楽山の不幸宣伝2
楽山の不幸宣伝2
共感できるところ 1
2014年12月02日 楽山日記(LD)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512424.html
を改めて批判。
かなり前の楽山の記事ですが、訂正してはいないようだし、今も、良いほうには変わっていないようです。楽山は、アンチHSではありません。言ってきたことが、全部、嘘である可能性もあります。成長がなく、退化・変質・退行してゆくのも必然なのでしょう。
楽山には、思想や宗教の軸がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、刹那的な快楽を求めて、それ以外の高次の動機がないために、刹那的で、場当たり的な、快楽、肯定、正当性の見かけに慢心する本能があるだけでしょう。
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*共感できるところ
幸福の科学の本を読んで、共感できたところをまとめてみた。
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楽山は、アンチHSを気取っていますが、退会後も、HSに共感できるところがあるということでしょうか。あるいは、教祖願望から言っているのでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、何かに本気で「共感」するとか感動するということはないと思います。
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*怒りに我を忘れると
「
人格を失ってしまって、天上も抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、これはあと取り返しがつきません。人間関係が完全にくずれてしまって、以後その人も異常な人間、変人として扱われますし、言われた本人は、もう恐くて近寄れません。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.79)
」
これはその通り。周囲の人々がギョッとするほど、突然、怒りを爆発させるタイプの人は、異常とされて敬遠されると思う。
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楽山のように、無反省で無責任で、不都合なことを全部無視して、自分の言い分を書き続けるというのは、ただの誤解ではなく、故意に曲解しているわけですから、発言のたびに嘘と詭弁が表れてくる害毒として、批判対象としては、最も厳しい批判が向けられても仕方ないのです。
不感不応の楽山は、精神の鈍麻によって、よほど追いつめられないと、興奮するとかはないと思います。だからといって温もりもないので、ネチネチした鈍い否定が訂正不能に続いてく、じわじわと理性も感情も鈍くなり、深いダメージから、他者を婉曲的に痛めつける害毒となっています。
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*自分の持ち場・役割
「
神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.97-98)
今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。
(同上p.99)
」
これには共感できた。宗教活動をするならば、それ以外の、家庭、職場、学校、地域などにおける自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たしてからにすべきではある。
今現在の自分の持ち場での責務を果たさずして、宗教活動ばかりに夢中になったとしても、それは底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らないだろう。
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「自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たして」・・なんという白々しい嘘でしょう。楽山は、正反対で、自分の発言の責任を負うたことが全くありません。ここから、何らかの病質を疑うことになるわけです。楽山こそが、人並みに責務を果たしたことがない人です。
すなわち、楽山が、宗教について何を言っても、「底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らない」ということです。楽山は、自分で言って、自分で裏切って、自分が斬られていることに気づかないのです。
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*言うは易し行うは難し
「
学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.173)
」
全くその通りだ。ただ言うは易し行うは難しというように、実践は難しいのも事実。
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「全くその通りだ」と同意しておきながら「実践は難しい」と言っています。しかも、全然、出来ていないことを「言うは易し行うは難し」と、不可抗力みたいな言い訳を書いています。言葉をいじくって、何も出来ていない自分を良く見せようとする原始的な欲望からの嘘です。
楽山には、根底において、批判意識が薄弱であり、思想のベースというものが出来ていません。だから、体のよい言葉で、自分が与える害についても、ごまかそうとしてきました。それは、結局、成り立たないということが、楽山の発言を通して、明らかになっています。
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*常識人と奇人変人
「
どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.171)
」
これは正論に思える。だからこれとは正反対に、へそ曲がりを目指そう、奇人変人は大歓迎というのは妙に感じる。
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奇人変人の意味するところは、正常人の意味するところと同様に、微妙です。楽山の言葉についての認識の甘さ雑さが表れています。言葉の意味を100%か0%で気安く判断しているようなところが、しばしば見られてきたのです。それは、言論の未熟を自覚していないことを表しています。
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*与えているという意識のない愛
「
「これだけのことを自分はした。」というふうに思ってはなりません。それを他の人に認められようと思ってもなりません。自分が愛の行為をしたときには、それを忘れてしまうことです。
[省略]
ごく自然に、そうしたいからする、自分はそういう行為をさせてもらうことがうれしいからしている、という気持ちが大事です。
(大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』土屋書店、1990年、p.45)
」
こういう「与える」という意識を持たない、ごく自然な親切はいいものだと思う。
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「いいものだ」と言って、無償の愛を、それが自然だと言っているようですが、そういう自然なあり方を、全て裏切っているのが、楽山です。多幸症なのでしょうか、芝居なのでしょうか。楽山は、良きものを得たことも与えたこともないのです。自己正当化の詭弁だと思います。
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*自然体の人生
「
人には、それぞれ自然なる生き方というのがある。
自然体の人生というものがある。
(大川隆法『永遠の仏陀』幸福の科学出版、平成3年、p.57)
」
「
他の人の人生に取って代わることはできないのだ。
自分は自分の人生を生きなければならないのだ。
(同上、p.65)
」
人にはそれぞれ個性がある。自分の個性を知り、愛し、大切にできたら、それはきっと幸福な人生だろう。
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そして、楽山は、結局、きれいごとに終始してゆくのです。多幸気分の浮かれ方で、言葉が、幼稚になっています。「個性を知り」「愛し」「幸福」・・などと言って、深みがあるでしょうか。宗教も信仰も思想も、そのような単純なものではないから、掘り下げる言論が必要なのです。
そういう楽山だから、愛も、善も、何も実践するどころか、企みの、作為の、騙し文句だけで、他者を、自分より低いものとして、世辞と軽口で、あしらってきたのでしょう。しかも、病質によって、無反省に続けているのは、偽善であり、悪よりも悪質です。
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もうちょっと踏み込んでいうならば、自分の個性に合わない思想、宗教を無理に信じなくてもいいなら、それは幸福なことだと思う。
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思想と宗教は、個性で判断するものでしょうか。善悪とか正邪とかは、どうなのでしょう。楽山は、自分の異常な人格を正当化しているだけです。自らの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの、無反省、無責任、高等感情鈍麻、・・考えなくていいのでしょうか、否です。
驚き呆れます。楽山は、実に白々しいことを平気で言っています。理想の実現でなくても、誰にとっても努力目標はあるというのに、それらに、ことごとく背いて平気でいられる病的ナルシストの姿であります。誰の「幸福」も考えていない態度だと思います。
責任や反省という当たり前のことが、楽山の「個性に合わない」のでしょうか。全く実践していません。最低限の反省も責任も、楽山の「個性には合わない」ようです。これが示しているのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDから、いろんなところで安易で病的に異常な書き方になっていることです。
災難を伝道
(2021年)
(2022年11月22日、再録+加筆)
虫と区別
いかなる好意にも
応えることができなかった
いかなる悪意にも
打ち勝つことができなかった
鈍く変質してゆく
寄生とはそういうものかもしれない
虫になったのに
這う虫ほどにも動こうとしない
這う虫ほどの目的もない
命をもてあそぶ
命をもてあます
気づかないことは災いであり
さらに深く悪を宿し孕(はら)み育むが
気づかれない間は隠されているので
しばしば仕合わせのまま過ぎてゆく
気づくことも災いであり
さらに深く罪を教えるが
まれには幸せのように
まるで唯一の幸いのように
独り苦悶のうちに過ぎてゆく
好意や悪意の結末にかかわりなく
虫は汚泥に塗(まみ)れ
ときに傾いた日差しを受けている
それが昇る日なのか沈む日なのか
区別できないまま
さらにどうしたら受けることが
浴びることになれるのかさえ
区別できないまま
区別
というものから
根こそぎ別れる時を待っている
耐える
もちろん
聖書、キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
詩の持つ唯一の効用と言われるが
もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
人が生まれて
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
>
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていきます。
共感・べた褒め・贈り物・共通点などの話から「こんなに気が合う人はじめて」「こんなに優しい人はじめて」「大好き」を示しながら一気に親友のような距離感になろうとしてきます。
<<
2022年11月19日
<
「自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていき」」・・まさに、楽山の優しさ芝居の丁寧語に当てはまるでしょう。つきあえる人と思わせるための柔和芝居でもあります。距離を縮めるどころではなく、関わらないことが大事です。
楽山が、このような引用をするのは、こういう引用をする自分は自己愛人間ではない、という印象操作なのです。あらゆる狡賢いやり方を、平気で、使ってきますから、注意・警戒してください。また、多くのHNに成りすましてくることも考えておく必要があります。
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
「
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
」
>
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
<
無反省、無責任、無理解、無神経な、楽山は、動機も根拠もなく、もっともらしいことを書こうとしますが、その浅さのために、失敗し続ける自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)であります。方向もなく、努力もせずに、書き続けて、刹那的な自己満悦以外、何も求めてはいないのです。
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
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(古い記事もインポート済み)
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(ブログ記事をコピペすることあり)
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