ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の妄想曲解(1)

 
  楽山の妄想曲解(1)
 
 「ヨブ記」を再読してみた
 2020年12月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27306311.html
 
 
楽山は、再読どころか、読んでいないと思います。反キリストの楽山は、同じ反キリストや、他者の書いたものを、言葉面だけ舐めただけでしょう。あとは、いくらでも、曲げてゆくのが、楽山です。
 

*まえおき
前の記事を書いてから、「ヨブ記」を読み直してみた。感想を書いてみたい。
*あらすじ
まず、「ヨブ記」の内容は、大体こうなっている。
神は、ヨブは信心深くて善良であるとして喜ぶが、悪魔はヨブは幸福だから神を信じているだけで、逆境に陥れば神を恨むに違いないという。神はこれを聞き、ヨブが逆境においてどうするか試すことにする。
このあと、ヨブは財産を失い、家族を失い、自らも難病におかされることになるも、それでも信仰は保ち続ける。
三人の友人は、ヨブを見舞い、その惨状に驚きつつも、ヨブが災厄にみまわれたのは、罪の報いであるから悔い改めなければならないと説く。
しかしヨブは、三人の言葉に憤り、反論をする。自分はこのような報いを受けなければならぬほどの罪を犯した覚えはないと。
両者の議論は白熱し、ヨブは神に向かって、自分はなぜこんなにも苦しめられねばならないのかを問う。
神が登場し、自らは全能、絶対、完全であり、人知を超えた存在であることを誇示する。
ヨブは、神の偉大さに圧倒されて沈黙し、頭を垂れる。
神はそんなヨブを祝福する。これによってヨブは、前以上の財産を得て、子供にも恵まれ、長寿をまっとうすることになる。

 
人の気持ちが分からない楽山は、ヨブの気持ちを思いやることが出来ず、神と悪魔の行為の筋書きだけを見ています。神を考えるだけで、人への配慮のない楽山の宗教観です。だから、ヨブの気持ちをバッサリ切り取って、短く要約することが出来るのでしょう。
 
ヨブは、自己の正当を主張しますが、神を否定することが出来ないための苦悩があります。一方的に、自己主張だけの楽山とは違うので、楽山にヨブの気持ちは分かりません。
 

次に、「ヨブ記」のうち、論点になっている箇所について、自分の考えを述べたい。
*ヨブの受けた災厄は、罪の報いなのか?
ヨブ記」においては、神はヨブについて次のように言っている。

主はサタンに言われた。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
(ヨブ1-8)
 」
この発言からすると、神はヨブに満足しており、罪があるとは考えていないらしい。それなら、ヨブは罪の報いを受けることもあるまい。
*ヨブの受けた災厄は、どこからもたらされたのか?
ヨブ記」をみると、神はサタンに次のように命じている。

 主はサタンに言われた。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
(ヨブ1-12)
 」
ヨブはこれによって財産や子供たちを失った。
その後、神はさらにサタンにこう言った。

主はサタンに言われた。
「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
(ヨブ2-6)
 」
ヨブはこの後、難病にかかり、もだえ苦しむことになる。
このことから、ヨブを苦しめた実行犯はサタンではあろうが、それを命じたのは神であるといえる。

 
反キリストの本性です。この話を、楽山は、まるで、人と人の、実際の会話そのもののように、受け取っています。神話という側面の可能性を、ここまで無視するのは、あくまで事実としてのほうが、けなしやすいからです。
 
そのくせ、神が、人であるヨブについて、回復させるために、「命だけは奪うな」と言って、思いやっているところを、楽山の高等感情の欠落のまま、何も読み取っていません。
 
こういう恣意的な解釈しかできない楽山を、決して、真に受けてはいけません。楽山は、無反省、無責任で、何も、真っ当には出来ない人です。
 
ゆえに、総てを、神がやった、神は酷い、という方向に持ってゆこうとするのです。その作為、即ち、反キリストの悪意を、見逃さないでください。
 

*ヨブの災厄と「波長同通の法則」
上の二回の災厄について、波長同通の法則によって考えると、サタンはヨブの心が清いときは、ヨブの周囲の人々は攻撃できても、ヨブ本人は攻撃できなかったが、ヨブの心に迷いが生じてからは、ヨブ本人を攻撃できるようになったと推測される。
しかし、「ヨブ記」によると、ヨブ本人が難病におかされるようになって以降も、ヨブは罪はおかさなかったとしている。

 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
(ヨブ2-10)
 」
したがって、「波長同通の法則によって考えると~」云々という解釈は、無効ということになる。
またそもそも、ヨブの災厄は、上の神の言葉にもどついたものであって、波長同通の法則によるものではない。

 
波長同通というのは、結局、送信機と受信機の話に喩えて、分からん者には分からん、ということを、さも科学であるかのように、使っているもので、HSの用語のようですが、HSの名を出さずに使っているサイトもあるようです。それを、使えると思ったら、何でも悪意で曲げて使うのが、楽山です。
 
楽山は、恣意的に、あげつらって、HSを批判しているかのように見せかけて、実は、自己満悦しているだけなのです。強いて言うならば、楽山は、いかなる波長にも反応できない人だと思います。
 
人間にとって、必要な感受性が欠けており、誰にも、だます以上には通じない自分だけの波長で、なんでも語れると思っているのです。
 

*友人たちの忠告は正しいか?
三人の友人たちは、因果応報という考え方に基づいて、ヨブに忠告を与えている。
善因善果、悪因悪果ということからすれば、ヨブが死を願いたくなるほどの怖ろしい災厄にみまわれたということは、それだけの大きな罪を犯したということであろうから、悔い改めなければならぬと。
しかし、これについては、上ですでに述べた通り、ヨブの受けた災厄は、罪の報いによるものではないのだから、三友の忠告は、的外れということになる。

 
三人の友人たちの言い分は、楽山の宗教観に似て、心よりも教条に終始しているところがあります。
 
因果応報ではなく、神は試練を与えているのです。しかし、楽山は、神の与える試練というのが、楽山の自己愛に反しているので、我慢ならず、いつまでも、文句を言って、不都合を、すべて神のせいにしたいのだろうと思います。
 
信仰の話であり、神の恵みと寛容の話でもあるところを、まるで無視して、覚えた四字熟語を振り回し、楽山は、難しそうに、分かったふうに、神の試練を、残酷物語に変えて、けなして、かえって、自らの無理解を浮き彫りにして、ボロを出しているのです。
 
ヨブ記は、最後にヨブがひれ伏したゆえに、神が恵みを与えることによって、教条主義や、楽山の言うような善悪など超えたところに信仰があること、つまり、神の支えなしには生きられない人間というものを、描いているのです。
 
そこに、くどくどと、自己中の善悪解釈を入れて、いい気になっているのは、信仰も神も、楽山が、まるで分かっていないからなのです。全く、的外れの記事ばかり、楽山は書いてきます。
 

*なぜ神は、三友たちに怒ったか?
神は物語の終盤において、ヨブは正しく、三友は間違っているとしている。

主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
(ヨブ42-7)
 」
私見ながら、神の怒りの原因は二つあり、まず一つは、三友が神の絶対を信じていなかったことにあるのではないかと思う。三友は、神は因果応報を超えた判断をする場合がありえることについて、まったく考慮していない。つまり、神ではなく、因果応報をこそ絶対なものとしており、神以外のものを神とする偶像崇拝に陥っている。

 
信仰の共感もなく何も言う資格のない門外漢で、さらに、無反省、無責任の楽山の私見は大いなる災いです。友人さえも、軽々しく悪者にして、疑問を感じないのは、楽山の、他者のことを何も思いやることが出来ない人格障害のためでしょう。高等感情の鈍麻~欠落とは、この楽山の思考と配慮の浅さなのです。
 
「因果応報を超えた」と、楽山が言っているのは、神は勝手だと、けなすためでしょう。そういう方向に、ずっと誘導しています。
 

もう一つは、三友たちは、自分は神の摂理を知っている、神の御心を知っていると思い込み、自らを神の位置においてヨブに説教していたことだ。三友は、自分は正しいと信じて疑わず、傲慢であった。

 
「自分は正しいと信じて疑わず、傲慢」・・これは、楽山に、そのまま当てはまります。また、自分の発言で、自分が斬られている楽山です。
 

一方、ヨブはといえば、なぜ自分は苦しめられなければならぬのかという問いを発して、神の御心は応報思想では分からないことに気づいていた。神こそは絶対であり、因果応報を超える判断をくだす可能性について、おぼろげながらも気づいていた。

 
ヨブは、完全に分かっていたわけでも、気づいていたわけでもありません。ヨブの信仰は試されているのです。それを、「神こそは絶対であり、因果応報を超える判断」などと、大仰に言っていることが、楽山の、救いがたいほど、未熟のまま固定しているところの無理な背伸びです。
 
恐らく、神というのは因果応報を超える判断を下すのだから信じたらダメ、という方向に誘導したいのでしょう。楽山の底意地の悪さが表れています。
 

またヨブは、自身を神の位置におくのでなく、神と向き合い、衣の裾をつかんで離さず、必死になって、なぜ、なぜと繰り返し問うていたのだった。神を恨むかのような発言もあったが、それは神を切実に求めているが故のものだった。
神はこのような両者の違いを見極めていたのではないかと思う。

 
あざといですね、反キリスト・反宗教のカルト思想屋の楽山が、ヨブを「神を切実に求めている」と言っています。真に受けないでください。楽山は、それなのに神は酷い、と言いたいだけなのです。
 
けなすために、褒める、こういうことを、まっすぐでない楽山は、平気でやってきます。総ての楽山の言には、恣意と悪意の仕掛けがあると思っていてよいでしょう。以前には、鼻の曲がるような、わざとらしい讃美の文言で、クリスチャン芝居も演じていた大根役者の楽山なのです。
 

*自分語り
ちなみに、自分はHS信者だったころは、三友のように考えていた。因果応報だとか、波長同通の法則だとか、そういった法則は絶対であって、これこそが神であるという理神論のような考え方である。

 
楽山の、いかなる考え方も、○○論も、○○法則も、当てにしないようにしてください。楽山の物言いの中心には、楽山しかいないのです。楽山は、何でも、そのとき、都合がよければ、利用・悪用する人です。
 

でもHS退会後は、神は絶対、全能、完全であるという考え方を知るようになり、それなら神は因果応報はもちろん、波長同通の法則、引き寄せの法則、代償の法則その他一切の法則をも超越することができるのであろうと考えるようになった。
こう考えると、くだらぬ迷信や、トンデモ理論に惑わされることがなくなるので快適である。

 
楽山は、自己愛によって、快楽を得ているだけです。神の絶対性など、毛ほどの価値も認めてはいないと思います。何ごとにつけ、毀誉褒貶が甚だしく、主旨が一定せず、その時の自分の都合だけで言っては、言い得ているなどと誰も思わないのに、自分だけで満悦するのです。そもそも、人生が、楽山の、独り芝居なのかもしれません。
 

*神義論(弁神論)
とはいえ、神は絶対だとすると、神義論というやっかいな問題と向き合わねばならぬことになる。
この辺りの構造については、西田幾太郎はこう書いている。

神を最完全存在者といふ風に考へることによつて難問題が起つてくる。即ち、それでは何故に世の中に禍や悪があるかといふ問題である。
〈省略〉
この問題を理論的に見ると、現在禍や悪がある。しかるにもし神が完全存在ならば如何にしてこれを作つたかと云ふことになる。
(『西田幾多郎全集 第十五巻』西田幾多郎岩波書店、1979年、p.355)
*旧字は新字に改めた。
 」
つまり、神は絶対、全能、完全だとすれば、神議論に突き当たるのは論理的必然であるのだ。

 
絶対・完全という神の性質を、自らにのみ、適用している体質が、楽山その人であります。その表れは、いつも、中立を装いますが、根底に、訂正不能の自我への我執だけが、熱していることです。
 
こういう人を、説得して何とかしようというのは、無謀であります。ただただ、楽山については、言論の意義から排除するしかないのです。
 
一見、理論的に見せていても、随所に、詭弁が隠れています。しかし、その詭弁性は、人間としての、必然性や、感じ方を、全く無視したところにあることから分かるのです。楽山を真に受けて、付き合うことは、自滅行為となります。
 

HS信者氏は、「『神がいるなら、なぜ悪があるのか』『悪人が成功し、善人が悲惨にあうのはなぜか』という疑問を持つのは、その者が不信仰だからだ」と独り決めしているが、これは上の前提と論理を解さぬために勘違いしているのだろう。

 
勘違いと言っていますが、『神がいるなら、なぜ悪があるのか』というのを、大発見のように、前に言っていたのは、ほかならぬ楽山です。しかも、それを神義論などと称していました。
 
今は、「不信仰だからだ」を批判する材料に使っています。不信仰も、非信仰も、反信仰も、背教も、そして信仰も、何も分かっていない楽山は、不信仰ではなく、非信仰でもなく、悪魔のような策士だということです。
 
何の責任も負う気のない楽山の、言いたい放題の、この狡猾な本性は、こういう書き方を見ると、ますます、変わらないだろうと判断するしかありません。
 

無神論と有神論
内村鑑三の『ヨブ記講演』第十三講によれば、イエスは最大の無神論者かつ最大の有神論者であるという見方があるという。なぜならイエスの最期の言葉は「わが神わが神何ぞ我を捨て給うや」であると同時に、この言によって神を見出す人もいるからである。

 
だから、こういうことを、さも意味ありげに言う資格など、楽山には無いのです。反論して説得しようなどと思わないでください。楽山の無責任は、都合の良い方向に、ころころ変わります。しかも、前言を全く反省も訂正もしないのです。白々しい紙切れ、それが楽山です。
 
>そういえば確かに、詩編22は神を恨み、かつ讃美するものである。
 
詩篇22は、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」に始まり、「主がなされたその救を 後に生れる民にのべ伝えるでしょう。」に終わる聖句です。
 
神を必要とする信仰の嘆きと求める心から、神を賛美するに至る、信仰告白であります。他に寄る辺のない、神を恨めない信仰者が歌っているのです。
 
神と同格?の意識で、気安く、神を恨む楽山とは、わけが違うのです。試練と信仰を、気安く、恨みと言うところには、楽山の、読み方の決定的な欠陥が表れています。楽山は、深いところを、何も読み取れないで、分からないで、読んだつもりになるのです。
 

ヨブは神に苦しめられることを恨みつつも、神を強く求めているし、また神に裁かれているとしつつも、その神に自分の弁護を願っているなどして、大分混乱しているようにも思えるが、最大の無神論者でありつつも最大の有神論者でもあることが可能とすれば、こういうヨブは最大の不信仰者であるともに、最大の信仰者でもあり、これこそが宗教的真実を示しているといえるのかもしれぬ。

 
恨んだら、求めたりしない、ということが分からない楽山です。まさに、安楽のための、神との取引が成り立たないものだから、恨んで、求めないばかりか、けなし、おとしめて、快感を得ようという楽山です。
 
「最大の無神論者でありつつも最大の有神論者」・・楽山の、オモチャを扱うような、言葉遊びに過ぎません。いかなるときも、逆説表現というものが、最も理解できていないのは、楽山その人であります。だから、恨みつつ、などと平気で、逆を並べたりもするのです。
 
それで、宗教的真実などと言うのですから呆れます。"的" を付ければいいというものではないでしょう。ここは、読者が分からないことを自分は分かってるふうを装うための、楽山のデタラメ論理細工だと思って、捨ててください。信仰の分からない者に、言われる筋合いはないのです。
 

信仰とは、神を否定したらダメ、神を讃美したらマルというような単純なものではないのだ。
ちなみに、前に記事に書いたことがあるが、羽仁もと子の「ヨブの信仰」でも、ヨブが神に対していろいろ言うのも、神を信じていればこそだとして、これと似た解釈をしている。

 
楽山は、否定も出来ておらず、詭弁で誘導します。そして、楽山は、もちろん、肯定も讃美も、芝居だけです。何から何まで、話にならない人です。「神を信じていればこそ」の、いかなることも、楽山には、不毛の頭か心か便器に過ぎません。
 
こういう、楽山の、たらしこみには、決して、不思議だとか、何かあるとか、思わないでください。楽山は、神など、どうでもいいのです。楽山は、自分を、偉く見せかけることしか、してこなかった乱暴者です。
 
これだけ批判しても、楽山は、不感不応で、平気なのです。だから、誰に対しても、無反省・無責任で生きるなんてことは、楽山には、朝飯前なのでしょう。くれぐれも、決して相手にしないように願います。
 
(2)につづく。
 
 

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              曲げる男、曲がる男
 
 
(2020年12月13日)
 
 
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