ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

自己中心信仰

 
  自己中心信仰
 
 
初期の、あるいは、未熟な信仰が犯す過ちがある。
一種のセンチメンタリズム(感傷)でもある。
 
神を信じるが
その神は自分を救ってくれる神でしかない。
 
聖書に書いてある神はそれだけではない。
 
信仰者が過ちを犯さないように
同じ過ちを繰り返さないように
神は、戒める神であり懲らしめる神でもある。
神を信仰する人間としての必要十分はそこにある。
 
自分を慰め癒やし救う神だけを信じていると
自分に不都合なことが起こった場合
戒めを受けず懲らしめを考えない信仰になる。
 
つまり、不都合において反省せず、
自分を神に憐れまれる被害者としてしか見ず、
敬虔の装いで、自ら復讐はしないが、反省もしない。
そして、心の中で、神の復讐を願う。
今に見ておれ、神が復讐をなさるのだと思い込む。
 
そのようなことが常態化すると
キリスト信仰の代わりに出来上がるのは、
自己中心主義以外の何物でもない。
 
つまり一般に言われる自己中心に
根拠として神の絶対が加わることになる。
 
 
信仰は他者からの解放と孤独からの解放を与えるが、
それだけだと自己中心に向かいやすい。
 
もう一つ、信仰がもたらす大きな幸いは、
反省と悔い改めによる人間としての成長である。
 
絶対孤独から救われた信仰者は
悔い改めによって自己中心からも救われなければ
キリスト信仰としての意味がない。
むしろかえって悪い信じ込みに陥るだろう。
 
このことは要素としては決して稀ではなく、
さらに常態化して恐ろしい自己中心の
自分信仰になる例も実際にある。
 
信仰は他者からの解放と孤独からの解放を与えるが、
自分の罪や過ちがなくなると勘違いしてはいけない。
どんな自分でも神が守ってくれると勘違いしてはいけない。
神が神のやり方で守るのは神の民である。
神の民である資格を自己中心によって失ってはいけない。
 
私たちは地上ではどこまでも罪人である。
 
他者からの解放は他者を無視することではない。
解放された自分の正しさが保証されるわけでもない。
私たちは罪人である。
 
孤独からの解放は
神が常に自分の味方であることを意味していない。
神は、あえて懲らしめることもあると考えるべきだ。
神は
信仰者を依怙贔屓する神ではないからだ。
 
ゆえに信仰は
信仰者が保身と自己中心に偏らないために
信仰者に対して
在って在るものとしての絶対の神のみに対する敬虔を求めてくる。
ゆえに、信仰者は試される。
 
戒める神と懲らしめる神は
信仰者が間違いを犯さないように
間違った方向に進まないように
愛して慰めてくれる神と同様に
信仰者に対して一体として君臨する。
 
神が与える信仰によるところの
他者からの解放と
孤独からの解放は一体となって
罪深くて頑なな自我からの解放として
神が
反省し成長する信仰者を育てるために与えられるからだ。
 
 

 
シャロームと楽山には近づかないようにしてください。
シャロームは、約7年間見てきて、嘘吐きの軟派カルトだと判断しています。
罪を認めず、悔い改めないのは、聖書の核心に反しており、キリスト者ではありません。
 
楽山は、アドラー心理学と言っていますが、どうすればいい、ということを教えるのは、
広い意味では、やはり宗教であります。しかも、気に入らないことを無視する教えであり、
実体はアドラー教と言ったほうがよい自己中心の軟派カルトだと判断しています。
 
気に入らないことに、いつまでも、こだわれば苦しいだけだから、避けるべきです。
それはキリスト信仰においても、一日の苦しみは、その日一日で十分だと書いてあります。
明日は、明日が思い煩うであろう、という聖書の言葉もあります。
苦難に耐えて克服するために、祈りがあり、赦しがあり、信仰による癒しがあります。
 
しかしながら、気に入らないことをことごとく無視する生き方は、
気に入ったことだけを求める生き方であり、それは、そのまま、自己中心に生きて、
罪も不都合も無視することで、学習せず、苦難の克服も最初から無いものと見なして、
楽だけを求め、楽な選択だけをしてゆくので、結局、シャロームと同じように、
他者を無視して考えず、成長を拒む生き方だと思います。
 
苦難を耐えて克服するのと、苦難を最初から無いと思い込みで見なすのとは、
雲泥の差があります。後者には、学習も成長もないのです。
苦難の克服が全く要らないという生き方は、無理な思い込みに生きることに過ぎません。
つまるところ、楽をするために、人間であることを放棄することに他ならないのです。
 
第一、そのような生き方が、いつまでも現実に通用するとは思えません。
自覚もなく、誰かに迷惑をかけるでしょう。さらに、犯罪にさえ結びつく可能性があります。
罪を犯しても、罪など無かったと思い込むことになった場合を考えてください。
そのような、言ってみれば刹那的に本能的にだけ楽になる生き方を真理と思って喜び、
その萌芽を宣伝している者たちがいるということです。
 
 
(2019年03月08日アップ)
 
依怙贔屓(えこひいき)