ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

虫のように迷惑2

 
   虫のように迷惑2
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   http://mn266z.blog.jp/archives/22036873.html
   楽山日記(仮)
 
 
過去の批判記事を、加筆修正して、再録します。楽山の無理解と幼稚さが表れています。
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めようと、いじくっているだけです。感性の直観がないのでしょう。
 

マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。

 
人間は、神が喜び、それゆえに救う根拠となるような、いかなることも、成し遂げる力など、持っていません。それが、キリスト信仰の中心です。キリストに救われた人々が、みな、何も持ち得ないような、そういう人だったというのが根拠であります。
 

通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)

 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは、キリスト信仰において、全く常識ではありません。
 
これは、人に気に入られようとする処世などの話です。それで神を語ることは出来ません。楽山は、嫌らしい俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、信仰をけがしています。
 
人間には、心に感じるということがあるのが正常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも持つことが出来ないのでしょう。だから、神に対しても条件交渉みたいなことしか考えられないのです。
 
前にも書いたことを繰り返します。心貧しさは、余計な先入観を持たないことです。楽山などの精神の貧困は、余計な先入観しか持っていないのです。
 

この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。

 
信仰は、有無であって、それを裁くのは、神のみであります。神の裁きは、人間に理解できるものではありません。ゆえに、神の存在と意志と行為について、人が、とやかく言えるものではないのです。
 
楽山の、悪意に満ちた、いちゃもんが続いています。未熟で幼稚な反キリストは、誰とも共感できないので、誰でもだましてやろうと思うしかないのか、自己満悦だけで書いてきます。
 
人間が、神に捧げられるのは、一途に、本気で精いっぱいの正直な祈りだけです。神に任せるべきことに、おのれの、お粗末な理屈を振り回す楽山は、他者の言も、無視するか、悪用するだけです。
 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。違うと思います。
 
人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。
 

ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。

 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」、信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化しています。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、信仰者らしい行いが伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。楽山の屁理屈は、いつも、甚だ迷惑です。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャロームより分かりにくい分、質(たち)が悪いかもしれません。
 

最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、

 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、その最低限さえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、信仰の本質であるかのように書き加え、知りもしないのに、キリスト教が、迷っているかのように主張しています。
 
キリスト教の人々が、一枚岩だとは思いません。内外に、理解不十分や、誤解や、曲解などや、また、偽者がいるということも現実でしょう。しかし、キリスト教は、人の不十分と不完全を、神が、承知の上で救う宗教なのです。
 
キリスト教も信仰も、何も知らず、何も分かっていない楽山のような者に、口出しされるのは、自己顕示欲以外にはなく、ゆえに、楽山を、大迷惑な、反キリストと判断しているわけです。
 

現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。

 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。
 
ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。信仰のみ、という言葉について、人間を考えてください。
 
真の信仰を与えられた人間は、どう行動するしょう。あれは信仰だから別とばかり、勝手な理屈をこねて、楽山やシャロームのように、無反省に無責任に、嘘と詭弁で偽善を働くでしょうか、否です。
 
楽山の低劣な詭弁に、決して誰も関わることのないように、
イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 

たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、

 
楽山は、神を、おのれの堕落した頭の中に、安いイメージの存在として描き、神の不変をもてあそんでいます。神は、人の知恵で、ましてや、楽山などの浅知恵で測れる御方ではありません。
 
神は、全知全能ですから、既に、総てを承知の上で、人の成り行きを定めているわけです。神は、人に依存しているのではありません。信仰の救いを求めている人が来て、ご自身の前に正直な告白を捧げるのを待つ、という有り方を選んでおられるとも思います。
 
しかし、神は、神は、・・の辻褄だけで考えていると、楽山のように、低劣な疑問や、汚い罠に陥るだけでしょう。そう、罠に堕ちているのは、楽山なのです。でき損ないの思路で、いちゃもんだけを、繰り返している、その口は、神の敵たる何者かに寄ってゆくようになるのでしょう。もはや、その代行者のようです。
 

それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、

 
神の無限を、いつも無限の愛だけを注いでくる、というような楽山の気安い神?実験室からの暴言です。恐らく、楽山やシャロームは、神の愛のひとかけらも知らないままで終わるのではないかと思います。神のほうの辻褄合わせを、楽山はするつもりなのでしょうか。あまりにも愚かです。
 
神と人は、双方向です。人が祈り、神が導きますが、それで、人に、すぐに神の意志を確定的に理解できるようなものではありません。人は全知全能を知りえないからこそ、信仰者は、その存在と可能性を唯一の希望として生きるのです。
 

人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。

 
知る限りでは、独力で何の善行も為しえていないばかりか、人を惑わすような臭い言葉ばかり、婉曲的に書いて、人を、怒らせて、快感を覚える楽山です。ベースの感情は、不機嫌と嘲笑いで、シャロームと同様だと思います。
 

神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。

 
またですが、楽山は、小学校の道徳のような、甘くて易しく優しい言い方をしないと気が済まないようです。しかし、大人は、むしろ、それでは不十分だと分かるから、深い洞察を求めて、小学校レベルの言い方は、しなくなったのです。
 
楽山は、小学校レベルにとどまっているのでしょうか、だったら、ここに書いたりせず、小学校に行くべきです。それとも、さらに親身になって、ほおずりでもしてほしいのでしょうか。
 

ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。

 
同じことを繰り返す厄介となっている楽山は、宗教の教えを実践したことがあるとは、到底、思えません。現に、くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。楽山は、よくこんな白々しいことが書けると呆れます。こういうのを三文芝居と言うのです。楽山の実質は正反対です。
 
楽山の持ち物は、嘘と詭弁と三文芝居、ベースに自己愛、無反省、無責任、無理解、共感と洞察の欠如など、信仰に反することばかりです。悪い行いだけが伴ってきたのです。楽山が為すべき善があるとすれば、神とキリスト教について、何も言わず書かないことだけです。
 

でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。

 
皆、楽山の信仰?実験室での、リトマス試験紙だけのような安い思考実験だと思います。楽山の今までの文脈から、良心と呼べるものを感じたことがありません。くだらない軽口で、邪魔ばかりしてくる楽山です。
 
教えを実践しようと努める信仰者は、自分の至らないことを知っているので、このような軽口は叩きません。体験談ではなく、真面目を装いながら、その実、ヘラヘラ笑って見せびらかす自己顕示欲だけを感じます。
 

ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。

 
反宗教・反キリストが、何故、知ったかぶりをして、聖書や本の言葉などを書いてくるのでしょう。ふつうは、分からないなら、求めるべきであり、信仰者の言うことを聞くべきであり、文句を言える段階ではない。
 
楽山は、訂正不能の慢心が酷いので、分からないなら、もはや、書くべきではないと思います。
 
楽山の、いつもの到達点である、ああでもないこうでもない、結論がまるで出てこない、というボンヤリ言語の話になってきました。それで、断定していないなどと言い、まともに見せかけ、中庸に見せかけ、かつ、責任は負わないのだから、たまったものではないのです。
 
楽山が、「そういう感覚」というのは、恐らく、カルトやカルト的な人に見られるところの、冷たいのに押しだけ強い薄笑いの悟り顔の慢心だろうと思います。既に、楽山の書く文章に表れているのです。とても気持ちの悪い筆致として。
 

上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。

 
救いの条件は、正直な祈りだけです。しかし、厚顔無恥の楽山の手にかかると、とんでもない解釈になりそうなので、楽山を全否定してゆくしかないのです。
 

なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神を信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。

 
また、神?実験室の話です。神と人は双方向というのは、何度も書いてきたことですが、楽山は、人の意見などどうでもいい人なので、全く学習効果がありません。書くことと教えることだけに、満悦するというのは、シャロームと同じです。ゆえに、成りすましを疑っています。
 
決めつけはよくない、という記事も書いた楽山が、神を決めつけています。
 
「神を信じるほど」・・楽山は、一度も、神を信じたことはないと思います。楽山の、どの記事にも、信じていることが表れたことはないからです。また、楽山は、平気で、嘘を吐いています。
 
上の「大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じ」
 
このお粗末な宗教観・信仰観は何なのでしょう。楽山教でしょうか、楽山狂でしょうか。
 
キリスト信仰に、取引のような条件はありません。神との契約は、信じて頼む契約です。神の前に、祈りにおいて、正直でさえあれば、信仰は、成立します。信仰をねたんで、正直の欠片もなく、自らの不全を認めない楽山の、これは、埒(らち)もない攻撃であります。
 
楽山は、自分が一番偉大だと思っているから、神に嫉妬でもしているのでしょうか。そして、神が偉大であれば、ではなく、神を偉大とすればするほど無宗教になる、と言っています。どうして、人が、ましてや、楽山が、神を偉大とするかどうかを決めるのでしょう。神を、楽山の机上で扱えるオモチャにしてしまう、これが、楽山の恐ろしい決めつけです。
 
「感じがする」と書いていますが、だまされないようにしてください。ひどいことを言っているのを、曖昧な言い回しでごまかしながら、やんわり、ぼんやり、その邪悪な決めつけの印象で刷り込もう吹き込もうとしているのです。
 
恐らく、楽山には、思想など、何もないのだろうと思います。楽山は、何物にも染まらないと自慢したいのでしょう、しかし、最も悪い者に、染まってきたようです。
 
人に出来ないことを、神は、人に、救いの条件として設定しているでしょうか。明らかに否であります。全能の神は、人の不完全を既にご存知だとしか考えられません。
 
偉大 → 無宗教、信じる → 信じられなくなる、という、おかしな理屈、と結び付けてくる楽山は、これからも、おかしな理屈しか言わない小学生であり、しかも、宗教の敵、キリストの敵、総ての真面目に生きている人の敵です。
 
楽山は、それこそ、井戸端でしゃべる噂話レベルのような、小便臭いこと以外、何も書いてきませんでした。難しい本や、有名人の名前は、自己顕示のために利用しているだけだと思います。反宗教、そして、反キリスト、嘲って笑うゲーム感覚、というシャロームと同じ有り様になっています。
 
そして、楽山は、前に書いたところの、否定と嘘と嘲りの機関銃となって、人を怒らせて悦ぶ、そういうサディスティックな面だけが、目立ってきました。それ?らしくなったということでしょうか。
 
 
私は、時に、厳しい喩えを挿んで書いていますが、私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは思っていても出来ないという自覚から、このような、ゴミ虫のようにネットに巣食うヒトを相手にしているのだろうと思います。良心を虫食むのが大好きな最悪の狡いゴミ虫です。
 
私がバランスが取れた中立で柔和なキリスト者でありえないというのは、相手が、バランスを保って批判することが全く通用しないために言葉でだまそうとする卑劣さであり、たとえれば、ゴミ虫のようなものだからです。
 
ネットで、間違っていても本気で、罵詈雑言ばかり言っている人は、ひどいと分かる分だけ、まだマシなのです。
 
つまり、何より、バランスが取れて中立で柔和だと見せかけて人を騙すのが、彼らゴミ虫のような者たちの特徴だからです。(実際のゴミ虫は、ごみ溜めによく見かけられ、新鮮な死肉や、寄ってくる他の虫などを食べるそうです。)
 
楽山やシャロームなどの、ゴミ虫のようなカルト思想宣伝者は、もし権力を得たなら何人でも人を害するでしょう。ゆえに、社会悪だと判断しています。ゆえに、多くの人に、広く知らせる必要があります。そこに、批判の必要性が生まれます。
 
彼らには現実での無知によって、どうしようもない欲求不満があると思います。そのための深い怨念によって、深く潜入して、暗くて見えにくいところに侵入して、邪悪を潜ませて卵を産み仲間を増やしたがっている者たちです。そのために、反動のように高く舞い上がる尊大さによって、限りなく、否応もなく、自らを、無恥に導いてゆくのです。
 
 

     f:id:stdsts:20201115001007j:plain

                   害毒
 
 
(2020年11月15日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

信仰者と偽善者

 
  信仰者と偽善者
 
 私の記事「嘘と世辞と侮辱(4)」から
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12542381051.html
 抜粋して、まとめてみます。
  嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
  http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4024687.html#comments
 
 
殺伐とした批判記事が多い私のブログですが、気分転換のために、過去記事からの、まとめ的なことを少し書いておきます。人間なら分かることなのですが、楽山やシャロームには、まるで通じないことであります。
 
文系の論理というのは、数学などの理系の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、ということが正しさの問題になるのです。それは、言い換えれば、説得力、ということになります。
 
 何の説得力もない文章を、排泄のように、だらだら書き続けている偽善者もいます。
 
信仰者の活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実績や、何かの役に立つとかは、願いであると同時に欲望でもあります。信仰者は、そのベースとして、神の憐れみを受けるに相応しくなりたい心で行動します。
 
すなわち、効率とか仕事量とか人気とかよりも、できることをする、という生き方になります。それが、世に仕えず、神に仕えることであり、神のほうを向く、ということであります。
 
正直な祈りのうちに、罪に気づけばそれを悔い、世俗から神へと向きを改め、生きる道を判断することになります。つまり、神を、命と人生の拠り所にするということです。
 
信仰は、結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と全くの同義ではないということになるのです。語弊があるかもしれませんが、キリスト教は組織を含めて授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、いつも命を与えられたことを喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように讃美を繰り返すべきだなどという勘違いすることだけはしないでください。
 
偽善者が相手でも、信仰の学習は可能です。偽善を学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。偽善者の言の対極にあるものを、学習するのです。
 
心貧しさも、敬虔も、損なってしまった偽善者は、聖書の文字通り、いつも讃美しており、それが信仰だと思い込みます。そして、いつも、笑っています。
 
作り笑い、あざ笑い、ほくそ笑み、・・笑いは、いつも良いことだとは限りません。
 
信仰があるから、いつも笑う、いつも讃美する、というのは、実は、暴力的な嘘の場合があり、正直に "分かりません" と言う心を失って、自己正当化の手段として使われている、ということに気づくべきであります。
 
悲しみがなくなるのが信仰だと思い込む者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるでしょう。
 
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。聖書においても、そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 

      f:id:stdsts:20201113235057p:plain

           おしえ
 
 
(2020年11月14日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

アドラー教について(6)2

 
  アドラー教について(6)2
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
    2019-05-23 【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️
    加筆修正して再録。
 
 
アドラー心理学は、自己中促進カルトだと思います。ゆえに、ブログに書いて、アドラー教と呼んで警戒を呼び掛けています。日本人アホ化計画とも呼んでいます。
 
丁寧語は見せかけで断定や豪語が多いのも、カルトの宣伝に当てはまります。ぴったり当てはまる者がいます。彼は、アドラー教の宣伝者です。やめたようなことを書いていましたが、自己中、無反省、無責任のままです。
 

アドラー心理学サロンです。
あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか?
世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。
困ったことに、あなたにとっては言葉の暴力であったり、嫌がらせになることでも、相手は罪悪感も無く、むしろ落ち込んでいたりすることもあるのです。

 
罪悪感のない人については、私も書いてきました。
 
とんでもないことをされたブログ主の経験と、その反発か復讐心が動機となっているのでしょうか。この記事の、数々の暴走気味の発言は。
 

本記事では、限度はありますが、他人に何を言われても、何をされても気にしなくてなる方法について解説させて頂きます。

 
このことには、自己中に走りやすい、という指摘と批判があるということです。
 
何をされても気にしなくなる、という言葉だけだと、鈍感になり、無頓着になり、自己中になることに、ぴったり結び付いてくるのです。
 

まず、他人自分にが言ってきたこと、してきたことを気にしなくてするには、アドラー心理学の代表的な考え方である「課題の分離」を理解する必要があります。

 
課題の分離を、会って言葉を交わしたその時に判断して正確にできる、という前提のようですが、課題の判定は、そんなに容易くはないと思います。
 

アドラー心理学サロンでも様々な言葉で、この課題の分離を表現しているので、人によって捉え方のニュアンスに違いがある可能性があります。
本記事では、下記の定義でご説明致します。
「他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではありません。他人が自分をどう思うのかを気にすることは、他人のことを変えようとする介入となります」

 
ニュアンスでは済まないことがあるから、批判が生まれます。相手の課題に自分が含まれ、自分の課題に相手が含まれる場合を考えていないようです。
 
ブログ主は、定義すれば、誰にとっても、意味が定まると思っているようですが、特に、人文系や宗教や倫理の話では、定義こそが、勝手に、また、不可避的に多義に、解釈されてゆくものです。
 
他人が自分をどう思うのかを気にする自分をどうするかは、紛れもなく、自分の課題です。また、自分の思考にとどまる限り、介入とは言えません。
 
考えても仕方がない、言っても無駄だ、ということなら無視するしかありません。そこまで、確かめたほうがいいと思います。簡単に決めてはいけないことです。
 
もし、少しは言いたいこともあるということなら、言った段階で、相手を変えてやろうという介入というより、相手に自分の意見を述べるだけだから関わりと言うべきでしょう。ブログ主は、”介入”という印象の悪い言葉を使って強く否定したいようです。
 

自分の課題と他人の課題を区別して、自分の課題の範囲と他人の課題の範囲の分離が必要となります。

 
上の他者のこと総てを安易に自分の外に置いてしまうことで、ぞんざいで荒っぽい不都合の無視という分離?が生まれてくるでしょう。そして、豪語と断定に走るようになります。
 

課題をどの範囲で分離していくのかが難しいところですが、あなたの嫌がることを言ってきたり、やってくる人に対しては、下記のような分離が実践しやすいと思われます。

 
苦言が、のちに、金言となることもあるでしょう。嫌がること、というだけで判断してよいのでしょうか。その前に、考える、考えるために保留しておく、ということが必要な場合もあるでしょう。
 
他者の言うことには、お世辞以外、あまり快感物質は含まれていないことが多いです。他者が言うときの確信と高慢の度合いにもよります。私は、他者を絶対に無視するなと言っているわけではありません。
 
というのは、高慢な者に高慢な態度で、青二才の頃の私が、あるとき唐突に、進路について「○○には向かないと思うね、うん」という言い方をされたことがあります。オレの何を知ってるっていうの?と、ふるえ上がって、物が言えなくなりました。
 
また、私の進路を閉ざすために、「向かない。ひらめきとしてね」と言った人がいます。ひらめきで、人間を扱われてはたまりません。
 
そうして、無視するべきことを無視できずにいると、トラウマになるという経験があります。今でも、思い出すと、心が、恐怖に震えます。残念ながら無視することはできません。記憶から消えないからです。
 
しかし、この記憶の対処・処理・心の整理については、今も考えることが多いです。ということは、このことで、考えを広げることも出来るということです。
 
大事なのは、無視してなかったことにすることではなく、いかに、対象化して、その影響を防ぎ、一つの資料のように、考えられるようにするか、ということなのです。
 

「他人が自分に何をしてこようと、何を言ってこようと、それをどう思うのかは自分の課題。止めさせようとする努力は自分の課題としてできるが、止めるかどうかは他人の課題」

 
つまり、ブログ主は「止めさせようとする努力は自分の課題」と自分で言っているのです。何か言い返すことは、アドラー教の「課題の分離」には反しないということです。
 
自分の精神の安定を脅かすほどに、心がつぶされたように、何も言えなくなったと思ったら、唖然としたら、ともかく、逃げましょう。
 
課題の分離の行き過ぎは、多く、自分の課題とするかどうかについて、常習的に自分の快楽原則の都合で選んでいることによって起こってきます。
 
そうやって、取捨選択された課題は、自分の快楽課題に過ぎません。快楽だけで生きようとすることは、常識的に、否定されるべきでしょう。
 

こうした分離をすれば、嫌がらせを止めさせる努力をすることはできるが、最終的に自分への嫌がらせを止めるかどうかは他人が決めることなんだと、自分のできること、できないことを区別することができます。

 
本当に嫌がらせなのかをどうやって確認するのか、厳しいこと言われたら嫌がらせだと短絡するようにならないかどうか、といったことについて、リスク回避の対策がなされていないと思います。
 
もちろん、なんとかしなきゃ、なんとか言わなきゃ、どうしたら言われなくなるだろう、という焦りを防ぐことは大切です。焦りは、心を乱すだけになるからです。
 
人の気持ちは、複雑なものがありますから、自分の都合だけで、安易に決めつけてはいけないということです。
 

できる範囲で、嫌がらせを止めさせる努力をしても、どうにもならないのなら、無理して分かり合おうとせずに、嫌がらせをしてくる人の無視を決め込むか、その人のいる場所から離れるのが賢明だと思います。

 
嫌がらせかどうかを、最初の一言や、その相手に対する先入観で、早計に決めてはいけないと思います。相手が言葉と言い方に何を込めているかによります。繰り返されるかどうか、常習であるかも、確かめましょう。
 
しかし、その時の、自分の判断ですから、相手の言葉に自分が感じた嫌悪感が耐えがたいほど大きければ、今後、しばしば、その言葉のたぐいに接することからは、逃げたほうがよい、という一応の判断はできるでしょう。
 
>分かり合えない人間は、残念ながら存在します。<
 
是としますが、出会って言葉を一言交わして、不快だから、などという早計な決めつけではなく、ある程度、常態として同じ不快が続くかどうか・・くらいは見るべきでしょう。
 

絶対に分かり合えないとまでは言いませんが、あなたから分かり合おうとしても、相手に分かり合おうとする意向が無いのなら自分の膨大な時間と労力を費やして振り回されただけの結果に終わってしまう可能性もあります。
振り回されず、どうにもならないなら関わりを断つようにしましょう。

 
相手に分かり合おうとする気持ちが無い、自己愛の強い人などがそうですが、そういう場合は、そう分かったというより、はっきり感じた時点で、問い詰め追い詰める自信がなければ、関わらないことが唯一の選択でしょう。
 
自己愛性パーソナリティ障害の病的ナルシシストや、サイコパス精神病質と言われる人格は、変わりようがなく、どうしようもないのです。
 
昔、聞いた話ですが、ある良心的な精神病院の関係者が言ったことですが、精神病質者が入院してきたときには、先ず、多勢で取り囲んで、ぼこぼこに殴るのだそうです。そういう人は口で説得しても意味がなく、逆らうことは無駄であるということを体に覚えさせる、ということだそうです。
 
これは、ただの人間関係の悪化ではなく、極端な人格異常の場合です。しかも、昔の話に過ぎないので、そういうどうしようもない異常な人はいる、ということを言いたいだけです。
 

あまり熱心に分かり合おうとあなたから一方的に努力をしてしまうと、むしろその努力は仇となってしまい、あなたが他人の課題に介入しようとしていることになって相手を逆上させてしまう可能性があります。

 
相手を逆上させてしまう、と言っていますが、つまり、相手のことを気にしているわけです。また、意見を言うことは当然であり、介入ではありません。介入するような暇は、ふつう、ないのです。
 
介入と言わなくても、他者を考えないで生きることは不可能でしょう。他者を思いやるとき、他者の課題を考えることもあるわけです。
 
上については、そこまでする人は、よほど奉仕の精神に溢れた人で、あるいは、自分は人間関係がちゃんとしていると強迫的に思い込んでいる人でしょうか。
 
なんとか関係を修復しようと、焦って、機嫌を取ったり、故意に丁寧で優しい言葉を選んで使ったりする人もいるでしょうから、そこで、的を外れてゆくのでしょう。
 
相手を変えようとする言動は、しばしば、こちらが自己中になっていることが多いです。そして、その結果は、特に精神面の、健康を害することが多いと思います。しかも相手は変わらない、つまり、無益なことが多いのです。
 
課題の問題ではなく、精神衛生の問題だということを、私は、広く伝えて、注意喚起を促す、または、警鐘を鳴らす、ということを目的としています。
 

また、あなたが自分の課題に加えて他人の課題を背負って余計に悩み苦しむだけになってしまう危険性があります。

 
むしろ、他人のことを考えるか否かを考えるているあいだ、それは自分の課題になっていますから、他人のことを自分の課題にして気にし過ぎる、捨てられない、ということでしょう。つまり、一般的に、背負えない課題を背負ってしまうと苦しみが付いて回ります。
 

上記の課題の分離方法について、良く頂く反論が下記となります。
「そんなこと言ったら、お前の課題だからって言いたい放題、やりたい放題されても仕方ないってことか!?」
そんな訳ありませんよ。
そんな考え方をして他人を傷付けるような人と前述の対処と同じように関わらない方がいいと割り切った方がいいのだと思います。

 
そんな訳ないと、言葉だけで言っても、歯切れよく、そんなふうに受け取ってしまうような書き方をしているのです。受け取る側の課題でしょうか、むしろ、受け取らせる側の責任という課題でしょう。
 
一方で、相手にしないことは、いずれ、相手も分かるでしょうから、無視は、無視した相手を傷つけます。課題の分離の出来ない相手が、どう出るか、嫌がらせや暴力に発展しないか、これは相手の課題だからと、無視できるでしょうか。
 
人と人は反応し合って生きています。課題の分離をしてもしなくても、相手によっては、結局、逃げるしかない場合があるでしょう。
 
しかし、課題の分離を、いつも使って、不都合を無視している者もいるので、そういう者を批判するためには、相手に読ませることではなく、広く一般に情報を伝えるという方向を、自分の課題とするほうがよいと思います。
 

「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」という目的を持つ人は理屈が通じる相手ではありませんので、そもそも関わらないようにする努力が必要となります。

 
理屈が通じなくても、なんで、こんなことをするんだ、とか、こちらの被害を見せることで、気づく人がいることも忘れないようにしてください。冷たい心の持ち主にならないために。
 
自己愛の強い人というのは、理屈も通じず、また共感も成り立たない人です。見分けることは、とても大事です。そういう人は、高い位置を占めると、とても偽善的な社会悪に結び付くと思います。
 

自分の課題に加えて、他人の課題まで背負って生きることはできないのです。
自分の人生を生きながら、他人の人生まで生きてはいけない。

 
ですから、注意点として、個人が、きっぱり、これは、どちらの課題かを、早期に、会って言葉を交わしたときに、その時その場で、見分けることが、いつも直ぐにできるとは限らないのです。
 
そこに至るまでの、思慮を養う必要があります。でないと、好きなように使って、アドラーの名を付けて、心理学の名を付けて、自己のために利用するでしょう。
 
逆に、いけ好かない人と思われ、自分に、アドラー教で言われている「関わらない」対象の人格が当てはまったりすることのないように祈っています。
  
いちばん気持ちのよさそうなところに、アドラー教の言葉があり、曲解する者が飛びつけば、それは、とても気持ちの良い、また、都合の良い言葉として、恣意的に使われる可能性があります。その先には、無反省で無責任の自己中人間の人格破壊が待っていると思います。蔓延させてはいけないのです。
 
 

      f:id:stdsts:20201112235153p:plain

             あおり
 
 
(2019年10月31日)
(2020年11月13日、一部修正再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

アドラー教について(2)2

 
  アドラー教について(2)2
 
   アドラー心理学サロン
   https://twitter.com/PositiveSalon
 
 
短い言葉で人生の秘訣を教えようとする無理が表れています。
 
修正加筆して再録です。
 
アドラー教というのは、ネットのアドラー心理学サイトのことです。
 

嫌いな人や苦手な人にまで良い顔をする必要は無い
好きになれない人は必ずいます
苦手なら、極力関わらないようにすればいい
「悪いから…」
「失礼がないように…」
そんなことを考えてばかりだと、他人の為に自分を犠牲にして生きることになる
もっと、自分の気持ちに素直になっていいんですよ

 
目を覚ましてください。
私たちは
「悪いから…」「失礼がないように…」
という理由で人と関わることを決めているでしょうか。
そういう人に良い顔をしているでしょうか。
違うでしょう。
 
苦労があっても我慢するのは、好きだったり、興味があったり、ためになると思うから関わるのです。だから、嫌いや苦手の人からは離れてゆくのは、言われなくても、必然なのです。
 
嫌いや苦手を、上の「悪いから…」「失礼がないように…」のような言葉で我慢しているでしょうか。そんなに我慢はしていないと思います。
 
「苦手なら、極力関わらないようにすればいい」・・などという軽口に振り回されないでください。ちょっと関わったくらいでは、その人が、どういう人かは分からない場合が多いです。
 
人との付き合いで、恐らく、ひどい目にあっているブログ主の、短絡した断言を、そのまま、人に向けないでほしいです。他者などお構いなしの自己中にならないでください。
 
人間関係の問題は、一言では言えません。深い思考と経験が必要なことです。ここに、それぞれの、人と状況に応じて、思考の意味があるのであって、ちょっと感じたくらいでは分かりません。豪語する教祖的な者に従うことに安易に解決を求めないほうがいいのです。
 

職業はその人の価値を表すものではない

 
立派な職業人は尊敬される、ということを無視して語る者は、恐らく、立派な仕事をして尊敬されたということもないのでしょう。それで目立つことを言って批判して、一気に憂さを晴らしたいのかもしれません。
 

どんな職業に就いていても、その人の人間性は計れない
社会的な評価は絶対的なものではなく、指標の一つ
他人が決めた指標でした仕事の価値を計れないあなたは、どんな仕事をしても不幸ですよ
良い仕事、悪い仕事があるのではなく、自分がどう思うのかが全て

 
仕事の評価を自己の満足だけで測る人になりたいでしょうか。
他者の評価も指標の一つだということです。
仕事の恩恵を他者が受けるような仕事はどうでしょう。
 
価値の押し付けにならないようにしてほしいものです。
 
察するに「指標でした」→「指標でしか」でしょうか。
ならば
「他人が決めた指標でしか仕事の価値を計れない」人が多いのでしょうか。
価値の指標を他者に委ねる仕事も多いのではないでしょうか。
他者のために仕事することを誇りや生き甲斐にしている人もいるでしょう。
「自分がどう思うのかが全て」ではありません。それでは無反省になります。
豪語の断定が、裏目裏目に出ています。
 
自分がどう思うのかが全て、これこそ、自己中の勧めです。
自分がどう思うのか、ということに、「全て」を付ければ、
他者への配慮を無視し続けることになります。
どう受け取られるかを考えない言い方だと思います。
 
自己中に仕事を選んで、仕事がなくなることもあるでしょうし、
他者への思いやりで仕事をする心を、失うかもしれません。
 
社会的に偏向した考えを持つ者のうち怨念を育てている者は、
付き合いがうまくいかないものだから自分の思い通りの夢を見て広めようとするのでしょう。
どうか処世の限られた一部を、人生の金科玉条にしないでください。
 

バカは死ぬまでバカなのです
これは愚痴でも悪口でもありません

 
悪口ですね。
なんだか実感がこもっているような気がします。
いっぱい切り捨ててきた感がうかがえます。
それは個人的な経験であって人間関係の総てではありません。
 
よほど、人のことをバカだと言いたいか、言ってきた人だと思います。
あるいは、言われてきた人かもしれません。
 

本当の話なのです
どれだけその人のことを考えてあげても、親切に手助けをしても無駄な人は必ずいる
人は自分が学習しようとしたり、成長しようとしない限りは何も学ばない
何を言っても、どう思うのかは他人の課題なので割り切ろう

 
他人の課題だからと、割り切る、つまり無視する
ということを言って解決する問題ではありません。
 
距離の取り方にも、学習と成長が必要なのだから
嫌われること以上に、恐れるべきでないのは、失敗することです。
そこから学び取る図太さを身につけるべきであって、
大事なのは、無視で楽を得るのではなく、
じっくり考えて、乗り越えることが大事なのです。
 
それも学習なのだから、精神を病まない範囲で、考えることが大切ですから、
思いわずらうようなら、いったん保留して休憩すればいいのです。
つまり、課題の問題ではなく、精神衛生の問題なのです。
 
ひと言で格言のように表して、ひと言で切り捨てて、
それで解決するようなことではないのです。
 

「信用」するのではなく「信頼」するのだ。
「信頼」とは裏付けも担保もなく相手を信じること。
裏切られる可能性があっても相手を信じるのである。

 
これは、何なのでしょう。
人間関係についてならば、「信頼」の悪意の意味付けであり、舌足らずです。
ブログ主を信じよということなら、まさにカルトの信じ方になるではないか。
 

嫌いなら関わることない。
嫌いなら話しかける必要も無ければ、相手にしなくたっていい。
結局、嫌い嫌いと言いながら、その人にまとわりつく人は、自分に自信が無いだけ。
自分の人生に意義を感じたり、集中できないから他人に目が行くのです。
あなたの勝手な都合で、他人を傷付けないで下さい。

 
嫌な人には、関わらない、話さない、相手にしない、というのが、
気に入らないことは無視するというアドラー教の常套句ですが、
これ、悪口を言って、憂さ晴らししているのと、たいして変わりないです。
 
危険からは、当たり前に、一目散に逃げるしかない。
 
しかし、無視する、逃げる、ということが、いつも正しいわけではなく、
そもそも、いつもできるわけでもないのです。言葉だけ強くする気安さが全開です。
 
相手に面と向かってでもなく、傷つけないでくださいと言って、相手は傷つけなくなるでしょうか。言葉の気安さでは、解決しないことがいっぱいある現実世界で。
 
>他人が何をやっていようが、そんなことはあなたには関係の無いことですよ?<
 
また、一面的な決めつけです。
自分に関係のあることを、他人は、やっているかもしれません。
 

そんなにその人が気になって仕方がないのなら、その人の為に何かしてあげたらどうですか?
他人への関心は、優しさ以外は無意味

 
気になって仕方ないなら、優しさには関われと言っています。
極端に問題を単純化しています。
その同じ記事の流れの中で、さかんに無視を勧めているくせに。
 
優しさ以外は無意味でしょうか。冷静な知性と感性を忘れてはいけません。
優しさにも見かけだけの偽善的なものもありますから、関われと一概には言えません。
 
正しいことが何かを、求めなくていいのでしょうか、考えなくていいのでしょうか。
 

人の詮索ばかりする人は、他人の話をして、他人を引き立てるだけの存在として人生を終える。

 
また、言葉だけの気安さで、預言者みたいに豪語して、余計なお世話をしているのは、誰だろう。
 

自分の歩んでいる道をしっかりと見よう
その先に何が待っているのか、その先のどこにゴールがあるのかは自分次第です
それを決めるのは自分次第であり、他人によそ見をしてはいけない
よそ見をすれば、車の運転と同じように必ず事故に繋がる

 
自分の歩んでいる道がしっかり見えることは稀だと思います。
自分次第、というのは、無責任な言い方で、具体的なアドバイスにはなりません。
よそ見に喩えても、具体的にはなりません。
 
>あなたの道のりは、他の誰のものとも同じではありません<
 
ブログ主とも違うのです。一人一人違うのです。
何を分かったつもりで物を言っているのでしょう。
 
短い言葉で表しても、それが格言的であっても、
あるとき、逆説的に当てはまっても、
すべてが解決して幸福に結ぶ付くような短い格言はありません。
 
 例えば、"急がば回れ" は、いつも正しくはありません。
 回れば遅刻、になるだけかもしれません。当たり前のことです。
 
言葉を信用しすぎないようにしてください。
大事なのは心です。生きてゆく心を表すのに、短い言葉で済むはずはないのです。
 
共感と共有を大事にして、深く広い思慮を "求める" そして "努める" ことが大切です。
短兵急に学べることではありませんから、
短い言葉を、一面的な格言としての限界を知らずに鵜呑みにするのは、とても危険です。
 
考えるべきは、精神衛生の問題と課題の問題という違い、悪口か憂さ晴らしの問題と言葉の気安さの問題という違い、即ち、ちょっと見ただけでも、問題が多いということです。心理学というよりカルトだと思います。
 
だとすれば、アドラーという心理学者の名前を出し、心理学という学問の名前を、タイトルとして出すのは、大いに問題があると思います。
 
だいたい、カルトというのは、やり方は柔和と物わかりの良さを装いますが、豪語して、断定して、決めつけて、そこから、さらに、豪語し続けることを好みます。
 
この世界には、そして、人間には、時間的に、空間的に、かつ、人間の個性を抜きにして、断定できること、というのは、ましてや、不変としてよいことは、それほど多くはありません。
 
人は、時々に判断していますが、学習と成長によって変わり得ることです。勝手な気持ちで断定して不変としてよいことは、無いと言ったほうがよいでしょう。
 
 

        f:id:stdsts:20201112000232p:plain

                  カルト
 
 
(2019年10月)
(2020年11月12日、修正再録、さらに修正)
 
諍い(いさかい)
罵る(ののしる)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
(更新、コメント不可、12月消える)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

大事なもの2

 
  大事なもの
   (過去の記事を加筆して再録)

 
 
大昔から聖書に書かれている神の起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
処女懐妊から復活に至るまで
キリストにまつわり
またキリストが起こした奇跡。
それら奇跡に私たちは共感できるでしょうか。
 
それらに驚いた時代は二千年前ですが、
今それら奇跡を当てにできるでしょうか。
 
今は滅多に起こっていない奇跡を
私たちの信仰の縁(よすが)にできるでしょうか。
 
滅多に起こらないものを当てには出来ません。
それに
物や肉体の奇跡を起こすのは神の業です。
神に任せるべきことです。
 
むしろ当てにすることは的外れと知るべきです。
共感できないのだから心の縁にもできません。
 
 徒に感情を高ぶらせて
 信仰と讃美を豪語するのは偽善者の三文芝居です。
 
私たちが共感できて
信仰の縁にできて
そのために泣くことが出来るのは
キリストが人々と交わり
キリストが人間を洞察して
人間の悲哀に共感されたからです。
 
その共感すなわち愛ゆえに
共感なき者たちによって捕らえられ
キリストは十字架につきました。
 
驚くべき救いの奇跡のためにも
驚くべき再臨と終末のためにも
私たちは神の民として人間であるべきです。
天国を待ち望む民であり続けるためには
考えるべきことがあります。
 
少なくとも今は
当てにできない奇跡の仕組みを
学校の勉強のように頭で覚えたり
牛のように口で反芻したり
録音のように耳に繰り返したりして
それで深めようとする信仰観は
むしろピント外れの偽善的徒労だと思います。
 
キリストはいかなる人々と交わったか、
人々は何を抱えてキリストに出会ったか、
キリストはその人々に何を見出したから共感されたのか、
人々は何ゆえにキリストからの愛を知ったのか、
それこそが
今を生きる人間として
信仰者として縁にするべきことなのです。
 
それを理解することを、魂の奇跡、と呼んでいます。
物や肉体の奇跡に対して
心の奇跡と呼んでもいいと思います。
 
神の僕ぶった高慢ではなく
裸の心をもって正直であり、
飾らず偽らず自らを神の前に捧げて、
正直であるがゆえに
ときに嘆いても
祈る自分の涙袋
主の眼差しが注がれてゆくように
祈り乞い願い
癒しと救いの成就を待ち望む人間の姿を見ていただきましょう。
 
神を讃えなければという義務ではなく、
嘆きがあれば
嘆きを正直に告白して祈りましょう。
それが祈りだと思います。
 
できることをして
感謝と讃美が生まれる時を待ち望みましょう。
それが信仰生活だと思います。 
 
 

        f:id:stdsts:20201110235113j:plain

           海・浜・人
 
 
(2018年04月23日、同日一部修正)
(2020年11月11日、若干加筆して再録)
 
縁(よすが
業(わざ)
徒に(いたずらに)
反芻(はんすう)
僕(しもべ)
讃える(たたえる)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

楽山の垢々連連

 
  楽山の垢々連連
 
 映画『赤々煉恋』を見た。
 2020年11月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26913286.html
 (一部省略)(記事タイトルは当て字)
 
 
赤い色ではなく、楽山の垢が、股間に溜まっているようです。記事2つ批判。
 
自覚がないために性懲りもなく書き続けている楽山のような病質者の厄介は、こちらで批判を貼り付けてゆくしかありません。
 

*せきせきれんれん(ネタバレ注意)
 GYAO!で、『赤々煉恋』を公開していたので見てみた。

2020-11-06 (5)赤々煉恋
・赤々煉恋 | 映画 | 無料動画GYAO!
(2020年11月15日(日) 23:59まで)
 」
映画の終わり方については、どうにも納得できないものがあったが、コメント欄を読むと、主人公は最後には成仏しただろうという意見があって、ハッとさせられた。
そう言われてみれば、たしかに主人公は自分のあやまちを自覚し、素直に詫びて以降、いつもの場所にも、自室にも姿を見せなくなっている。とすると、成仏したというのは当たりかもしれぬ。これは納得。
本作は、派手なアクションや、大どんでん返しのような大仕掛けはなく、淡々としていて静かな作品なので、退屈に感じる人もいるかもしれないが、『管制塔』『麦子さんと』『好きだ、』などの雰囲気が好きな人であればおもしろく見ることができるのではないかと思う。またスピリチュアリズム的なことも描かれているので、その方面に関心がある人も楽しめるにちがいない。

 
楽山が「ハッとさせられ」るのは、超常的な言辞に出会った時だけです。ここでは「成仏」がそうなのでしょう。超常という、生きている誰も経験したことのないことにだけ、楽山は、興味を持ちます。
 
ゆえに、楽山には、現実における自分の欠点など考えてもみない性格が養われてきたのでしょう。いろんなところに、楽山の致命的な欠点が表れてきます。しかし、楽山は、不都合を総て無視する人格崩壊?で、乗りきって?いるのです。おぞましいかぎりです。
 
「自分のあやまちを自覚」せず、「素直に詫び」る気もなく、高ぶるだけで、「これは納得」などと言っている楽山が、また、おふざけの趣味で、宗教めいたホラー傾斜の記事を書いてきました。
 
楽山は、スピリチュアルを自認していて、霊が分かるっぽい?自覚でありながら、人の気持ちが全く分からない自己愛性パーソナリティ障害です。
 
無反省、無責任、無理解のまま、人に教えたり勧めたりする厚顔無恥は、いったい、どこから来るのでしょう。
 
変質者の楽山が、「楽しめるにちがいない」と言っても、共感性のない楽山の評価など、評論家気取りでしかなく、何を勧める資格もありません。楽山の楽しみは、ホラーや霊の話で、自分を高めた気分になることだけのようです。
 
鈍麻した情緒と、訂正不能の自己中で、冷静な思慮もなく、明確な意志もなく、欲望から短絡して思いついたことを書いてくるだけです。どうか、近づかないでください。関われば、失望くらいでは済まない疲労を与えられます。
 

*ストーリー
ちなみに映画のストーリーは、おおよそこんな流れになっている。
女子高生の樹里は、自殺して以降、霊となってこの世をさまよっている。他の霊とも、自分が見えて話ができる人とも会えないままに、何年もひとりぼっちで過ごしている。しかし自殺したことを後悔してはいないし、樹里のことでずっと苦しみ続けている実母にはいらついている。
そんな折、樹里はようやく自分に笑顔を向け、話ができる少女(リンゴちゃん)と出会い、それが切っ掛けとなり、実母の気持ちを理解し、自分のあやまちに気づくことになる。

 
嫌がらせのように性懲りもなく書いてくる楽山です。霊とかホラーの話のみに興味のある楽山です。そこから、真面目な宗教を、けなし、おとしめてきました。そして、発言の責任をいっさい負いません。何事もなかったかのように、記事を書く厚かましさ、それが、続いているだけです。
 

*見どころ
自分にとっての見どころは、次の箇所だった。
樹里は、活発で、明るく、利他的な性格で、人のために犠牲になるのもいとわないのだったが、友達との約束を守れず、裏切ってしまったことから、家にひきこもるようになっていくところ。自分の中の利己心に気づき憂鬱にとらわれるのは漱石の『こころ』における先生に似ている。

 
楽山には、憂鬱は分からないし、体験もないと思います。それ以前に、悲しみが分からないし、体験もないと思います。体験しているのは、笑いと怒りだけでしょう。
 
だから、人を傷つけるようなことを平気で書いてきます。だから、楽山のことは、人間らしい "人" からは除外して考えるべきです。生まれ育った頃には、既に、心が無い人格異常が現れ、今も、それが続いているために、罪悪感と羞恥心が欠如しているのです。不都合の一切を、人のせいにして、悔いることがありません。
 

母親から信じているといわれたとき、樹里が荒れるところ。自分は信じるに値しないと思い込むほど追い詰められていたのだろうか。
母親に対して冷笑的だった樹里が、母親と同じ立場に立たされたことで、その気持ちを理解したところ。ここは泣ける。
樹里が成仏したあとも、母親も、友達も、樹里のことを思い続けているところ。のこされた者の気持ちが切ない。
この他にも印象的な場面は多くあるし、本作はなかなかの名作だと思う。

 
人の気持ちの分からない楽山が書いています。「泣ける」という言葉を書いても、恐らく、泣ける心を持っておらず、泣いたこともないと思います。根底にある感情は、怨念だと思います。
 
共感性のない楽山に、名作を判定する資格はありません。言葉だけ、気持ちを理解、泣ける、切ない、印象的、なかなかの名作、などと並べてきますが、褒め言葉並べておけばいいじゃろという作為の、精神の詐欺師であり、霊が分かるっぽい?から高いところにいて人を見下ろしている偽宗教家の成れの果てです。
 
この記事のように、乾いたポテチのような字面だけが並んでいるような精神の人です。
 
 
 「エル」の意味とは?(『基督抹殺論』幸徳秋水著)
 2020年11月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26912980.html
 (一部省略)
 
 
楽山の股間でしょうか。卑怯で、陰湿で、猥褻で、品位のない宗教観、総て、今までの楽山日記からの文脈を合わせて考えれば、表れてしまうものです。
 

*エル
「エル」とは神という意味だと聞いたことがあったが、幸徳秋水の本では次のように書いていた。

セミチック諸国民が男根の石像若くは木像を beth-El(神の宮の義)と呼び、或は単に EL(神其者の義)と呼ぶは、此の粗朴真率の精神よりせる者也。
(『基督抹殺論』幸徳秋水著〈岩波文庫〉、岩波書店、昭和29年、p.68)[旧字は新字に改めた]
念のため、別のところでも調べてみたが、同じことが書いてあった。
2020-11-05 (0)男根の石像若くは木像
・基督抹殺論 - 国立国会図書館デジタルコレクション(42/82)
 」

 
楽山が、ここで、宗教と下のことを書いてくるのは、決して宗教に興味があるからではなく、楽山のホラー好みと違って、現実の宗教を、股間で貶めたいだけなのです。この記事から想像される楽山の笑う顔こそ、見たくもない不潔な下ネタであります。
 

以前はこういう話は全然受け付けられなかったし、かなまら祭は珍妙なものに感じたものだったが、よく考えてみれば古代人は新たな生命を生み出す神秘的な力を持つ部分を神聖視し、神として礼拝したという話には一理あるのかもしれない。

 
神秘を知らないのに、触れたこともないのに、"神秘的" という言葉を使うわけですから、楽山が、どれほど、下種な意味で使っているかということです。毛ほどの "一理" もない楽山です。
 

神といえば天にあるイメージがあったが、実際には地上における生殖活動に起源を有するのだとしたら、なんとも皮肉な話ではある。これは、「一説によると…」という話に過ぎないとは思うが、覚えておいて損はなさそうだ。

 
このように、神に男根を見る楽山です。快楽山でしかないのです。宗教を、悪戯に、性的要素に結び付けて、"皮肉な話" と言って済ませていることから明らかです。
 
真剣に真実を追求しようという気持ちも心も一切持っていない楽山です。その実質が、批判によって、ズルズル明らかになってきたのです。楽山の記事を読んで真に受けることは、人生を棒に振るようなものです。
 
楽山の股間は知りませんが、表れた精神はとても汚く、不能と言っていいほどの、宦官的下心に溢れています。どうしよももないのでしょう。だから、また、書いてくるのです。
 
楽山は、神が大嫌いであるのに、あるときは、祈りの体裁で記事を書き、クリスチャン芝居をしていたことがあります。この三文芝居の大根役者が、楽山の本質であり、宗教について書いても、真剣に宗教などに真実を求めることはないのです。だから、だまして、いい気持になり、裏切って、笑っているところの、人でなしです。
 
耳はあるが聞かず、でも聞いたと言い、目はあるが見えず、でも見たと言い、体はあるが心が無く、でも共感した反省したと言い、言葉はあるが、玩具のように並べるだけであり、思想のお芝居に遊び、宗教と信仰を、おとしめて、逃げるだけの、自分を高めたい情動だけに生きているインテリ気取りの、実は本能性だけのサイコパスが楽山であります。
 
欲望だけが生きている股間の病原性の垢であり、長く楽山の悪臭にさらされ、慣れてしまうと、同類の化け物になるでしょう。楽山の股間に棲みたくないならば、決して関わってはいけません。
 
楽山は、自らの醜さに気づかないようだから、また、書いてくるでしょう。楽山は、変わることがなく、楽山がまんまと騙せていた頃とは、楽山の周りが変わってゆくでしょうが、それにも、楽山は気づかないで人生の終わりを迎えるのでしょう。
 
そういう病質者やカルトにつかまって長びくと、そこで、人生が終わってしまう可能性があります。何故なら、人間は、何か良いものを、不変にしたがる性質があるからです。
 
良いものが実は悪しきものであった場合、犠牲者は、反省力が働かず、そこで辻褄合わせをしてしまうのです。ゆえに、相変わらず不変となり、人格の変性と悪質と崩壊を、サイコパスと共にすることになってしまいます。だから、早く、離れてください、関わらないでください、近づかないでください、と言い続けています。
 
病質者が、最初に犠牲者から奪うのは、人間に、最小限必要な、反省力だからです。長い間、洗脳された後に反省力が回復するのは、もはや、奇跡のようなものです。つまり、カルトは、生きている人間から先の可能性を奪うところの、既に、墓荒らしのような者なのです。
 
ですから、知能に関係なく、とりわけ、病質者の、顔ではなく、表情は、実に、愚鈍で、醜いだろうと思います。
 
私は、この地上で、最も、愚かで、みじめな部類の人間ですが、今思えば、私の長過ぎる人生は、ただただ、楽山やシャロームのような部類の者にだけはなりたくない一心で、キリストに救いを求め続ける人生なのかもしれません。
 
 

      f:id:stdsts:20201109234834j:plain

               しゅうあく
 
 
(2020年11月10日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

罪と救い2

 
  罪と救い2
    去年の記事を修正再録。
 
 
人間は生きている限り罪を犯します。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
 (マタイ5:17、新約聖書
 
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
 (マタイ5:28)
 
「悪人に手向かうな。
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」
 (マタイ5:39)
 
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
 (マタイ5:44)
 
情欲をいだくだけで罪だとキリストは言うのです。なぜ、こんなに厳しいのでしょうか。
 
できるだけ守って罪を犯さないようにしましょう、という安い意味ではありません。
 
キリストの教えを、緩い道徳でごまかしてはいけません。
 
キリストの教えは、罪を犯さず、立派な人間になるためではありません。
それは無理だからです。
 
神に救われるためであるが、神の前に人間は常に不完全な存在です。
 
ここから何が推し量られるでしょう。
 
悪意をいだくことは、傷つけ殺すのと同じ罪です。舌打ちをすることは、暴言を吐くのと同じ罪です。
嘘を吐くのは、人を騙す詐欺と同じ罪です。即ち、罪の心をいだくことは、既に、罪だということ。
 
罪についてキリストが厳しいのは、罪なき御方は、神のみであるからです。ゆえに、キリストは、罪ついての定義について、厳しいことを言っておられるのです。
 
とても厳しいと思われるほど、キリストが罪の定義について厳しいのは、
それに対する赦しと救いの寛容さが大きいからなのです。
 
そして、人間は、罪を隠して善人ぶる者が多いことを、主は知っておられます。
ゆえに、神の前に、罪を正直に告白する者だけが救われる、という考え方でしょう。
 
主イエスは、人が罪を犯すさまを、誰よりも敏感に感じ取っていたのでしょう。
 
人間は生きている限り罪を犯します。気づくこともあり、気づかないこともあります。
 
罪なき人は一人もいない。
 
即ち、立派に生きているつもりでも、気づかない罪があり、祈らなくていいということはなく、赦しが必要ないということもない、ということです。
 
ゆえに、総ての人は、正直に祈り、赦されることが必要だという意味なのです。
 
 
ブログで批判しているのですが、ネットには、学者気取りでキリスト教など宗教について語りながら、まるで神と対等に取引をしているかのような自惚れ屋で、デジタルの明確さもアナログの柔軟さも持ち合わせないで、理路が理解できず嘘と詭弁だらけになった幼稚な短絡だけで物を言うような、高慢だけが勝っている偽善者がいます。正直さの欠片もない、こういう人が、いちばん神に嫌われることになります。
 
 
主イエスは、その生涯において、
神を恐れず、罪を犯している人の醜さを、痛いほど知っておられました。
 
罪を犯していながら、罪などないかのように自らを飾って、
嘘でごまかす者がいることを知っておられました。
 
私たち人間は、自分の犯している罪の総てを知りえないのです。
 
私たち人間は、善かれ悪しかれ、自分の言動の影響を、
影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。
 
つまり人間が罪と思っている範囲には収まらないのが本当の罪なのです。
 
神が定めるところの、人間の罪のうち、
ほんの少しを守っただけで善人のつもりで、
いい気になってしまう人間。
 
神の教えを守って完全になる・・なんてことは人間には出来ません。
それが出来るなら、キリストが顕れる必要はなかったでしょう。
 
 まさに、楽山が言うようなつじつまの合う世界ならば、
 キリストは必要ないはずなのです。
 しかし、実際には、キリストが顕れたゆえに
 私のような者も、赦しと救いを信じているのです。
 
その罪性のゆえに、神に背き、人を貶める私たち。
その私たちが、悔いることさえしないならば、どうして救われ得るでしょう。
 
上の教えは、守れば救われるではなく、守れなければ救われないでもなく、
守れないであろう私たちが、既に、キリストの視野にはあるということです。
 
その上で、キリストは、救済の使命を、その公生涯すべてを通して表しておられます。
それは、聖書において救われた人々のように正直に乞い願うことであり、
私たちの場合、正直に、祈ることに他なりません。
 
神しか知らないことを、
知っているつもりになるのは大罪であります。
見える、守っている、分かっている、知っている、
このように思い、言い、心に決めつけることは神に対する大罪であります。
 
見えていない、守っていない、分かっていない、
そして、知らないでいる人間が、
生きてゆけるように、大罪だけは犯さないで済むように、
神は、計らいます。
 
神に救われるために、人間が出来ることは、
教えを完全に守ることではなく、それは既に不可能なのだから、
神に対して、正直に告白することだけなのです。
 
その正直さが、聖書の中の、救われた人々にはありました。
 
そして、
神に対して正直であろうとする者ならば、
人を平気でだますような有害で白々しい嘘は吐けなくなるだろう
ということを、
神は期待しておられるのかもしれません。
 
キリストの言う、律法の成就とは、このことなのです。
 
神は、行ないだけでなく、むしろ、人の心を見抜いておられます。
 
 

      f:id:stdsts:20201109000320p:plain

               罪と救い
 
 
(2019年03月02日アップ、同日一部修正)
(2020年11月09日、加筆修正して再録、さらに修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html