ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

とほほ?

 
  とほほ?
 
 「第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難」(『ヨブ記講演』内村鑑三
 2020年05月23日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24881454.html
 
 
楽山の言葉は、決して、素直に読んではいけない、というのが、今までの私の学習の経過と結果であり、今回も、その楽山の言の災いが表れています。
 
素直に受け入れでもしたら、人格は無視と怠慢と破壊の方向にしか向かず、注意していても、楽山に盲従してゆくことになり、本来の、知性と感性の学習も、その結果としての成長も、できなくなるでしょう。
 

ヨブ記講演』の第二講を読了。その内容を自分なりの言葉で要約、メモしておきたい。

 
メモではなく、楽山の観念的で訂正不能の先入観と偏見という思想の悪い要素、および、楽山発の、キリスト教への飽くなき嫌悪が、ボンヤリ言語の裏に固定された曲解に表れています。
 
このように、重大なテーマについて、劣悪な発言をしておきながら、気軽な、メモ、などという言い方をして、責任逃れをしてきます。楽山の、"自分なりの言葉"は、総じて悪意の詭弁であります。
 

・その名がヨブであったかどうかは別として、ヨブのような人物は実在していたのであろうし、著者もまたヨブのような経験をしたのであろう。ヨブはもちろん著者にも敬意を払うべきである。

 
内村鑑三を、聖書の登場人物であるヨブと並べて、同じような経験をした、と書いているところに、楽山が、いかに、聖書を軽く見ているかが表れています。
 

・一章一節においてヨブを全き人としているのは、「人より見ての完全であって、神より見ての完全ではな」く、この場合の完全の基準は、人それぞれであり、古のユダヤでは日本より相当に高い基準で判断されていた。
(ちなみに、ヨブ1-8では、神はヨブを表して、「全くかつ直く」(『ヨブ記』関根正雄訳、岩波文庫)としている。新共同訳では「無垢な正しい人」となっている)

 
 (ヨブ記、口語訳)1:1
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
 (ヨブ記1:1、旧約聖書
 
神の完全と同等の完全を身につけた人間は一人もいません。
 
人の肉体を持っておられたイエス・キリストの完全は、神聖なる三位の御一方ということを表しています。
 
楽山は、人より見ての完全どころか、訂正不能の完全と慢心の立場から、批評家気取りで、今回も、ヨブと神を語ってゆくのでしょう。その文章が、拙劣を極めても、不感不応の楽山は気にしないほどの、哀れな無反省の心性を持っているのです。
 

・サタンは神の許可を得て災厄をおこしている。この世の出来事はすべて神の意思によらないものはなく、またすべては何らかの意味を持ち、益となる。(ロマ8-28)

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書
 
まるで、いつも、サタンは、神の許可を得て災厄を起こしているかのような書き方です。楽山は、恣意的に、サタンも、神も、字面だけの観念で語って、おとしめられると思うゆえに、単純な文脈を捏造しています。
 
聖書の記事から、神とサタンの関係を安易に決めつけてはなりません。
 
 (ヨブ記、口語訳)2:6
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
 (ヨブ記2:6、旧約聖書
 
ここでは、サタンが、ヨブに加える災いには、命を奪うことを禁止する条件が付いています。人の命を造り、それを奪うのは、神のみの特権であります。
 
勝手に意味付けをしたうえで、楽山は、神の許可を得ているならば、なぜ、不幸が起こるのか・・みたいな、いちゃもんに結び付けたいのでしょう。
 
こういう幼稚な発想を、前に、して、また、今も、しようとしている楽山は、神を恐れず、神?を自らの観念の中において、何とか貶めようとしてきたのです。
 
私たちは言うべきなのです。神とサタンの関係については、人知を超えた領域ゆえ、人には理解できないことだと。
 
勝手の神とサタンのストーリーを決めつけてはならないし、特に、楽山のように安っぽい理路をもって文脈を作ってはならないということを学ぶべきです。
 
楽山は、聖書と信仰について、こういうことだけはしてはいけないよ、という、反面教師としての役割を果たしてきたのです。つまり、ここで、サタンの役割を続けているのは、楽山その人であります。一日も早く、退いてほしいわけです。
 

・ヨブの妻は自ら棄教し、夫にもそれをすすめたが、夫人の中には財産の一部を失っただけでそのようなことをする者もいる。ヨブの妻は財産も子も失い、夫が不治の病にかかるまで耐えたのだから彼女を責めることはできぬ。

 
 (ヨブ記、口語訳)
2:7-8
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
2:9
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
2:10
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
 (ヨブ記2:7-10、旧約聖書
 
「神をのろって死になさい」と言った妻を、正当化することも出来ません。しかし、神を呪っている楽山は、味方したいようです。
 
誰か、この妻を責めたのでしょうか。大仰に「責めることは出来ぬ」という楽山には、誰も、この妻を、責めることは出来ぬと言って庇(かば)うことも出来ぬ、とでも言っておきましょう。
 
楽山は、裁き主であるかのように、赦したいようですが、人の罪の裁きは、神に任せられます。こういうところに、上から物を言う楽山の恣意は、顔を出してきます。
 

・多くの人々がヨブを見捨てたが、三人の友はそうではなかった。真の友はありがたい存在である。ヨブはこの三人の友を前にして、涙をこらえることはできなかったであろう。

 
 (ヨブ記、口語訳)
2:12
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
2:13
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
 (ヨブ記2:12-13、旧約聖書
 
楽山は、ヨブ記の主題を外したいのでしょうか。人の説得が、結局は、ヨブに通じなかったというのが、ヨブ記の大きな主題であります。
 
楽山は、また、読み違いで、涙をこらえきれないヨブを、勝手に書いて、ヨブ記をメロドラマにしたいようです。浅はかな同情心で、信仰は語れない、ということを、楽山が明らかにしています。
 

ヨブ記を初めて読んだときは、サタンが神の許可を得て災厄をおこすというのは、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎると感じたものだったが、この世に起きることは、よき事はもちろん、そうでない事もすべて神の意思によるということを表現しているのであるならば合点が行く。「われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」(ヨブ2-10 関根正雄訳)という言葉もこの流れにあるのだろう。

 
本当に読んで理解したのなら、「神をのろって死になさい」と言った妻の味方をする、というような、今までの高慢な発言は無かったはずです。あるいは、今までの記事の流れと、今回の記事の文脈から、ここでの、神の意志について、合点が行く、という、楽山の言は、嘘だということです。
 

すべてに意味があるという考え方については、近頃は目的論的な思考には共感できなくなってきているので抵抗があるのだが、でも自分の身の回りに起きた事、起きるであろう事は受け入れないわけにはいかないだろうし、そのためには結局さいごにはこの思考に頼るしかなかろうとは思う。

 
総てに意味がある、ということが、頼れる思考になるでしょうか、意味が、目的が、いちいち、納得できるように、分かるでしょうか、否です。
 
信仰者においても、起こってくることに対しては、悩み、悲しみ、迷い、ときに疑い、祈りのうちに、できることをしてゆく歩みなのです。
 
楽山が、ボンヤリ言語で言いたいのは、神と聖書への肯定ではなく、自分の思考への依存と自慢なのです。嫌らしい詭弁の印象操作でもあります。だまされないでください。
 

ヨブやその妻の心情について、内村鑑三の理解、同情は心にしみるものがある。氏は人の心が分かる優しい人のようだ。こういう人を見ると、自分はいまだに他人に厳しく、裁き癖が治ってないと反省させられる。とほほ。

 
反省しているなら、修正による主張の変化と成長があるはずです。修正しないでいいと言うのなら、反論か弁明があるはずです。それら、正常な言論は、楽山から、一度も見られたことがありません。
 
今までの記事で、好きなようにキリスト教と神への呪いのような悪口を執拗に書いておきながら、今回の記事で、そのまま、裁き癖が治ってないと反省している言葉、これこそ、嘘っぱちのボンヤリ言語の詭弁以外ではありません。
 
この記事だけを見ても、神をのろって死になさいと言ったヨブの妻の味方をしたり、一方で、神の意志に合点が行くと言ったり、支離滅裂になっています。自分を高める以外に、一貫した思想など、楽山は、何も持っていないと思います。そして、最後は、"とほほ"・・?
 
「とほほ」なら、書くな、と言いたい。楽山は、人を痛めつけることに快感を感じるサディストのように、滅裂な文章を書いてもニヤニヤ笑っていると思います。寒気がします。ホラーです。場合によっては、とても危険です。決して近づかないようにしてください。
 
 
(2020年05月24日、同日一部修正)
 
 
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