提でも条件でもないのです。だから犯罪人も、正直な告白だけで、天国を約束されたわけです。
 
ただし、真に賜物として信仰を受け取っている人は、信仰があり救われているゆえに、いわば、天国を垣間見ているゆえに、人に対しても、楽山やシャロームが日々言ってるような、あまりに白々しい嘘を吐く、ということはできなくなるということです。
 

ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。

 
上で、誤解というより曲解が明らかになっている楽山が、行いが伴わなければ・・という浅い道徳律だけを取って、共感したと言っています。これだけで共感するというのは不自然です。恐らく、嘘だと思います。楽山とシャロームは、この手の嘘を平気で言う人なのです。
 

でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。

 
はっきり言って、楽山に、今まで、罪の意識のようなものを一度も見たことはありません。また、シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから、罪を気にしなくていい、とまで言っています。シャロームと楽山は、同軸におり、ともに、私に、批判に対する反論や弁明の代わりに、数々の、いちゃもん、おとしめ、そして嘘を、言い放ってきたのです。つまり、ここも、楽山の感動は、嘘だと思います。
 
遣り取りには、その時だけでなく、シャロームとは約8年間の、楽山とは約一年間の、流れとしての文脈があるのです。今までのことを、いつもチャラにしてくるような、楽山のアドラー教のボンヤリ言語と、シャロームのボロクソ節の大嘘と妄想は、今、いくら美味しいことを言っても、無駄だということを、私に、学習させてきたのです。
 

ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、

 
また嘘を吐いています。楽山に、救われたと実感して歓喜するような感覚の経験はないと思います。恐らく、楽山のは、一時的な、宗教的陶酔気分の浮かれた感じをもって、そう言っているだけでしょう。今まで述べてきたように、楽山が、信仰を、ほんの僅かでも分かっているなら、このような記事にはならないし、今までのような自己中心の無遠慮な暴虐の流れもなかったはずなのです。
 

信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。

 
もともと信仰について何も分かっていない楽山は、上のほうに引用したのと同じような、ああでもない、こうでもない、という問答的な理屈を言っています。そういう楽山の、神も分かっていない、絶対も分かっていない、愛も分かっていない、無限も分かっていない、という、必要な理解が何もないのに、いちゃもんだけ、つけてくるような、身勝手さからは、全く対極に、信仰はあるのです。
 
勘違いしないでほしいのは、楽山が分からない・・と書いても、信用してはいけないということです。楽山は、言論の自由を好きなように行使しますが、言論の責任を一切負うことがありません。気に入らないことは総て無視して、自分の言える屁理屈だけを言ってきます。この記事の私からの批判も、まったく気にしていないと思います。
 

なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神は偉大で、その愛に限りはないと信じれば信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。

 
このように、信仰を、神との取引のように考える間、信仰の賜物を知ることはないのです。
神に対して、少しは何か、してやってもいいよ、と囁くペテン師がいるだけです。
 
言論の責任を負わない楽山、平気で嘘を吐く楽山、罪を認めない楽山、インテリ気取りの楽山、自尊絶対の楽山、心の無視虫だけ大事にする楽山、楽山から出てくるところの良さそうに見せた何ものも、信頼できませんから、信仰など持ったなどとは言っても信頼しないし、言わないだろうし、楽山に出来る善行は、ただ一つ、
 
・・何も言わないことだけです・・
 
これだけ言っても、楽山は、せいぜい、不快になり、怒り、何かを企んでニヤニヤするだけだと思います。受け入れられないときに怒る、それは、創世記の、カインの姿なのです。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:5-7、旧約聖書
 
カインには、悲しむ心がなく、何故なのですか?と、神に尋ねて、神との双方向によって反省し悔い改める気がありませんでした。聖書の中の、最古のサイコパスではないかと思っています。
 
そして、カインは、弟アベルを殺します。
 
 
(2019年10月03日)
 
 
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