ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

有名人を悪用する楽山

 
  有名人を悪用する楽山
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25159990.html
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 

中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。

 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚いのです。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用して書いてくるという当てつけの特徴が出ています。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いていることです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきました。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条に無条件賛同をするという経過になっています。
 
つまり、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己主張の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという経過が続いているのです。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、つまり、批判を、総て悪と考えています。ゆえに、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、その個々の批判が悪である根拠を示しえたことがありません。
 

ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。

 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。神通力についても許可制などと言って同様でした。
 
つまり、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 

自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、

 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などと言う、短絡であり、その中間にあるものを考えず、また、保留に出来ず、分からないと言えず、場当たり的に、思いついたらバタンバタンと薄板を叩きつけるような雑な思考で、結論を出してきます。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけには十分という計算がある、ということが、今までも繰り返されてきたのです。
 
こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか、楽山は、出来ないのです。暫定的にも確かに主張できるものが、理路と共感の貧困な楽山の中には、何も無いからでしょう。
 

脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、

 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということが分からないのでしょう。楽山は、こういう言葉遣いと言葉選びに、特徴が出てしまいます。
 
つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回、表れています。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な感情が表れます。引用したことで責任回避している一種の罵詈雑言なのです。
 
このように、またしても、自己中で無反省で、引用元の迷惑などは、いっさい、考えない楽山の厚顔無恥が表れています。
 

脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。

 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性が分からない書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを与えてくる地獄が待っています。
 

自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、

 
嘘です。この句のような人は、執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、恥を知っておれば、出来ないはずです。トホホ言語の典型。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という言葉の選択に表れています。
 

保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、

 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、どちらも書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない人の愚痴ですが、これも自己正当化のために同情を誘う詭弁家の芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" です。
 

本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。

 
ネガティブフィードバックは、適応する必要があるものでしょうか、調節機能だと思いますが。
 
この文脈の目的語は、価値観の大変化でしょうか、適応する対称でしょうか、それともネガティブフィードバックが生存戦略だと言いたいのでしょうか。生存戦略ならば意味がありそうだが、戦略と言うほどのものでしょうか。それとも、説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうか。
 
こういう分かったふうだけのきれいごと、シャロームの大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。
 
楽山やシャロームなどの易坊類には、一人による成りすましの疑いがあります。
 

終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。

 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、言論も言葉遣いも、雑で、いい加減なだけです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!有効ですね!という気になって、満悦しているだけだと思います。気分易変と、相反する価値観は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化しておくことでしょう。楽山とは、正反対の考え方になります。
 

本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。

 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 

それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。

 
楽山は、勘違いだらけで、何を面白がっているのでしょうか。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。生物として見れば、楽山は、叱られずに済むと思うのでしょうか。
 
なぜ、生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。いったい、脳科学の本を読んで、いや、見て、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らない」・・ボンヤリ言語の典型。
 

自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。

 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
儒学。特に、中国宋代の朱子学宋学
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
道家の学問。道教
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E5%AD%A6-103212
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていないと思います。また、いかなる論者にもなりえていないと思います。楽山の見栄張りと遠吠えです。だから、自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りと化粧だらけです。中身がないから、失敗して、それこそ、小梅太夫チンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。
 
 
(2020年06月16日)
 
 
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我執の正当化

 
  我執の正当化
 
 楽山日記(LD)2020年06月13日
 『イエス伝』ルナン著
 http://mn266z.blog.jp/archives/25145860.html
 
 
(ネットより)
ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan、1823年2月28日コート=ダルモール県トレギエ - 1892年10月12日パリ)は、フランスの宗教史家、思想家。思想家。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者。「反セム主義」という語を最初に用いたともされる[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3
 
セム主義について:
(ネットより)
反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと[4]。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと[5]。
19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(英: antisemitism)と呼び[4][6]、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(英: judeophobia,独: Judenhass)[7] とは区別して人種論的反セム主義ともいう[8]。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した[* 1]。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 
楽山は、自分で考えることをせず、人の文章を恣意的に利用して、しかも誤読し曲解して、さらに字面だけを漁っては書いてくる人です。しかも、それを批判しても、まともな反論も弁明もしたことがありません。
 
正当には何も返せないのに、言いたいことだけ言ってくる楽山の冷淡でサディスティックな人格が、書くたびに表れてきます。楽山は、自己正当化を人の口を借りて執拗に言い続けることの見苦しさを感じることも出来ない人です。
 
こちらが関わっても、理路が壊れていることと、共感性がないことから、対話にならず、疲労するだけという結果ですから、楽山の文章を、記事で批判して、読者に警鐘を鳴らすしかない現状です。
 

ルナンの『イエス伝』は、出版当時は大変な議論をよんだというので、どういうことが書いてあるのか確かめてみたいと思い、通読してみた(昭和25年 第4刷)。自分には難しい本だったが、とにもかくにも一読後の感想をメモしておきたい。
まず巻頭に掲げられている亡き姉への献辞は、悲しくも美しい文章だ。涙が出る。イエスの生涯についての記述は想像していたよりずっと少ない。大部分は著者の論考で占められており、イエスの生涯をなぞるように書いている部分は全体の三分の一、いや五分の一と言った程度ではなかろうか。ここは残念。でも終わりに近づくにしたがってイエスの言行についての記述が多くなっているのはうれしい。

 
「悲しくも」「涙が出る」というような飾り言葉は、楽山の口から、実に気安く出てきます。その感動が文章に、字面以上に、表れたことは、一度もありません。
 
恐らく、感情の無い、ぼうっとした顔のまま、書いていると思います。そして、その気安さのまま、神について、イエスについて、無根拠で無責任な記事を書いてくるのです。つまり、今回、言っていることも真っ赤な嘘だと思います。
 

自分は著者のイエスに対する信仰の強さをひしひし感じたので、そういう著者が悪魔呼ばわりされ、ひどく非難されたという話は理解し難いものがあるのだが、やはりラザロの復活などの超自然的な事柄や、伝説的な話には距離をおいていたり、イエスは教義体系だとか儀礼的なことにはこだわりは無かったろうとしているところなどが、それらを重んずる人々には問題視されたということだろうか。

 
信仰を、字面の辻褄でしか考えられず、分かったつもりだけで、信仰と人間の本質を外しまくってきた楽山が、信仰の強さをひしひし感じるなどということはありえません。また、反省もしないで、平然と嘘を吐いてくるのは、自己愛性の慢心からでしょう。
 

たとえば、「法と信仰箇条とを含む一宗教的経典といふ観念が、どんなにイエスの思想から距つてゐたか、注意を乞ふ必要はない」(p.264)、「彼の教理は、少しもドグマ的なものでなく、彼はそれを決して書こうとも、書かせようとも思はなかった」(p.362)、「イエスは、教義の建設者でなく、信条の作者でなく、世界を新精神に通ぜしめた人である」(p.362)、「神の重んじ給ふものはただ一つ心の正しさのみである」(p.170)など。

 
信仰を、恣意によって、教理的小理屈として、ドグマとして、好きなように、いじくって、いちゃもんをつけてきたのは、まさに、楽山その人です。つまり、楽山は、引用元の著者ルナンに、むしろ、批判されるべき人物でしかありません。楽山は、どこまで、墓穴を掘るのでしょう。
 

また訳者の後記によれば、孫引きになってしまうのだけれども、ルナンは次のように書いていたという。「教会を棄ててもイエスに対する信仰は変わらないといふ考えが私を占めた。心霊の出現を信ずることができたら屹度イエスはいふだろう、『私の弟子となるために私をすてよ』と」(p.398)(引用文の旧字は新字に改めた)。

 
これは、使徒レベル、預言者レベルの信仰ですが、私たち信仰者においては、心霊という、楽山が好む言葉を多用するのではなく、あくまで心を持つ人間としての信仰を語ることが必要になります。
 
その福音伝道に対して、言論において、最も無責任に、最も無反省に、最も無秩序な文章で、文句をつけてきたのが、楽山その人であります。
 
気をつけてください。悪魔性の厚顔無恥の強さは、白々しい芝居を平気でしますし、平気で嘘を吐きますし、不感不応無頓着無反省の記事を、気軽に書いて、説明説得ではなく、刷り込んで誘導するということと、反対できないように疲れさせることしか出来ないのです。
 

自分は信仰は個人的なものであって、それを突き詰めるほどに他者とは共有できぬものになるだろうし、組織化された宗教および宗教団体は神というより、人によるものだろうと考えているので、上の文章にはさして違和感はなく、その通りだと感ずるのではあるが、

 
信仰は、個人と神の関係です。楽山は、信仰を個人の所有物のように言っている時点でアウトなのです。なのに、今に至るまで、語る口の自尊と厚顔だけが増してきているのです。
 
批判してきた1年以上の楽山の記事やコメントから、楽山は、神にも、キリストにも、聖書の言葉にも、全く、真摯に向かう態度がなく、ゆえに、一滴の恵みも受けてはいないと思います。
 

こういう考えはいつの世でも護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める人からは歓迎されることはなく、それはたとえ天地がひっくり返ったとしても変わることはないだろうとは思う。

 
楽山は、キリスト教を、「護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める」と決めつけて、自己の立場の保身に、著者ルナンを持ち出して、歓迎されないと言っています。
 
楽山が歓迎されないのは、言論において、部外者にとどまらず、その体質である無知と無恥から、勝手なドグマをボンヤリ言語で刷り込もうとすることで、言論の迫害者となっているからです。
 

ルナンの『イエス伝』に対する批判は読んでいないのではっきりしたことは分からないが、やはりこの辺りが問題だったのだろうか。もしそうであれば自分は間違いなくバツ判定されることになりそうだし、特定の宗教に属することで平安を得ることはなさそうだ。

 
バツ判定されるのは、言い換えると全否定されるのは、楽山が、言論において、実直さや真摯さが全く見られない無反省と単方向の、言いたがるだけの異常者だからです。しかも、そこに、詭弁と嘘を持ちこんで、だまそうとしているからです。
 

随分前に、「孤独のとなり」というエッセイ集を読んだ記憶があるが、なんだかまた読み返してみたい気分。

 
楽山は、孤独なのではなく、他者との言論によるまともな交流が出来ない人です。その理由は、自分勝手、自己中心の、凝り固まった自己愛性人格障害者そして反キリストだからです。
 
反キリストというのは、非クリスチャンではなく、キリスト信仰に対して、何らかの恨みからか、劣等感の裏返しからか、いわれもなく、批判として成り立つような意見も持っていないのに、しつこく悪口や嫌がらせだけで疲れさせるようなダメージを与えて攻撃を仕掛けてくる人のことです。
 
楽山の場合は、知ったかぶりの、実際は無知と無恥にもかかわらず、読書家気取り、批評家気取りで、反キリストの記事を書き続けてきます。楽山には、批判する前、半年ほど、だまされていて、まともだと思っていた時期があります。油膜の虹色のように様々に汚れた人です。
 
もう一人のシャロームの場合は、キリスト者そして元牧師を装い、正反対の妄想教理をもって、あざ笑ってきます。私は、シャロームには、妄想教理に気づいて批判する前、数年間、だまされて聖書の先生だと思っていたのです。水たまりほどの深さもない人です。
 
そういう人は、楽山とシャローム以外にも、たくさんいると思いますが、交流することが人格破壊につながるために、リスクを承知の批判者以外、決して関わらないことが必要です。読者を舐めきっていて、だまし文句と詭弁を用意していますから、決して、コメントなどで対話してはいけないし、また、同情もしてはいけない人です。ゆえにカルトと同じ扱いしかないのです。
 
 
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 神通力修行
 http://mn266z.blog.jp/archives/25147374.html
 
 
楽山の興味・関心の方向・好む方向が表れています。この精神で、キリスト教とキリスト信仰を語られるのは、甚だ迷惑な話です。キリスト信仰は、神通力・霊感・超能力マニアには、何の関係もありません。
 

ネットがまだ一般的ではなかった大昔のことだが、戦前の本探しに凝って市中のリサイクルショップ巡りばかりしていた時期がある。当然ながら空振りばかりだったが、時には掘り出し物が見つかることもあって面白かった。歴史方面の本もそうだが、宗教関係の本でも珍しいものがあった。たとえば、神通術についての本がそれだ。戦前に出版された本の復刻版で、函入り、和綴じ、限定数百部のもので、購入後はチラ見しただけで積読状態だったのだが、最近見返してみたら初見の印象とは大分違って奥が深いもののように思えてきたのだから我ながら不思議である。ただ秘伝と銘打ってあり、タイトル、著者名、内容については全公開は憚られるので、それについては申し訳ないが限定公開としたい。失礼。

 
魔術を求めてリサイクルショップ巡り、宗教関係と言って神通力の本、奥が深いと言っています。どういう奥が深いのでしょう。少なくとも、信仰の奥深さとは無縁です。こういう男に、キリスト信仰について語ってほしくないです。
 

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秘伝と書いているように、楽山も秘伝になりたいのでしょう。もったいぶってログイン許可が必要だと言っています。"おともだちのあなたにだけ秘伝?みせてあげますよ"、と誘う秘密の超常同好会のようです。楽山は秘伝の hidden鼻糞でも見せる気でしょうか。
 
こういう超常趣味だけの男が、キリストが、神が、とか語ってくるのです。超常オタクが、キリスト教を魔術として面白がっている以上のものがあるでしょうか、否です。詐欺師の臭いがします。
 
 
(2020年06月15日、修正再録、同日一部修正)
 
 
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トラウマ反応??

 
  トラウマ反応??
 
 トラウマ反応!?
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25146142.html
 
 
私には、トラウマがあるんだろうと思っています。そのトラウマに楽山は関係ありませんが、ずいぶん昔のことで、一部はブログに書いています。
 
楽山は、不感不応と無反省から、トラウマを与え続ける人だと思います。
 
楽山は、彼の特徴として、例によって説明していませんが、
トラウマ反応とは、トラウマの後に起こってくる、むしろ症状のことで、再体験、苦痛、思考や会話などの回避、反応性の麻痺、一方で驚愕反応、意欲減退、睡眠障害、などがあるようです。
https://www.iff.co.jp/counsel/trauma_2.html
 

ツイッターを眺めていたら、トラウマ反応うんぬんという話があり、次のページに行き着いた。
・自分自身のトラウマ反応にどう対応するか?
どうやら過剰な攻撃の裏には、トラウマがひそんでいることがあるということらしい。

 
楽山については、トラウマを感じて受ける繊細さは無いと思っています。したがって、心に傷を負った人についても共感できなのです。
 
カルトは、抜けた後でも、小さくないトラウマと後遺症を残す原因となりうるでしょう。楽山は、トラウマを受けやすい人ではなく、与えやすい人なのです。
 

これを自分に当てはめるなら、認めるのは癪ではあるがHS批判がそれなのだろうな。大概の一般人はHSのことはさして気にせず、スルーしているわけで、自分にそれができないのはそこにトラウマがあるからなのだろう。

 
楽山の、不感不応の、他者無視の、無反省の訂正不能の、執拗なボンヤリ言語の、あくどい筆致は、誰の心にも消えないトラウマを残し得るものなので、以前から、決して誰も関わらないように、批判を続ける必要があるのです。
 

一般にはあまり知られていないHSの問題点を明らかにし、社会に知らしめ、注意喚起をするために批判をしているとも言えば言えるわけではあるが、それにしたってトラウマは皆無であり、それが批判の動機になっている可能性は微塵もないとは断言できないのだから仕方がない。

 
トラウマは、心の傷ですから忘れることなど出来ないものです。トラウマに気づいた人にとって、トラウマが「微塵もないとは断言できない」という曖昧な言い方は出来ないのです。
 
つまり、ここでも、楽山は、トラウマを受けた人を、高みから見下ろして批評しているわけです。その結果、このような曖昧表現でトラウマを語る文章こそが、楽山に、トラウマに対する共感性が微塵もないことを表しています。
 
どこまで行っても、何を書いても、誰とも共感できない楽山が表れるだけです。自己愛の我執と我欲から、どこまで行っても、書けば書くほど、関われば関わるほど、楽山は、他者の心にトラウマを与えるだけです。
 

考えてみれば、これは信者側でも同じかもしれない。ツイッター上の信者のなかにはアンチに対して過剰反応を示す人は少なくないが、これは過去にアンチと何かあり、それがトラウマになっているためかもしれない。信者ブログの中には、もう何年も前に終わった話を度々蒸し返し、既にブログは止めて消えてしまった人のことをとやかく言うブログ主もいるが、これもトラウマが関係してるかもしれない。

 
楽山が残した嘘と偽善については、楽山が、反省もせず、修正もせず、無視している分、いつまでも、無反省の自己中の厚顔の偽善者である楽山の遺残物として、その内容と言動を、資料として、参照できるようにしておかなければなりません。
 

ああそうだ。上とは別の信者ブログの中には以前、記事をパクられたとして騒いでいた人がいるが、この人は最近はまた別の人に向かって同じことを言っている。反省と爽快感、顔施(笑顔)、知ることと信じることなどは大川隆法の本に書いてあり、支部でも話題になることであろうし、信者または元信者であれば普通に話題にのぼることであるし、他者の文章を引用しその感想または意見を書き、長文になるときは分割するというのは一般に行われている常識であろうし、パクリ、パクられたという話にはならないと思うのだが、それにもかかわらず、パクられ妄想を持つということは、そこにはやはり何らかのピンがあるのだろう。
そういえば、大川隆法もわりとちょいちょいそういう話を繰り返しているのだった。自分の意見をパクられた、真似されたとか…。でも実際は次のようになってるんだけどね。

 
記事の引用は、批判するために必要ですが、まだ、ピンという言葉を使って、それを説明しないところに、HSに心が残っているようですし、楽山の高慢も表れているのです。
 

根本経典からしてこうであれば、あとは推して知るべしというべきか…。(画像など省略)
とりあえず今思いついたのはこれだけだが、詳しい人であればもっと具体例を挙げられるだろう。こうしてみると、激しいパクられ妄想の根っ子には、過去にパクリを批判されたトラウマがある可能性は低くはなさそうにも思えてくる。
なんだかいつのまにか自分のHSに対するトラウマ反応が発動されて、大分話がそれてしまった観がないでもないが、結局のところ、人は誰でも多かれ少なかれトラウマがあり、それに影響されているということなのだろう。

 
"トラウマ反応" という題で、楽山が書いていることは、冒頭に書いてリンク付けているようなトラウマ反応とは言えないことです。
 
トラウマ反応は、体験からのもので症状を伴うものですから、話が逸れることではありませんし、話を逸らすことでもありませんし、ありもしないトラウマの嘘を吐くことでもありませんし、他者を無視することでもありません。
 
トラウマというのは、誰でもあるなどという気安い見解で済ましてよいことではありません。楽山はトラウマとトラウマ反応という言葉を利用して遊んでいるだけです。
 
楽山は、何を言われても返せないのに、平気でいられる人です。つまり、人格からの故意の自己中なのです。トラウマを与える人であって受ける人ではないのです。根拠は、今までの総ての批判記事です。
 

もし、トラウマがない人はいない、一人もいないというのであれば、それについて人を責めても仕方がないし、それならまずは人のことをどうこう言うよりも、まずは自分のトラウマを解消することに努めるのがよさそうだ。うん。納得。

 
人を傷つけても平気な人には、トラウマはないでしょう。傷つくという心の状態が分からないのです。そういう人に限って、人を責めても仕方がない、などと言ってきます。
 
そして、そういう人は、自分の無反省なことを棚に上げて、「自分のトラウマをを解消する」などと言って、「うん、納得。」などと平気で言ってきます。
 
トラウマとトラウマ反応について書いておきながら、自分だけの独り納得で解決を装って満悦することはとても醜い、ということが分からないからでしょう。
 
 
(2020年06月14日、修正再録)
 
 
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アドラー教とカルトの筆致

 
  アドラー教とカルトの筆致
 
 
アドラー心理学」という、心理学者の名を冠したカルトがネットで流行っているようです。そのまま受け取っていると、一時的に精神的負担が減ったような気がして、気持ちよくなることがあります。それで、嵌(はま)ってしまうと、自己中カルト、私が「アドラー教」と呼んでいる自己中促進カルトによって、人格を破壊されるではないかと思っています。
 
(ネットより)
ルフレッド・アドラー(Alfred Adler、ドイツ語発音: [alfreːt aːdlɐ](アルフレート・アードラー)、1870年2月7日 - 1937年5月28日)は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC
 
アドラーは19~20世紀の人ですが、アドラー心理学として今流行っているのを、私はアドラー教と呼んで、カルトだと思っています。
 
ネットのアドラー教が、おもに提唱していることに、課題の分離ということがあります。
 
そして、自分の課題ではないことは、そう判断して、ときには言って、無視してよいというのです。
 
しかし、自分の課題には、他者が含まれることがある、というより、むしろ多いのです。
 
共にいる人、共に働く人、共に同じ目標を目指す人は、自分の課題の遂行に、他者は、切っても切れない共同作業者となります。多くの職場において、他者を無視しては出来ない仕事があります。その場合、当然、他者は自分の課題に含まれています。
 
つまり、それは私の課題ではない、と言って、無視していると、信頼されなくなるでしょう。
 
人間の活動の大部分は、単独ではできないことです。
 
 
私が、コメント、および、記事によって、関わり、批判してきた者が二人います。
 
一人は、シャロームです。約10年間、私の批判対象です。彼は、アドラー教を信じているかどうかは不明ですが、正当だと認めているようです。私がアドラー教を批判することを、ですね口調で、揶揄しました。
 
シャロームは、クリスチャンで元牧師だと自称しながら、その信条として、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言いました。罪を気にしなくていいキリスト信仰はありません。信条において真逆であります。シャロームは、偽キリスト者の、偽牧師、偽善者、そして、反キリストであることが明らかになっています。
 
もう一人は、楽山です。既に1年を超えて、今も批判しています。楽山は、上のシャロームの、全くキリスト信仰とは真逆の信条に同意して、熱心なクリスチャンと言っていました。つまり、明らかな反キリストの味方をしたのです。
 
そして、楽山は、アドラー教の宣伝をしていました。その大きな項目として、
 
気に入らないことは無視しましょうというのがあります。
 
気に入らないことを無視する、これが自己中でなくて、何なのでしょう。私たちが、直面する問題は、いつもお気に入りのことばかりでしょうか、否です。
 
むしろ、気に入らないことを無視せず、思考の材料として、冷静に考えてゆくことこそが、学習と成長の糧になるのです。楽山は、人間というものについて、その学習と成長について、全く分かっていない人なのです。
 
カルト一般に言えることですが、彼らには、心がありません。潤いと温もりがありません。悲しみと思いやりがありません。思いやりという言葉を、都合よく、言葉の字面で使っているだけです。このことは、サイコパスやナルシストなどの、人格障害に共通していることです。また、カルトの妄想信仰にも酷似していることなのです。
 
このように、特に、楽山は、自己中であり、自己愛が強く、愚にもつかない文章を記事として書いて、まるで、読書家気取り、批評家気取りの筆致を真似て描くのですが、そこに、真っ当な理路がなく、殆ど自我の思い付きに過ぎず、我執とも呼ぶべきものであります。
 
しかも、楽山は、鈍麻した感性と壊れた思考について、反省せずに、批判を受け取らずに、平気で、次の記事を書いて、また、同じような批判に曝されるという愚事が続いているのです。
 
シャロームと楽山、どちらも、正体は反キリストだと思っています。堂々と批判をするのではなく、シャロームは、私のライブドアブログに、執拗に、嫌がらせのコメントを書いてきました。丁寧語の挨拶と、聖書をろくに読んでいないといった貶めを、同じコメントに書いてくるのが特徴です。
 
その場合、まず間違いなく、貶めのほうが本音だということは、常識的に分かることです。しかし、シャロームは、それに、全然、気づかないで、平気で書いてくる人なのです。世辞や丁寧語の挨拶が本当なら、貶めなど書かないからです。
 
楽山は、キリスト信仰に対して、信徒であるかのような芝居をしたり、字面だけの幼稚な辻褄で、神がいるならおかしい、などと、いちゃもんをつけてきたりしました。しかし、別の記事では、賛同するかのような記事を書いてきたりと、滅裂な書き方をしてきたのです。
 
これらのことから、キリスト教についてもキリスト信仰についても、まるで、一貫した主張など持っていないことが、明らかになっており、そのことから、結局、楽山が、宗教について、いかに、軽く考えているかが明らかになってきたのであります。とても、宗教について、何かを語れる人ではなく、いい加減な人なのです。
 
このように、キリスト信仰に対する態度が、一貫せず、字面の表面的な辻褄だけの、いい加減さが明らかになっても、など、書くことをやめられない強迫観念でもあるのだろうと思いますが、
 
もし、楽山とシャロームが、一人の成りすましであったらとか、また、特定のカルト集団の中で、既存の宗教をおとしめる役割を担っているとしたら、状況は、さらに、危険で凶暴な様相を呈してきます。
 
それが、たとえば、アドラー教であるならばと仮定しても、シャロームは認めていた、楽山は宣伝していた、ということから、あながち邪推とも言えなくなっている現状であります。
 
この二人には、気に入らないことを無視する、ということを、まさに実践しているような点が、ベースにおいて、アドラー教に一致してきます。二人とも、人格の大事な部分、特に、相手の心を察して思いやる心とか、深い共感性といったところが欠けているのが目立つ者たちです。
 
 
気に入らないことを、自分の課題ではないと、無視すれば、一時的に、気が楽になったような気になります。その時だけ、負担が軽くなったような気がするからでしょう。
 
しかし、この無視には、大きな落とし穴があります。気に入らないことを無視すれば、気に入らないことは、ずっと無視することになり、無視することで、学習と成長がなくなるということです。
 
そんな学習はしないほうがよいと決めるなら、気に入ったことだけで、人生を送ることになり、その場その場の無視が重なることによって、感性が鈍くなって、安心して仕事を任せることができない人という定評になったり、そういうレッテルを押されて、仕事を任せられない人ということになり、信頼がなくなることにもつながりかねません。
 
誰の課題?ということに執着して、いつのまにか、冷淡な人だと思われ、考え込んだ後に、すぅっと去ってゆくのを、やっぱりね・・と見送られて、冷淡を、後日、今度は、返されることにもなりかねません。
 
無視したとき悩みがなくなって楽になっても、人生においては、学習も成長もなくて、欠陥だらけという結果になる危険があると思います。そうなったら、人格の破壊と呼ぶべきものでしょう。
 
 
知らぬ間にアドラー教の信者がいて、あるとき、それは私の課題ではないと、ジョブを拒否して、ぷいっと去ってゆくようなその人を信頼できるでしょうか。
 
アドラー教は、自己中ではないと言いながら、自己中であることの根拠の弁明が出来ていません。アドラー教が、今まで、言ってきたことは自己中と矛盾しないばかりか、それを勧めていると思われても仕方のないことです。
 
それと、アドラー教のライターは、断定傾向が強いです。こうすれば、すべて、うまくいく!悩みがなくなる!、というような強い口調が目立ちます。それは、カルトに共通することです。その分、説明力が貧弱です。
 
ライターの一人は、占い師だということです。占い師が心理学?という疑問は、当然であります。黙って座ればピタリと当たるふうな断定が多いのです。もう1人は、かなり攻撃的な文章を書くようです。強く言われて、うっかり受け入れるのではなく、強さが、正しいとは限らないことを肝に銘じておくべきでしょう。
 
このように、冷静さよりも、強気が目立つアドラー教は、説得力よりも、勢いで押してくることが予想されます。怒号に近いものも表れてくるかもしれません。これも、カルトの、信者に対する脅迫に似ているのです。押され負けしないように、気をつけて、冷静な判断力と批判力を身につけることが必要だと思っています。おかしいと思ったら、近づかないことです。
 
 
(2020年06月13日)
 
 
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不感不応の偽善

 
  不感不応の偽善
 
 2020年06月11日 楽山日記(LD)
 「第五講 ヨブ再び口を啓く」(『ヨブ記講演』内村鑑三
 http://mn266z.blog.jp/archives/25122498.html
 
 
楽山の学習意欲の障害と慢心が表れています。楽山の迷惑日記です。
 

ヨブ記講演 内村鑑三
https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/56908_64142.html

 
一筋縄ではいかない記事です。信仰は、このような文章を読解しなければ成り立たないようなものではない、ということを強調しておきます。
 

第五講を読んだので、例のごとく、その内容をメモ。

 
一筋縄ではいかないし、決してメモで語れる文章ではないのですが、引用の講演を、楽山が、メモで済ましているところに、楽山の、きわめて安易な宗教への姿勢が表れています。
 
前から言っていることですが、楽山の、難しい読書もできるんだ根性からの自慢だけなのです。頭がいいですねと言われたいだけの楽山の根性が、とても浅ましいです。
 

・第6、7章の研究。
・14-30節。「友の頼みがたきを述べし言として頗る有名」「西洋の文学書にしばしば引用せらるる」。
・26節。「友人らはヨブの言語の表面の意味のみを見て」あれこれ言うばかりなので、言葉を戒めることにはなっても、「ヨブ自身を規正むることは少しも出来ない」。
・27節。ヨブは「三友のオルソドクシーの怖ろしさを説いた」。特定の考え方を絶対視し、それを人に押し付けたり、裁いたりする高慢さ、無慈悲さ、理不尽さを批判。

 
 (ヨブ記、口語訳)6:26
あなたがたは言葉を戒めうると思うのか。
望みの絶えた者の語ることは風のようなものだ。
 (ヨブ6:26、旧約聖書
 
 (ヨブ記、口語訳)6:29
どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。
さらに思いなおせ、
わたしの義は、なおわたしのうちにある。
 (ヨブ6:29、旧約聖書
 
ヨブは、神が顕れるときまで、自己正当化を続けるようです。
 
オルソドクシー:オーソドキシーのことでしょうか。楽山は説明をしない人です。専門家気取りが、ここにも表れています。
 
(ネットより)
オーソドキシー【orthodoxy】 の解説
《「オーソドクシー」とも》正統性。正統的信仰。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%89%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%BC/
 
本当に正当であるなら、絶対視してもいいでしょう。しかし、実際には、不完全な人間が、本当の神聖や絶対の信仰など、知ることはないのです。
 
ゆえに、信仰者は、真実を求めて、日々、聖書を読み、考え、暫定的な判断をして実行し、それを祈りにおいて告白し、求めるという成長の道を歩みます。修正可能な努力の道であります。
 
その道から、いちばん遠いのが、楽山です。
 
それこそ、「特定の考え方を絶対視し、それを人に押し付けたり、裁いたりする高慢さ、無慈悲さ、理不尽さを批判」しているつもりで、ただ、いたずらに、キリスト教とキリスト信仰を否定するような、自身の "特定の自己中の考え方" に合うことを絶対視して、いちゃもんをつけてきたのは、楽山その人であります。
 
その証拠は、楽山は、自らに向けられた批判を受け取ることなく、都合の良い本から、都合よく引用して、暗に、批判者を、カルト的な考え方として話を進めます。この婉曲的で、卑怯な文脈こそ、ボンヤリ言語という、楽山の詭弁の特徴です。
 
自己正当化のヨブを、自己正当化の楽山が、批判しているという矛盾です。自分を見ない者の特徴です。
 

・28節以下。「友は人にして神ではない。友に満全を望むことは出来ない。友より得る所には限りがある。故に友に過大の要求をなすべきではない」。
・ヨブは人に頼まず、神のみを唯一の真の友とするに至って平安を得た(42章)。

 
42章はヨブ記の最終章です。楽山は、神が顕れて語ったというストーリーを無視しています。反キリストの正体でしょう。この話の跳び方も、文章を読めず信仰の話を読む気が元々ないことの証拠となるでしょう。
 

・「人に満全を望みて後ち失望ししかして人を怨む、これわが国人の通弊である。この時失望のあまり信仰より堕つる者さえある。これ出発点において全く誤っていたためである」「人は頼むべからず、頼むべきは父なる神と子なるキリストのみである」「まず神に頼みてしかる後に人に頼む、その時に人は信頼するに足る者となる」。

 
人を、神のごとく信仰してはいけない、頼んではいけない、という当然のことです。楽山は、神に頼む気持ちを、ちりほども持っていないのに、こういうことを平気で書いて、惑わしてくるのです。
 
どこまで、悪意と作為によって、人を騙そうというのでしょう。サディストであり偽善者でありインテリ気取りの偽善者が、学ぶ姿勢を持たないまま、自己顕示欲に任せて、本を読んで聖書を語ると、こういう悲惨なメモしか出てこないという結果に過ぎません。
 

・「神の存在と罪なくして降る災禍とは、両立しがたき二現象であるが」、これは信仰を棄てれば解決は容易となる。しかしそれは人生の意味を失う結果となる。人生を重んじる限りにおいては、信仰の上にこの難問に向き合う必要がある。

 
難問に向き合うことは大切ですが、楽山のように、自らに向けられた批判を受け取ることなく、考えることも、発言することも、議論することも、相手を疲れさせるだけで、何もできないまま、悪意と詭弁に頼るような者は、ごまかしに走るしかないわけですから、甚だ迷惑な話です。それでも、平気で書いてくるところに、恐ろしいほどの性格の偏りと厚顔を感じます。
 

押し付けや裁き癖が激しい教条主義者の厄介さはよく分かる。恥ずかしながら自分にもその手の性向はある。人に過度な期待はせぬ方がよいというのも合点が行く。自分もそういう失敗を多くした。

 
ボンヤリ言語の、惑わし手段としての、反省を装う三文芝居の嘘であります。トホホ言語とでも呼ぶしかありません。
 
「人に過度な期待はせぬほうがよい」と言っている楽山ですが、間違ってもコメントなど入れないようにして下さい。決して関わらないでください。まさに微塵も「楽山に期待はせぬほうがよい」と言えます。総て自己顕示の見栄なのです。
 

「神の存在と罪失くして降る災禍」の問題については信仰を棄てれば解決は容易になるというのも分かる。ただ信仰を守り通した上でこの問題の解決をはかる必要があるというのには疑問がある。

 
こうやって、反信仰へと誘導してゆきます。中身の無いのが特徴です。楽山は、全く字面だけしか受け取っていません。受け取る心の器がなく、聖書を読んでも分からない人の有り様です。
 

自分は元々はいわゆる無宗教的な家庭で育ち、青年期になるまで宗教には全然というほど興味はなかった。それでも幸福に暮らしていた。そのせいか善く生きるためには宗教はどうしても必要なものだとまでは思えないのだ。人生の意味は信仰がある人はその信仰によって知るのだろうけれども、信仰がない人は信仰とは別のものによって知るのではなかろうか。これは人生について宗教教義によって意味付けするか、それ以外のもので意味付けするかという違いがあるだけであって、堕ちた、堕ちないという話とは別であるように思える。宗教側からすればそういう話になるのだろうが、そういう立場から離れてみるならその限りではないだろう。

 
楽山は、宗教側の立場と、宗教から離れた立場を、行き来できると言っています。これこそが、宗教について、何も受け取れない楽山を表しています。
 
人生の意味を「信仰とは別のものによって知る」と言うのなら、信仰については書かないことです、関わらないことです。
 
自己顕示欲で扱うだけの楽山は、どうやっても生きる意味が分かるとは思えないのが、実感であり、その確からしさを、次々に、自分で証明しているのが、楽山自身なのです。
 
宗教と信仰と言葉に向かう姿勢が、駄菓子屋で飴を選ぶような気やすさだということを、毎回、表してきます。これからも、恐らく、同じでしょう。固定した自己愛と、柔和な信仰が、全く噛み合わないことを、毎回、実感しています。
 

著者の人生に対する真摯さには胸がどきどきするほど感動するのだが、どうもこの辺りの話になると著者との距離を痛感させられる。著者は宗教的な人であって、自分はそうではないということなのだろうと思う。

 
ここで、内村鑑三に、世辞を言っています。褒める根拠を、何も提示していないのにです。いかに、策略的であるかが、分かると思います。楽山は、息をするように、平気で嘘を吐く人です。関わる全ての人を、刷り込みによる人格破壊や、疲労による消耗、という、不幸にする恐れがあります。
 

ところで、迂闊ながら、今になって気がついたのだが、「ヨブ記講演」は青空文庫に入ってた。ふりがながあると、字面がごちゃごちゃするけど、読めない字は我流に読んで済ましてしまう悪癖のある自分としてはすごく有り難い。 

 
字を読めても、文章を読めたことにはなりません。理解など、何もしていないのに、褒めたり、けなしたり、学者の真似をして、いい気持になりたいだけでしょう。方向性も、理路も、共感性も、まるで感じられない文章が続くことでしょう。誰も近づかないことを祈っています。
 
 
(2020年06月12日、同日一部修正)
 
 
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祈りとは

 
  祈りとは
 
 
祈りは
人から
神への
言葉による唯一の音信であります。
 
そこにのみ、言葉での
神に対する人の自発性が表れます。
 
出来事
思うこと
感じたこと
学んだこと
悔いていること
罪の告白
赦しと導きを乞うこと
 
信仰を固定してはいけません。
 
心の中が定まったからと思って
心の中をそのまま変えないことが
信仰だと勘違いしてはいけません。
 
定まって変わらないのは
神の御心であって
人の心ではないのです。
 
人が自分の心を変えないようにと思っても
人には心を不変に保つだけの強さはありません。
 
人の心を変えないようにすることは
人が自らを弁えず無理をすることであり
神が人を変えようとすることを
つまり成長させようとすることを
拒む行為であります。
 
信仰において
人が自らの分を超えて無理することは
かえって心を損なうだろう。
しかも、御心に背く行為なのです。
 
罪なら罪の
願いなら願いの
ありのままを正直に神に告白し
そのとき告白できなかったことは
気づいたときに改めて告白して
改めて神の導きを乞い
そして待つのが信仰です。
 
不安定になってはいけないと
いつも同じようなことを祈るのは
人が不完全であり罪の性質を持っていて
元々不安定であることを知らないからです。
 
人間ならば
日々、様々なことをして
様々なことを思うのであり
日々がまるで一緒ということはないはずです。
 
人の避けられない変化を
やみくもに変わってゆくことから
神の御心によって変わることが出来るように
神によって心が解放されるのが信仰です。
 
人が自分で保つかのように
心を変わらないようにすることは
導きを拒む姿勢と言えるでしょう。
 
赦しに加えて、癒しと、落ち着きと、安らぎ、という恵みは
信仰によって神から与えられるのであって
 
人が自分で癒えるように落ち着くように安らぐように
自分で心の姿勢や態度を固めようとするのは
神の導きを拒むことであり
信仰を自分で保てると慢心することなのです。
 
人は地上に生きているあいだ
頻繁に他者の影響を受け
さらに我執の誘惑に直面しています。
 
それは悪魔の誘惑に近く
つまり
人は悪魔性を内蔵しているということです。
 
偽善者は
まさに自らの悪魔性に動かされて
癒えることなく落ち着くことなく安らぐことなく
他者を下に見る分
いつも他者を気にして
神の御心から離れてゆきます。
 
要は努めるべきこととして
人として
神の前でだけは
何よりも正直を心掛けることだけが
信仰において唯一正しいと言える弁えであります。
 
"ねばならない"
ということは多くはないのです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10:42)
という教えは
信仰がシンプルであることを教えています。
 
神の前に、正しさをいくら述べても通用しないのです。
最も正しい御方が相手だからです。
 
神の前に、どれだけ愛を語っても通用しないのです。
最高の愛を持っている御方が相手だからです。
 
神の前に、正直以外は、通用しない。
 
このことは、私たちが、
余計な荷を下ろし、無くてはならないもののほうを選ぶためです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 (マタイ11:30、新約聖書
 
信仰は
他者に対しても
自分に対しても
脅迫でも強迫でもありません。
 
 
(2020年06月11日、同日一部修正)
 
脅し(おどし)
 
 
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現代の偽善者(再)

 
  現代の偽善者(再)
 
 
偽善は、悪が善の振りをすることです。
現代において大方の悪は善の振りをします。
善に見せかける悪、偽善は、最悪の悪と言えます。
 
二千年前の
キリストの時代の聖書の偽善者は

比較的わかりやすいと思います。
 
聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて
多くの人は、かなり、はっきりと分かるでしょう。
自分を高めて尊大で傲慢なパリサイ人と
神の前に正直であり
自らの罪を否定しようもなく
赦しを乞う以外になかった取税人は
明らかに違っています。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書

現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパス
そのような分かりやすさを持ちません。
 
現代の偽善者は
柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まります。
 
現代の偽善者は
誰でも、否定できず、大して抵抗もなく賛同するような
美辞麗句の話題と言葉を用意している。
そして讃美言葉で熱心な信仰者だと思わせてきます。
 
現代の偽善者が尊大で傲慢になるのは
良心があれば可能な洞察や情感、特に共感が必要な話においてであり
そういう話は、偽善者が最も苦手としているところです。
偽善者には罪悪感がなく、心の潤いと温もりがなく、
悲しみと思いやりの共感性がないからです。
 
宗教、政治、思想、などについて
いつも偽善者は、
自分が知的に上だということを示したつもりになります。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら
従うことがベストだということを刷り込み
気づかないうちに誘導し
結果として強いてくるのです。
 
まず彼らの言うことが、
総ての人に広まったら
人間が壊され、社会が壊されるほどに、
とんでもないことになると気づくことです。
 
彼らの言うことが
何よりも自己中心を土台としていること。
けっして罪や過ちを認めず
悔いることがないことに気づくこと。
 
彼らの言うことが
聞き手に対して常に
上から教える態度に終始していることに気づくこと。
 
彼らの言うこととが
世辞の感謝やお詫びという偽りであり
けっして微塵の反省も含まないと気づくこと。
 
これらに気づいたら一目散に逃げてください。
コメントしないでレスしないで無視して下さい。
けっして彼らの話に乗らないでください。
質問も確認もしないでください。
 
現代の偽善者は、
無駄だと承知の上で覚悟の批判者だけが疑い
消耗しながら批判する対象です。
 
彼らは
ナルシシスト
サイコパス
偽善者
聖書のパリサイ人の
現代文明による進化型なのです。
 
聖書の偽善者は教条主義権威主義でありました。
現代の偽善者は正義と優しさを装う詐欺的性質を持っています。
 
現代のクリスチャンは
相手の本性を確かめることなく
穏やかな話には乗りやすい傾向があります。
 
教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。
批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。
 
現代の偽善者は
そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
偽善者は、どんなに言葉が丁寧でも
キリスト信仰を、見下し舐めているのです。
 
現代のクリスチャンは
そのままでは
騙し言葉と言い方だけを仕込んできたような
現代の偽善者には敵(かな)いません。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でしたが、
それでも超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を
本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。
 
今の偽善者は、意図して騙すことで自己満足するために
反信仰と悪意を隠すことを覚えたサディストです。
 
批判禁忌を教えられた信仰者は、偽善カルトの格好の餌食なのです。
 
 
(2019年05月、同日一部修正)
 
(2020年06月10日、修正再録、さらに修正)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
 
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