ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の企み

 
  楽山の企み
 
 講演会について(幸福の科学キリスト教
 2020年07月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25676640.html
 
 
今回、楽山は、白々しくも、キリスト教を褒めています。このような、あざといことを、平気でやってのける楽山には、同情は禁物です。後追いで褒めるのではなく、悔い改めることが必要です。楽山は、言葉だけ、それに近い、反省、有り難い、などの、ほめ言葉を平気で使ってきます。実際には、そういう心性はないと思います。
 
批判をかわすための、最初から分かっていたんだよ、ということにしたいという詭弁です。言葉だけ、好きなように細工してくる楽山の言を、決して真に受けないでください。嘘を吐くことに、全く罪悪感がないのだろうと思います。
 

以前、三浦光世氏の講演会を聴きに行ったことがあるのだが、その時に印象的だったのが、会場には老若男女、実にさまざまな人々がいたことである。体の不自由な人も多くいて、ここは幸福の科学(HS)とは全然ちがうと思ったのだった。自分はHSの講演会(90年代)で、体の不自由な人が多くいるのを見掛けたことは無かったので、この相違点はすごく印象に残った。

 
(ネットより)
三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人。小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた。
正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発。1949年、キリスト教プロテスタント)の洗礼を受ける。1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。闘病しながら作家生活を送った綾子を口述筆記などで支え続けた。綾子のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案した。1966年に旭川営林署を退職。
1999年、妻綾子とともに日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
趣味は将棋で、アマ六段の腕前。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務めた。キリスト教関連の著書もある。日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者。
2014年10月30日、敗血症のため死去[1]。90歳没。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%85%89%E4%B8%96
 
自己中というのは、自分は知っている、分かっている、という自意識と自己顕示欲があるので、説明をしないで、インテリぶるところがあります。インテリは知らない人に優しいものですが、楽山は、偽インテリなので、慈愛の実質がなく、自分は知っている、あなたは知らないのですか、とでも言いたげに、自慢して得意になるのでしょう。
 
HSとの相違点を、「体の不自由な人も多くいて」「すごく印象に残った」という褒め言葉だけで、言い得たつもりになって、満悦するのでしょう。自己愛性は、言論の、あらゆる点と線と角度で、表れてきます。そうして、やさしく説いたつもりが、ピント外れになるのです。
 
事情が違うだけで、みな、平等であり、弱さという共感する立場から、他者を疎かにしないということであるのに、楽山は、憐れみの話にして傍観しているところに、上から眺める立場しか持っていないことが表れてくるのでしょう。楽山は、未熟とか弱さとか傷とか欠点とかいったものに共感できない人なのです。
 
その高慢な精神を糊塗して隠すかのように「すごく印象に残った」という飾りをつけることしかできないのでしょう。楽山は、HSをネタにして、こき下ろし、ここでだけ、キリスト教をネタにして、持ち上げて、結局、自分はちゃんとわかってるんです、と言いたくて、すべっているのです。
 

HSの教えには、病気の八割は悪霊憑依が原因になっているというものがある。心の中に悪想念が凝り固まっているから病気になるという考え方もある。白隠禅師の霊言では、何々の病気は前世で人を殺したカルマだとか、こういう性格だと痔になるとか、そんな風な発言が多くあった。大雑把に言えば、HSの教えは、心が正しいと健康で幸福になるが、心が間違っていると悪霊に憑依されて病気になり、不運続きになるということである(最近では、正しい信仰〈HS信仰〉を持っているとコロナにならないとか、信仰免疫とか言っているらしい)。

 
恐ろしいほどの、"霊" という言葉を使いまくった辻褄合わせです。このように、カルトは、基本から、超常言葉を語ります。無視されているのは、人間の温もりと潤いです。
 
この "霊" というのが、楽山の子ども時代から大好きな言葉なのです。宗教を怪談のように超常言葉で表して、温もりも潤いもない記事を書いてきたのです。
 

だから、HSでは病気の人の周囲は微妙な空気になる。信者仲間が病気になったときもそんな風になる。ものをはっきり言う信者であれば、微妙な空気をはねのけて、病気だったり、不運続きの人に向かって、心の間違いを注意することにもなる。したがって、HS教義をある程度知っている人が病気になったり、不運続きになれば、支部内では肩身が狭く、居心地の悪い思いをすることになる。

 
人間性を無視して、霊的な?何ものかの話ばかりになると、派生してくるのは、さらなる超常現象解釈の拡張になります。結果から、霊的?欠陥を責めるような、救済とは逆方向にもなるでしょう。
 
楽山が、霊が分かるっぽい自覚から、妖怪やお伽噺のフィクションに興味が偏って、人間性について感じることも考えることも出来ず、キリスト教についての、気味の悪い解釈や、誇大妄想的な、いちゃもんだけになってゆく過程と同様でしょう。
 

一応教義には例外事項も用意されていて、心が間違っていなくとも、悪霊に憑依されていなくとも、病気になったり不運な目に遭うこともあるとしているが、相当なご都合主義の性格でもないかぎりは、自分は例外であると信じきることは難しく、やっぱり肩身は狭く、いたたまれない気持ちにならずにはいられまい。

 
憑依のことを言っていますが、そうでないのは、例外事項だそうです。それを、抵抗もなく、楽山は、使っています。ご都合主義と書いていますが、カルトから抜けきっていないために、はっきりカルトだと否定することを弁えてなどいないということです。それは、楽山自身が、自分信仰というカルトだからでしょう。楽山の怪しさは、いたるところに表れてきます。
 

自分が「ヨブ記」に興味があるのは、多分このことが遠因になっている。「ヨブ記」を知るきっかけになったのは、三浦綾子のエッセーで、夫婦そろって体調を崩して床についているときに、知り合いから何かの祟りではないかと心配される一方で、他の人からはヨブ記を読むことをすすめられたという話を読んだことであるが、三浦綾子ヨブ記を教えてもらったのは本当によかった。おかげで、実際に「ヨブ記」を読み、次には内村鑑三の「ヨブ記講演」を読み、それによってHSで感じた違和感の正体に気づくことが出来た。

 
前に、楽山は、ヨブ記のことを書いていましたが、到底、読んでいるとは思えない文章でした。その解釈も拙劣で、断片的で、全然、神と人の関係を考えることが出来ていないと判断されるものでした。だから、「本当によかった」「気づくことが出来た」という子供の台詞しか書けないのでしょう。
 
楽山は、解説、説明、説得する、ということが出来ないのです。これは、才能や能力云々ではなく、自分に満悦していて、深刻に疑問を持って考察できず、思考と情緒を深める意志を持てない自己愛性人格障害だからです。
 

前の記事で、キリスト教の本を読むことで、HSのマインド・コントロールから脱することが出来たことを書いたけれども、これもその一例であると思う。キリスト教はカルト対策に大きく貢献しているという話は聞いているけれども、こういう実体験からそれも納得である。

 
キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたことについて、その無理解によって、反省もしない楽山ですから、「キリスト教はカルト対策に大きく貢献している」「実体験からそれも納得である」は、反省した、よかった、と同様、決して、真に受けてはいけない楽山の褒め言葉です。
 
まるで何かに誰かにゴマを擂っている感じの、世辞の印象です。楽山は、言動がバラバラになって、統合した人格を欠いたブログの流れになっています。楽山は、自分はちゃんとわかってるんだと示したいようですが、実質がまるでなく、自らに溺れて、自らを見失い、あちこちから噴き出してくる矛盾に、あがいている体であります。本人は気づかないでしょうけど。
 
反キリスト、反宗教の、病的ナルシスト、という評価は、後追いの、付け足しの、おべっかや、世辞や、ほめ言葉では、覆ることはないのです。
 
楽山は、反省していると思わせるために、よかった、気づいた、納得である、といった勢いだけの言葉を、並べれてきます。全体に深みがないのです。だまされないでください。
 
楽山が、だいたい、知りもしないキリスト教を、けなし、そして、ちょろっと本を読んで、ほめる、なんてのは、ありえないことです。知識は、いくら積んでも、信仰を保証しません。
 
信仰は、心の温もりと潤いに生まれるものですから、共感と悲しみを知る心を持たない楽山には生まれないし、また、信仰を語ることもできはしないのです。
 
誰も、本をちょろっと読んで、キリスト教とは・・云々、などと得々と語るような楽山のような悲惨な有り様になってほしくないと切に思い、祈っています。
 
悪名がよそに向くことを期待しているのか、誰かが、同情してくれるだろうと思っているのかもしれませんが、方向がバラバラで偽りに満ちた言は、流れを知っておれば、わざとらしく、白々しくて、書き続ければ、いずれは、誰もが気づくことになります。楽山は、早く、書くのをやめるべきです。
 
楽山は、まだ、何か、解説か評論のようなものが書けると思っているのでしょうか。楽山は、疲労と苛立ちと迷いしか与えてこなかったのに、頷く人に対しては、しめた!とばかり、みな、だましていいとでも思っているのでしょうか。
 
それに、何度も書いたけど、言論の責任をいっさい取ろうとしない態度で、言論は自由じゃろとばかり、書いていいと思っていること自体、反社会的です。
 
無反省で無反応で責任を負わない者に、言論の自由はありません。これは、社会人の当然のルールなのですが、やはり反社会人だから、正常な社会人たる自覚がないのでしょう。
 
楽山は、ブログという囲いから発信すれば、安全に人をだませるとでも思って、高をくくっているとしか思えません。呆れます。
 
キリスト信仰者は、神の前で、人からの唯一の音信の手段として、精いっぱい正直に祈る人です。
 
地上の人の世界では、神への音信は祈りだけですが、神の全知全能を思えば、神が、私たちを知らない時と所があるとは思えません。すなわち、私たちは、神の前で生きているということです。
 
その神の前で、キリスト教の信仰について、悔い改めることなく、故意に、悪意で、だますために、平気で、けなしたり、ほめたり、また、嘘を吐く者を、神が赦すでしょうか、否であります。
 
 
(2020年07月31日)
 
 
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