ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

決めつけ

 
  決めつけ
 
 
今、大きな艱難もなく、信仰生活を送っていることを、神に感謝するのは信仰だが、これが神の恵みであり、これからも同じように神に守られると決めつけてはいけない。神の意志と行為を、人が決めつけるのは、信仰の節操に反することであり、罪である。
 
今の暮らしは、神の恵みであるかもしれないが、それが神の意志だと分かるほど、人は神意を洞察することは出来ない。恵みかもしれないし、恵みだけではないかもしれないし、来るべき試練の準備段階であるかもしれない。
 
多くの信仰者は、自分の見識の限られた、多くはありふれた知識で判断しているおり、決めつけてよいような知恵を、私たちは地上で持つことはないのである。真理は、神のみがご存知のことである。人の浅い判断で決めつけることは、罪であり、人が、神は信仰はこうなのだと確信して、人に教えるのは、偽善である。人間は、常に、人間として考え、共に考える姿勢が必要である。
 
そういう救いの神意ばかり言いたがる者がいて、一方では、嘘を吐き、賛同者に世辞を言い、自慢と自尊のために、信仰の話をするような言行不一致の有り様である。
 
神の前に、偽りの讃美を大仰に語り、自らの拙劣な説教を批判されると、他者の口を借りて批判者に文句を言わせる卑怯な心性である。このような者が信仰者として認められる信仰なら、キリストはパリサイ人を批判したりはしなかっただろう。
 
実際には、自覚もなく、自分の印象で無意識の決めつけを、私たち信仰者は、しがちである。さらに、強く決めつけて、嘘で人生をバラ色に見せかけるのは、偽善者とカルトの所業である。そういう者に限って正当な弁明も反論もできないで、批判と悪口を混同して、批判者を、決めつけている、押し付けている、裁いている、と決めつけてくるのである。
 
ある種の偽善者は、信仰者が、ありがたい幸いに人生は満ちていると思い込むように誘惑する。その幸いを高らかに讃美して、そうとばかりは限らないという意見を封じ込めようとする。そうして、甘い言葉ばかり書き続ける偽善者自身を、信仰者の仲間だと思い込ませようとするのである。
 
そののち、偽善者は自らの、とんでもない偽善の信条を、逆らう気の起こらないような、讃美言葉や優しい教えの言葉を交えて、信仰者に刷り込んでくるだろう。冷静であれば、偽善者の言うことが、身勝手で、そんな信仰?が広まったら、自己中心の者だらけになってしまうことに気がつくはずだ。
 
しかし、よく讃美する熱心な人、という先入観が植え付けられている状態では、そうかもしれないなどと思ってしまいやすいので、うっかり頷(うなず)いてしまう可能性がある。そういう、刷り込み、詭弁、嘘のたぐいだけを、偽善者は、生業(なりわい)として、自己顕示と自己の利益のために、身につけてきたのである。
 
そのように、偽善者に、雰囲気的に頷いて、なんとなく肯定している間に、偽善者が吹き込んだ、ありがたやの安穏の恵み?も刷り込まれてゆく。それを繰り返しているうちに、人間の弱さとして、その信仰気分に安住してしまって、正当な問題点の指摘を、こともあろうに、信仰?によって排除するようになるだろう。
 
押し付け、決めつけ、思い込み、信じ込み、訂正不能を、巧妙に刷り込み、何度も、柔らかに繰り返し、空気のように常在させて否定できなくするのが、偽善者とカルトのマインドコントロールであり、狂信へとつながる固定観念を植え付けるカルトの手段である。
 
テープレコーダーのように威嚇しながら妄想を吹き込む典型的なカルトよりも、それこそ、誰でも言葉だけは受け入れやすいようなことを、ですね、ですよね、当たり前じゃないですかと、頷くような空気を作るのが、カルトのやり方である。
 
信仰者にとって、言葉だけは受け入れやすいというのは、例えば、信仰は人それぞれ、押しつけはいけない、決めつけてはいけない、神は信仰者を守り導く、キリストによって救われる、どんでん返しん奇跡で救われる、神が与えるのだから人知に頼ってはいけない、人知を超えた神のわざ、などである。
 
これらは、一見、宗教だから当たり前のような気のする言葉である。讃美言葉であり、抵抗もなく、受け入れてもいいような気がして、自由は大切だし、人知に頼るのは信仰ではない、という浅い思考によって、徐々に、訂正不能になって、通念的命題となって定着し、批判に対して無視という形で拒否するようになるだろう。
 
これらの、一見、やさしく親切に見える誘い文句は、よく考えると、信仰において、一律には成り立たない詭弁であることを知ってほしい。曖昧なこと、一部のことを、信仰全般に成り立つかのように吹き込む作為に満ちた詭弁である。
 
つまり、キリストはただ御一方であり、信仰の節操が人によってバラバラでは、キリスト信仰にならない、戒める神と懲らしめる神を無視しているとか、神の導きがあっても私たち人間がおこなうとき人知が働かないことはない、人知を超えているのは神のみであって、私たちには、あくまでも人知しかない、などということを考えると、それこそ、おかしな決めつけのカルト的妄想の宣伝であることに気づくだろう。
 
やさしく、柔和で、丁寧な言葉を使う者の中には、このような悪意の狡知(こうち)をもって、信仰を、いい加減で薄っぺらな道徳に貶(おとし)め、事実上、キリスト信仰を無力化し破壊する妄想信条があることを忘れないでほしい。
 
そのような偽善的カルトを広めようとする者は、社交において世辞を言う分、やさしそうに見えるが、その本性において、はかり、くわだて、だます者であり、けっして優しい人ではない。本性は、悪意だけの企みに満ちているか、あるいは、その者も犠牲者で、植え付けられた妄想信条の奴隷になっているか、元々何らかの異常な人格である可能性が高い。
 
健全な人間は、学習し、成長することを希望する。訂正不能の固着は、どんなに丁寧な物言いをしても、その精神がすでに異常である。生まれつきなのか、様々なことが起こる人生を経てのことなのか、どういう経緯を経てそうなるかは定かではないが、獲物を求める敵意と、他者を軽く見る尊大と、嘲る笑いと、根強い他者への怒りと怨念があると思う。
 
そして、そのような偽善者やカルトの人格は、じっくり考える深い思慮の姿勢がなく、しんみりした悲しみの感情と共感が見られない。悔しくて怒ることはあっても、悲しくて泣くことはないのではないか、と思うことがある。その分を、世辞と、半端な知識を振り回すことで、ごまかし、凌(しの)ごうとしている者たちなのだろう。
 
やくざのような怖さが表に出る人格よりも、現代の偽善者とカルトは、牧師や敬虔な信徒であるかのような態度と姿勢の装いをすることが多いと思うし、見抜くためには、彼らよりも、知識は多くなくてもよいが、人間としてどうなのかという最低限の思慮分別が必要であり、その分別こそ、信仰によって少しづつ培われる恵みとしての人知なのである。
 
真の信仰は、白々しいカルトを見抜かないではおれない思慮深さと感性という良心を持つ。それは、学業による知識とは別の、人間らしいベースを持っていると思う。
 
先ほど述べたように、言ってることが、いつどこでも、どんな場合でも成り立つかどうかを考えることが必要である。また、個別の場合にしか成り立たないことを、全体に当てはめる詭弁ではないか、また、全体的だが曖昧なことを、個別に当てはめようとしていないかに注意してほしい。
 
また、シャロームなどの偽善者の多くが、自分を低めることが出来ないナルシシストであることを見抜くことが重要である。隠れているもので、明らかにならないものはなく、本人の自覚できないところに、偽善の見苦しい証拠が積み重ねられてゆくのである。
 
シャロームなど偽善者が気づかないのは、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたものは、悪魔の誘惑だったということである。そうして、自分で善悪を判断するだけでなく固定してしまったシャロームは、他の判断を聞いて考えることがなくなったため、一般の良識による判断では醜いことを、醜いとは感じず、尊大に笑うような、めでたいことと感じるほどに、感受も思考も、ズレて壊れてしまったのである。
 
シャロームの今までの言い分を要約すると、人のやることに文句は言わないから、自分が勝手にやることに文句を言うな、ということになる。これは、宗教・政治・思想に関わろうとしながら、社会正義の欠片もないし、思いやりに見せかけた丁寧語がいかに偽物かということを表している。
 
すなわち、非を認めることがない、罪を認めることがない、悔い改めることがない、神の話において、いかなる人に対しても、神の側にいる気分であり、自分の低さを認めて謙(へりくだ)ることができない、このことだけで、キリスト信仰者ではないと言える。
 
信仰とその議論は、正しさの勝負ではない。そもそも、勝負ではない。
神の前に、いかに、人間らしく、正直に、へりくだれるか、というテーマなのである。
 
だから、シャロームが、キリスト者のつもりで、政治・思想・宗教に関わることは、シャロームの場合、政教混同の著しさがあり、自己中心の自尊を悦んでも、自身以外の一般の、誰の助けにも参考にもならないのである。
 
そして、神と人に対して、敬虔であるかどうかを見るべきである。すなわち、褒めても、世辞は丁寧さが過剰で、わざとらしかったり、慇懃(いんぎん)なだけで、敬虔からは程遠い、ということに気づくことが大事である。また、積極的に問い正してみることが必要である。返事が謙虚さを表す言葉である場合は、言葉に、実際の言動が相応しいかどうかを見ることも必要である。
 
 
いい言葉が氾濫し散乱している。一般においても、信仰についても、聖句にしても、いい意味にだけ取ろうとする人が多いような印象を受ける。しかも、その、いい意味というのが、殆ど深みを持っていない月並みな道徳の話のようだ。もし、そうなら、良いものを受け取ったとは思うのは、よくないことだが、良いものを受け取ったことにしたい人が多いような気がする。
 
良いものを受け取ったことにしただけの理解?では、命と人生を救う何ものも生まれてはこない。思い込みの固定観念に過ぎないからだ。信仰者について言えば、先ず、自分が、聖句などを、そんなに正しく理解することは出来ない知力浅く罪深い立場というところから始めるべきである。
 
今の時代ということを考えると、どうも、いいことだけを受けて、楽しいことだけに時間を使い、問題点をあまり考えない傾向、言い換えれば、悲しみの因果や深みをじっくり考えることをせず、逆の、楽しいことで、悲しみを蔽うようなあり方が、あちこちに見られるような気がする。
 
悲しみに対して、いくら、パリピになり、お祭り騒ぎをしても、独りに戻れば、悲しみが迫ってくることを感じる人は、悲しいことは、悲しいと受け取り、考えることでしか、克服されないことを、いずれ知るようになるはずだ。
 
悲しみは、悲しみとして、情緒的には、形象化、文章化、そして、理性的には、現実的因果を整理することなど、思考と共感の切っ掛けとして、ブログとネットは、一つのフィールドとなりうると思っている。それは、自分の悲しみを人に理解してもらうことよりも、より明確に悲しみを対象として自覚するために、自分が悲しみに負けないで生きるために必要な作業である。
 
 
(2019年07月16日、同日一部修正)
 
 
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