ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

捏ね上げる者

 
  捏ね上げる者
 
 
   自己を活かすということ (武者小路実篤)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41555055.html
   楽山のブログ記事
 
 
楽山は、自分で決めて、自分で信じて、訂正しなくて、反省しなくて、人のことを考えなくて、怒りも大事にして、それでよいと、勧めているようです。いいわけはないのです。人間らしく考えることのできない人が、何かを教えようとすると、詭弁と刷り込みを使うしかないようです。
 

*自己を生かす
武者小路実篤生田長江の批判に対する反論は熱い。孫引きになるけど、武者小路実篤は次のように書いたという。
氏は僕たちを自然主義前派と言ってゐるが、僕たちは日本の自然主義が自己を生長さすことに無頓着だったのに我慢できずに立ったのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して、自己を生かしきらないでは我慢ができないので立ったのだ。内の要求に立ってゐるのだ。
(『武者小路実篤 人と作品36』福田清人 松本武夫編著、清水書院、昭和47年、p.68)

 
これは、自己の主観を殺してはいけないということです。実際に、人間には、絶対の客観はありません。客観的と呼ばれることは、多くの事柄が合致するということでしょう。
 
にもかかわらず、楽山は、自身の、気に入らないことは無視する、と言うアドラー教の正当化に使っています。
 

これは言わんとすることは分かるような気はする。著者の意図とは違った解釈になってしまうかもしれないけれども、以前、自分もこれと似た思いを感じたことはあるので。
少し具体的なことを書くと、自分は、とある宗教にハマったことがあるのだけれども、その宗教では当初は自分の心を磨き、自己を向上させることを奨励していたのだった。でもそれがいつのまにか、ちっぽけな自分は捨てて、教祖の言う通りに考え、行動することをすすめるようになっていった。
でも自分は、どうしても自分を捨てきることはできず、「自己を生長さすことに無頓着だったのに我慢できずに立ったのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して、自己を生かしきらないでは我慢ができないので立ったのだ。内の要求に立ってゐるのだ」というような気持ちで棄教したのだった。

 
もし、そうならば、自分が主観において肯定したところの、気に入らないものを無視する、と言う言説は、反省の対象になり、修正可能であり、現実の自己中心だけのひどい世界につながるという必然から否定できるはずです。
 
しかしながら、批判に対して、まともな反論も弁明も出来ないまま、楽山は、まさに自己中心の独り言であるべきことを、こうして、公表し、かつ、宣伝しているのです。それは、人を操るカルトの説教の訂正不能な刷り込みだから・・という説明にしかならないのです。
 

思うに、自我の目覚めを経験していない人ならまだしも、いったん自我を意識した人はもう、たとえ神の前であってさえも、それを再び忘れてしまうなんてことはできないということなんだろう。ちと大袈裟かもしれないが、近年の宗教の衰退の一因は、この辺りにもあるのかなという気はする。

 
自我に目覚めることと、主観の肯定を修正不能に絶対とすることとは何の関係もありません。
前者は成長であり、後者はカルトなのです。
 

*独立心
自分の心酔した対象を、まぶしいほどに輝かしい、尊敬すべきものとしてはるかかなたからそれを眺めるていること、眺められること、そうすることだけで十分に満足感を味わいうる時期があるものである。それがやがて自己を意識しだし、自己とそれとを対照しはじめるとき、それらの均衡は崩れる。
(同上、p.45)

 
均衡は崩れて、自己は、改変に向かい、成長するのだろうと思います。
訂正不能にして成長するものは何もありません。楽山は何を勘違いしているのでしょう。
 

これは編著者の言葉だけども、武者小路実篤は、トルストイに傾倒した時期はあったけれども、その後は、上にあるような経過をたどったらしい。
恥ずかしながら、自分も上に述べた通り、若い頃には特定の人物、思想に傾倒し、かぶれることが多かった。でも、だんだん自分というものができてくるにしたがって。そういうことから離れ、他の誰かを理想として、他の誰かになろうとするのでなく、自分自身になろう、自分を確立しようという方向にすすんだ経験はあるので、これはよく分かる。

 
分かってはいないと思います。自分を確立する、と言うのもあいまいな言い方です。自己が完全に確立することなど無いからです。それを、楽山は、確立しましたとばかり、自己中心のカルト信条を宣伝しているのです。その方法は、ボンヤリ言語で、ほのめかし、その次には、もう正しいという前提で語る、というような、極めて胡散臭い、カルトらしい手法です。
 

若い頃に特定の人物、思想に傾倒し、その後もずっとそのままという人もいるだろうし、それはそれでいいのだろうとは思う。ただ自分の場合は、どうもそういうタイプではないらしい。これは多分、優劣の問題というよりは、人それぞれであって、その人の個性によるということなんだろうな。

 
楽山は、アドラー心理学を利用して、アドラー教と私が呼んでいる自己中心の訂正不能の言説に、他者を巻き込もうとするタイプのようです。
 
自由になるかのような詭弁に付き合わないでほしいと思います。楽山の言説に従うことは、自由になるのではなく、ただ、楽山だけが楽になるためなのです。目先の快を得るために、人のことや不都合を無視することを勧めている楽山です。
 
人格を破壊する訂正不能の説教は、人それぞれではありません。そのまま進めば有害であることは明らかですし、有害なものを勧めることは悪意によるものなのです。伝統宗教ではなく、学問の名を借りたカルトですから、ボンヤリ言語の、ほのめかし屋の、あいまい刷り込み屋の詭弁家の、楽山には決して染まらないようにしてください。
 
※ 捏ね上げる(こねあげる)
 
 
 
   怒ってもいい? (インタビュー記事から)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41555053.html
   楽山のブログ記事
 
 
カルトを企む者たちは、大方、人格に欠陥があるようです。人間らしい感情や罪悪感がないといったことです。そういう者が、優しそうに易しそうに語りかけるときには、作為で言葉をいじるので、かえって、悪意が見えてくることがあります。本当の優しさを持ちえずに、粘土細工のように、捏ね上げようとするからです。
 

言われてみれば、確かにその通りかも…。
「喜怒哀楽の中で、喜び、楽しさ、泣くことでさえ、良い感情のひとつとして受け止められているのに、怒るという感情だけが“のけもの”みたいになっていると思うんです。怒ることも必要なんだよって誰かが言ってあげなきゃいけないぐらい、怒りの感情だけがうとまれている」

 
怒りは、なぜ怒るのか、ということを考える上で大事です。しかし、楽山は、怒りという感情そのものを大切に思っているようです。しかし、楽山は、もっと大切な、反省や悔い改めにつながる悲しみを大事にすることがないように思えます。それは、シャローム、易坊とも共通しています。
 
快と不快、笑いと怒り、嘲りと怨念、そういう感情だけになるのは、無反省と無視によるサイコパスの人格です。
 

「うとまれていたり面倒臭がられるからといって、自分の怒りにフタをして、ないものにするのって、時には必要だと思うんですけど……なんかヘンだなって」
・【独占】のんインタビュー:創作の原点は「怒り」、誰だって自由に牙をむいていい

 
蓋をするのではありません。考えるべきなのです。
 

それぞれの気持ちには、
それぞれの尊さがあって、
そこに優劣はなく、
どんな気持ちもそれぞれに尊いのだとすれば、
そんな気持ちを特定の型に押し込めようとしたり、
これはよい、あれはダメとレッテルを貼るよりも、
もっと自分の気持ちに正直に、自然であっていいのかも…。

 
怒りについて、背筋が寒くなるようなボンヤリ言語で、みんな尊く、優劣はなく、ダメと決めつけず、レッテル張りはしないでいることが、正直で自然だと言っています。感情は、みんな尊いから、平等だから、差別しないようにしましょう、ということで語れる問題ではない。
 
ここでのボンヤリ言語の詭弁は、感情の原因や結果を無視して、まるで見当外れに差別をなくそうスローガンのように扱って、怒りを大事にしようという上の内容を受け容れさせようとしている印象操作です。おかしな方向の一般化に持ってゆくボンヤリ言語の詭弁なのです。
 
感情、特に、怒りについては、その原因を考えることが大事であり、その個々の場合について考えず、おおざっぱな全体だけをいい加減に、まるで感情の平等?みたいに語って、結論になるようなことではないのです。
 

とはいえ、
そうとばかりもいられない状況もあるだろうけれども、
たとえそうであっても、
なるだけ自分の気持ちは大事にしたいものではある。
人の気持ちに寄り添うことも大切だろうけれども、
自分の気持ちに寄り添ってあげることも大切なんだろうな。

 
自分の気持ちの寄り添って・・という、やさしそうな言葉どおりでは、けっして、ないのです。こういう言い方は、楽山の作為だと思います。やさしく見せかけて、受け入れさせ、はっきり言わないで印象を刷り込もうとするボンヤリ言語の企みだと思います。
 
それに、他者のことには考えが及ばない傾向が表れており、自己中心に向かう傾向で、いつも自分の都合が第一で、自分のことだけを考えて、よしとする傾向とも言えるでしょう。
 
自分の気持ちは自分とともにあるのだから、むしろ、自分の気持ちで、自分の意志において、むしろ逆に、他者の気持ちに寄り添うことのほうが人間として大切な心得なのです。
 
寄り添ってあげる、という甘い言葉を使って、自己中心を勧めるのは、やはり詭弁なのです。至るところで、何とか言葉をいじくって、恣意をすり込もうとする楽山の恣意の企みです。
 
自分に対しては、自分に寄り添うというよりも、反省すること、つまり、自分を見つめることが必要です。楽山は、自分勝手のアドラー教なので、自分を見つめて反省することよりも、寄り添うことだけ、自分の好きなようにだけ、という自己中心しか考えられないのでしょう。
 
だとすれば、反省無用の病的な自己肯定と言ってよいでしょう。楽山は、自分の気持ちだけに寄り添って生きているか、そう生きてゆきたい人なのでしょうか。寒気のするような文章です。
 
楽山は、策士のようです。恐ろしいです。企みで、人を陥れて、自分が、いい気持になりたいだけなのか、カルト宗教を企図する組織的な陰謀なのか、いずれ、牙を剥いてくれば、明らかになるでしょうが、取り込まれてしまった人々が既にいるなら、立ち直りは、どんどん難しくなるのです。一日も早く企みと異常さが周知となって、誰も引き込まれることのないように祈っています。
 
 
(2019年06月24日、同日一部修正)
 
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