ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の剥き出し

 
  楽山の剥き出し
 
 
楽山は、また、3つの記事を書いてきました。むき出しの悪意を、もはや、隠せなくなったようです。つまり、楽山は、評論しているのでもなく、議論しているのでもなく、意見を発表しているのでもなく、ただ、保身の欲望に、けしかけられて持ち前の詭弁で暴れているだけなのです。
 
今回は、小野不由美、という"悪霊シリーズ"などの怪奇小説の作家の言を悪用して自己正当化をしたいようです。他者を平気で悪用して、何も罪悪感を感じないのも、楽山の一貫した特徴です。
 
 
 祈りについて(『図南の翼』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27061901.html
 
 
とても、短い記事です。丁寧語にだまされないように。
楽山の書いた記事が、楽山を斬るのです。
 

*真実な祈り
 最近は、「十二国記」にハマっていて、そればかり読んでいるのだが、祈りについて、いいことが書いてあったのでメモしておきたい。

祈りというものは、真実の声でなければ届かない
(『図南の翼』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.383)
 」
この後は、祈りは「本音でなければならない」という言葉が続いているのだが、これは自分にもよく分かる。以前、あることを本気で祈ったときに、即、かなえられて、なるほど本心から祈ればこうなるのかと実感したことがあったので。

 
楽山は、本音を言ったことなどありません。本音ならば、責任を負うはずです。楽山の言行が、全くの不一致です。無反省無責任の楽山は、狂気の欺瞞を剥き出しにしてきました。
 

祈りについては、宗教によって、または人によって、さまざまな教義、経験があるのだろうけれども、祈るときは正直であれというのはどの宗教でも、個人の経験でも共通しているのではないかと思う。

 
その神を欺いて、嘘の祈り芝居をしたのは、楽山その人であります。それは、また、クリスチャン芝居でもありました。つまり、楽山は、読者を芝居で欺き、宗教を侮辱したのです。
 
 
 責難は成事にあらず(『華胥の幽夢』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27061996.html
 
 
冷静に書いて俎上に載せるということが出来ず、議論できない楽山が、責めるのはいけない、などと書いています。根拠を示す批判と、楽山の嘘で固めた悪口の区別が、まるで、つかないようです。
 
しかも、ずっとですが、自分の責任ある言葉を持ち合わせていないために、今回も、他者の意見を自己正当化に悪用しています。もはや、小中学生の節操もないのでしょうか。楽山は、丁寧を装った悪口であり、決して議論好きではありません。
 

*耳に痛いこと
十二国記を読んでいたら、議論好きの自分としては耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。

 
言ったことの責任を負わない者に、どうして議論が出来るでしょう。楽山は、正常な議論をしたことなどありません。楽山は、議論好きではなく、議論の体裁を悪用している悪党です。
 

まず、この物語の主人公たちは、悪政によって苦しめられている民を救うために、道を見失った暗愚な王を批判、排除し、自分たちが実権を握り、種々の政策を実行したものの、どうしたわけか、かえって国土は荒廃し、民を困窮させることになってしまったという状況下において、次の話をしていた。

責めるのは容易い。非難することは誰にでもできることです。でも、ただ責めるだけで正しい道を教えてあげられないのなら、それは何も生まない。正すことは、何かを成すことだけど、非難することは何かを成すことじゃない
(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.287)
 」
また、こうも言う。

私たちみたいに、高い理想を掲げて人を責めることは、本当に簡単なことです。でも私たちは、その理想が本当に実現可能なのか、真にあるべき姿なのかをゆっくり腰を据えて考えてみたことがなかった気がするんです。
(同上、p.291)
 」
自分としては、他人と議論する際には、理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないことを心掛けているつもりではあるが、

 
楽山が、「理想は人それぞれ異なること、相手に無理なことを求めないこと」と書いています。誰が、言論において理解を無理に求め得るでしょう。
 
楽山は批判者に当てつけているだけです。しかし、議論は対話ですし、無反省で無責任の楽山とは不可能なので、楽山が書いてきたことを批判しています。
 
それを、無理を求めるなと言って、我を通したいようですが、楽山の我は、どこにも出せない無反省と無責任の産物であることが、既に、明らかになっています。
 
楽山の言は、いちゃもんを言って、悪いイメージを吹き込もうとする詭弁家の荒らしの所業です。いかなる真実追求にも、無責任でよいなどということは成立しません。
 
楽山は、おのれの無責任を責めることと、一般論であるところの、相手に無理に求めることを、恣意的に混同して、批判を否定したいのですが、逆効果であり、またしても、楽山の無節操が明らかになります。
 

「自分にはとても実現できない理想を描き、その理想の妥当性についてさほど吟味することなく、それに合致しないことをもって他者を批判してはいないか?」と問われれば、そんなことは絶対にないとは言い切れないのはつらいところだ。反省。

 
楽山は、正当な批判をしたことはありません。いちゃもん、当てつけ、当てこすりの、とても卑怯な刷り込みだけしか書けないのです。この記事もそうです。
 
そして、自分を、いつも、中立で、偏らない立場に置きたがるのですが、否定も肯定も言って、なお無責任では、何も成立しません。
 
批判されても平気でいるのは、人を人とも思わないほど傲慢だからです。ゆえに「反省」は、いつもの、トホホ言語であり、その反省の経過も結果も、書くものに表れたことがないので、いつものように、真っ赤な嘘です。
 
だから、楽山は、気取りだけで慢心する自己中なのです。楽山は、言うことが、どんどん、あざとく、剥き出しになり、ますます汚くなってゆくようです。
 

*余談
ちなみに、この手の話で思い出すのは、この議論だ。

青木理『批判はするが対案は示さない』小松靖アナに論破され苦し紛れの言い訳。それじゃただのガヤ|政治知新
小松靖アナが青木理に浴びせたネトウヨ常套句|LITERA/リテラ
 」
これを読むと、当然のことながら、「耳に痛いこと」で書いたことは、いつでもどこでも誰にでも当てはまることではなく、時と場合によってはそうとも言えないことがあるようなので、なかなかにややこしい。

 
自分の言葉で、自分の意見を、責任をもって、書くことが出来ない楽山の「なかなかにややこしい」という曖昧な言葉しか書けず、理路を組み立てられない有り様が剥き出しとなり、それゆえに、陰険で、傲慢で、闇に企む体質が、表れています。
 
 
 自分の確信を疑わない人(『華胥の幽夢』小野不由美著)
 2020年11月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27062214.html
 
 
反省しているように見せて、みすぼらしい自己正当化の詭弁で結ぶ、という、卑しい詭弁屋の楽山の筆致が、地獄のゴミために堕ちてゆきます。
 

*過信
前の記事に続いて、十二国記を読んでいたら、また耳に痛いことが書いてあったのでメモしておきたい。

貴方に恥ずべきこと――後悔すべきことがあるとすればただ一つ、それは確信を疑わなかった、ということです
(『華胥の幽夢』小野不由美著、新潮社、令和元年、p.296)
 」
恥ずかしながら、自分は若い頃に、カルトにハマってしまったことがあるのだが、そのような失敗をした原因は、まさにここに書いてある通り…「確信を疑わなかった」ことにあったのだった。

 
反省は、今、必要なのに、言葉だけ書いて、今は楽山が批判しているHSを批判するために、過去の確信を疑わなかったことを反省めいた書き方をしてきます。実は、これが、とんでもない詭弁だと言うことを知る必要があります。
 
もし、後悔するなら、今も、指摘された無反省と無責任を反省できるはずです。しかし、そういう反省は一度も見られたことはないのです。
 
楽山にしてみれば、過去のことだから、今は必要ないから、信じたのは失敗だったと、安心して書けるわけです。これを、真摯な反省などと思わないでください。楽山の根底にあるのは、反省ではなく、訂正不能の慢心と他者への怨念です。
 

当時の自分は、「この教えは真実だ!」「教祖はまさしく神だ!」「自分はこの宗教と出会うために生まれてきたのだ!」と強く確信して、それを少しも疑わないままに駆け出してしまった。

 
楽山が「当時の自分」を、いくら反省して、反省できる人だというアピールを印象付けようとしても、今反省するべきことから、即ち、無反省と無責任から、目を背けている事実は、どうしようもありません。むしろ、汚さが剥き出しになるだけです。
 

本当なら、その確信は正しいかどうか時間をかけてよく考えてみるべきだったし、頭を冷やすためにいったん対象と距離をおいたり、他者の忠告にはもっと真剣に耳を傾けるべきだったのに、確信という幸福感に溺れてそれができなかった。これが自分の失敗の原因。いやはや、自分はあきれてしまうほどの愚か者だなと思う。反省。

 
楽山が、既に、記事を書くたびにバレてきた数々の嘘の反省の履歴があり、無反省と無責任の履歴があり、今までの嘘、今までの詭弁、今までに明らかになった病的体質が明らかになったのだから、楽山の信頼度がゼロになった今では、何の意味もありません。
 
その証拠のように、また、不感不応の批判無視で、ネチネチと言い訳めいたことを、3つも書いています。どこまでも、自己正当化、もはや、手遅れであり、真実追求のテーマから、退く以外にはないのです。
 

司馬遼太郎の講演で、思想的な酩酊体質について語ったものがあるが、思想・宗教について強く確信することは、思想・宗教に酔うことでもあって気持ちの良いことだが、酔えば判断力は鈍るものだし、思わぬ失策をすることもあるので、ここはよくよく注意すべきなのだと思う。

 
そして、楽山のあくどいところですが、過去の楽山の失敗を、確信の否定として、思想・宗教について広げる企みが露骨に続いていることに注目してください。
 
個人の過去否定を、全体の重要なテーマについて、広げて、同じように扱って「よくよく注意すべき」などと言っています。楽山の失敗と、広く深く重いテーマである思想・宗教の真実追求は、何の関係もありません。
 
つまり、何ごとも確信してはいけないという楽山は、総てが、どっちつかずで、いい加減が一番良いと思っている従来の無責任の正当化に結び付ける、という、実に、卑怯で、醜くて、酷い詭弁です。
 
楽山は、みな、バレているのに、まだ書き続けられると思っているのでしょうか。手遅れなのでしょうか。楽山の欲望と我執と罪と偽善の、執拗で恐ろしい業(ごう)の深さが続いています。
 
 
私は、キリスト信仰から、むしろ、人は、神とは違う、という謙虚を学んでいます。
 
楽山は、宗教と反宗教という矛盾した自家撞着から、なぜか、自己中の傲慢を身につけただけです。この悪性は、無反省と無責任という、大きな我執をもって、人格を破壊してゆく病原です。
 
 

      f:id:stdsts:20201122000506j:plain

         むき出しのワナ
 
 
(2020年11月22日)
 
 
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楽山の傲慢

 
  楽山の傲慢
 
 
数を書けばいいと思っている楽山の悪あがきです。一日で3つも記事を書いてきました。数を書けば批判しにくいということもないのです。何故なら、楽山の、無反省と無責任だけの文章は、いつどこで見ても、有害性が明らかだからです。
 
 
 高橋昌一郎氏と幸福の科学
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27049716.html
 一部省略
 
HSの教義には関心はありません。楽山の非道だけを追及しています。
 

*驚いた!
ツイッターを眺めていたら、高橋昌一郎氏の文章が流れて来たので読んでみた。

・「高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ」事件の真相!|高橋昌一郎|note
 」

・やや日刊カルト新聞: 哲学者・高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ!=ストーキングや訴訟予告で報復中
 」
いやはや、これが本当なら酷い話である。

 
HSが、恫喝したという話のようですが、楽山は、恫喝ではなく、ひたすら、反省と責任という義務を無視して、見物人として、面白がっている傍迷惑な悪趣味です。上の2者は、互いに批判し合っているようですが、楽山は、丁寧語で無責任をごまかしている偽善者です。
 
楽山の無責任な記事に対しては、当たり前のことですが、批判目的の場合を除いて、他者を無視する楽山の言を、無責任だから無視するということが正しい対処法です。"いやはや" という言葉で、酷い話をしているのは、楽山その人です。私は、そのことだけを言い続けています。
 

*同情の余地
でもよく考えてみれば、彼らが批判者に対して高圧的な態度に出るのも仕方がないかもしれぬ。
たとえば、HSでは人事異動は頻繁にあり、職員の地位は極めて不安定だ。大川家の一員であっても、総裁の意向次第で追放もありえる。とすれば、HSの職員は、総裁のご機嫌を損ねることは何としても避けたかろ。

 
楽山は、高圧的に、また、あけすけに、相手を批判したり、相手の悪口を言うことよりも、悪性度が高いのです。怒る人は見苦しいですが、楽山のように平気で済ましているのは、通らないことをしている無法と非道の者が、善人のふりをすることで、そこでまた重ねて嘘を吐いているのだから、悪よりもさらに悪である極悪の偽善ということになります。大方の凶悪な犯罪者は、しらばっくれて善のふりをするという現実があります。楽山を決して許してはいけません。
 

また総裁は、新聞や雑誌をよく見ているという。それなら総裁から週刊誌対策を命じられた職員は、尻に火がついた状態にならざるをえないだろう。適当な報告で誤魔化しようがないし、総裁が次号を見たときに、そこに批判記事があるかないかによって自分の将来も決定しかねないのだ。わが身を守るために、なりふり構わぬ行動に出てしまうのも仕方ない。

 
凶悪な偽善者である楽山も、いずれ、尻か股間か頭に火が付くでしょう。なりふり構わぬ行動に出るかもしれません。だから、関わっている人は、今すぐ、離れて、難を避けてください。
 
生まれ育って大人になった時には、既に、偽善者であり、反キリストであり、今、既に、無反省と無責任であり自己顕示欲だけの厚顔無恥の言いたがり屋である楽山は、いずれ、制御不能になってゆくでしょう。
 

以上のことはいろいろと見聞きしたことからの想像に過ぎないのではあるが、なにはともあれ一部の職員が批判者に対して高圧的な態度に出がちなのは、それ相応の理由はあるにちがいない。
一般論としては暴君に仕えるならば、その者もまた暴君のようにならざるを得ないものであろうし、<
 
自己愛性パーソナリティ障害で学習ができないために、ああでもないこうでもないボンヤリ言論で、責任を負わない詐欺師体質の楽山を受け入れる人は、同じように、だますことしかできない、人間的良心の感受性を持たない、ごまかしだけの偽善者になってしまうでしょう。
 

高圧的な態度を示す職員は、理想を持って出家したにもかかわらず、心の平安を得られず苦しんでいるのかもしれぬなどと考えてみると、そういう人をあまり厳しく責めるのは可哀想と思う次第ではある。

 
楽山の偽善の騙し文句に侵された者は、理想を持っていたにもかかわらず、心の平安と不感不応を勘違いして、打てど響かない鈍感な者となり、楽山と同じように、嘘と出まかせで誰かをだましていないと心の平安を得られない者となってゆくでしょう。だから、楽山には、罵詈雑言を吐かないからといって、批判を緩めることは決してできないのであります。
 
 
 信者の傲慢さとマインド・コントロール
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27050014.html
 
 
楽山の傲慢さとマインドコントロールについて書いてゆきます。
 

*三つの原因
前記事で、一部の職員が高圧的な態度を示す理由についてあれこれ考えて見たのだが、本記事では信者の傲慢さについて書いてみたい。
思うに、これはマインド・コントロールの影響が強いのではなかろうか。具体的には、次の三つだ。

 
楽山が施すマインドコントロールは、中庸に見せかけ、挨拶や社交の世辞などで油断させ、否定を書いて、のちに、肯定を書き、これで、責任を免れようとする嘘っぱち、即ち、詭弁や印象操作であります。体のいいことを書いているように見えても、底を流れているのは、いじって自己満悦する悪ふざけでしかありません。
 
見かけだけの柔和さの裏にあるのは、今まで無反省と無責任を指摘されるなど、何を言われても、平然と無視する厚顔無恥による不感不応であり、これに従う者は、知らず知らずのうちに、感情、特に、高等感情が習慣的に鈍麻してゆくでしょう。楽山に似てくるのです。
 
つまり、罪悪感、後悔の念、などの感受性が働かなくなり、人間の成長に不可欠の学習を不可能にする無視によって、人格破壊に至るのです。表情乏しく、いつも、うすぼんやりとしてニヤニヤ笑っているようになり、人間について実のあることを、感じることも考えることも出来なくなるでしょう。
 

まず一つは、信者は自分は神の側にあると思い込まされているということである。だから、「われわれは、神(大川隆法)の下に集い、その教えを広め、人々を救おうとしている、しかし、悪魔(アンチ)は、この救世活動を邪魔しようとしている。そんな邪悪なアンチには絶対に負けない。正義の鉄槌をくだすべし」という傲慢さが生まれるのだろう。

 
先ず、楽山は自分がまともなことを言っていると思い込んでいます。中立の立場を装って、実は、上から見下ろして、良いとか悪いとか言っているのが気持ちよい、ということだけが、楽山の快楽と生き甲斐なのでしょう。
 
結局は、断定していないからと言い逃れたつもりで責任を負わない楽山なので、中身は何も言わないのと同じ意見の不在になるのですが、結果として、巻き込まれた者に、名状しがたい異常な精神疲労を残します。言論に本気であればあるほど、楽山は凶悪な病原なのです。
 
正常な言論を混乱させ、無責任な善人芝居をし続ける楽山は、公共の精神衛生のために、その言を徹底して排除することが必要です。そのために、強制力が使えないので、楽山の執拗な無駄口に対して、忍耐強い批判の継続が必要なのです。
 

二つ目は、仏陀誹謗、和合僧破壊は大罪だという戒めだ。HSでは、大川隆法を悪く言ったり、信者の信仰心をぐらつかせるようなことを言ったりするのは大罪であり、死後は地獄に堕ちるとしている。だから信者は、自分がその戒めを守ろうとするだけでなく、批判者に対しても、仏陀誹謗、和合僧破壊の罪を犯すよりは、つべこべ言わずに黙ってろと言うことになる。

 
楽山は、知ったかぶりで、HSの理屈に合わせています。楽山は、時々、愚にもつかない幼稚な嫌がらせを書いてくることはありますが、「つべこべ言わずに黙ってろ」ではなく、理解も出来ないために、大方は、無視であります。この無視を、平然と出来て、さらに言い続けるということが、正常な議論や批判から見ると、極めて特異な異常なのです。
 

三つ目は、信者はエリート意識を持たされるということがある。HSでは、HSを信じたということは、本物を見抜く眼力がある霊的エリートだという考え方がある。大川隆法の信者になれたということは、過去世において相応の修行を積んできたおかげだともいう。だから信者とは反対の立場の人たち…非信者・アンチ・退会者などに対しては、本物を見抜けない未熟者、神(大川隆法)に逆らう傲慢な者、信仰を貫けなかった退転者だと見下すことになるわけである。

 
楽山は、肯定と否定を書いてどっちつかずで、それをもって責任をいっさい負わないでいいと思っていて、楽山を信じても不満と不全感が残るだけでしょう。楽山は、自己の利益以外何も考えていないからです。
 
楽山が、はっきりしたことを言わないのは、言えないからであり、楽山の知性と感性が鈍麻して整わないからです。だから、他者のことを、こう言っている、こう言うことになる、といった書き方しかできないわけです。
 
他には「かなあ」「ていうか」「否定できない」「と言えなくもない」という書き方をしますが、これらは、表現を曖昧にしただけで、中身は、ある時点では、肯定か否定かのどちらかなのに、あとで、責任は負わないのです。こういう人と付き合うことだけは、自分のためにも、他者のためにも、やめてほしいです。
 

大概の信者は、自分がマインド・コントロールされていることは認めないけれども、実際のところは上の通り、HSにおだてられ、操られ、自我を肥大化させ、他者を見下し、傲慢発言を繰り返している信者は決して少なくないのが現実だ。

 
楽山のことを、思慮深い、やさしい、バランスが取れている、などと思うのが、一番恐ろしいところの、だまされた経過になります。楽山の心の底にあるのは、我欲と、それが満たされないための深い怨念だけだと思います。
 

当然ながら、大勢いる信者の中には上の指摘には当てはまらない立派な人はいるだろうが、そうでない人は、この点について、ちょっとだけでも自らをよく振り返ってみてはどうかと思う。

 
こういう優しさ芝居が、楽山の得意技のようです。これを、気遣いと受け取ってしまうと、楽山の狡猾な細工の罠にはまることになります。必ず裏切る人、というより、根本的に、最初から、他者のことなど、何も気遣わない自己中の病的ナルシスト、それが、楽山です。近づいてはいけません。
 
 
 「HSの自由論」と「一般的な自由論」
 2020年11月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27050109.html
 一部省略。
 
権利には義務が、自由には責任が、必ず伴います。
 
自分は、何の責任も果たさないまま、他者のことばかり書いている楽山です。
 

*自由とは?
自由について、高橋昌一郎氏は、次のように書いている。

いずれにしても、現代の日本では、仮に誰かが「イワシの頭」を祭り上げて拝んだとしても自由であり、そのために御殿を建てても、信者を拡張するために勧誘活動を行っても構わない。それが「信仰の自由」である。
だが、仮に「イワシの頭」教団が、公序良俗に反する「非論理」的な見解を宣伝し、「反科学」的な思想を信者に植え付け、その社会的影響に対して「無責任」であれば、その理由を問い掛け、分析し、批判することも自由である。これこそが「信念の自由」であり「学問の自由」なのである!
・「高橋昌一郎氏に幸福の科学ブチギレ」事件の真相!|高橋昌一郎|note
 」
これは自分にもよく分かるし、納得できる考え方である。

 
自由には、必ず、公共の福祉に反しない、ということが条件となります。
 
ゆえに、楽山の暴走に対して、批判をする事由があります。
 
楽山は「納得できる」と書いていますが、そのための公共に対する責任をいっさい負わないのですから、言論をする資格はないのです。
 

*過去の議論
 ちなみに、自由については、信者とはこんなやり取りをしたことがあった。

・★ 言論の自由について (言論の場の自由など) - 楽山日記(LD)
・発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~ - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
・「発言の場の自由について ~アンチブログ「楽山日記」に対しての反論~」を読んでみた。- 楽山日記(LD)
 」
HS(幸福の科学)では、神である大川隆法を批判するのは、傲慢であり、言論の自由のはきちがえであるということになっているようだが、こういう理屈は教団内では通用しても、一般には受け入れられることはあるまいと思う。

 
明確に言えることとして、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由はありません。
 
自由を、いちばん履き違えているのは、楽山その人であります。
 
 

    f:id:stdsts:20201121000533j:plain

       傲慢の闇
 
 
(2020年11月21日、同日一部修正)
 
 
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楽山の厚顔の極み

 
  楽山の厚顔の極み
 
 幸福の科学島田裕巳
 2020年11月18日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/27026050.html
 一部引用省略。
 
 
楽山は、恥ずかしい男です。しかも、恥知らずです。今も、まともな意見を持っているつもりで、今までのことなど無かったかのように、唾を飛ばして、正義の味方を装います。
 
楽山が、身の程も弁えず、反省もせず、無責任に書いてくるたびに、こちらは、明日の記事のテーマを考える必要がなくなる、という皮肉が成り立っています。
 
(ネットより)
島田 裕巳(しまだ ひろみ、1953年[2](昭和28年)11月8日 - )は、日本の宗教学者、作家、劇作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人葬送の自由をすすめる会会長。放送教育開発センター(現メディア教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任[3][4]。
島田はオウム真理教(現アレフ)は本物の修行型宗教であると評価し[10]、地下鉄サリン事件発生後も、オウムがサリンプラントの区画を隠蔽するために設置した大仏レリーフを背景に撮った自らの写真を示して、一連のオウム真理教事件へのオウムの関与を否定する発言をマスメディアに発表し、警察の強制捜査を批判するなどして擁護した。しかしこれらの言動により、批判や中傷を受けることとなった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E8%A3%95%E5%B7%B3
 

*急接近?
ツイッター上で、島田裕巳氏と幸福の科学が急接近していることが話題になっていた。
あちこち見てまわったところでは、今回の動きの全体像は、この辺りのページが分かりやすくまとまっている。

・やや日刊カルト新聞|島田裕巳氏が幸福の科学HSUで講演、来春の非常勤講師就任に向け交渉中
・Algorab archives|明日なき呉越同舟島田裕巳大川隆法
 」
はてさて、両者の関係はどうなっていくことやら…。

 
本気がなく、今までと同じように、傍観者として見物している風情の楽山です。
 
他者の問題について傍観して好きなようにいじりながら、自身の問題については無反省・無責任では、言論は成り立たないのです。
 
大人の年齢になっているのに、責任を負わないでいいと考えていること自体が、既に、成長不全の、幼稚さを表しているのです。
 

*期待
この話題を追っていて思い出したのだが、『平成宗教20年史』において、島田裕巳氏はHSとの関係について次のように書いていたのだった。
DSCN1378島田裕巳『平成宗教20年史』
これについては、ウン十年前にHSを厳しく批判したのは若気の至りであって、今は年を取って角も取れ、まるくなったので、無暗に他者を批判したりはしないというのは自分にも理解できる。
でも、大川隆法ナショナリズムや霊言集は、前よりも、今の方がより酷くなっているわけで、前はこれを問題視して批判したが、今はそれはしないというのでは、どうにも筋が通らないように思える。

 
「どうにも筋が通らない」・・いちばん筋が通らない楽山が言っています。
 
キリスト教を否定しておきながら、クリスチャン芝居をして、つまり、否定の後、肯定したら、これでチャラ、責任問題は発生しないと、というような考え方を書いてきたのは楽山その人であります。
 
否定と肯定が、訂正もなく、同じ人物から発言されて成立することはありません。楽山は、小中学校の数学のように言論を考えているのでしょうか。言論は、訂正しない限り、プラスマイナス=ゼロという相殺はありません。否定と肯定が同じ主体から発言されれば、矛盾にしかなりませんから、その発言者、即ち、楽山は、無責任と言われ続けることになります。
 

氏は、HSとはなあなあでうまくやっていこうとしているのか、それともHSUの中であっても言うべきことは言う、批判すべきことは批判するという姿勢を貫くつもりなのかは分からないが、できれば後者であってほしいものである。

 
楽山は、いかなる方向にも、本気で言うべきことが成り立たないのに、言いたいこと、いじりたいことがあると、自己顕示欲で、好きなように書いて、責任をいっさい負いません。楽山は、誰も、相手にしてはいけない人物です。
 

*許す愛との兼ね合い
上では、島田裕巳氏について書いたので、次はHSについて書いてみたい。
まず以前のHSでは、「許す愛」という教えがあり、これは悪魔を許すことではないと説いていたのだった。許す愛とは、自分の罪を悔い、涙を流して反省している者を許すことであって、自分の罪を反省しない者や確信犯的に悪を為す者…悪魔を許すことではないと。

 
いかなる赦しの対象にもならないほど、「罪を悔い、涙を流して反省」することのない楽山が書いています。よって、楽山については、悪魔を赦さないのと同様に「自分の罪を反省しない者や確信犯的に悪を為す者」が赦されることはないのです。
 
今回もまた、楽山が凄まじい厚顔無恥で書いているのが分かる記事になっています。自分を振り返るということが、全くできない楽山なのです。
 

この教えからすると、HSは、島田裕巳氏がHSを悪く言った過去について反省、謝罪しない限りは、許すことはないということになるし、もし氏に講演依頼をしたり、非常勤講師の就任について交渉したりするとしたら、それは氏が前非を悔い、涙を流して反省、謝罪したからだということになるはずだ。

 
反省を、他者に当てはめても、決して自分に当てはめることのない楽山を、信用してしまうと、錯乱しそうなほどの、精神の疲労がもたらされます。責任を負わない楽山の言を受け取っても、何の意味も実質もありません。
 
喩えるなら、楽山の理路は、痢路とでも言うべきもので、言論ではなく、体質的に止まらない思惑のカタル性下痢による失禁状態であります。糞尿は、清掃するすべがありますが、楽山を、清掃するすべはないのです。楽山には近づかないようにと、伝えてゆくしかありません。
 

でも実際はどうかといえば、島田裕巳氏は次のようなツイートをしている。

2020-11-16 (10)別に和解はしてません
https://twitter.com/hiromishimada/status/1326820805066387456
 」
氏はHSとは和解はしていないそうだし、「巌流島の戦い」というたとえからすると、いまも対立しているということらしい。
とすると、HSは、大川隆法総裁を悪くいったことを反省せず、謝罪もしていない相手に対して、講演依頼をしたり、非常勤講師の就任について打診していることになる。つまり許す愛の教えに背いている。
HSにとっては、島田裕巳氏のしたことは、仏陀誹謗、和合僧破壊などであり、宗教的には最も重い罪であるはずなのに、なんらの反省、謝罪もなしにこれを不問に付して、講演や非常勤講師を頼むというのは、全然、筋が通らないのではあるまいか。

 
楽山は、「基督抹殺論」という本を引用して、キリスト教を否定したのに、責任を負わず、「なんらの反省、謝罪もなし」ということは、筋が通らず、決して認めることは出来ないわけです。

"許す愛の教え" など、楽山が根拠として語る資格はありません。恐ろしい男です。
 

*アンチにすがる宗教
さらに、もう一つ。
他人の心は分からないことではあるけれども、おそらくは島田裕巳氏は、大川隆法総裁のことを仏陀だとも、主エル・カンターレとも認めていないだろうし、霊言も信じていないだろう。また今はさほどではないにしても、過去にはHSを執拗に批判していたのだった。いわば、古参アンチの一人である。
ツイッター上では、HSでは人材難に陥っており、アンチの島田裕巳氏に頼らざるを得ないのだろうと噂されているが、もしこれが本当なら、HSは危機的状況を打開するために、アンチに救けをもとめているということになる。これはあまりに情けない。

 
情けない人より、厚顔の自己中である楽山のほうが、数段、怖い人です。いかなる人材も、楽山を受け入れたら、現実の目的も夢も失うでしょう。楽山はHSのアンチではありません。我欲に執着する偽善者です。いつも、人を上から見下ろして、自分を省みないで、評論家気取りの記事を書き、責任だけは一切負わない卑怯者です。厚顔ぶりから、サイコパスの可能性が濃厚です。
 

HSはもし少しでも矜持があるなら、窮迫していようが、していまいが、アンチに討論を申し込むならまだしも、講演や非常勤講師を頼むのは止めた方がいいのではなかろうか。

 

偽牧師のシャロームが、私のライブドアブログにコメントを入れて、楽山に賛同して、こちらに悪態をついています。

 

楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条に賛成しました。無条件賛同を結ぶのは、カルトなどの結社か、奴隷です。
 
こういうのが、楽山の人間関係ですが、二人とも自己中の怪物なので、人間無関係なのかもしれません。そういう理由から、一人による成りすましも疑っています。
 

*大人の事情
なんだか、言わずもがなのことばかり書いてしまったが、一応、自分ももういい年なので、大人の事情というものを察することはできなくもないし、何事も原則通りには行かないものだということはわかる。

 
楽山は、大人どころか、人間としての成長が見られません。小学校レベルの言い訳、言い逃れ、いちゃもん、悪口、嘘、詭弁の類をもって、近寄る者を欺く生業です。罪悪感が、まるで無いので、このように、性懲りもなく書いてくるのです。インテリ風味の筆致に、どうか騙されないでください。
 

でもそれはそれとして、組織的判断には、多数を納得させることができる大義が必要であることも事実だ。HSは、HSでいうところの仏陀誹謗、和合僧破壊という最も重い罪を犯し、それを反省していないだろう人物に講演や非常勤講師を依頼するのであれば、それにはどのような大義を用意しているのだろうか。ぜひとも聞いてみたいものだ。

 
ふつう、カルト批判に、カルトの基準を用いることだけはしないものですが、HS批判をしているつもりだったはずの楽山が、HSの言う罪を、判断に必要な大義として認めているようです。楽山にとっては、カルトについては、脱会も入会も、宣伝も批判も、無いのかもしれません。偉そうに言って我欲を満たせばいいのでしょう。
 
なお、楽山は、他者の言うことを聞く耳を持っていません。自分の都合の良いように利用することのみを、体質的に、いつも企んでおり、誰のためにもならない自己顕示欲を満たして満悦するような、実に気色の悪い存在です。だから、羞恥心も性懲りもなく書いてくるのでしょう。
 
評論家気取りで書いてくる楽山は、学問的に常識的に辻褄を追っているように見せかけて、一方では、霊が分からないっぽい親族に驚いたと書いて、自身は、霊が分かるっぽいことを自認しています。それゆえに、超常を扱う宗教について物を言いたくてたまらないのでしょう。
 
楽山は、カルト批判などしていません。楽山自身がカルト思想に満たされているからです。分かるんですアピールで、インテリ気取りで、自己顕示したくてたまらないだけの自己中インチキ体質の物好きに過ぎないのです。
 

ちなみに自分は、今回の出来事について説得力ある大儀が提示されない場合は、それ自体が、HSでいうところの仏陀誹謗および和合僧破壊の罪などというものは、宗教的な大罪というようなものではなく、その時々の状況でどうにでもなるし、たかだか二、三十年で忘れられるものにすぎないということを示していると解釈するつもりである。

 
HS批判をしているつもりの楽山に、説得力あるHSの言う罪という大義が存在しているのでしょうか。つまり、楽山にとっては、HS批判も、HSの言う罪も、HSの言う大義も、いっしょ、というより、どうでもよいことで、恐らく、言葉遊びの題材に過ぎないのだろうと思います。
 

それだからHS内では、大川隆法を悪く言った過去がある人物に講演や非常勤講師を依頼することに、さして抵抗もなく、相応の論理を構築する必要性も感じないのだろうと。
こういう解釈が妥当かどうかは、HSが説得力ある大儀を提示できるかどうかによって判断されるわけだが、はたしてHSにそれはできるだろうか。HSが何か言うか、何も言わないか、興味を持って見守りたいと思う。

 
今まで、楽山の興味というのは、責任を負わない遊びに過ぎなかったという経過から、楽山に、解釈が妥当かを判断する思慮も節操も資格もないと思います。つまり、楽山は、重要なテーマについて、本気で、責任を持って発言したことは一度もないのです。
 
だから、いつも、無反省で無責任に言い放って終わり、という、しまりのない放言だけを失禁のように繰り返しているのでしょう。間違っているとばかりは言えない、一理あると言えなくもない、というような政治家の曖昧発言より、さらに悪質な自己中です。
 
三文芝居の大根役者が体質となってしまったような楽山のような人は、喩えるなら、動物園で、檻の中の、逃げる構えをしながら、しつこく吠え続ける、みじめな糞尿まみれの動物を見ている、と思ったほうがよいでしょう。
 
楽山は、数えきれない矛盾と汚点と悪意を、ひた隠しにしながら、謙虚芝居、即ち、曖昧なボンヤリ言語と反省めいたトホホ言語で、まともな字面を装っているだけです。
 
楽山の、無理解と身勝手は、怠慢と体質による人間離れした厚顔から来ているので、恐らく、死ぬまで変わらず、訂正不能だと思います。真実の追求に、無反省と無責任、あってはならないことです。
 
どうか、楽山のような厚顔無恥の人にならないように、どうか、間違っても、楽山を、頼りにして、楽山に、裏切られて、責任逃れを言われて、自分がボロボロにならないように、一刻も早く、楽山からは、離れてください、関わらないでください、近づかないでください。
 
 

     f:id:stdsts:20201120000748p:plain

            厚顔の成れの果て
 
 
(2020年11月20日、同日一部修正)
 
 
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罪人に注ぐ光

 
  罪人に注ぐ光
 
 2018年11月14日「神か人か」を加筆修正して再録。
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/110989.html
 
 
キリストは神か人か
ということがキリスト教を考えるうえで話題となり
論争にさえなるでしょう。
 
私は、基本、決めつけない立場で
事実かどうかは保留しています。
 
しかしキリストが
エスという名の人だとしても、
福音書を見れば分かるように
物や肉体の奇跡を抜きにしても
エス
人を見抜く優れた洞察力と
人の悲しみに寄り添う共感力と
命を賭するほどの愛を持っておられたのです。
 
この御方を、人でした
ということで済ませられるでしょうか。
私には、とても出来ません。
 
二千年前に
悪が善の振りをするという偽善が
悪よりも悪質な
最悪であることを洞察し
厳しく批判し
罪深い人に深く共感して
罪人を救おうとして
承知の上で犠牲となって
殺された御方を
どうして
人でしたと言って済ませて
忘れられるでしょう。
 
 人でしたと済ませて忘れられるのは
 超常奇跡や机上の空論だけで考えて
 心に潤いと温もりのない人だと思います。
 
つまり
神か人かに関わらず
私の心を揺さぶり
大きく変えたイエスという御方は
私の救い主なのです。
すなわち
ただの人では決して済まない御方なのです。
 
私にとって
人間として可能で必要な神認識は
それだけで十分なのです。
 
その告白の時
エスは、私にとって、
主イエスでありキリストなのです。
 
何故それ以上を
神聖について分かっているふりをするのでしょう。
 
キリスト信仰者の宝は
神の前に、人が無知であること、
つまり
神の完全とは比べ物にならないところの
人の不完全という罪性の自覚であるのに。
 
それゆえにキリストは
今も聖書を通じて総ての人に
正直な罪人が救われることを
宣べ伝えているのです。
 

 
キリストが物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
好事家の議論に過ぎません。
何故なら、現代、あるいは、
あるとき、自分の都合の良いように、
物や肉体に、奇跡は、
少なくとも滅多に起こらないと言えるからです。
 
キリストが二千年前
物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
終末まで保留してよいと思います。
 
人生の成り行きにおいて
奇跡体験を持っている人は
神の導きがあったかもしれない。
 
しかし
その時の奇跡が
都合よく繰り返されるとは限りません。
 
神に祈り願うことと違って、
神が自分の期待通りに奇跡を起こすと信じることは
信仰とは、逆方向であります。
 
後者は神の行為を決めつけて思い込む傲慢です。
期待通りという条件は人の作りもの
すなわち偶像に他なりません。
 
信仰は神への無条件の信頼です。
何も持たずに神の懐に飛び込むことです。
キリスト者をそうさせるのは
キリストからの愛とキリストへの愛であり
それ以外にはありません。
 
神は便利屋ではありません。
個人を守る氏神でもありません。
 
神は神の基準によって人を導きます。
その基準は神の秘密です。
私たちが折々の判断によって動くとき
どこに神の導きがあるかも神秘であります。
 
神が、人の都合に合わせて
人を守るから信じるのではありません。
 
生きているとき
さらに死に臨むとき
人の考え行なえることが尽きたときに
神の導きのみが希望ゆえに
神にお任せするのであります。
 
 

  f:id:stdsts:20201119000412p:plain

             罪人に注ぐ光
 
 
 ※
 
 自分は奇跡に守られているという信仰?が
 いかに身勝手で自己中心的で破壊的な人格を作ってしまうかを
 私は、嫌というほど
 ずっと見続ける羽目になっています。(嘆)
 
 
(2018年11月14日アップ)
(2020年11月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
好事家(こうずか)≒物好き
 ・・知らなかった。「こうじか」と読んでいました(汗)
羽目(はめ、破目)
 
 
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妄想詭弁全開2

 
  妄想詭弁全開2
 
   私の記事「無知と無恥」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4165367.html#comments
   シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   2019-11-16 00:21:32 の記事に加筆して再録。
 
 
・約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームのコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の無さが表れています。時を経て、改めて読んでみると、書き足りないことが多々あります。「・」が、修正または加筆しているところです。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
・楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか、・・ってことを書いてきました。
 

1. st5402さん おはようございます
2019年11月15日 09:12
キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」


st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?

 
今さら、そんなことを聞くなんて、ちょっと罵詈雑言、言います、バカなんですか。
聖書から、それを学んでいないなら、聖書を読んだことにはなりません。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。
だから、空っぽに満たされていると書いたのです。
 
神は全知全能であります。人との違いです。それで分からないなんて、信仰者ではありません。
 
・聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、分析不可能であることを意味しています。
 
・私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。すごい人間離れ、そして、神がかりであることが、あなたシャロームによって証明されました。これが、カルトでなくて、なんなのでしょう、ということです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。
 
これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりで書いているなら、説明しても分からないでしょうし、今回も、こちらが言ってきたことを、まるで踏まえていないあなたシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのでしょう。
とても醜いです。
 

聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?

 
・このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。
 
・聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?だと受け取ったのでしょうか。読書の常識的な受け取り方が出来ていない証拠です。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。
 
信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。
シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。
 
共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
 
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 

st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!

 
・そして、自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。
 
・「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、多くの罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。
 
・あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、実に、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てて、そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの信仰?です。・・と言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。
 
まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。
問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
・楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、あなたシャロームが、他者を、モノ化して、さげすんでいる表れでしょう。
 
・他者を、人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となってゆきます。議論など、全くできないし、する気もなく、一方的主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。
 
 

8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。

 
・時々出していますが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などという、自己中心だけのシャロームの信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。
 
あなたシャロームが、キリスト教ともキリスト信仰とも真逆のことを、平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、恐らく、茶化しているわけです。
 
・批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
・現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料となるでしょうから、これからも再録しアップデートしてゆくことはあるでしょう。
 
・フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判の意を汲むことが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 

「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。

 
・シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
・批判される必然を持っていて、あなたシャロームが書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。被害者意識しかないのは、自己中心の特徴です。
 
・批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事、というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的に、アップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
だから、この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない、という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるあなたシャロームの異常性は、これからも、ずっと批判の動機を与え続けるでしょう。
 
また、今日も、あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミのようなコメントを見るのは、極めて不快ですが、そのように、シャロームは言ってることが逆で、偽善の勧めに過ぎない、というアピールをしなければならないのは、最初からあなたが原因だからです。
 
・無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。
 
批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 

「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。

 
・「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴です。
 
・この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。
 
・しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、あなたシャロームお家芸として続いています。
 
わたしは、あなたを批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。
 
今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないのことを、カインの話が示しているのです。
 

あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
エスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。

 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書かないのも、あなたシャロームの特徴です。あなたは、何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。
 
主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、あなたシャロームが表してきたような妄想による修正不能の自己中心の自分勝手ではありません。
 
 

9. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、


私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。

 
・シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えず、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
・また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。
 
あなたシャロームが、通らない文句を何度も言って、荒らしと同じ働きをしています。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。説明が出来なくて、言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
・だから、あなたシャロームの意志は、狂っています。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。
 

あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。

 
・私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
・私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除すると、いちばん言っていたのは、あなたシャロームです。言い返せないで、そう言うのは、カルトの特徴です。
 
・シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、内省不能の自覚のない惨劇とでも言うしかありません。
 

いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!

 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。
 
・遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて、新しい批判を書く動機になるだけです。
 
・シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
・しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。
 
・悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。
 
 

     f:id:stdsts:20201117235729p:plain

            一方的
 
 
(2019年11月16日)
(2020年11月18日、修正加筆して再録)
 
 
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神を恐れる心2

 
  神を恐れる心
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111022.html
 
 
次のようなことを書いたことがあります。
 
「神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では決めつけられない御方ということです。
 漠然とした神のイメージさえ、人においては正しくありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。」
 
キリストが父と呼び
私たちが信じる神は
私たちが知らないだけであって
漠然とした神などではありません。
 
漠然としているのは私たち人間のほうです。
 
不変の神に比べて
移り気で変わりやすく
不安定で偏りやすいのは
私たち人間のほうなのです。
 
私たちは神について想い考えますが
それは、不正確な想像という罪を承知で
想い考えるに当たってそうするしかないからであって
信仰の内実において神を対象化してはいけません。
神は
人の想いと思考などという有限が向かうところの
対象に並んでいるような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての人の見識の絶対性を否定することです。
神についての人の思いを相対的とすることです。
神についての人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが
神について人が思うことは
そのときの思いに過ぎません。
可能性に過ぎないのです。
だから祈りのうちに
さらなる導きを待つしかないのです。
 
神と人の契約とは
赦しと救いの約束であり
人が人らしく
神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ
無効になることはありません。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは
自分が神と同等だと言うに等しく
人が神の前に故意に隠し事をすることは
自分が神を騙せると思うに等しく
いずれも
人が神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
それは、神に対する反逆であり
ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。
つまり
神と人の契約を破棄するのは
まさに、人の側でのみ起こることなのです。
 
神との救いの約束が破棄されることはありません。
 
あるとき傲慢であっても
そのあと悔い改めて
神を恐れるにふさわしい姿になれば
神の側は破棄していないのだから
救いの約束は恵みとして有効になります。
 
自分を愛し救い
自分に命の恵みを与える神が
あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり
人間などが
うっかり友だちのように
近いなどと思ってはいけないことに気づき
神を恐れること
それが信仰の節操の始まりです。
馴れ合いは
神に対しては成り立たないということです。
 
言うまでもなく
神は
人間の俎上や机上に載る御方ではないのです。
 
恐れる神に比べて
聖書から
キリストに愛され癒やされることに気づき
キリストを愛するようになること
それが信仰の情熱の始まりです。
 
信仰は
人にとって
神がかったと言われるような
超常のものではありません。
 
神という永遠不変は
人が超常を知らないことを
隅から隅までご存知ですから
超常を知らなくても理解と共感が可能な

人間として正直な信仰を
キリストを遣わすことで与えられたのです。

 

神は理解する対象ではありません。

希望として信じ仰ぐ対象です。
 
 

      f:id:stdsts:20201117001028p:plain

               永遠
 
 
(2020年11月17日)
 
 
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プアマンズ

息抜きです。
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死

年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない

先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色が包んでゆく

年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと

いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼い風のひととき
 
(1999年10月13日)
 
 
  黒い土
 
やっと見つけた黒い土を
しばらく見つめたのち
手に掬って
握りすぎて指の間からこぼれないように
持って帰って鉢に入れた
何も植えずに毎日水をかけた
ときどきは目を閉じて触ってもみた
日光に明るく照らされて土
寒い季節が終わる頃
知らない小さな芽を出してきた
未熟な緑
切り取らず
切り取られず
踏み付けず
踏み付けられず今度は
たくましく生きられたらと
語りかけた芽の下に
古い友人が眠っている
 
(1997年2月22日)
イメージですから。
 
 
  思い出せば
 
思い出せば遠いようで近く
近いようで遠い
 
リウマチ熱と心臓病の60年代
10代
青年期は70年代
20代
仕事していたのは80年代
30代
アナログ電話回線でネット始めた90年代
40代
 
自転車にぶつかること3回
気を失って救急車で運ばれること3回
ホモと誤解されること2回
 
 ホモに恨みはないが
 オレは純粋ヘテロ
 
病弱なのに長生きしたほうで
それなのに幸福感がなく
過ごすほどに病は気から
病も気も老化して苦痛とともに
字だけ美しい青山に向かい
 
昔は
手書きでノートに書いた詩のようなもの
今は
キーボードタイピングと画像になり
 
進んでいるより押されていて
滑っていて転がっていて
だんだん早くなる月日は
怠慢によって加速され
 
 ホントだったと驚く思い出(中也)
 
終活は出来そうにない
このまま白くなってもいい
あまり迷惑はかけたくない
 
思いつめれば近いようで遠く
遠いようで近い
 
時間なんて過ぎてしまえば
命なんて終わってしまえば
あっ?と言わせてもくれない
 
思い出す以上に
思い起こして
思い描いて
想像して
 
そろそろと冬です
 
 
(2020年11月16日)
 
若き日より 長崎→福岡→熊本→長崎に、生きています。
 
 

    f:id:stdsts:20201115235721j:plain

   プアマンズ(運転技術が乏しい)プアマンズ(お金が乏しい)ハーレー?
      ≒ 昔、乗ってたスズキの400ccと、熊本の阿蘇です。
 
 
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