ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

偶像コメ

 
  偶像コメ
 
   信仰という偶像崇拝? (『キリスト教思想への招待』田川健三著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41562912.html
   楽山のブログ記事コメント欄。
 
 
あちらのコメント欄で行き詰まったら、こちらに書く、というふうに、シャロームは、ひそひそと場所を変え、楽山と、示し合わせたように、同調のコメントをやり取りするのです。盗人のように。
 
(シャローム
楽山さん 信仰は神からの恵みの賜物だと聖書にはありますね。
受取る資格も能力もない私たちに与えられる神の恵みのプレゼントだというのです。
新約・マルコによる福音書9章22節には
不思議な信仰告白の言葉があります。
 【口語訳】
マル9:24
その子の父親はすぐ叫んで言った、
 「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
2019/7/20(土) 午前 9:27 [ shalom ] 返信する
 
(私)
不信仰と背教は違います。神を恐れないシャロームは背教者で偽善者です。不信仰告白は、信仰告白と成り得ますが、神の恐れないのは、背教であり、反信仰です。
シャロームは、それでも救われると言いたいのでしょうが、神を恐れない反信仰は、神を無視し、救いを拒むことだから、救われる余地は、シャローム自身によって消されているのです。
 
(楽山)
信仰は、神からくるというのは、
キリスト教関連の本を読んでて、
あっと驚いたとこでした。
それまで、信仰は
本人の意思、努力などによる
 とばかり思い込んでたので。
2019/7/20(土) 午後 0:18 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
「信じます。不信仰なわたし」
人前ではともかく、神のみ前にあっては
いつも、いつまでも「信じます。不信仰なわたし」なのです。
ですから、いつでも、「お助け下さい」
「主よ、お救いください」と祈ることができるのです。
2019/7/20(土) 午後 0:29 [ shalom ] 返信する
 
(私)
シャロームの悪意と反キリスト、極まれり、ということです。何故なら、自分の都合の良いように、神の意志を捏造しているからです。シャロームの言は、信仰がなくても救われる、反信仰でも救われる、たとえて言うなら、どんな犯罪も無罪だと言っているようなものです。この人と一緒にいると、人は滅びるでしょう。最低限、罪を認めて悔い改めることが必要不可欠です。弁えればできるはずのことさえせずに、救われる、救ってください、という、厚かましさに呆れます。
(私)
神は、弁えもなしに、言葉だけの祈りが通用するような御方ではありません。
 
(インターネット神教会)
神について、天国と地獄について、また身体の死後の生命について考えるには、考える手段を持たなければ考えることが出来ません。
普通、人間は空間と時間に基づく唯物的思考をするので、空間と時間の中にない神、天国と地獄、身体の死後の生命について考えることが出来ません。
空間と時間に基づかない霊的な世界も自然的な世界も含めた全体の世界を考える思考を持てば考えることが出来ます。
この思考方法を持つまでは誰でも神の存在について疑いを持たざるを得ません。
2019/7/21(日) 午前 6:32 [ インターネット新教会 ] 返信する
 
(私)
できないと思います。死後のことは、神にお任せするしかないのです。
 
(楽山)
最近はようやく、あるのでもなく、ないのでもない、有無を超えた神をイメージできるようになってきたつもりですけど、
「空間と時間の中にない神」はちょっとイメージできないですね。あるのでもなく、ないのでもない神はイメージできるのに、「空間と時間の中にない神」はイメージできないというのは、変な感じがするけど、実際そうなってるのだからおかしなものです。
2019/7/21(日) 午前 8:19 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
そういう神について、人間の言葉と理屈で表せると見なすのは、神を決めつける行為です。人知を超えているという知識を得た時点で、人間は、黙して祈ることしか出来ません。
 
(楽山)
>「信じます。不信仰なわたし」
これは胸にぐっとくる言葉ですね。
覚えておこうと思います。
2019/7/21(日) 午前 8:23 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
覚えてどうするんでしょう。祈るのでしょうか。でなきれば、「ぐっとくる」は、引き寄せるための、カルトの世辞だと思います。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん おはようございます
かつて教会の迫害者であり、生前のイエスを知らなかった使徒パウロは神の証言、証しの書に基づいて、アテネのアレオパゴスの評議所に立って次のように述べています。
長い引用ですが、お読みくださるとうれしいです。
 【口語訳】使徒行伝17章22~34節)
17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
17:23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。
2019/7/21(日) 午前 9:01 [ shalom ] 返信する
17:24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
17:25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
17:26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
17:27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
17:28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『われわれも、確かにその子孫である』。
17:29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
2019/7/21(日) 午前 9:02 [ shalom ] 返信する
17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
17:31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
17:32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
2019/7/21(日) 午前 9:03 [ shalom ] 返信する
17:34 しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。
(シャローム
 実は40年前、私もパウロが立ったという場所に立って、この聖書の言葉を読んだことがあります。見上げると威風堂々としたあのパルテノンの神殿が圧倒的な威容で覆いかぶさって来るようでした。当時の知性の最先端と言われた合理主義者であるアテネの人々に語った言葉なのです。
いや~その時の圧倒的な体験を思い出します。
2019/7/21(日) 午前 9:05 [ shalom ] 返信する

(私)
圧倒的な体験を経て、シャロームは、なぜか、大嘘吐きになっています。
(私)
解説もせずに、だらだらと長々と聖句を引用して、べた褒めの讃美を書いて、言い得たと思うのは、ご機嫌取りで信仰だと思っているシャロームの自己満足です。二人で、示し合わせたように、世辞の言い合いですか。
 
(楽山)
それは羨ましい話ですね。聖書を読みつつ、その舞台となった土地の風景、空気が分かるって最高です!
>われわれは神の子孫なのである
聖書では、人は被造物とされてるイメージがあったけど、神の子孫という表現もあるんですね。これはちょっと驚きました。
2019/7/21(日) 午後 6:51 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
客寄せの芝居だと思います。わざとらしさと白々しさを、読み取るべきところです。
シャロームと楽山は、無罪と悔い改め不要の自己中心カルトを宣伝しています。
だから、平気で、神の子孫と言って、恐れと遠慮を知らないのです。
 
(シャローム
> 楽山 (自由)さん
「聖書では、人は被造物とされてるイメージがあったけど、神の子孫という表現もあるんですね。これはちょっと驚きました。」
 人の身体という器の素材は土のチリですが、神はご自分の命の息吹を器であるからだに吹き込んでくださり、人は神のかたちにかたどって造られ、生きたものとされたとたとありますので、神の子孫と表現されていると思います。
しかし、子孫という言葉だからといって、人の親子が同じだから、神と人は同じだという意味ではないこと、神は霊であり、絶対的な人格神であり、万物の創造者でありますが、人は神の息、聖霊による神との霊的な信仰の交わりによって、神によって愛され、生かされている、神による被造物であることを否定する言葉ではないと理解すべきだと思います。
 聖
2019/7/21(日) 午後 8:46 [ shalom ] 返信する
 
(私)
一見、まともなことを言っているようですが、神と人は同じではないと言いながら、神の息、聖霊、霊的な信仰の交わり、という、超常言葉で、再び、自己神聖化を図っていることを見逃してはいけません。
(私)
神が造った人、神から生まれた人、神がいなかったら生まれなかった人、神は父、・・であるので、パウロは、我々は神の子孫と書いていますが、文脈からは、偶像崇拝を戒めるためでしょう。
(私)
神との位格の違いを忘れると、うわべ敬虔を装いながら、神がかりの人間離れで、空想話をでっちあげるシャロームのようになってしまいます。
(私)
注意してください。シャロームと楽山は、カルト信仰のために、示し合わせて、同調し、神聖を引き寄せて、誘導しているのです。 どこまでも狡猾な者たち、憤りを禁じ得ません。
 
(シャローム
聖書は神のあかしの言葉ですから、私たちの人と人との関係、交わりにおける普通の言葉使いの意味ではちょっと意味の誤解が生じやすいようですね。
聖書の言葉を理解するには聖書の言葉によって理解するようにしたいと思いますね。すると矛盾に直面させられることになり、その矛盾によって、神の言葉の意味が拓かれてくることが多い ようです。私の体験です。
2019/7/21(日) 午後 8:47 [ shalom ] 返信する
 
(私)
口から出まかせです。理解できているなら、罪を認め、悔い改めるはずです。シャロームの罪悪の意志が、ギラギラしています。
 
(楽山)
>shalomさん
>人の身体という器の素材は土のチリですが、神はご自分の命の息吹を器であるからだに吹き込んでくださり、人は神のかたちにかたどって造られ、生きたものとされたとたとありますので、神の子孫と表現されていると思います。
 了解です。
2019/7/22(月) 午前 6:56 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
(私)
世の救いではなく、世に巣食う偽善者とカルトの、示し合わせた狂奏曲です。
二人が、元々仲間でなくては、できないことだと思います。
(私)
シャロームの聖書語で了解するというのは、実体のない空想話を受け容れるということです。
シャロームは、聖書を全く理解できないばかりでなく、真逆の意味に受け取っています。
(私) 
自己虫アドラー教の楽山、悔い改めない偽牧師のシャローム、荒らしの易坊、という、神を恐れない3者の、一人による成りすましを疑っています。彼らの根性の頑強さと執拗さから言って、規模は、さらに、大きいのかもしれない。
 
(私)
人間は、人知を超えた神聖について、神はこうだなどと断定的に語ることは出来ません。
人間は、人知しか持っていません。その範囲で、語れるのは、信仰によって、人間の心に何が起こるかということです。
人間は、空想の断定によって、生きることは出来ません。
人間は、空疎な空想をまくしたてる者と交わってはいけません。
このことを語るのは、
人間が、信仰によって人間らしい思慮と情緒をもって生きるためです。
人間が信仰を語るのは、神聖が、神聖でない人間に及ぼした作用、人間にも分かる影響についてです。
空想話で、神聖を騙る者どもに、同調してはいけません。  
 
 
(2019年07月23日、同日一部修正)
 
 
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