ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

讃美と正当化


   讃美と正当化
 
   神の時の訪れ
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28917721.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
讃美というのは、勘違いすると、信仰自慢や、強迫行為や、自己正当化としての悪用、となることを考えさせられる問題となりうるものです。ましてや、平気で嘘を吐く人や、偽善者の場合、常套手段として使われることがあります。シャロームは、その一つのモデルのような人なのです。
 

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★今日のみ言葉★(2016.2.18)
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「讃美の歌」
最近は音楽の好きな人が多いようです。
音楽で元気をもらっている人が沢山いる時代ですね。

 
最近でなくても、音楽の好きな人は多いです。
 

わたしは元来、音楽的な環境にはあまり縁のない家庭に育ちました。
それで、小学校も中学校も音楽の時間はあまり好きではありませんでした。
ところが主イエスを信じる信仰をもってからは、
讃美歌から始まって、聖歌、み言葉の讃美などをよく歌うようになりました。
そして讃美が好きになりました。

 
讃美も感謝も、趣味ではありません。また、義務感ですることでもありません。溢れるような気持ちがあって、することなのです。無理をして讃美して気分を高揚させても、それは、本当の信仰ではなく、自己暗示の可能性があることを考えるべきです。カルトでは、よく使われる手段でしょう。
 

もうずっとずっと前のことですが、わたしには辛く苦しい時がありました。
聖書も読めず、祈りもできないような時でした。
そんな中で、ひとりで讃美を歌っている時、主イエスの十字架の愛を体験的に知らされた者です。
これはわたしにとって信仰の大きな転機となった体験でした。―――(1)

 
「主イエスの十字架の愛を体験的に知らされた」

こういうことを言う人から、シャロームのような神秘や奇跡や啓示を振り回す人が出てくるのです。
注意しなければいけません。人間は神秘にはなれません。
 

あなたは主を賛美する讃美の歌をうたうことは多いですか。
日曜日だけですか。
生活の中に讃美の歌が入ってきていますか。
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詩篇28:7
主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。
わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。(口語訳)
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讃美を歌うことで、元気をもらうことがあります。
しかし、今日のみ言葉はそのことを言っているのではありません。

 
シャロームは、悪意や嘘にも、元気をもらったつもりなのでしょうか。神を盾にして。
 

主により頼んだ、その結果として助けを得たので、喜びと共に主を讃美するのだ、と言っています。
他にも解決できていないことがいろいろあったとしても、そういう心の喜びと感謝を表す讃美です。

 
このような聖句を悪用して、シャロームは、罪を認めず悔い改めもしないのに、神の助けがあるとばかり、人に対して、神の権威を振り回すのです。こうなった人間は、讃美、讃美と言いながら、自らを省みることがなくなるので、背教者にしかなれません。
 

集会の時以外にも聖書を読みます。
集会の時以外にも祈ります。
集会の時以外にも個人的に主に感謝し、讃美することはよいことなのですね。
ああ、これは主の恵みだ、祈りの答えだと思える時がありますか。
今日のみ言葉によれば、そんな時、ひとりでいる時でも感謝をもって、主を賛美するのですね。

 
このように、感謝と讃美が、あたかも、免罪符になっているようなシャロームに倣ってはいけません。
 

それだけではなく、思うようにならない、辛い状況の中で主を賛美しませんか。
それは主に寄り頼む心の表れとしての讃美です。
別に大声で歌う必要はありません。
どう思いますか。

 
讃美も感謝も正直に溢れてくる気持ちですることです。自分の信仰の正しさを誇示するためにすることではありません。また、精神修養や修行のようにしてよいことではありません。
 
感謝することのないときや讃美する気のないときに感謝や讃美をするのは、信仰の正直さを妨げるものです神の前に、不正直な自分を演じる行為であり、望ましいことではありません。カルトならば成り立っても、キリスト信仰は勢いで成り立つものではありません
 
>《shalomのコメント》

「わたしには辛く苦しい時がありました。
聖書も読めず、祈りもできないような時でした。
そんな中で、ひとりで讃美を歌っている時、主イエスの十字架の愛を体験的に知らされた者です。
これはわたしにとって信仰の大きな転機となった体験でした。」
この記事を書いておられる方はとても真面目で神学校を優秀な成績で卒業されたのです。
しかし、牧師として教会で奉仕し、伝道、牧会で行き詰まられ、
毎日、新聞の求人広告を見て過ごされる時があったようです。
それが引用した言葉に書かれている体験のようです。
何事もない時には読めていた聖書が読めなくなり、歌っていた讃美歌ですが、
ある時、讃美に追い込まれるような時があります。

 
「神学校を優秀な成績で卒業」
シャロームのこの文章や今までの文章から明らかなように、こういうことを書いて、信仰の正しさを主張する意図は、胡散臭いと考えるべきでしょう。あとは、(1)をなぞっているだけでしょう。
 

時には人の時と神の時があるようです。
人の時とは人が良しとする時です。
箴言には「人は心に自分の道を考え計る」(16:9)「自分の目には正しく見える道」(21:2)とあります。
また神の時については「すべての道で主を認めよ」(3:6)「主を待ち望め」(20:22)とあります。

 
神の時とシャロームが言って、讃美しながら、罪を認めず、嘘を吐き、偽善を働き、しかも悔い改めもしないで、平気で信仰?の記事を書いてくる、というのは、とんでもないことなのです。言ったことの重さが、まるで分かっていないのでしょう。
 

私たちはいつも人の時、人の道に生きています。
しかし、主なる神は私たちを人の時、人の道から神の時、神の道へと導くために、
ある時、行き詰まりへと導かれます。その時、私たちはもがき苦しみ
何とかして自分の思い通りの時、道にしようと苦しみ悩みます。
そしてあらたな時、道が開かれる時があります。
しかし、また同じような行き詰まりへと導かれ、疲れ果ててしまい、
ついに自分には思いもよらない方法で神の時が訪れるのです。
それが十字架につけられたイエス様との出会いということができるようです。
その出来事が讃美であり、ただ涙のなかで生ける神への讃美がこみあげてくるのです。

 
主イエスとの出会いがあるなら、罪を認め、悔い改めるはずです。それをしていない、という矛盾が、シャロームには、殆ど毎回のように表れてくるのです。本人は、何も気にせず、不都合を平気で無視するので、白々しいのに、また同じような記事が続くのです。
 

ある時、大学のチャペルの時でした。その時の講師はアメリカ人の先生でした。
話は主の祈りについて、英語での話でした。簡単ですが、私にはあまりわかりません。
しかし、突然、涙がわきあふれるようにこみあげてきて止まらなくなくなりました。
涙とともに、声が嗚咽となり、周りの人に気づかれないように止めるのに必死でした。
チャペルが終わっても立ち上がることもできずにいましたが、
心の底から“ああ、うれしわが身も”(讃美歌529)があふれてきました。
その体験はその後、私が行き詰まりに苦しんでいる時、繰り返し訪れました。
その時、それまでの道ではなく、新しい道が開かれたことを忘れることは出来ません。

 
恐らく嘘だと思います。涙が湧き溢れるような人が、正直な告白によって悔い改めないはずはないのです。シャロームの感情は、笑いと怒り、長期的には、嘲りと怨念だと思います。嘲りがあるから、平気で白々しい嘘を吐けるのでしょう。
 

今日が孫娘リンの中学卒業式でした。
苦しい高校入試は自分の思い願っていた高校はダメでした。
泣きながら、ごめんなさいと言うばかりでした。
私も高校入試に落ちた時を思い出しました。
でもその私の思い、願いが挫折するという悔しさのなかで、
行きたくもない商業高校に導かれ、学び身につけた簿記やそろばんの技能が私の生活を助け、
3年間の担任の先生がクリスチャンであった恩師との出会いに導かれたのです。

 
そして、今のシャロームはどうでしょう。下手なそろばん勘定で、人も、信仰も、宗教も、社会も、政治も、ボロクソ節で、けなし続けています。にもかかわらず、相変わらず、何の解決の方向も見いだせない文章ばかりを、平気で書き続けています。いったい、何に出会い、何を受け取ってきたの言うのでしょう。信仰でないことだけは確かだという証拠だけが積み重ねられてきました。
 

今私たちの時、道が行き詰まっていても、その時が神の時の訪れの時なのです。
卒業式を喜んで迎える人、悔しい思いで迎える人さまざまです。
私は“人には人の道があり、リンにはリンの道があるから大丈夫”
“大手を振って卒業しよう”という言葉を贈りました。

 
このように、行き詰まっても、反省することもなく、神の時だ、神の時だ、と言い張って、反省することではなく、祝福と奇跡を与える自分びいきの神?を讃美することだけを、いつも教え続けるシャロームなのです。
 
ここがシャロームの笑いであり、シャロームの他者に対する無視と嘲りであるのに、親族にまで、それを教えていることを宣伝しています。誰に対しても決して教えてほしくない嘘吐きの偽伝道者です。
 
罪人の自覚がなく、反省せず、悔い改めのない讃美は、信仰にとって、自己正当化と信仰自慢に過ぎず、凶暴な偽信仰を育てるだけの煽動と刷り込みになってゆくでしょう。これが、身内びいきだけの、とんでもない依怙贔屓の神?を信じる狂信の有り様となっています。
 
このような偽信仰者の暴走に巻き込まれることを防ぐために、警鐘としての批判記事を書いて敷衍してゆく必要があります。シャローム本人には全く罪悪感も病識もないために、果てしなく、一生続く忍耐を必要とします。どうか、シャロームには、決して好意的に近づかないようにしてください。
 
 
(2019年03月09日アップ、同日一部修正)
 
倣う(ならう)
嘲り(あざけり)
依怙贔屓(えこひいき)
敷衍(ふえん)≒広めること