ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

悪意による破壊

 
  悪意による破壊
 
   悪意という病:コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html#comments
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
   この記事は、コメントを一部編集しているところがあります。
 
 
自らの悪意によって、壊れてゆく人がいます。
 

16. st5402さん おはようございます
 2019年11月18日 11:42
「末期症状を呈している日本にイエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです。
 今日も彼は泣きます。叫びます。生きようと。
 <
 私は山本太郎は「イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです。」・・・とごく短く書いているのに、
st5402さん
 あなたは次のように書いています。
 「山本太郎は、イエス・キリストではありません。」と。
その違いがわからいのですか。

 
私の疑問に答えられないくせに、ここぞとばかり、わからないのですか、と問い詰めてきますね。目を凝らして探して、しめたと思いましたか。失礼しました、間違えました、と言おうと思ったのですが、
 

 山本太郎は自分は落選しながら、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。山本太郎カトリックですが、イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです。まるで末期症状を呈している日本にイエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです。

 
山本太郎は・・、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。」
イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです」
送り込んだ、遣わされた、対応させたとみるのが自然だと思いますよ。書き方の不備だと思います。上の「わからい」も、よくあることですが、じっくり読み直してみてください。
 
それと「カトリックですが」なら、クリスチャンでしょう。その前提で、なぜわざわざ「イエス・キリストを信じるクリスチャンのようです」という「ようです」と書くのでしょう。カトリックキリスト教かどうか、シャロームは疑っているのでしょうか。疑うなら、いちばんキリストから離れ、キリストに反しているのは、あなたシャロームです。
 
(ネットより)
れいわ新選組における山本太郎さんの動きを見ていると、どう見てもクリスチャンの思想(イエスの十字架)に基づいているとしか思えない動きだったので、調べるとやはりカソリック信徒だった。
格差社会から階級社会へ。その中でのクリスチャニティ。着々とリバイバルの種が蒔かれているように思う。
クリスチャンとはいえ、仏壇でのパフォーマンスなどをこだわらない感じは、現代カソリックの「エキュメニズム」的な姿勢だし、十字架を思い切り背負う感じも「道徳感受説」というカソリックの十字架理解に近い行動。
https://church360vr.com/2019/08/01/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3/
 

「私もそれほど文章が得意ではありません。それに、私には、読書障害の傾向があります。長い文章は苦手です。まず、読書が遅く、さらに読書好きの人とは比べ物にならないくらい疲労を感じます。それで、長い文章は、出来るだけ、避けています。
ブログの記事の長さというのは、ちょうどよい長さの上限にあって、読むのにも、書くのにも、私にはありがたいのです。でも、ときどき、ほとんど読まないで、いいね、押すこともあります。ごめんなさい。」
あなたは楽山さんが読まれた本の読書感想文なのに、
あなたはその本を読まずに楽山さんの読書感想文の内容について
批判し、人格まで中傷しているのではありませんか。
読書障害の傾向ではなく、重度の読書障害であり、〇〇障害と
いうべきではありませんか。

 
やっぱり、さっそく、読書障害を突いてきました。来るだろうと予想していたということを考えずに、とにかく、おとしめたかったのでしょう。
 
そこでの私の批判対象は、本の作者ではなく、楽山です。だから、本のほうを読まなくても言えることについて、批判しています。
 
丁寧語でも、○○障害は、罵詈雑言の軽蔑言葉ですね。罵りたいから使った罵詈雑言です。嘘と同様、怒り狂ったあなたシャロームの本性です。
 
私は、あなたの醜さを見て、今回は、罵詈雑言、控えることにします。私の罵詈雑言は、あなたの対立軸であることを示すためです。あなたは理路に反応できないとき無視する人だから、対立する批判であることを明確にするためです。一応、コントロールしているのです。
 

「ときどき、ほとんど読まないで、いいね、押すこともあります。ごめんなさい。」
と書いて、
いかに自分が正直かを強調してみたり、悔い改めているかのように偽装したりしても頭隠して・・・の三文芝居を見るようですよ。

 
これは、先ず、悔い改めではないと思います。悔い改めは、神とキリストを強く意識してするものです。
 
これからも、お気に入りに入れたブロガーに対して、そうすることはありそうですし、今まで言ってこなかったので。この機会にと思って謝罪というかご容赦という意味で書きました。あなたに対しては、決してしないことです。・・あなたにとやかく言われる必要はない・・
 
あなたシャロームは、何にも理由のないところで、どれだけ、中身のない丁寧語で、誠実を装う三文芝居をしてきたことか、自分を省みずに、こちらを責めるあなたシャロームは、今日も、とても醜いです。
 
何でも、まるで、腹をすかせた野良犬のように噛みついてくる。怒りと呪いを感じます。私は、あなたには、何の興味もないのです。あなたが、信徒と牧師のふりをして、反キリスト教を語るのが、許せないのですから、何を言われても、易坊族の不当な文章に対しては、批判を書くことになるでしょう。
 

でも嬉しいですね!!
聖書にはすべてのやみのわざは光に照らされると光になるという不思議な言葉があります。
自分にどのような弱さや醜いところがあっても、真の光であるイエス様のみ顔の光に照らされるとすべてが光になるという意味です。
さて聖書のどこに書いてあるでしょうね。
 一度?と言わずに、もう一度聖書全体を通読してみてください。
shalom!

 
私が、あなたシャロームの言うとおりにすると思っているのでしょうか。
 
どこか知りませんが、信仰として考えれば、神からの光に照らされて光になるというのは、悔い改めるからでしょう。悔い改めずに罪も認めずに、光になることはないです。現に、今、あなたは、自尊だけの血塗れの闇です。あなたシャロームのように悔い改めない偽善者は、神からの光に照らされると、まぶしくて、目を潰し、立ってもいられなくなるでしょう。
 
自分が知っている聖句を、わざと書かずに、聖書全体を読めという、勝ちを求める闘争心だけの、あなたシャロームは、どこまでも、人に重荷を負わせる人です。キリストと正反対だから、反キリストと呼んでいるわけです。丁寧語で書いても性根は現れています。
 
今さら、何を、おめいても、悔い改めの信仰でないなら、無駄なのです。
 
私は、知っていることをもって、人の重荷を負わせて誇ることより、あなたシャロームのような意地悪なことを避けようと思います。読者にも見てほしいと思います。だから探してみたわけです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
5:10
主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11
実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12
彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13
しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14
明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
「眠っている者よ、起きなさい。
死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
 (エペソ5:10-14、新約聖書
 
10節は、弁えのないシャロームには特に欠けていることです。
11節は、特に、実を結ばない自己中の闇のわざをしているシャロームに、私が指摘しているところです。
12節は、嘘を吐き、妄想を語り、こっそり、コメント隠蔽や、都合の悪い記事の削除をしたあなたシャロームや楽山は、実に、口にするだけでも恥ずかしいことです。
13~14節は、それらを受けて、光にさらされるとき、隠れているものも、明らかになるという意味です。
シャロームのゴタクのように、照らされて全自動で正しく明るくなるという意味ではありません。キリストに従って、正直な告白をした者が、目覚めて、さらに、道を照らされるという意味でしょう。そうして、現代に至るまで、死人のような人々が、立ち直ってきたのでしょう。
 
常世界からの奇跡としての死人の肉体のよみがえりだけしか信じていないあなたシャロームには、分からないでしょうね。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)10:26
だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
 (マタイ10:26、新約聖書
 
あなたが隠しているものも、隠れているものも、総てが明らかになり、知られるようになる時が来るのです。あなたは、ふるえて眠ることになるでしょう。あなたの悪意の暴走を、お仲間は、止めてはくれないのでしょうね・・。
 
あなたは、神の光にさらされるとき、モーセの映画にあったように、両手を空に大きく広げて、おお、救いの神よと、隠し事だらけでも光にしてもらったから完全だと、下着も付けないまま、ゲラゲラ笑って、光のほうに飛び出すのでしょうか。人間の最も醜く悲惨な姿です。
 
私がいくら丁寧に書いても、あなたシャロームは、やすやすと大事なことをも無視します。それで、私が罵詈雑言や辛辣な比喩を言うと、あなたは、理路よりも雑言のほうに反応して、汚い言葉を言ったり無理な要求をして、自家製の安穏を図るというパターンがあります。
 
つまり、あなたの原始的な敵意の感情を引き出すために、また、あなたが、うっかり本音を漏らすように、上のほうにも書きましたが、私は、辛辣さを、ある程度、コントロールして使っているわけです。
 
これをわざわざ言うのは、あなたの丁寧なだけの発言は、殆ど、発言として意味をなさないということを言うためです。一方、隠しても漏れ出てくることのほうが、本音であり、受け取って検討し批判するのに題材としては有用だからです。
 
まことに、あなたシャロームほど、他者の欠点については個人情報を含めて、好きなだけ、あげつらい、あざけり、おとしめながら、自分の欠点については、まるで無かったかのように忘れて無視できてしまう人も珍しいのです。
 
 
※ 
 
さて、シャロームを批判してきましたが、
では、作文が苦手という人と、シャロームや楽山のような易坊類との違いは何でしょう。
 
シャロームは共感を過去の発言において否定しています。
 
楽山は「共感」という書き方を、最近になって、したことがあります。しかし、楽山の文章には、共感していることが文章から分かるような内容がないのです。楽山は、共感という言葉だけを直接使って、それで共感力があるかのように、見せかけている。
 
易坊は、荒らしで、ナルシシストです。いつも思い上がっていて、何でも知っている、という立場から物を言います。
 
これら、思考および体質について同じ方向性を持つ易坊類については、成りすましを疑っています。ネットでは証明できませんが、同じHNのコメントにおいて筆致が入れ替わったことがあったからです。
 
 
例えば、作文が苦手という人は、苦手ということが、謙虚な筆致として、表れてくるのです。それが分かった時点から、こちらは、できるだけ分かりやすく、ということを心掛けることで、なお、交流を続けることが出来るわけです。
 
私もそれほど文章が得意ではありません。それに、私には、読書障害の傾向があります。長い文章は苦手です。まず、読書が遅く、さらに読書好きの人とは比べ物にならないくらい疲労を感じます。それで、長い文章は、出来るだけ、避けています。
 
ブログの記事の長さというのは、ちょうどよい長さの上限にあって、読むのにも、書くのにも、私にはありがたいのです。でも、ときどき、あまり読まないで、いいね、押すこともあります。ごめんなさい。
 
 
しかし、シャロームや楽山などの易坊類には、その正直さがありません。正直さが表れてきたことがないのです。いつも、自分は出来ている、分かっている、という立場から教える立場で物を言います。
 
文章にも、言葉遣いの実質として人格が表れてきます。ただ、彼ら易坊類は、様々に、姑息的に、ごまかしてくる、というのも特徴であるので、注意が必要です。小細工はするが、実質の深みがないというのも特徴なのでしょう。
 
 
私は、能力を問題とはしません。彼ら易坊類の問題は、心にあると判断しています。
 
心に、何か完全なものを身につけたつもりで、仰々しいだけで実感のない飾りを付けてしまうと、伸びるべき能力さえ、へし折られ、つぶされてゆく、ということが、シャロームのような思い込みカルトを見ていると、よく分かります。言葉の仰々しさだけになるからです。
 
 
  人より物が大切?
 
   2019-11-18
   長い間、働いてくれた洗濯機に感謝!
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12546568680.html
   楽山日記(a)
 
 
この、楽山の記事は、少し奇妙です。短いこともありますが、表現が変なのです。
 

昨日、とうとう洗濯機が壊れてしまった。前々から、だめそうな気配はあったけど、ついにだめらしい。
でも考えてみれば、この洗濯機はかれこれ十年か、二十年くらいは使ってたわけだし、これだけ働いてもらえたら感謝、感謝だね。もちろん電気屋さん、メーカーさんにも感謝! (*´▽`*)

 
この短い記事を読んで、なんか変だと感じないでしょうか。
 
洗濯機が壊れたときに、ここまで、感謝を、電気屋さんやメーカーさん?にまで、言う人は、珍しいと思います。少し、気分的に、ハイになり過ぎているような多幸感を感じます。しかも、それを、記事にして公開しているのです。この感謝の仕方は、単なる愛着というより、まるで、洗濯機と相思相愛であったかのような書き方です。
 
しかしながら、楽山は、一方で、人に対しては、人の言うことを受け取らず、理解できない人です。人には冷たく、不都合を無視し、不満と当てつけばかり向けて、反省せずにいます。
 
その楽山が、洗濯機には愛情をこめて感謝を言う。不自然ですから、世辞だろうかと思うけど、物に世辞を言う必要はないし、言う人もいないでしょう。
 
残っているのは、一つは、洗濯機に対して、まるで人格に対するように、感謝、感謝だねと、ことさら大切にしているように書いて、結局、やけになったために、逆に、人格についての、人嫌いを表しているのではないか、ということです。
 
もう一つは、日本語のセンスが足りない可能性です。楽山は日本人なのかどうか、あまり考えたことがなかったが、ここまで、センスがズレていると、可能性として、考えざるを得ません。しかし、考えて分かることでもないし、意味がないかもしれません。
 
さらに、もう一つは、あまり考えたくないが、長きにわたって、自己中心の思想を持ち、また、そう振る舞ってきたために、虚実の境界が不明瞭になり、精神の崩壊を来たしているのではないかということです。
 
嘘もホントもゴチャゴチャに書いてきて、そのために、曖昧な表現しか出来なくなって、私がボンヤリ言語と呼んでいるところの、書かなくてもよかったのに・・という文章になってきたのです。
 
シャロームと同様に、言論の責任を取れなくなり、文章が破たんし、そのいい加減さが宗教と信仰の記事だったことで、私が批判して、楽山が答えられないことが続いて、ますます混乱した可能性も考えています。
 
もし、楽山が、被害者意識に凝り固まって、私のせいだと言うなら、私のほうとしては、看過できないような、宗教と信仰の否定を遠回しに暗示する記事を、根拠も述べられないのに、心ではなく辻褄の言葉だけにこだわって、他者の引用をも多用して、いじくりながら、言論の責任を負わないで、趣味か遊びのように書いてきたことを批判して、追及し、返すしかありません。
 
 
(2019年11月21日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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