ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

不可視の世界

 
  不可視の世界
 
 
前の記事「人の復活」を修正しているときに
不可視、つまり目に見えない世界について感じたことを
ここに書いてみたいと思います。
 
視覚だけでなく五感で直接感じることの出来ないこと
善悪、真偽、是非、正否、などを
さらに、神、キリスト、その業(わざ)と御心を
私たちは、心の中で判断しています。
 
 動物にはできないことです。
 
これら不可視の世界の事柄は
ことごとく信仰に関係しているので重要です。
 
私たちは真の神を相手にすることが出来ない
ということを書きました。
 
つまり、神も聖霊も目に見えません。
キリストさえも目に見えません。
 
極言すれば
私たちは確かな事実を見てはいないのです。
 
私たちは受け取ったものから
感性と知性をもって
直感と思慮をもって
真実そのものではなく
からしさを追い求めているのです。
 
ですから確実なことというのは
神の御手にはあるのでしょうが
私たちの手にはありません。
 
私たちが真実に生きるためには
方向や内容を含めて
からしさを求める続ける必要があります。
ゆえに信仰は境地ではなく道なのです。
 
そのことを無視して
真理を得たと固定して訂正不能にすることは
まさに動物的行為なのです。
 
 人としての形を持って生まれながら
 固定することを信仰?としたばかりに
 見かけだけ穏やかな人間を装いながら
 言動が本能的な動物に成り下がった者もいます。
 
確かな、揺るがない、しっかりした信仰?、
これらは地上において信仰ではありません。
できないことを出来ているつもりだからです。
 
不確かで、揺さぶられ、しっかりしていない、
そういう自分を知っているのが信仰者です。
 
あるとき真実について私たちが到達するのは
ある程度の確からしさを持つと私たちが判断したところの
不可視で不可知の時と所に過ぎませんが、
そのことが大事なのは
その先に
より確からしいところへと向かうための学習過程であるからです。
 
不十分ながら今はそれでよい
さらに成長するのだから
という希望なのです。
 
 (ピリピ人への手紙、口語訳)
3:14
目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15
だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16
ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
 (ピリピ3:14-16、新約聖書
 
目標を目指して、と書いてあるように、道は半ばだということです。
今そう言われていることは、これからも、達するべきところがあるということです。
二千年後の私たちも、道半ばだということです。
だから、神の賞与を得ようと、努めているということです。
 
全き人たち、というのは、信仰者として、人間として望ましいということです。
これ以上はない、という全きことは、神においてしか成就されていません。
 
さらに、達しえたといっても、人間の場合、
それは放っておくと腐敗してゆくということでもあります。
それが人間の罪の性質であります。
 
だから道を進み続けるべきことを教えているのだと思います。
 
 この聖句を、
 自らの訂正不能に固定した境地の正当化と絶対化に使う者がいます。
 達しえたのだと。神の恵みだと。
 しかし、その者は、さらに達しえたところを見せたことがない。
 今の自分を完全だと見なしているに過ぎないのです。
 
私たちは、真理に生きているのではありません。
真理を持っておられる神への信仰を希望として生きています。
 
不可視の世界は、不可知の世界であります。
知っておられるのは神様だけです。
 
カルトだけではなく、しばしば大きな勘違いがあります。
真理と真実は神のものという自覚が希望として与えられているのに
真理と真実に生きているつもりになることです。
 
さらに、全き神に自らをなぞらえてしまうことがあります。
そうなると、あるいは、自分には全き神がついているという自覚になると、
いつも上から豪語する信仰者~預言者気取りになってしまいます。
 
地上を生きる人間として望ましいのは、
いつも神に従う自覚ではなく、
神のようでもなく、神に従ってもいない自覚があり、
ゆえに、神の導きを受け入れられる土の器として、
いつも成長しようと努め続ける人間です。
 
キリスト信仰は自力で悟りの境地を獲得する信仰ではありません。
だから、厳しい修業とは別の、シンプルな弁えを要求します。
 
また、キリスト信仰は、固定していいような悟りの境地を
神によって与えられ守られる信仰でもありません。
 
信仰が、不可視の自覚から神の不可知と自らの不完全の自覚に気づき、
教える立場ではなく学ぶ立場を持ち続けることが
敬虔という神の前の正直につながり、
温もりと潤いを受け取る器となります。
 
そのことだけが
神の恵みと導きを受け取るための信仰者たる条件だろうと思います。
 
 
(2019年05月19日)
 
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