ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

善ではない(改)

 
  善ではない(改)
  
 私の記事「反面の偽善者」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12506066182.html
 を修正再録します。
 
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
信仰は
儀式で安穏を約束したりしない。
信仰は心に住むからである。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
だからといって
善を完全に行える者はいない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
神に向かって
あるいは神について
守っている、知っている、分かっている
何と悍(おぞ)ましい言葉だろう。
 
人に向かって
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間において成り立たない。
 
神は完全なる善であると信じても
同じ装いが人に似合うわけではない。
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神に対する正直さだけだ。
神に対しては正直しか通用しない。
 
それが神を恐れる敬虔である。
 
 
神の前で故意に嘘を吐いてはならない。
すべて見抜かれているのだから。
 
神を恐れるなら
キリストを愛するなら
人に弁えられるのは
御前での正直さだけだ。
 
人を義とするかどうかは神の仕事
人を整えるのは神の仕事。
人を評価するのは神の仕事。
人を裁くのは神の仕事。
 
そりゃ善だけではないですけどね
と言っても、それは違う。
 
人の善などはことごとく
神の前では成立しないと言っている。
なぜ体よく整えようとするのか。
 
だから人が
神に対して捧げられるのは
善ではない。
 
できるだけ頑張っているのだから
褒めてもらえるといいなあ・・などと曖昧な考えで
神を侮る者になってはいけない。
 
私たち人間は
神の前に捧げて褒められるような
いかなる善も持ち合わせてはいない。
 
私たち人間は
言動の結果と影響を
果てまで追うことは出来ない。
 
人に出来て
神の御前に出せるもの、
正直以外に何があろう。
 
罪を犯しても
神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ
熱心な信仰者と言われても
神の前に飾る祈りは聞かれない。
神に対して偽る祈りは退けられる。
聖書はそう語っている。
 
 神を偽りの讃美で包む者は
 偽りの赦しで包まれている。
 
 人は騙せても
 神は騙せない。
 既に総て見抜かれているからだ。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための条件である。
 
主のもとに戻る道もそこにあり
そこにしかしかない。
 
神に対して
人の道徳など通用しない。
 
神の前に
人の道徳など成立しない。
 
神が総てを見抜かれる有り様を
人は地上で知り得ない。
 
人は他者を
道徳的にも時間的にも空間的にも見極めることは出来ない。
正直さだけが
人が自らのみを省みて判断できることである。
 
だから全能の神に対して
正直以外の捧げものはあり得ないことから
神によって
正直な祈りだけが期待され待たれていると言ってよい。
 
神の前に
本気で正直であろうと努める者は
人の前でも
だますような白々しい嘘は吐けなくなるからである。
 
善のために人を害し
自らの命を失うこともあるような
不完全な人の善は
神の前での正直を超えるものではない。
 
 
(2019年08月14日)
(2020年08月14日、修正)
 
 
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