ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

不感不応=無知

 
  不感不応=無知
 
 心に思ったことは現実になる?(詩篇108[109])
 2020年05月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24741611.html
 
 
楽山は、自業自得ということが分からないようです。また、訳の違いで検索しても一致しにくい聖句について、本任せで、解釈の根拠を示しません。そんなに、独りで、引用して、言いたいこと言って、それだけで満悦したのなら、人に見せずにやってくれと言いたいのです。
 
書くことで満悦したいだけの楽山の自己顕示欲という我欲の産物なので、私は、訳を気にせずに、楽山の聖句引用として批判してゆきます。それでも、楽山が書けば、積み重なった悪意と自慢と自己中の醜さは表れていますから、実際にあった、という、詭弁の資料となってゆくでしょう。
 

スピリチュアル精神世界の方面では、心に思ったことは現実になるとか、その思いに相応しいものが寄ってくるとかいうけれども、それと似た考え方が詩篇でも語られている。

彼は呪うことを好んだので呪いが彼にかかり、
祝福することをきらったので祝福は彼から遠ざかった。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店岩波文庫〉、2016年、p.273)
 」

 
楽山は、とうとう、結論だけを投げてきます。聖句について、また、楽山のことも、ただの自業自得と説明しておきます。
 
 (詩篇、口語訳)109:17
彼はのろうことを好んだ。
のろいを彼に臨ませてください。
彼は恵むことを喜ばなかった。
恵みを彼から遠ざけてください。
 (詩篇109:17、旧約聖書
 
常識的には、訂正不能の悪の自業自得、ということだと思いますが、またしても、楽山は、心に思うと現実になるぞ、というような、ホラー話として魔界の解釈をしているようです。人間的な見方が出来ない者は、そういう理路をでっちあげてきます。何でも超常的に見るのは、カルトには、よくあることです。
 
ごまかしに次ぐごまかしで、デタラメに次ぐデタラメの解釈で、聖書を恣意的に曲げて、自らへの批判をしにくくしたいようですが、批評として幼稚すぎて何の意味もありません。このようなズルをしているのに、幼稚だと気づかず、何の罪悪感も感じないのが楽山です。
 
楽山の言は、とうとう、誰とも議論などしたくない、例えば「オレは自分の書きたいことを書く、聞け。」・・とでも言ってるようなものです。
 
一般には、祝福することを嫌う者は、祝福しないのだから、あとは、無視するか、呪うだけになり、ゆえに、祝福されることもなくなるのは、当然のことであり、自業自得であり、それは、まさに、今は、楽山のことなのです。
 

こういう法則性が現実にあり得るかどうかは、万人を納得させるべき形で証明するのは難しいことではあろうけれども、ただそれでも自分は根が迷信深くできているせいか、こういうことを信じてしまう方ではある。

 
聖書を読んで、どこかで起こっている現象とでも見なしているのでしょうか、法則性?を云々している楽山です。そう信じてしまうのだそうです。ただの的外れの間違った思い込みです。楽山が聖書から何も良いものを見いだせないのは、当然のことでしょう。
 
楽山は「根が迷信深くできている」・・根深い病理と病原性ですが、ふつう、反省の対象になることを、できているから仕方ない、とでも言い訳しているのでしょうか。それで、そのまま、宗教の批評~批判が出来ると思っているようだから、呆れます。
 

それだから、悲観的なことを口に出したり、思ったりすれば、それが現実になってしまうかもしれないので、そういうことは言ったり思ったりしないようにしよう、できるだけ良いことを言ったり思ったりするようにしようと心掛けたりする。

 
心に思うと現実になることを恐れるらしい楽山は、今まで、嘘と詭弁ばかりで、良いことを言ったことなどありません。楽山は、心から良いことを言うことと、心にもないことを良さそうな言葉を見つくろって言うことを、混同しています、いや、読者に、混同させようとしています。
 
悪意による婉曲の、ボンヤリ言語の悪口で、キリスト信仰に、嫌がらせをしているだけです。ナルシストは悲観的なことを考えることがないという無反省と自己満足の狭い部屋で、悪意と嘲笑いだけを育てている異常さがうかがえます。
 

井沢元彦は、日本では言葉に出したことは現実になるという言霊信仰があるために、危機について具体的に言葉に出して議論し、その対策を講ずることが難しく、したがって危機管理が疎かになりがちだとしていたし、これは一理ある意見ではある。

 
楽山個人のことにとどめておけばよいものを、大言壮語に結び付けてゆく自尊過大の誇大化を避けられない楽山です。かっこつけないと気が済まないようです。そして、批評家気取りで、引用した他者の発言を、一理もない楽山が、上から、一理ある、などと言っています。
 

ただ自分はこれを承知しつつも、それでもやっぱり悪いことを考え、口に出すことには若干の躊躇があるのだから、我がごとながら呆れてしまう。もうちょっとでも頭を近代化して、合理的思考のできる現代人になりたいものだ(笑)。

 
いつも悪いことしか考えていないという経過と結果しか表れていない楽山が言っています。合理的思考が出来る現代人になれるのは、反省と学習機能を持っている人だけです。本を読みましたという自慢からは何も生まれてはこないのです。
 
楽山は、他者の意見を無視する分、思慮が驚くほど浅く幼稚になり、エネルギーのない土色の飾りまみれになって、感動のない隙間を徘徊しているだけなのです。よく「(笑)」などと書ける。これは、偽善カルトのシャロームと同じ症状です。
 
 
 聖書と多神教詩篇95-3)
 2020年05月11日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24741548.html
 楽山日記(LD)
 

タイトルは失念したが、何かの本で聖書は一神教だと思われがちだが、実際には多神教であるという指摘を読んだ記憶がある。先日、詩篇を読んでいて、ふとそれを思い出した。

まことにヤㇵウェは大いにして、いとほめらるべく
すべての神々の上に恐るべきもの。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店岩波文庫〉、2016年、p.232)
 」
これは字面だけを見ると、神は複数存在して、ヤハウェはその上に立っているといっているようだ。自分には一神教の世界を想像するのは困難だが、こういう多くの神々と、その上に立つ神という形であれば大分想像しやすくなっていい。天照大神とその他の神々だとか、毘盧遮那仏とその他の如来菩薩という世界観と似てくるので。

 
字面だけを見て書いてはいけないのです。しれっと「神は複数存在して」と言うのが、情けない短絡による楽山の詭弁です。聖書での神々というのは、異教の偶像の神々のことだと思いますが、楽山は、この情ない話で、神が複数いるという話にして、おとしめてきます。この理解不足は、哀れです。
 

ずいぶん前のことだが、さる匿名掲示板でHSを退会してキリスト教の洗礼を受けたという人が、神社に神はいない、何もいないというようなことを書いていて、びっくりしたことがあった。
自分はどうも根っからの多神教世界の住人のようで、神社仏閣、祠、山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ、畏れてしまう性質だ。唯物論無神論に傾いているときであれば、その感覚は薄れるが、それでもまるっきり消失してしまうことはない。

 
あらゆる自然や人工の物に、この世ならざる存在を感じると言っている楽山は、人間にだけは共感を持つことがないようです。キリストと父なる神に、芝居でなく本気で、祈ることも考えることも出来ない理由は、ここにあるのでしょう。楽山の言は、いつも、そこから書いてくるのです。
 
他者の、そして、人間の存在について何も感じられない楽山は、それを人のせいにして、代償行為的に、自然や物をあがめる方向に、人間離れして、さらに、霊が分かるっぽいなどと思い込み信じ込むようになったのでしょう。
 
自分は特別だと思い込んで人間離れしてゆく者には、キリスト信仰が芽生えることはないと言ってよいと思います。それは、人間として人格として異常だということです。
 
ちなみに、楽山は、自己愛が過剰なので、何も畏れてはいませんし、何を信じてもいないし、何をまともに感じてもいない、ということだけが、書くものに表れてきました。ゆえに、結果として、原始反応だけになって、知性も感性も働かないのでしょう。
 
人間の理路が組み立てられない楽山は、「唯物論無神論に傾いている」でしょうか。楽山の頭で扱うものが、物しかなく、神はいない、ということであって、「論」にはなっていないと思います。また、どこまでも、見栄を張って、分かっているふうの偉そうな物言いをしています。
 

だからキリスト教の神のみが実在し、その他の神は存在しない、神社には何もいない、空っぽだと信じ、それをリアルに感じることはできないし、それが可能だという人には驚いたのだった。

 
何を言っているのか不明です。楽山が唯一感じるのは、なんでも感じているつもりの自我の満悦感でしょう。実際は、感じているのではなく、感じているつもりでいる慢心だけとなり、感じないことへの恐れがなくなり、深い情性の鈍麻と、修正不能の傲慢から、主張がことごとく的外れになってしまうのです。
 

この辺りのことからすると、一神教多神教世界の住民の自分との間にある溝は、想像以上に深くて、そう簡単に埋められるものではないらしい。

 
一神教多神教をまとめてしまうことは出来ないですし、要するに、楽山が、宗教について何も知らないことを表しているだけでしょう。そして、何よりも自他未分化ということです。そのことは「心の理論」の誤解~曲解に表れていました。
 
さらに、楽山は、恐れをいだくべき対象を考えられず、全部、自分の世界の持ち物扱いになっています。自分の貧困な枠の中で、あたかも、真実を語っているかのように装うだけなのです。
 
腹いせのためだけにキリスト教を攻撃し、嫌がらせする悪意だから理路も共感もなく書ける、ということに、楽山は、満悦できる人物のようです。書けば書くほど、楽山という病魔の根深さを感じます。決して近づかないでください。
 
 
人の信仰は、悪魔性に勝てるでしょうか。勝てはしません。できることをして、結果を神に委ねたいだけです。
 
そうして、積み重ねられてゆくものが、必然的に、信仰においては神への捧げものとなり、受け取りは神に任されます。
 
 
魔性は、信仰に勝てるでしょうか。勝てるでしょう。人間的なエネルギーを、少しも使わず、消費しないのですから。
 
楽山は、自分あての独り言の手紙でしかないものを、他者への悪口で満たして、公共の場に貼りつけ、かつ、何も受け取らず、自己満足の砂場に、怒気だけを積み重ねて、破壊の鉱毒を自らに満たしてゆくのでしょう。
 
シャロームと同様に、宗教についての偏見を訂正不能にして、否定の先入観を、公共の場に垂れ流しているから、楽山の言は、文責を負わない分、短絡的に乱暴で、侵襲性のある誘導となるので、とても有害なのです。
 
 
(2020年05月13日)
 
批判を辛辣に書くのは手加減する気はないけど、
やっぱり罵詈雑言は、まずいかなと・・。・・考えてみます。
 
 
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