ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

中立芝居

 
  中立芝居
 
 「第四講 老友エリバズまず語る」2020年06月06日
 (『ヨブ記講演』内村鑑三
 http://mn266z.blog.jp/archives/25053677.html
 
 
楽山は、キリスト教と神をおとしめ、それを訂正しないまま、今度は、いかにも真面目に努力しているふうを装っています。しかし、今まで書いてきたことを否定せずに、逆方向のことを書いても、結局は、自分は中立で何教でも分かっているのです、という不変の自尊過大のアピールしか表れていないのです。だまされてはいけないと思います。
 
人の言うことを受け取って書く、ということが出来ない楽山は、ひたすら聖書や本の中から、自分に都合の良いところを拾って来ては書くのです。唾液を飛ばして言い逃れをしている見苦しさと同じです。
 
そして、最近の、反省、反省、と言いながら、人の言うことを受け取らずに、書き続ける執拗さにこそ、自己中が、他者を無視して、趣味に合うことだけを漁ってゆく自己崩壊の経過が表れています。反省とは真逆の態度であります。字面だけの反省言葉、真に受けてはいけません。
 

ヨブ記講演』の第四講を読んだので、忘れぬうちに内容をメモしておきたい。本講の中身は前より一段と濃くなっている。

 
自尊過大のナルシシストに、信仰について、中身が濃いかどうかなど、分かりはしません。字面読書の一本道は、信仰への侮辱と堕落の片道切符を売りつけることでしかありません。
 

・エリパズの言葉は「苦難にある友」への言葉としては「冷酷」である。しかしこれは彼の問題ではなく「当時の神学思想の罪」である。
・「ヨブの苦闘は」「すべての真人の経過する苦闘である」。

 
先ず、エリバズの言葉が冷酷だと言っています。それは、本に書いてある、ということが担保だと言いたげです。エリパズだけでなく、神の意志を、人が代弁することは出来ないということです。
 
楽山は、その上で、さらに、「神学思想の罪」、「真人の経過する苦闘である」と、引用でしょうか、書いて、ヨブを弁護するように見せかけ、気づかぬうちに、実際には、楽山自身を弁護しようとしています。こういう文脈を、自己中と自己愛で、作ってくるのが、楽山を赦せない根拠になってゆくのです。悪魔性の陰謀が全開と見るべきでしょう。
 

・当時の神学思想は「罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至る」というものであるから、悲惨な状況にあるヨブは、何か罪を犯したからそのようになったのだとみなされ、悔い改めを求められる。

 
ヨブ記全体を通して、人がヨブを説得することが出来ず、すなわち、ヨブは、神が顕れるまで、罪を認めずに、自身を不遇を嘆き、自己正当化して、神と議論したいとまで主張を続けます。ここに、ヨブだけでなく、人間の罪の根源が表されている、という重要なヨブ記であります。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、旧約聖書
 
ヨブ記の話というのは、人の無力と、神の絶対を、ヨブの苦境での自己正当化という罪を通して、伝えているのです。神と、人の、絶対的な違いを弁えるためです。
 
神と論ずる、なんてことは、決して出来ません。私たちは、人間として、受け取れることを受け取るだけです。全部、過不足なく受け取るということもありません。だから、生涯にわたって、祈り、告白し、悔い改め、反省し、成長することが必要なのです。
 
信仰者のための聖書の読み方としては、楽山のように、史実や字面にこだわって、短絡するのではなく、大小の文脈において、聖書が何を伝えているかを考えることが大切です。
 
しかし、楽山は、人に対して、さらに、神に対しても、一段上に立って批評する、という反信仰の立場から、字面だけの同情心を装い、ヨブを無罪にすることで、聖書をけがし、神をけがし、悔い改めたヨブをけがしています。楽山の反信仰全開です。
 
人格の根腐れというのは、何を言っても書いても、態度と姿勢に、既に、表れてきたし、今回も同じことです。どんなに、謙虚芝居をしても、前にも後にも、無反応の不感不応の自己を執拗に表すことで、自己顕示と誘導のための芝居だと、バレてしまうので、いっさいは、無駄なのです。
 
人に無視されるのが嫌で、執拗に書いてきますが、誰よりも、人を無視してきたのは、楽山その人であります。これからも、恐らく、同じでしょう。おぞましいことです。
 

・4.12-21は幽霊物語であり、「ヨブを諭さんとするための技巧なるか」「かかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ」。
(4.12-16について、『旧約聖書 ヨブ記』(岩波文庫、関根正雄訳)の注釈では、「神の言葉を受ける時の心理的状況を述べている。預言書にもこのような具体的叙述は見られない」としている)

 
 (ヨブ記、口語訳)
4:12
さて、わたしに、言葉がひそかに臨んだ、
わたしの耳はそのささやきを聞いた。
4:13
すなわち人の熟睡するころ、
夜の幻によって思い乱れている時、
4:14
恐れがわたしに臨んだので、おののき、
わたしの骨はことごとく震えた。
4:15
時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、
わたしの身の毛はよだった。
4:16
そのものは立ちどまったが、
わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
4:17
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
4:18
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、
その天使をも誤れる者とみなされる。
4:19
まして、泥の家に住む者、
ちりをその基とする者、
しみのようにつぶされる者。
4:20
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、
顧みる者もなく、永遠に滅びる。
4:21
もしその天幕の綱が
彼らのうちに取り去られるなら、
ついに悟ることもなく、死にうせるではないか』。
 (ヨブ4:12-21、旧約聖書
 
夢の啓示でしょうか。人は神の前に正しく清くあり得ないこと、そして、人が、いかに、はかなく、弱いものであるか、という、神と人の決定的な違いが書いてあります。
 
楽山は、これを幽霊物語と書いています。楽山が、霊能者気取りで、原始反応的に、幽霊物語で済ませるのは、何も読み取っておらず、受け取っていない証拠なのです。
 

・5.2-7は「災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である」。
・5.17~以下は「人に挑む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と」した。

 
よく分かりませんが、艱難を罪の結果と見てしまえば、試練として受け取って祈り悔い改めに結び付けることは出来ないでしょう。楽山は、まさに、そういう一次元の受け取り方しかできない字面のみの思考であろうと思います。
 

ヨブ記の物語を現在の教会にあてはめると、ヨブが模範的信者であり、経済的にも社会的にも成功している間は、それは神から祝福されていると解されていても、やがて度重なる不幸にみまわれ零落すると、何か罪を犯したためであろうと推測され、教会の代表者三人…「老牧師エリパズ」「壮年有能の神学者ビルダデ」「少壮有為の実務家ゾパル」がヨブを見舞い、懺悔を勧めるために訪問したという流れになる。

 
このように、キリストも神も聖書も、理解の端緒にすら達していない楽山は、無理解を、自分にではなく、教会に当てはめて、教条主義と決めつけてゆこうという魂胆しか持たないことが表れています。これからも続くのでしょう。楽山という反信仰・反キリストの資料化が進んでいます。
 

・「罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない」。キリスト、パウロなどがその例である。
・苦難の種類は三つ。一つは「罪の結果」であり、二つ目は「懲治(こらしめ)」「愛の笞(むち)」、三つ目は「信仰を試むるために下る苦難」。ヨブの苦難はこの三つ目にあたる。第一章の天国での場面でそれが分かる。しかしエルパズらは一つ目、二つ目について語るばかりである。
・「人が艱難に会したるときは、その艱難を以てその人を審判くべからずその人格を以って艱難を審判くべし」(ブレンチウス)。

 
これも、これだけでは、よく分かりませんが、奇しくも、楽山のことを言っているかのようです。信仰者の人格つまり人間の信仰をもって、艱難がいかなる艱難であるかを判断するべきだ、ということでしょうか。
 
これは、判断する人間の能力において、とても難しいことではありますが、少なくとも、これはこの罪の報いだというような決めつけをしてはいけない、ということとして受け取っておきます。
 
つまり、今に始まったことではないところの、楽山の、不感不応の自己愛の自己中心からの、見下ろすような決めつけが、この悪い例に当たるでしょう。
 

不幸な状況にある人について、因果応報、自業自得と決めつけることはありがちなことである。宗教を信じている人が、その教義によって人を裁くというのもそう珍しくはない。恥ずかしながら自分にもそういうところがあるのだから情けない。しかもこれは間違いだと自覚していても同じ事を繰り返してしまう。ここはひたすら反省…。

 
反省と言うなら、書かないことです。書いて、自己顕示していることから、楽山は、またしても、読者を欺こうとしている、ということだけが表れるてくるのです。
 
 
 2020年06月06日
 『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳
 http://mn266z.blog.jp/archives/25053621.html
 
楽山の高慢が、いたるところに、表れるようになっています。
 

岩波文庫の『旧約聖書 ヨブ記』を読んだ。「ヨブ記」は以前、新共同訳で読んだときは文章が難しすぎて大まかな意味を推測するのがやっとで分かったという気持ちには全然ならなかったのだが、本書は巻末の注釈が充実しているので自分のような基本的な知識に欠ける者でも理解しやすくなっていて有り難い。とはいえ自分にとっては、この注釈も程度が高すぎて難しいのではあるが。

 
楽山は、シャロームと同様、ヨブ記も、聖書も、キリスト教も、キリスト信仰も、神も、キリストも、理解していません。というより、人間としての受け取り方が、まるで出来ていないのです。
 
それでも、書いてくること、尊大と言われたものだから、難しい、などと謙虚芝居をして、批判を全然受け取らないまま、また、書いてくるところに、楽山の訂正不能の厚顔が表れています。
 
安楽のお山の大将には、実に、安易に、誰でもなれるのです。他者の意見を無視して、こんなに本を読んだ、難しい、反省、とほほ、と書いて、あざとい芝居をすればよいのですから。ただし、これは、自他の人格の致命的な破壊を伴います。
 
気に入らないことを無視しましょう、という、アドラー教の信条を、楽山は前に書いて、実際、人の言うことを聞かず、都合の良いところを漁って本を出してきて、読書家気取りを出すところが、まさに、楽山がいつ何を書いても、けちな企みであることが、楽山の筆致を通して、いつも明らかになってきたのです。
 

本文全体の感想については、前に読んだ時とは印象が大分変って、ヨブとその友人たちの激しさに圧倒された。前はみな大人しい性格に思ったのだが、今回はヨブの友人たちへの反論や神に向けての言葉の激烈さ、ヨブの友人たちのヨブ批判の無慈悲さには驚かされた。これは多分前は比喩の意味がよく分かっていなかったのが、今回は注釈のおかげでその意味をよりはっきり受け取ることができたためなのだろう。

 
楽山の「前はみな大人しい性格に思った」という感想は異常です。恐らく、注釈を経ても、楽山が、「その意味をよりはっきり受け取る」ことは出来ないと思います。受け取る器を用意することが、自己中と自己愛のために、楽山には出来ていないからです。
 
前には、クリスチャン芝居もしてきたような、楽山という人は、狼と少年の話のように、嘘を言っても、本当を言っても、結局、芝居によって嘘偽りを隠そうとする方向に向かいます。まるで、魔法のように。
 
ですから、そのような経緯を経て、今もまた、言いがかりと言い逃れの詭弁と誘導の企み、という、似たようなことしか出来ないところに、受ける器の病巣が、ますます明らかになるだけです。
 

自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋なので聖書のことは聖書を読めば分かるのであって解説書なんて必要ないと考えてしまったりもするのであるが、こうしてみるとやはり解説書はぜひとも必要だと痛感させられる。

 
楽山は、「自分は根がどこまでもお目出度い自惚れ屋」・・これが弁明になると思っているのでしょうか。自惚れ屋は、自惚れ屋であるあいだ、信仰など語れませんし、語ってはいけないのです。
 

宗教的に読もうとするする場合は、知識的なことに頼らず、霊感によって読むことが大切なのだろうけれども、

 
また、霊が分かるっぽい自分を出したいのでしょうか。楽山には、今まで、霊感も、一般的なインスピレーション的な直観も、一度も、文章に表れたことはありません。汚水のように漏れてくるのは、自慢と気取りと高慢だけなのです。
 

歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば当たり前のことではあるが専門家による研究を無視する事はできないのだと思う。

 
信仰においては、歴史的事実に忠実に現実的に読もうとすれば、霊感は必要ありません。特に宗教においては、人間らしい、冷静な、知性と感性があればよいのです。
 
この楽山から発せられる、"当たり前"、"忠実"は、刷り込みとして、実に怖いです。
 
こういうところで、専門家の研究を無視することはできない、などと、専門家の言うことが分かる自分を出してきて、自身の厚顔を表してしまうような、そして、一般を軽く見るような、楽山は、どんなに選り好みの読書を続けても、恣意しかなく、宗教と信仰の真実を受け取ることはないでしょう。ゆえに、真実を伝えることもないと思います。どうか、だまされないでください。
 
 
(2020年06月07日)
 
 
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