ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

渇き、悲鳴、再録

一息入れます。ほぼ再録です。
 
 
  渇き
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12578530959.html
 
 
カラコロチリンと
グラスの中の氷が奏でるように
乾ききった手に雫を運んで
顔も見ないままに
私たちは狭い風穴を共にした
 
噛み合わないシナプス
血液の味を免疫に高めるのに
静止画の乾いた表面で
動画のピクセルを節約する拙筆が
支離を閉じようと短絡し
取り残された玩具の
ヒョレアの座標を集めては
籠る狂気の微睡む限界を超えようと
やたら草色や肉色を集めようとした
 
命の懐に絆を確かめようと
幾つもの唖然と沈黙を
塗っては乾かしてみるけれども
ほどよく設えた春の夜に
少なくともそう呼んだ時間に
スリットを抜ける光の誤差を
罅割れそうな器に
語らうように
魂の欠片をよそっていた
 
ここだけの反乱は抵抗にもなり得ないで
青白い光子の掠め去る暗闇に
ひとつひとつの屈折を
グラスの濡れた咽喉の非対称が描くものに
私たちは息を潜めるしかない
 
 
(2016年03月21日、同日一部修正)
(2020年02月29日、さらに一部修正)
 
奏でる(かなでる)
雫(しずく、滴)
風穴(かざあな、ふうけつ)
玩具(がんぐ、おもちゃ)
ヒョレア=舞踏病
籠る(こもる)
微睡む(まどろむ)
懐(ふところ)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
罅割れる(ひびわれる)
欠片(かけら)
掠める(かすめる)
咽喉(のど、いんこう)
潜める(ひそめる)
 
 
 
  悲鳴
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12536806142.html
 
 
いつからか
私の目の前には
いつも悲鳴が鳴り響いているようだ
 
それは通り過ぎるときに
刃物のように何かを
切り裂いてゆくようなのだが
紙のように何か
切り裂かれているようでもある
 
飛び散るものが音も声も
さらに引き裂いてゆくようで
 
耳を塞いでも聞こえてきて
眼を閉じても見えてくるのに
一度も正体を見せないのだ
 
私はそこに
自分の泣き顔を
置いてみたくなることがあったけれど
それは一度も
乗せてはくれない
 
とても冷たくて
なのに
血のように熱して
しぶきのように
閉塞の壁にぶち当たっては
そこから行方知れずなのだ
 
夕焼けだろうか
それは一度も
消息など告げてはいないのだったが
 
いつの日からか
曲線の
細くふるえて
声が声であることを否みながら
この世で最も激しく
沈黙のように打ち消しあって
 
私は耳を塞いで
首を激しく振りながら
なぜか大きく口を開けようとしている
 
 

    f:id:stdsts:20201107235619p:plain

                さけび
 
 
(2017年10月18日)
(2019年10月17日、一部修正)
(2020年11月08日、若干修正して再録)
 
 
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批判ツイッター

 
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 印象操作と陰謀
 2019-11-06 00:05:48
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12542683460.html
 楽山日記(a)より
 https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12542209925.html
 
 楽山日記を批判する私の記事から抜粋してツイッターに書き込んだもののコピペです。
 若干修正あり。
 
 
戸田聡
@st5402jp
·
3分
キリスト信仰も、キリスト教も、堕落して、カルト的になることはあり得ます。それは、神に対する節操としての、人間の不完全、すなわち、罪の性質を自覚するのではなく、逆に、信仰?ゆえに、自分は大丈夫だと確信してしまうところから生じてきます。
戸田聡
@st5402jp
·
4分
硬派カルトにも、軟派カルトにも、惑わされることのないように、祈っています。拝。
戸田聡
@st5402jp
·
5分
気軽に、友達、お気に入り仲間として、付き合って、言葉を交わしているうちに、知らず知らず、いつのまにか、頷(うなず)いてしまうようになってゆくのかもしれません。
どこかで、軽いぜ・・と、味を占めてきたのだろうか。
戸田聡
@st5402jp
·
6分
軟派カルトは、社会にとっての悲劇としてカルトのことを語り、自分とは異なるものという印象を重ねることが目的なのでしょう。ということは、このような印象操作が功を奏したことがあるのかもしれません。
戸田聡
@st5402jp
·
7分
軟派カルトは、カルトのマインドコントロールというものを、ホラー的に常識からズレたものであるとして、自らが行っている誘導、詭弁、ボンヤリ言語による刷り込み、印象操作を、それに比べさせて、大丈夫なものという暗示で、刷り込もうとしてきます。
戸田聡
@st5402jp
·
8分
軟派カルトは、間違って受け容れると、やさしい人柄だから、きっと、バランスのとれた話をしてくれるんですよ・・みたいな感想を持つかもしれませんが、その時が、既に、危険信号なのです。
戸田聡
@st5402jp
·
8分
軟派カルトは複数です。欠点のある人間同士、という共感による付き合いが、まるで成り立たないのです。宗教とは対極の自尊の固まりが寄り集まっているようなものです。
戸田聡
@st5402jp
·
9分
軟派カルトは、自分は中立な立場でいる人、自分はまともなことを言う人、ということに固まって、修正不能であり、結局、人の言うことを聞きません。
その心性のために、未熟なまま、大人になり、今も、神について同じ疑問を書いて、語ったつもりでいるようなお粗末な自己愛が支配する人格です。
戸田聡
@st5402jp
·
12分
みんなと同じ常識人であるかのように振る舞って、その奥底に、誰が何と言っても何も聞き入れない自尊の固まりによって暗躍している者がいます。
汚らしい軟派カルトの悪意の産物なのです。
戸田聡
@st5402jp
·
13分
教義の鵜呑みが、いちばん、カルトへの近道になります。それは、硬派カルトだけでなく、誤った未熟な宗教理解をする者によって、硬派カルト以外でも遠回しに教えられているかもしれません。そういうところからは、勇気をもって、きっぱり縁を切り、完全に離れることが必要です。
戸田聡
@st5402jp
·
14分
そのカルトは、基本は、宗教嫌いなのです。宗教嫌いが、カルトを広める、これは、宗教を舐めてかかっているゆえに最も陰険な恐怖の企みであります。
戸田聡
@st5402jp
·
14分
カルトの教義と言うべきところを、宗教の教義を学ぶことが、マインドコントロールされることだと言っています。殆ど、カルトと宗教を区別しないところも、宗教は、みんな、いっしょに、ひっくるめている、いい加減さが、滲み出ているのでしょう。そういうカルトがいます。
戸田聡
@st5402jp
·
16分
友だちのように親し気に近づいて、勉強しなくても分かります、分かるでしょ、みたいな、ねちねちした誘導の仕方も要注意~恐怖なのです。
カルトの特徴の目立つところだけを書いています。目立たないところに潜ませる誘導や印象操作や詭弁が、本当は怖いものだと知ってほしいです。
戸田聡
@st5402jp
·
17分
カルトの極端な主張です。誰もが、おかしいと感じることを書いて、自分はそんなことは言いませんよ、という暗示によって、自分は、カルトと対極にあり、カルトを分析しているかのような態度をアピールしてきます。
戸田聡
@st5402jp
·
18分
軟派カルトは「だなあ」「ていうか」といった若い人に共感があるかのような書き方や、以前の、いかにも、共に自分も考えています的な、共感ありげな「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」、「やっぱり正しいように思える」などという婉曲的な言い方も、企みの作為としてしてくるのです。
戸田聡
@st5402jp
·
19分
カルトが、誘導する目的を持っているなら、柔和そうな、パリピのような、楽しそうな、友達みたいな、物わかりのよさそうな、にこやかに近づいてくるキャラを装っても不思議はない。
まさに、薄っぺらに表面的に、そういうキャラで近づいてくる者がいます。
戸田聡
@st5402jp
·
21分
カルトはどこも一緒で、おかしいところがすぐ分かる、という印象操作をしている者がいます。
実際は、硬派カルトだけでなく、友だち関係を求めてくるような、やさしさを装う詐欺みたいな、軟派カルトというのもいます。
戸田聡
@st5402jp
·
22分
自分の親族を仏様の気持ちが分かないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいということを言って、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしている者がいます。無反省、無責任なので、警戒してください。
戸田聡
@st5402jp
·
24分
共感があるかのように見せかけた文章を書いて、自分は安心で大丈夫と、カルトとは無関係を装うのでしょう。"ですよね"的な賛同の受けねらいが意図のようです。そういう者に注意してください。お気楽な山の上に、ふんぞり返って、何も気にしていないような人です。気にする感性がないのかもしれません。
 
 

      f:id:stdsts:20201106235245p:plain

                    呟き
 
 
(2020年11月07日)
 
 
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楽山の言い訳ロック

 
  楽山の言い訳ロック
 
 ロックと幸福の科学
 2020年11月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26849212.html
 (一部省略、抜粋)
 
 
楽山の、身の程知らずと、見当違いが、表れています。一人前でない者が、一人前を気取ると、こうなるという見本でしょう。それにしても、楽山がロック好きというのが、殆ど信じられません。
 
むしろ、自分を褒める讃美歌でも作っているんじゃないかと思っています。いつも、自己正当化を、あざとく言うことが生業(なりわい)になっているからです。
 

*教義変更?
いつものようにツイッターで知ったのだが、最近、大川隆法はロックについて肯定的な話をしたようだ。

2020-11-03 (8)ロックについて
2020-11-03 (9)ロックについて
・霊能者の運命【月刊「幸福の科学」2020年11月号】 | 幸福の科学 HAPPY SCIENCE 公式サイト
 」
どうもこの言葉から想像すると、大川隆法は以前は、ロックに対して、不良、反抗、反社会的というイメージを持っていたため、地獄的なものだと考えていたが、この頃になってそれは偏見だと気付き、ロックにも良いものがあると言い出したという流れのようだ。

 
ロックという音楽と、宗教は、元々、直接の関係はないと思います。他の音楽のジャンルも同様でしょう。こういうことを論(あげつら)って、記事を書いて、何か、まともなことを言った気になる楽山が、おかしいと思います。
 

もしそうだとすると、むかしむかし、HS会員だったころに、「ロックは地獄的なものだ」という話を真に受けて、ロック好きでいることにうしろめたさを感じた自分は、本当にバカだったと思う。とほほ。

 
相変わらず、謙虚芝居をしています。「本当にバカだったと思う。とほほ。」などと言っても、楽山に、謙虚の実質は皆無です。
 
何故なら、今まで、謙虚芝居をしても、そのあと、また、同じように、平気で、高慢な丁寧語で書いてきていたからです。
 
まだ謙虚芝居が通用すると思っているから、呆れてしまいます。謙虚芝居を、トホホ言語と呼んでいます。楽山の嘘のバロメーターです。
 

*心の声
こうしてみると、やっぱり他人の言葉なんかはアテにせず、自分の心の声に従った方がよさそうだ。
ロックとは何かといえば、それは音楽ジャンルのことだけではなく、権力に屈せず、権威に盲従せず、己の心に忠実な生き様でもあろうし、自分はそういう生き方をしたいと思う。

 
楽山は、また、単純に決めつけていますが、ロックは「権力に屈せず、権威に盲従せず、己の心に忠実な生き様」でしょうか。ロックやる人は、そんなに高潔な偉い人なのでしょうか。乱暴な人は全然いないでしょうか。
 
音楽性の違いが主体ではないでしょうか。他の音楽は違うのでしょうか。とても、短絡した見方だと思います。小中学生のファンでも、こういう偏狭な限られた見方はしないと思います。
 
こういう楽山のような、のめり込んだ見方は、かえって迷惑ではないでしょうか。ふつう、楽しんで聴いているんだろうと思いますから。
 

*分かる人、分からない人
最後についでに書いておくと、大川隆法は、事の良し悪しを判断するのに、ビジネスとして成功したかどうか、支持者が多いかどうか、共産主義陣営と対立したかどうかなどを参考にしているようだが、自分から見たら、こういう判断方法はもっともロックから遠いものだ。

 
前に、シャロームは、仲間がいないことをもって、私をけなしてきました。前に、楽山は、私が、実名を出していることを、名を売ろうとしているという呆れた見なしをしてきました。いちばん、判断基準が身勝手な思い込みになっているのは、楽山のほうでしょう。
 

またロックは、自己のポリシー、美意識に忠実であることだから、他人から「わがまま」「自己中心」「エゴイスト」などと悪口を言われるようではダメだということにはならないものだ。場合によっては他からそういう評価をくだされることは、自己に忠実であることの証明ともなりえるし、喜ぶべきことでもあるのだ。

 
楽山は、なんだか、関係ないはずのロックの話題を借りて、自己正当化をしたいようです。しかし、とんでもないことです。
 
自己に忠実、というのと、自己中心、というのは、全然、違います。見境もなく、あらゆる詭弁を使ってくる楽山です。
 
このように、楽山は、似た言葉の区別がつかないので、見当違いのところから、自己正当化をして、文章では、間接的に、臭わせ、暗示してくるのです。楽山の文章を読むときには、格別の、慎重さと注意が必要です。
 

世の中にはロックが分かる人もいれば、分からない人もいるし、大川隆法はどちらかといえば後者だと思うけれども、ロックについて語るなら付焼き刃的な知識によるのでなく、もっと深く調べてからにしたらいいのにと思う。

 
楽山は、ロックを、深く調べたのでしょうか、深く味わったのでしょうか。楽山は、自分は付け焼刃的でないと言いたいのでしょうか。とんでもないことです。
 
音楽にまで、楽山は、おのれの皮相な辻褄合わせと短絡を当てはめたいのでしょうか。呆れます。付け焼刃は、思いこみが強く、その割に、軽薄なことしか言わない楽山その人であります。
 
付け焼刃的でないなら、見当違いの自己正当化に利用したりはしないでしょう。お粗末な話です。こういう偏狭な思い入れも、書いたら、自慢げに、平気で載せてくる楽山です。ストーカーになりやすい性格のような気がします。
 
 
楽山は、時々、発作のように、3つくらいの記事を、まとめて書いてきます。批判された記事を、ブログのトップから外したいのでしょうか。原始反応と呼んでいます。
 
子供のように、単純に反応して、書くことで安心するのでしょうか。分かりませんが、いくら書いてみても、その分だけ、こちらの批判記事が増えるという結果がついてきます。
 
無反省、無責任、無造作、放り投げるように、考察もなく、思い付きを書き連ねただけの記事に、誰も反応しないでほしいと思います。
 
楽山の記事を見ていると、どうも、楽山の顔は、恐らく、うすぼんやりしていて表情の乏しい、すすけた仮面のような冷たい顔貌ではないかと想像しています。
 
いつも、まともぶっていて、語り口だけがインテリ気取りですが、しかし、まず感動というものを体験しておらず、反応も鈍くて、口だけで、高慢な自覚だけが仰々しい筆致からの推測です。楽山の顔は、顔として成り立っているのでしょうか、それさえも、疑問に思えるほどです。
 
しばらく付き合えば分かります。楽山が、人をだます技(わざ)だけを持つ災い(わざわい)であること。しかし、そうなったときには、既に、心に、少なくない疲労と傷を負うことになるので、そこまでいかないように、誰も近づかないように、批判を続けています。
 
 

 
私は、生きてきた環境と状況と、私の性格によって、表情が乏しいようです。それは、何か言われても、何とか乗り切るためでもありました。意図したわけでもなく、反応が遅いと言うことが、私の特徴になっていました。
 
だから、私を侮辱した人たちは、私のことを、何を言っても口答えできない奴と舐めていたのでしょう。やすやすと、バカにしやすい人間になっていたのでしょう。
 
心の中は、地獄のように、煮えたぎっていることもありましたが、私は、信仰者として、別の価値観に生きることを、そのころ、考えていたのでした。私は、大抵のことには、興奮することはないような気がします。やや冷め過ぎ~冷え過ぎの傾向があるかもしれません。
 
「心は熱しているが、肉体が弱いのである」とは聖書の言葉(マタイによる福音書26:41)ですが、自分の弱さを認めて、私の熱は、感情的にではなく、神の前に、即ち、祈りにおいて、静かに、正直に捧げようと思っています。そういう意味で、私は、信仰の恩恵を受けています。
 
病気あるいは無視を続けることによる感情鈍麻と、感情の発散と昇華によるコントロールは、それが出来ているかどうかにかかわらず、全然、別物です。私は、後者を、目指したいのです。信仰については、理性的で、かつ、情熱的でありたいからです。
 
 
 
そこそこでもいいのだが
正直で武装しておけば
何を聞かれても
嘘を工夫する必要がない。
何を言われても
返す言葉も正直でよい。
なぜならそれが自分だから。
 
嘘吐きは
何か言うたびに
自覚が無くても疲労して
嘘が老化する。
 
慌て、焦り、悪意を呼び起こし、
嘘を吐いて笑っても、
そのあげくに疲れ果てる。
嘘吐きの宿命である。
 
その老化と疲労さえ気づかなくなって
いつでもいつまでも笑えるようになるのを
人格破壊と呼んでいます。
 
 

   f:id:stdsts:20201106001320j:plain

     見当違い
 
 
(2020年11月06日、同日一部修正)
 
 
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楽山のマルチ滅法

 
  楽山のマルチ滅法
 
 『日本奇僧伝』宮本啓一
 2020年11月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26846826.html
 
 
キリスト教を否定したり、仏教のことを言ったり、スピリチュアルを語ったりと、無駄に忙しい楽山です。しかし、一度も、独創的な説得力のある言説など、述べたことなどありません。それこそ、楽山という化け物は、無駄と嘘と詭弁と疲労であり、ただただ、末法を思わせるだけの、滅法の極みでしかありません。
 

*全体の印象
本書で紹介されているのは、役小角行基、陽勝、泰澄、行叡、教待、報恩、日蔵、蓮寂、玄賓、性空、叡実、行巡、増賀、仁賀、西行空也、教信、理満、千観、平等、桃水、東聖、徳一、行空などである。
全体を通読した印象では、前半は人を驚かせるような神通力に関する話が多く、後半は名利を捨てて仏道を求める生き方に関する話が多くなっている。紹介されている話は、どれもみな、にわかには信じ難く、また常人にはとても実行できないことばかりなのだが、それだからこそいろいろと考えさせられるものがあるともいえる。

 
楽山は、常人ではありません。常人未満であります。今までの根拠から、楽山は異常者です。だから、霊が分かるっぽい?主張の神通力に意味を感じるのでしょう。実行できないことばかりなのに、そこを、考えて?捏造してゆくのが、楽山の宗教観?なのでしょう。
 

*二つの話
ところで、著者は名僧の逸話以外にも興味深い話を二つほど書いている。まず一つは、戦後は歴史上の人物について史実に基づいて語ろうとするあまりに、現代人の視点からみて荒唐無稽に思える逸話は事実でないとして否定する傾向が強まっているが、たとえそのような逸話であっても、それが多くの人々に信じられ、大きな影響を与えて来たことは紛れもない事実に違いないという話である。

 
多くの人々に、信じられ、影響があることを、今さらのように、事実だと言っています。楽山の言うような辻褄合わせをする事実ではなく、宗教は、生きる寄る辺となりうる心の真実を語る分野です。生涯無反省、永遠無責任を生きている楽山に、何かを言える心など、見られたことがないのです。
 

もう一つは、「オウム真理教を根本的に批判することのできない仏教など、あるいは仏教学など、少なくとも「オウム以後」にあって、どれほどの存在意義があろうか」(p.253)という日本仏教界に対する厳しい問いである。

 
言説が偽りだらけで、何を言っても、何も語ったことにならない楽山には、何も言う資格はないのです。伝統宗教は、カルトの野蛮な攻撃に、正面から対応することを好まないわけです。
 
それで、楽山というカルト思想屋には、私のような、逸れ者のクリスチャンが対応するしかないのでしょう。楽山やシャロームのような、野蛮で危険な無反省無責任の偽善者には、一切の、おとなしい議論は不可能だからです。
 
言い換えると、いちばん、カルトに近いのは、楽山自身であって、他者ではないのです。自己顕示欲で書くことをやめない、書いても反省しない、最も邪悪なカルトの性質です。
 

*カルトと奇僧伝
自分はこの二つの意見はそれぞれ一理あるとは思うのだが、でもよく考えてみれば、オウムにしろ、幸福の科学にしろ、そういうカルト宗教の背景には、超能力信仰、霊能力信仰、グルイズムといったものがあり、さらにその根っ子には、本書で紹介されているような名僧が神通力を発揮したという逸話の影響があるのだろうし、そうであれば日本仏教がオウムを批判しようとするならば、まずは名僧の行ったという奇跡話の真偽を批判的に検証する必要があるということにもなり、この意味ではオウム批判の必要性を問いつつ、奇僧伝を著すというのはいささか矛盾しているということにもなるのではあるまいか。

 
霊が分かるっぽい?楽山は、即ち、霊能者気取りなど様々な気取りだけで、丁寧語で中庸に見せかけている、受けねらいだけの、卑怯卑劣な詭弁屋ですから、他者の超常の話を、とやかく言う資格は、さらに、ないのです。
 
直観の優れた人の話には、はっとさせられるところがあります。しかし、霊能者気取りの楽山は、実際は、ふつうの意味でインスピレーションとか、ひらめきとか言われる人間的直観と直感を、何も持ち合わせていない貧相な人です。だから、話が進まず、議論が成り立たない障害物です。
 
だから、書く文章は、当たり前の平凡なことで、今さら聞いても仕方ないことですし、そうでない場合は、反省しない妄想的に訂正不能な決めつけで、他者をおとしめてくるだけで、しかも、無責任ときてますから、何のヒントにも助けにも参考にもならないのです。
 
対話が成り立たない、こちらの言うことを聞いていないか、無視している、自分の言いたいことだけを勝手に言って満悦する、反省・訂正を一切しない、有名人の名前を引用・悪用して自分を高めようとする、無条件に根拠も理由もなく執拗に言い続ける、さらに、発言に責任を負わないということで、まさに、自分→他者、という単方向しか持っていない、どこにいても、迷惑な疲労物質でしかない存在なのです。
 

『日本奇僧伝』というタイトルにひかれて本書を手に取った自分が言うのも、これまた矛盾ではあるのだろうが、霊能力信仰やグルイズムをあおるような奇跡話の流布には注意が必要であるし、そういう話をするときはこれはあくまで逸話にすぎず、史実ではないということはいくら強調しても強調し過ぎということはないのだと思う。

 
楽山は「奇僧」という言葉が好きなのでしょうか。"自分は他の人とは違うんです、霊も超常も分かってるんです" とでも言いたいのでしょうか。楽山自身が奇僧だとでも言いたいのでしょうか。
 
とんでもない。楽山は、ただの嘘つきです。詭弁屋です。人に文句を言うことだけに熱心で、それは、ただ一途に、自分を偉く見せようとする自己顕示の無根拠の思い込みであります。
 
楽山の言の、どこをとっても、偏向し、執念深く、訂正不能で、自己中心で、悪意だけの産物であり、自分のあやまちを認めず、不都合を全部人のせいにして、人を悪者に仕立てることしか知らず、人間とさえ思えず、腐った心の、人間とは違う異物臭だけが鼻を突いてくるのです。
 
それが、ずっと続いていて、恐らく、一生涯に及ぶのでしょう。関われば疲労と人格破壊の害だけを与え続ける楽山に、決して近寄ってはいけません。
 
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(7)広報チャンネルの反応 
 2020年11月04日
 http://mn266z.blog.jp/archives/26862615.html
 
 
宗教を語る楽山の見方の欠陥と、映画という娯楽を語る楽山の見当外れ、ということになります。楽山は、他者のことをとやかく言うより、自分を見るべきですが、言っても無駄なのでしょう。
 

*バランス感覚
幸福の科学 広報チャンネル」で、「鬼滅の刃」についての動画が出ていたので見てみた。

・「鬼滅の刃」宗教から見た注意点【時事法談 第10回】 - YouTube
 」
お二人の宏洋批判は、宏洋氏を全否定するかのようなものが多いので、「鬼滅の刃」に対してもそんな風に全否定するんだろうと思っていたのだが、これは自分の見当違いだったようだ。コメント欄をみると、「御二人のバランスの良い評論に賛成です」と書いている方がおられるけれど、自分もそのように感じた。

 
この映画のように、ストーリーが鬼退治というフィクションである場合、批評というのは、そこに、どのような、人間に対する教訓が描かれているかということだろうと思います。ところが、楽山は、「バランスの良い評論に賛成」に、「自分もそのように感じた」と賛同しているだけです。
 
賛成、または、反対、と言うだけなら、誰でもできることでしょう。なぜ、中身を書かないのでしょう。記事を書くこと自体が、大事だったからでしょうか。書くには書くが、読む人のことは考えないということでしょうか。
 
それとも、「バランスの良い」ということだけを、言いたかったのでしょうか。楽山は、丁寧語で書いているから自分の記事はバランスがよいと思っているのでしょうか。楽山は、バランス以前の問題として、中身も根拠もない記事を書いてきたのですが。
 

お二人の述べていること…ある登場人物の生き様に共感した、不思議かつ神秘的な世界観に引きこまれた、絵がきれい、残酷描写が多いところは気にかかる…というのは、ごく自然な感想だろうし、これは自分にもよく分かる。

 
「生き様に共感した」「不思議かつ神秘的な世界観」「絵がきれい」「残酷描写が多いところは気にかかる」「よく分かる」・・・このような記事を書くことに、何か意義があるでしょうか。
 
趣味の話をしているのだから自由だと言いたいのでしょうか。趣味の話をするなら、宗教ををおとしめたり、持ち上げたり、クリスチャン芝居をしたりする必要はないはずです。
 
楽山が、あらゆる思想と宗教を、趣味と同様に考えていることが表れています。そういう偉そうなことをブログに書いている傲慢の自覚が楽山には無いようです。
 
楽山が、キリスト教批判記事を書いても、これは、趣味?だから、しかも、バランスが取れている?から、責任はないと言いたいのでしょうか。とんでもない話です。
 

また、インスピレーションの話や、鬼に波長同通しないように注意が必要だという話は、一般から見たら少々特殊な考え方かもしれないが、スピリチュアルな見方としては正論だろう。

 
この記事では、楽山が、HSをスピリチュアルと認めていることが表れています。楽山は、HS批判を書いていたのではなかったでしょうか。結局、HS批判も趣味だということでしょうか。
 

大川隆法の著書や、HS映画を紹介、宣伝しているところについては、広報チャンネルとしては絶対に外せぬことであろうし、宣伝過剰という自覚があるのか、お二人の様子には若干の照れがあらわれているところは微笑ましくもある。

 
HSを批判している途中で、HS映画を紹介し宣伝していることについて、微笑ましいと書いている楽山は、趣味的HS批判芝居をしていたことになるのでしょうか。その割には、キリスト教否定については、それこそ、楽山の宗教嫌いが、激しいのです。実に、傍迷惑な話です。
 

そんなわけで、ひさしぶりに広報チャンネルを見たけれど、改めてバランス感覚って大事だなと思った次第である。

 
このように、「改めてバランス感覚って大事」と言って、楽山は、自分が批判されていることを、バランスを欠いた批判だと言いたいのでしょうか。楽山批判は、前から言っているように、楽山の悪性度を考えて、言論の責任を負わない者には言論の自由はない、言論の資格はない、という全否定であります。
 
まだ、楽山は、分かっていないどころか、病質者らしく、真剣に受け取る気もなく、反省もない、という楽山の自己正当化なのでしょう。
 
バランスは、なかなか保てないものです。むしろ、揺れながら修正してゆくことが大事です。バランスは、静的な境地ではなく、むしろ、動的な活動なのです。
 
自己中が、バランスが取れていると感じるのは、自己中だからです。
 

*危うさ
ところで、伝え聞くところによると、HSでは赤鬼を善、黒鬼を悪としているようだが、もし本当にそんな主張をしているのであれば、これは大きな問題をはらんでいるのではないだろうか。霊査によってそのような結論を得たということなのかもしれないが、たとえそうであっても、肌の色と善悪を結び付けるのはいかがなものか。HSはもっと人権問題に敏感になった方がよいと思う。

 
宗教が、フィクションのアニメのお伽噺に口を出すこと自体が、お門違いなのですが、楽山は、鬼の肌の色を人種差別だと言っています。これはどうでしょう。
 

ちなみに、「皮膚の色と信仰の優劣」を関連付けた宗教思想ではこういうものがある。

・Ⅳ モルモン教と黒人問題-差別の思想とその根拠
 」
HSからすれば、赤鬼、黒鬼の話は、あくまで鬼のことであって、人のことではないというかもしれないが、ある程度の人権意識を持っている人であれば、そんな言い訳で納得する人はいなかろう。HSにはこの点について再考を促したい。

 
楽山は、鬼の色を、人種差別だと言い、モルモン教を引用してきました。
 
(ネットより)
神に忠実な霊魂は白人として生まれ、不忠実な霊魂は有色人種として生まれてくる。
http://garyo.or.tv/michi/sinjitu/sugao/086sabez.htm
 
楽山は、この強烈な人種差別発言と、「鬼滅の刃」の赤鬼と黒鬼の色の違いを、同一の差別と考えているようです。ちなみに、モルモン教は、キリスト教の教派ではなく、カルトだと思います。
 
娯楽のための映画と、宗教を、同列に並べてしまう楽山というのは、いったい、どういう教育を受け、どういう勉強をしてきたのでしょう。心が無いために、楽山の物の見方は狂っているのではないでしょうか。
 
こういう記事を、楽山が自分のブログに、悪者さがしのように載せて、自己の正当化を図ろうとするような、幼稚な短絡のまま正義の味方ぶることの身の程知らずと的外れが、とても気持ち悪いです。
 
だいたい、自分以外の人間を、人を人とも思わない否定をもって無視してきた楽山に、いかなる差別を語る資格もないと思います。
 
 

   f:id:stdsts:20201104234816p:plain

           めっぽう
 
 
(2020年11月05日、同日一部修正)
 
 
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楽山の外道

 
  楽山の外道
 
 『基督抹殺論』幸徳秋水
 2020年11月03日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26847088.html
 
 
楽山は、たとえるなら、耳無し放言、とでも言うべきでしょうか。聞かず、見ず、読まず、言いたいことだけは言ってくる。誰とも友人関係を築けない人だと思います。だから、だます以外ないのでしょう。不幸ですが、何よりも反省しない言論の繰り返しは、非常に、傍迷惑なのです。
 
楽山は、今回、幸徳秋水の本を読んだことにして、ほぼ肯定的に引用しています。
 
(ネットより)
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者無政府主義者である。
本名は、幸徳 傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E7%A7%8B%E6%B0%B4
幸徳事件(こうとくじけん)は、大逆事件の一つであり、明科事件を発端に明治天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や禁固刑判決を下した政治的弾圧事件である[1]。一般に「大逆事件」と言われる際は、この幸徳事件を指す。幸徳秋水事件ともいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
特に、幸徳秋水が無罪だったという話ではないので、暗殺を企てた人を肯定しているわけです。以前は、A級戦犯の右翼の過激な思想家を肯定し、今度は、逆方向を支持しているのでしょうか。
 
いずれも、テーマとなる人は、犯罪がらみの、武力行使を辞さない人です。それを肯定的に引用しているわけです。楽山の、今はまだ隠し持っている犯罪性が垣間見られるのではないかと思います。
 
タイトルにもあるように、今回の標的は、キリスト教です。しばらく、やさしさ芝居をして、陰を潜めていましたが、今回、正体である凶暴さを、批判されたあげくの開き直りのように表しています。
 

*まえおき
 岩波文庫の『基督抹殺論』は、随分前に一度通読したことはあるのだが、十字架は元々は男根の象徴だったという主張には度肝を抜かれたので今でも覚えてはいるものの、他の話はほとんど忘れてしまったので改めて読んでみることにした。
*主張
というわけで、本書の全体をざっと読んでみたところでは、著者の主張はおよそ次のようなものである。
エスの生涯について書かれた四つの福音書には、それぞれ違うことが書いてある、たとえばイエスの系譜について、マタイ(1.1-17)とルカ(3.23-38)では数十代にわたって記しているが、そのうち重なるのは数名に過ぎず、ヨセフの父からして違っている、このような書物は果たして正しいことが書いてあると信頼できるものであろうか?

 
何度も書いてきたことですが、楽山の言う宗教の正しさというのは、史実としての辻褄が合うかどうか、という表層を舐めるだけの薄弱さなのです。心が分からないために、宗教から何も受け取れないサイコパス的人格は、そういう皮のような汚い思考だけで、とんがっているしかないのです。
 
4つの福音書の記述が異なっているのは、ほぼ周知のことです。それで、「正しいことが書いてあると信頼できるものであろうか?」などと、疑問を呈し、否定してくるのは、100%の辻褄でないと認めないということ、これは、元々、否定しているから持ってしまうスタンスです。
 
即ち、前から言ってきましたが、楽山が、元々、反キリストでしかないこと、ゆえに、楽山が書いたことのある祈りに似せたクリスチャン芝居は、大嘘であることを、楽山自身が、またしても、自分で証明しているということです。
 
信仰は、辻褄が合うから信じるのではありません。また、辻褄が合わないことを信じ込むことでもありません。
 
心に響くものがあるから、心に残り、忘れられなくなり、好きになり、希望を託すようになるのです。そういう人間の心を、楽山は、全く理解できないゆえに宗教には全く感受性がないばかりか、自覚がないまま、くどくどと魅力のない文章で言いたがる凶暴な自己中の病質者なのです。
 

信条や正典を決する会議では「彼等の信條を決し、經典の眞假を議するや、直ちに罵詈讒謗爭闘の大醜態を演じ、皇帝は議場の整理の爲めに遂に武力を用ゆるの已む可らざるに至り」(p.32 昭和29年)という混乱の極みにあったというが、このような会議において正しい結論を導き出すことは可能であったのだろうか?

 
人間が、神聖を決定し確定するなどということは、元々不可能なのです。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在として聖書に描かれています。人間は、どの性質も持っていません。こういうことは何度も書いてきたのです。
 
しかし理解力のない楽山は、事実関係だけをもって、「正しい結論を導き出すことは可能であったのだろうか?」と、また、同じ疑問をむしかえし、かつ、平気で、人の意見を無視して、公共の場に滅裂な文章を載せてくるのです。無反省・無責任、無学習の、病質者、病的ナルシスト、サイコパスであると言ってよいでしょう。
 
楽山は、本当に、学習のできない人です。理解力が、決定的に不足しているからです。それは、自己愛性パーソナリティ障害で、自己を絶対としているからです。ブログでは、バランスのとれたインテリを気取っていますが、それに相応しい反省機能と修正機能を全く持っていないからです。
 

当時書き記されたものの中にイエスについて触れたものは一つも確認されていないが、福音書にあるような奇跡を起こした者について誰も何も書き残さなかったというのは不自然なことである、イエスについて書かれた文書が発見されたといっても、それは後の世で書きこまれたものだと判明しているし、時の権力者がイエスについて書かせないようにしたという推測は、イエス以外の救世主を名乗るものについて、いくらでも書き残されていることからすると説得力を持たない、はたしてイエスは実在したのであろうか?

 
今回は、人生の大切なことを受け取る上では特に問題にならない物や肉体への奇跡を、またしても、楽山は、否定することが宗教を否定することになるという訂正不能な因業を呈してきました。
 
人の話を受け取らないで、学習しないということは、このように、最悪の結果として、楽山のような頭がおかしくなってしまう人を作り出してしまうのです。人間の良きものを、本人が捨ててしまうと、このようになるという見本が、楽山です。
 

福音書には矛盾があり、イエスが実在した証拠はなくとも、キリスト教の道徳的価値については揺らがないという意見もあるが、記録によれば当時の人々はキリスト教徒は倫理的道徳的に問題があると考えていたのであり、これは外部の者に限らず、キリスト教内部でも議論になっていたことである、

 
このように、当時のキリスト教徒のことを、どういう根拠があるのか、何も根拠を示さないで、何も道理を通さないで、楽山は、道徳的に問題があるなどと言っています。
 
どのような集団や組織でも、内部の問題を抱えることはあります。しかし、楽山の書き方だと、キリスト教そのものに問題があるかのような書き方になっています。
 
そして、それを否定の根拠にしています。一部をもって全体を決めつける、という詭弁です。ここに、楽山の底知れない悪意があるのです。
 
いちばん見逃されているのは、それこそ、楽山の倫理的道徳的問題であって、これこそ、自分を見る眼を持たない楽山が、自分を棚に上げて、キリスト教をおとしめる姿なのです。だんだん、批判されて怒り興奮したのか、丁寧さの中に、凶暴さを隠さなくなってきた筆致だと思います。
 

禁欲も過ぎればその反動で余計に反社会的な行動に走ることもあるのだ、キリスト教以前にも倫理道徳は存在し、それに頼らなければ倫理的道徳的に生きられないということもあるまい云々。

 
楽山の宗教と信仰は、道徳でしかないということが、はっきりと分かります。大きな間違いですが、楽山は、妄想的に繰り返すでしょう。ゆえに、今後も、こういう楽山の言は、宗教と信仰を、一言も語ったことにはなりません。
 

著者はこのような主張を重ねた後、「基督敎徒が基督を以て史的人物となし、其傳記を以て史的事實となすは、迷妄なり、虚僞也。迷妄は進歩を礙げ、虚僞は世道を害す、斷して之を許す可らず。即ち彼れが假面を奪ひ、扮粧を剥ぎて、其實相實體を暴露し、之を世界歴史の上より抹殺し去ることを宣言す」(p.123)と結論している。

 
批判的引用でないので、楽山は、理解して同意しているという立場を装っています。分かっているなら、やさしい言葉で言い換えて解説するべきですが、怠慢で学習しない楽山は、しないし、できないのです。キリスト教を抹殺する言葉をあげて、悦楽に浸る楽山です。
 

*事実と信仰
巻末の解説によると、本書は、出版当時には相当評判となり、キリスト教側からは著者はキリスト教の基礎知識に欠けるだとか、独断に満ちているなどの反論があったというが、自分のような門外漢からすると、イエスが実在した証拠がないこと、四つの福音書には矛盾した記述があることなどからすると、これらは事実かどうかの問題ではなく、信じるか信じないかというは信仰問題であろうし、後者については各人が自分の心に問うて決めることであり、他人がとやかく言うことではないのだろうとは思う。

 
だったら、信仰者でもないのに、何を分かっていないのに、わざわざ書いてくるな、ということなのです。とやかく言っているのは、楽山その人であります。
 

信者からすれば信仰は事実であろうから、人それぞれの自由では済まされないことではあろうが、非信者にとってはそのように結論付ける他はないのだから仕方がない。

 
非信仰者の意見を決めつけるとは、なんて恣意的で凶暴なんでしょう。信仰は真実として受け取るべきものですが、楽山は、ここで、楽山がこだわるところの史実すなわち歴史上の事実と混同させるために、"事実" という言い方をしています。
 
上のほうでは「事実かどうかの問題ではなく」と書いておきながら、ここでは「信仰は事実」という書き方をしています。誰も納得させられない楽山の言論不全でしょう。今までも、ずっと、そうだったのです。しかも、責任は一切負わないのですから、病質としか言いようがないのです。
 
今回のは、今まで以上に露骨な決めつけによる否定で、挑発的威嚇的でもあり、恐怖と言ってもいいでしょう。何を言っても、受け取らず、反省も訂正もない、楽山は、異常者ぶりが、だんだん酷くなるようです。
 
言論は、責任感があって修正可能な人の自由と権利です。楽山は、一方的で、責任を負わないホラーですから、言論の自由はありません。なのに、とやかく言ってきて切りのない恐怖の楽山です。
 

信者とそれ以外とでは、何を事実とするかにおいて大きな隔たりがあり、これがために宗教に起因する揉め事は後を絶たないのだろうけれども、

 
また歴史の事実みたいに「事実」と言っています。刷り込みが、だんだん煽りのようになって、繰り返されている楽山です。決して真に受けないでください。決して近づかないでください。
 
>この問題は信仰と事実とを区別することができない限りは解決されることはないだろうし、
 
過去の、それも大昔の、歴史の事実つまり史実かどうかは、確定することはありません。信仰は、聖書が伝える人間の心についての記述が受け取る切っ掛けとなります。それが、分からない楽山は、凶暴なリピートクレーマーです。
 

次々に新しい宗教が生れ、いくつもの新しい信仰が発生している以上、この問題はますます混迷を深め、やっかいなものになっていく以外にはありそうもない。著者は基督を抹殺して議論を終了させたつもりではあろうが、なかなかそう簡単には決着はつくまいと思う。

 
これは、何なんでしょう。そして、この記事は何なんでしょう。問答無用の反キリストぶりを発揮して、さんざん、いちゃもん付けて、ボロクソに言っておきながら、最後に、高みから眺めて「決着はつくまい」で、第三者気取りの責任回避とか?・・真剣味が、まるでない。卑怯というのは、こういうやり方を言うのでしょう。
 
いちばん偉そうなことを言っているのは、楽山、即ち、いちばんの外道であります。
 
 
楽山は、言ってみれば、"不通" なのです。つまり、誰とも、心を通わせることが出来ない人だと思います。今まで書いてきたことや、楽山の態度など、見ていると、とても、友人になろうとは思わないし、楽山が、誰かの友人になれるとも思えないのです。
 
私にも、友人と呼べる人はいません。孤独と言ってよいでしょう。しかし、人の心は、書かれていることを見れば、不十分ながら、少しは伝わってくるものです。そのことが、ささやかな共感や興味につながることはあります。ブログを始めて、よかったと思える理由です。
 
だから、私は、自分を白々しく偽ってまで、人に受け入れられようなどとは思いません。
 
 

      f:id:stdsts:20201103235007p:plain

                 げどう
 
 
(2020年11月04日)
 
 
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楽山の自滅の刃

 
  楽山の自滅の刃
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(6)ザ・リバティWebの反応 
 2020年10月31日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26812652.html
 (一部省略)
 
 
何も求められていないのに、自己顕示欲だけで、正義の味方のつもりで、ここしばらくは、HS批判を書いている楽山です。恐らく、誰も認めていないのに、学者レベルで説教が出来ると思っているような筆致になっています。
 
いかなる記事を書いても、いかなるコメントを入れても、責任を負う気のないことが、既に、明らかになっている楽山の話など、本気ではないことが表れてくるだけす。どこまでも、策略で、文章をいじって乗り切るつもりのようですが、それを許してはいけないということだけが必然となるのです。
 
楽山は、断定はしていないから、責任問題は発生しない、などと書いて言い逃れしていますが、そんな勝手な屁理屈、公共の場で、楽山が成り立つと思っているなら、大人の世界を全く知らないということでしょう。
 
それに、断定よりも悪質な、印象操作や詭弁や嘘を使いまくって、刷り込もうとしてきたのですから、それが、今さら通るはずもないのです。
 
何の節操もなく書いて満悦し、あとは知らないよ、という無責任な楽山は、放置すれば、これからも変わらないで同じことを続けるのだから、どう考えても、見逃してはいけないと思います。
 

*リバティの見解
リバティを見たら、「鬼滅の刃」について次のように書いていた。

2020-10-31 (2)大切な精神は社会的不満を晴らす
・「鬼滅の刃」関連の鬼が出現 日本社会の底流に流れる価値観とは? | ザ・リバティWeb
 」
この部分に関しては、黒鬼の霊言の内容を紹介しているだけのようではあるけれども、記事全体としては、これこそが霊的真相であるという立場で書かれている。つまり、これはリバティ編集部の見解でもあるのだろう。
*信者への影響?
この記事を読んで思い出したのだが、これと似たことは、遠江秀年氏の動画のコメントにもあった。「鬼滅」はいじめられっ子の復讐を肯定する話だとか何とか。該当部分を貼ると、こんな感じ。

2020-10-31-06_40_36復讐肯定のストーリー2
・「鬼滅の刃」の黒鬼と、草津赤鬼の対決【大川隆法霊査】 - YouTube
 」
アニメを見ての感想は、人それぞれだろうから、どの感想が正しく、どの感想は間違っているとは言えないのだけども、さすがにこれには、いくら何でも…という気はする。

 
感想だから真偽は言えないようなことを書いていますが、神の存在を否定するような、いちゃもんを書いてきたことを忘れたのでしょうか。さらに、真偽を言わないのなら批判になりません。
 
「いくら何でも…」というのは、間違っている、というのが省略されているわけです。ぼかして書いて、真偽は言えないなどと言うのは、楽山においてだけ成り立つ、白々しい詭弁です。理路を弁えない嘘と偽善の言い逃れも、いい加減にしてほしいです。
 
真偽・正邪・理非を言うのが批判です。言わないのなら、書かないはずです。しかし、楽山は、「いくら何でも…」というボンヤリ言語で書いているわけです。楽山の、言わないが言います形式。
 

*作品全体のテーマ
思うに、「鬼滅の刃」では、改心前の鬼の考え方、反省を始めたときの鬼の独白、主人公の主張、鬼を憎む者たちの主張…等々、さまざまな考え方が提示されているので、作品全体のテーマはそれら全体を見極めたうえで考察するのが理想だろう。

 
「見極めたうえで」と、何も見極めが出来ない楽山が書いています。楽山は、アニメを、化け物の話としか受け取っておらず、そこに、人間の物語が表されていることにも気づかない様子であるのに、とやかく言ってくるのは、自分は特別で超常が分かるんだから、という虚無の自負なのでしょう。
 

でも、上にあるリバティなどの見解は、改心前の鬼の主張や、一部のキャラが口走ったようなこと、さらにはふと自分の心に浮かんだ思いなどを、作品全体のメッセージであるとしているようだし、これはあまりに一方的過ぎるのではなかろうか。

 
私が、楽山のことを、心が無い、人間性がない、と言ったものだから、今になって、心がどうこうと、言い訳めいたことを書いて、私の言ったことを否定したつもりのようです。しかし、前に言ったことを訂正したことはないのだから、一方的なのは、楽山で、また、白々しい嘘を吐いているのです。
 
楽山を否定するための例として、楽山は、以前から、キリスト教を、超常の魔術のような捉え方しか出来ておらず、人間として考えることが出来ないために、それをもって、神がいるならなぜ悪を放置するのか、などと、楽山が神を試しているかのような考え方で、信じてもいないのに文句を言って、つまり、人間がいくら考えても答えようのないことをわざわざ言って、神の存在を否定しています。未熟過ぎる楽山です。恐らく、宗教嫌いからの悪意の嫌がらせだと思います。
 
楽山は、人間が、人間として、例えば、苦難を乗り越えるために、死の恐怖に打ち勝つために、神を必要とするところから、聖書に出会い、信仰が始まる、という、人間の生き方を、まるで理解できないのです。
 

鬼滅の刃」の悪役、脇役の台詞や考え方をもって、作品全体のテーマとするのは、HSの悪魔の霊言をもって、HS全体の主張だとみなすのと同じくらい不当なことであろうし、もうちょっと公平な視点で考えてみてはどうかと思う。

 
どういう意味でしょう。「鬼滅の刃」は悪役ばかりではないはずですが、ゆえに、悪役だけではいけないと言ってるつもりなのでしょうか。楽山は、正義を語りたいのでしょうか。
 
だとすれば、他者の意見を全く無視している楽山は、全く公平ではないわけです。楽山自身が、楽山自身の発言によって、斬られています。
 

作品に対する感想は、人によって違うのはが当たり前であるし、どういう感想を持つのも自由ではあろうが、公開の場で発言するなら単なるヘイトにはならないようにしたいものである。

 
公開の場で発言するなら、自分が斬られないようにするべきですが、楽山は、そもそも、どう斬られても、それを無視する超常自己中の無視に生きているので、痛みも不都合も感じないのです。
 

*個人的な感想
ちなみに自分は、「鬼滅の刃」のアニメを見て、コミック5巻まで読んだだけであるが、優しさこそが最も大切であること、でも強くなければ大切な人を守れないこと、たとえどんな相手であっても偏見、決めつけはよくないことなどを強く思い知らされた次第である。

 
ここで、楽山の、言葉の字面だけ一生懸命いじってくる楽山の自己正当化の言い訳です。やさしさ、強さ、守る、そして、決めつけはよくない、と言っています。楽山は、これらを全部否定した立場で、嘘と詭弁で、ごまかしながら、放言と軽口ばかり言ってきたのです。ここでも、言い訳と正当化に必死な精神の詐欺師です。楽山の書いたものが、楽山を否定しているのです。
 
優しさは見かけの丁寧語だけの偽善であり、あっさりと書いて、分かったことにしたいのでしょう。実際には、今まで、暴力的な無視の力をふるい続けてきたことを訂正しないで書いているわけですから、むしろ凶暴であります。楽山には、真の強さなどなく、誰も守ることは出来ないと思います。
 
自分を守ることが、不都合を無視しまくるだけなのに、どうして楽山が、人を守れるでしょう。
 
そして、キリスト教について、上にも、前にも、書いたところの、極めて幼稚な決めつけをして、いちゃもんをつけてきたのです。それら多くの今までの嘘と詭弁を、何も改めないまま、無反省で無責任のまま、言葉だけ、いじって正当化をしてくる楽山は、根腐れとしか言いようがないです。
 
楽山の嘘と詭弁の結果は、楽山の生き方の破壊という結果を招いて、驚き呆れるほどの病質となって表れ、今、続いているという表れです。
 

作中では、怖ろしい外見をした鬼が出てくるし、斬首、惨殺、人喰い場面などもあるので、グロい、気持ち悪い、怖いという感想を持つ人がいるのは理解できるけれども、あれほど強調されている優しさの大切さについて、HS信者で語る人はほとんどおらず、悪口を言う人ばかりなのには本当に驚かされる。

 
楽山は、人間としての共感性が欠けているために、本当の優しさを知らないので、ごく単純に "優しさ" としか書けないのでしょう。
 
「あれほど強調されている」優しさを、楽山は知らないからこそ、人の意見を無視するという、人間離れ技が出来るのでしょう。また、正義の味方を気取っています。
 
そして、キリスト教に対して、こちらが何を言っても、徹底した無理解によって、悪口が減らず口になっていったのです。何を言っても無駄な人なので、楽山を相手にしてはいけません。私は、読者に向けて、楽山に関わる人が出てこないように、批判記事を書いているだけです。
 
さらに、楽山の減らず口は、本や、アニメや、マンガや、映画や、思想などにも及んでいて、身の程を知らず、状況を弁えず、自分の好みと都合だけで、曲解しながら、フンフンと鼻でも鳴らすようなノリで、書き続けて、いかに無反省が人格破壊を来たすかという症例のようになっている有り様です。
 

HSに批判的な自分がこんなことを書くと、「アンチが『鬼滅の刃』を擁護している。これはつまり、アンチと『鬼滅の刃』の背後には、同じものが潜んでいるということだ。アンチは『鬼滅の刃』に波長同通している」と言う信者が出てきそうではあるが、自分は、不当に貶められているものがあれば、それを弁護しないではいられない性質なので、言うべきことは言っておきたいと思う。

 
楽山が自分のことを「弁護しないではいられない性質」などと言っています。露骨な開き直りです。いくら正義の味方を気取っても、いくら善人を気取っても、いくら自慢しても、楽山の人格そのものが、気取りだけであることは、既に、約1年半の経過で明らかなのです。
 
「自分は、不当に貶められているものがあれば、それを弁護しないではいられない性質」・・・楽山は、今、ここで、このような、恐ろしい嘘を吐きました。
 
後悔の情がなく、反省せず、責任を負わず、ゆえに、自分が不当に、人と公共を、貶めていることに気づかず、そこを改めようとしない楽山のような者は、他者を弁護する資格はないのです。
 
最小限の自分の言論の責任さえも自覚できない楽山には、言論の自由も許されるべきではなく、大人に成り損なった者として、直ちに退散するべきなのです。
 
しかし、約1年半の批判にもかかわらず、楽山は、恐るべき厚かましさのみをもって、批判を無視し、詭弁と虚言の勝手な言い張りを続けていますから、こちらとしても、逐一、批判を当ててゆくしかないというのが現状です。
 
何度も書いてきたことですが、楽山の信頼度は、ゼロです。
 
どんなに、自分が、つまらない人間で、そのために堕落しても、楽山のようにだけはなりたくないし、また、誰にも、なってほしくないと強く思います。
 
 

   f:id:stdsts:20201102235302j:plain

                             凶暴
 
 
※ 
告白:
 私は、少なくとも、自分の惨(みじめ)めさを認めています。それを、祈りにおいて、告白もしています。私が、私の体質や性格ゆえに惨めになり、ときに、他者の心無い発言ゆえに惨めになったことを認めています。私は、なお、私の罪の総てを知りえないけれど、惨めさには、私の罪や失敗も含まれていることを知っています。
 ですから、私は、強がる実質としての能力もないけれど、強がる必要も感じていません。ましてや、自分を飾ったり、嘘を吐いたりして高く見せかける必要など、罪深いだけで、何の価値もないことを知っています。
 信仰において、知るということは、そのような、人間の、何よりも、自分の罪と不完全についてであって、決して、神を知っているから高くなるとか言ったことではありません。
 神の前に、人間が見せられること、そして、人間が見せるべきこというのは、神に対する正直さであって、決して、自分の信仰の厚さや熱さではないのです。ここは、楽山やシャロームが、180度、勘違いしているところです。
 
感慨:
 人間の思慮というのは、人間としての経験と共感によるものであって、超常にこだわることとは何の関係もありません。
 超常のことを語るのは、想像、空想、願望、そして、せいぜい仮説に過ぎません。聖書の話も、受け取って益となることは、神そしてキリストと、登場する人間のかかわりに表れています。聖書の超常の奇跡は、その史実性を含めて人間の手に負えることではないのです。
 超常のフィクションを見るとき、娯楽以上に大切なことは、登場する人物の人間性が表れているところです。人間離れしたところに、人間にとって娯楽以上に大切なものは、表れてきません。趣味として楽しむならよいけれど、そこに、こだわれば、こだわるほど、楽山やシャロームのように、自己中心の空想~妄想家になってゆくだけなのです。
 
 
(2020年11月03日、同日一部修正)
 
 
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楽山の指導者気取り

 
  楽山の指導者気取り
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(4)信者の反応 2
 2020年10月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26779753.html
 
 
楽山は、驚いたことに、また、アニメ「鬼滅の刃」を「幸福の科学」に事寄せて記事を書き、結局、自分を、学者レベルに見せかけ、指導者か助言者であるかのように物を言っています。
 
楽山は、責任ある意見も、持たず、言えず、また、責任を取らず、それでも、訂正不能に書いてくる、という、自己顕示欲だけの猛者か亡者に過ぎません。
 
楽山は、やはり、カルトの指導者になりたいのでしょう。そういう、導き、教えようとする発言が目立っています。やはり、恐ろしい我執と欲望と野望が根底にあるのだろうと推察します。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害の病質者であり、無反省で無責任な、一方的な発言だけをする人ですから、誰かを導く資格も、誰かに教える資格も、全くないと思います。
 
楽山に対しては、関わらないことだけを心掛けるべきだと思います。
 
楽山は、ひょっとしたら、仲間もいなくて、成りすましのキャラだけで、インテリ芝居をしているだけの孤独な人で、その孤独を、分かち合う共感性がないために、言い張りを続けて、自分を高く見せかけようとしているだけなのかもしれません。
 

*いつものパターン
ところで、HSは今回も、いつものパターンで動いているようだ。大川隆法が霊言をし、それによって教団も、信者もいっせいに右向け右をするという流れ。

 
楽山が、楽山のパターンで、信者を動かすようになったら、人格破壊から反社会の災いに至るでしょう。それでも、楽山は、責任を取らないでしょう。つまり、そうなったら、おしまいということです。
 

HSでは、アニメに限らず、宗教、政治、経済、思想、歴史、文学、芸能、人物評価など…なにごとに関しても、それ自体ではなく、その霊的真相によって判断することが大切であり、

 
楽山は「霊的真相によって判断」することが出来るような能力は一切ないと思います。霊が分かるっぽい?という妄想的自覚で、言い放って逃げるだけの、ネズミのような貧相な習性の持ち主です。
 
だいたい「霊的真相」などという言葉は、中身が超常ですから、楽山のような超常や心霊好きのオタク的な人たちの用語に過ぎないと思います。そこに、根拠のある理路がないからです。それを、人間の生き方に関わる宗教に持ってくる楽山は異常で、人間の心の深みが分からないだけだと思います。
 

その霊的真相は大川隆法(霊言を含む)でなければ分からないことになっているから、どうしたってそのような流れになってしまうのだろう。信者は、信仰熱心であればあるほど、大川隆法(霊言を含む)の語る霊的真相に従う以外の選択肢はなくなるのだ。

 
楽山は、HSの霊言を否定しても、自らの霊が分かるっぽいことを否定できないために、能力をはるかに超えた欲望によって慢心して、身の程知らずの忠告や批判などをしてしまうのですが、その責任を一度も負うたことのない人です。評論家気取りの詐欺的ナルシストだと判断しています。
 

こういうことは、傍から見たら実にばかばかしいことではあるけれども、信者にとっては大川隆法(霊言を含む)の語る霊的真相こそが真実であり、もっとも重要であるのだから仕方がない。

 
批判しておきながら「仕方がない」 で済ませる、という、主張の理路の表現が、一貫性を欠いて、散乱を見せている楽山です。このように、楽山は、心からの主張など持っておらず、遊び半分であり、いい加減であり、無責任なのです。
 

ドーキンスの話では、信仰上の理由から創造論に疑問を抱くことに耐えられず生物学者への道を断念した人物もいたそうだけども、HS信者のなかにも、大川隆法(霊言を含む)の語る霊的真相のために、好きなことを好きと言えなくなったり、自分の夢を断念したり、才能を自ら捨てざるを得ない状況に追い込まれている人がいたとしたら、本当に残念なことである。

 
(ネットより)
クリントンリチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である[1]。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。
熱烈な無神論者、反宗教主義者、懐疑主義者、ダーウィニストとして知られ、世俗的ヒューマニズムブライト運動、科学的合理主義の推進者でもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9
 
楽山は、前に無神論者のドーキンスを利用した記事を書いており、私は、批判しています。
「執拗な引用とペテン」などです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12574030430.html
その批判に、何も答えず、反論できず、弁明できないのに、また、学者の名をあげて、自分を評論家レベルに見せかけようとしています。これが、学者や有名人をあげて利用しまくる楽山、という、軽率な卑怯者の所業なのです。
 
霊が分かるっぽい?楽山を信用して、知性と感性の鈍化を来たし、夢も現実も損なって、「才能を自ら捨てざるを得ない状況に追い込まれ」ることのないようにしてください。楽山こそが、総ての言論において、害毒なのです。
 

お節介かもしれないが、もし、このようなHSのパターンにハマってしまい、葛藤を抱えている信者氏がいるとしたら、「大川隆法(霊言を含む)の語る霊的真相なるものは、確定的なものではなく、変更される可能性があるのは周知の事実であるし、それに比べて自己の内なる声は決して変わることはないと確信できるのなら、後者を優先するのが当然だ」ということは言ってあげたいと思う。

 
いかなる真相や真実についても、楽山は、ボンヤリ言語という曖昧な言い方で思想家に見せかけ、時に、さらに、トホホ言語という謙譲芝居で同情をひこうとしてくる精神の詐欺師です。
 
楽山は、キリスト教を、そして、信仰を、曖昧に否定して、別のときには、曖昧に肯定して、その責任を負わず、かつ、反省しないために改めることもない、という、ただならぬ病質の卑怯者です。
 
楽山の内なる声は、オモチャのような使命感を持たせるので、いつのまにか、指導者のように語るようになったのでしょうが、これで訂正不能で不変ですから、迷惑以外の何ものでもありません。
 
楽山のように、大人としての、理路も共感も分別も持てず、反省せず、責任を負わず、人を無視して、平気で、言い張ってくるような、しかも、それで、自己満悦するような、誰からも求められていないのに「言ってあげたい」などと言うような、みじめな人間にだけはならないでください。
 
 
  楽山の"零"的直観
 
 幸福の科学(HS)で、よくあるパターン(ケチのつけ方、持ち上げ方)
 2020年10月31日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26812951.html
 (一部省略)
 
楽山は、自らを売り込みたいらしく、説教をしています。10月31日、楽山は3つも記事を書いています。下等な理屈で、かっこつけても、程度の低さが表れてしまうというのに。
 

*ひさしぶりのリバティ
今回、ひさしぶりに、リバティの記事を見たのだが、いかにもHS的なやり方で、「鬼滅の刃」を批判していたので、それについて書いてみたい。
*よくあるパターン
まず、幸福の科学(HS)では、誰かを批判しようとするときは、次の三つを論点にすることが多い。
本心…その人は、本心では邪悪なことを考えているとする。
憑依…その人の背後には、悪魔、悪霊など邪悪な存在がいるとする。
過去世…その人は、過去世でも邪悪だったとする。
このことを念頭において、リバティの記事を読めば、「鬼滅の刃」には邪悪な意図がある、その背後には鬼がいる、その過去はこういうものだというように、上のパターンをそのまま活用していることが分かると思う。

・「鬼滅の刃」関連の鬼が出現 日本社会の底流に流れる価値観とは? | ザ・リバティWeb
 」
この三点については現実的な証拠はなく、信じるか、信じないかでしかないのではあるが、それでも信者には十分に影響力を行使できるので、HSではこのやり方を続けているのだろう。

 
楽山に、他人を批判する資格はありません。楽山は、批判され、断罪され、言論の世界から追放されるべき存在です。楽山の存在意義は、悪と偽善の見本でしかありません。
 

*ヨイショの場合
ついでに書くと、HSで、誰かをヨイショする場合は、上とは反対のことをする。
本心…その人の心は、善意で満たされているとする。
憑依…その人は、悪魔悪霊には憑依されておらず、天使に見守られ、指導を受けているとする。
過去世…その人は、過去世でも善良で、立派な人物だったとする。
これも上と同様に、確たる証拠は何もなく、信じるか、信じないかという話でしかないのだが、信者は確たる証拠がなくても、大川隆法の言葉(霊言を含む)は何でも信じるからそれでいいのだ。
*霊的な直観を磨く方法
こういう指摘は、熱心な信者にとっては、バカバカしいことであり、不快な話でもあるかもしれないが、ある程度、ものごとを冷静に観察することができる信者の場合は、HSに対しても、その他のことに対しても、こういう風によくあるパターンを探してみてはいかがだろう。これは物事の本質を見抜く霊的な直観を養い、鍛えることに通ずるし、試してみて損はないと思う。

 
教えたがり屋の楽山が、霊的な直観と言っています。自分にはあるという前提でしょうが、まずもって、楽山にはいちばん大事な良心がありません。楽山は、不都合を総て無視するので、経験や刺激に反応して、自らの問題を考え、解決する方向に考えてゆくことが出来ません。そのせいで、全く反省と学習による成長が見られません。
 
この記事も、超常カルト楽山の勝手な用語として使うらしい、本心、憑依、過去世、などと分類している体を装っていますが、中身は、悪意と善意以外、霊も過去世も想像に過ぎません。よくあるパターンとは、楽山の鈍く空想した内界でのパターンに過ぎません。
 
それ以外は、今までも、小学校レベルの当たり前の道徳みたいなことを仰々しく言ってきたのです。そして、それを、少しも守っていないのが、楽山その人です。しかも、その内実としているのが、「霊的な直観」 です。
 
「霊的」という言葉を付けるのは、楽山やカルトなど、知ってるんだ・・と自己満悦したい者の特徴です。いかに胡散臭いか分かると思います。
 
今までのことから、楽山が自己顕示したいのは、感性的直観ではなく、心霊的な超常の超能力のことなのです。そして、楽山には、必要なことを何も感じない鈍麻と無視の性質はありますが、何かを感じ取る性質は、皆無であります。詐欺的カルトの言説であり、信ずるに値しません。
 
楽山の言うとおりにして、磨かれるというより刷り込まれるのは、嘘と詭弁と三文芝居の、だましの技術だけです。その時には、人間の大事な良心は崩壊している段階になっています。
 
 

     f:id:stdsts:20201101235821p:plain

        闇を病む者
 
 
(2020年11月02日、同日一部修正)
 
 
※ 近況:
ダイヤル番号を忘れてしまって郵便受けが開かない。私も認知症へ進行中か。母の老健施設の入所費の請求書が来ているので、明日、管理人か管理会社に聞いてみるつもりです。
私の母は、2012年、腰を痛めて入院したのがきっかけで、認知症が明らかになり、介護施設、肺炎と尿路感染で、また入院を繰り返し、今は、一時的に、老健施設に入っています。
10月に面会に行きました。一階ホールの一画を衝立と壁で囲まれ、母と私の間も透明な樹脂の衝立で仕切られたテーブルに向かい合って、しばらく話をしました。
母は、記憶がかなり欠損していて、それを補う無意識の作り話のような妄想を交えて語ります。だから、話の中の時間とか人物の様子などが不正確になります。
面会の終わりの方で、母が、面と向かっている私を、上の息子つまり兄と思っていたと言ったのが哀しいことでしたが、五感の衰えと、認知症からなので、そういうもんだと思うことにしています。
 
 
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