ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アレッどういうことだろう

 
  アレッどういうことだろう
 
   イエスさまの真逆の命令
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28922326.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
余計なものを持たず、これしかない、という信仰と、騙りたがり、広めたがる、シャロームのような信仰?との差が表れています。シャロームは、気づかないまま、また、引用記事に斬られています。
 
 
「  (引用記事の引用はじめ)
エスさまの真逆の命令(2016.2.15)
 
マルコ福音書1章で「重い皮膚病患者」が癒されます。5章では「重い精神の障がい者」が癒されます。イエスさまは、重い皮膚病を癒したあと「だれにも言うな」と厳命されます。ところが、精神の障がいに苦しんだ人には「家に帰り、主が、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせよ」と言われます。正反対の真逆の命令です。どうしてでしょう。
 
重い皮膚病のかたは、癒されるまでは信仰一筋でした。しかし、癒されたとたん不信仰になったからです。43節の「厳しく注意し」は、「馬が後ろ足で立ち上がるさま」です。イエスさまは彼の不信仰をよほど危ういと、いきり立たたれたのです。重い皮膚病のかたは、主にひざまずいて願い、それが聴かれて癒されました。その喜びを人々に伝えて何が悪いのでしょう。ところがイエスさまは、癒されたあと、その人が何を見つめるかを問題にされました。
 
彼は、自分のかじかんだ両手がひらくのを感じました。弱かった足もしっかりしたのです。「うわあ~治った!」と自分を見つめます。「彼は(「だれにも言うな」の厳命にそむき)大いにこの(自分が治った)出来事を人々に言い広め始め」ます(45節)。おかげで「病気癒しのイエス」の評判が立ち、かんじんの福音伝道がさまたげられました。
 
いっぽうの重い精神の障がいに苦しんだかたは、「汚れた霊、出てゆけ!」というイエスの叫びに衝撃を受け、頭のてっぺんから足の先まで、す~と全身が治まってゆくさまをからだに感じました。ここまでは、重い皮膚病患者と同じです。
 
そのあと彼の目はイエスに注がれました。ガリラヤへ向かうイエス一行の舟に、彼は「いっしょに行きたい」と願うのです。自分の病気が癒されたことより、イエスご自身を見つめ、イエスと共にいることを喜びとしているのです。
 
信仰深いかたでも不信仰になることがあるのです。自分や子どもが癒されるように熱心に祈るときは信仰一筋でしたのに、癒されたとたん、癒されたことを喜んで、癒しの本源のイエス・キリストを見ないとき、それは起こります。心すべきことにこそ。
 
「そこで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、
町の外の人のいない所におられた」(マルコ1・45)
 
  (引用記事の引用終わり) 」
 
 
>shirasagikaraの日記より引用
 
シャロームは、URLを書かないのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20160215
からです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
1:40
ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
1:41-42
エスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった。
1:43-44
エスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。
1:45
しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
 (マルコ1:40-45、新約聖書
 
※ らい病と書いてありますが、引用記事にあるように、重い皮膚病患者、ということです。訳が古いのかもしれません。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
5:13
エスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。 5:14
豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
5:15-17
そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
5:18-19
エスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。
5:20
そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。
 (マルコ5:13-20、新約聖書
 
>重い皮膚病のかたは、癒されるまでは信仰一筋でした
 
このことは「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」という言い方に、表れているようです。
 
前者の皮膚病を癒やされた人は、祭司に見せて、汚名れから解放されるはずでしたが、盛んに語り、言い広めたので、キリストが町へ入ることの障害になってしまいました。引用記事の「信仰深いかたでも不信仰になることがある」というのは、そのことでしょうか。しかし、それは、本当の信仰の深さだったのかと疑問にも思います。
 
丁寧な言い方と、盛んに語りたがるところ、信仰の本末転倒、などは、シャロームに似ています
 
一方で、後者、悪霊を追い払ってもらった人は、恐らく、自慢できるような何ものも持っておらず、余計なプライドがなく、人からも見捨てられて貧しく、何より心が貧しく、何の希望もないところから救われたために、お伴をしたい、と申し出たのでしょう
 
これしかない、この御方しかいない、という、信仰は、強い、ということです。
 
>《shalomのコメント》

聖書は神の言葉です。イエスさまも神の言葉です。
人の言葉と違うのは裏表がないことです。
でも人の言葉で書かれています。
ですから、聖書にはよく読んでいると
あるところにかかれている言葉を否定するような
反対のような真逆の言葉があることに気づかされます。
私たちはアレッどういうことだろう戸惑いますが、
それは私たちが神の言葉を人の言葉によって解釈したりして
固定的し、神の言葉を宗教や人の言葉化しないためです。

 
上で、マルコによる福音書についての記事を引用しておいて、その聖句について、シャロームは、何も触れていません。これこそ、シャロームについて、「アレッどういうことだろう」と思います。
 
シャロームは、罪を悔い改めることを、自分がしたくないために、神が与えると言いました。このように、聖書の神を、自分の言葉によって、自分の都合の良いように曲げて解釈することは、詭弁ですし、シャロームは、さらに訂正不能に、固定化し、言葉化して、何度も言ってきたのです。
 
今回、シャロームは、人に向けたはずの自分の言葉によって、斬られています
 
>神の言葉の宗教化を防ぎ、信仰によって受け容れるためです。
 
シャロームの言う、宗教、および、ここでの、宗教化、という言葉は、要注意です。なぜなら、シャロームは、シャロームが語ることが信仰で、それ以外の解釈は、キリスト教であっても宗教と言い、そして、シャロームは、信仰は宗教ではないと言ってきたからです
 
このように、宗教と信仰を相反するもののように言うのは、シャロームが、キリスト教を信じておらず、自説の、罪を悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいという説~妄想を信じて訂正不能としているからにほかなりません。どう考えても成り立たないことを固定化して言い張っているのは、シャロームにほかなりません
 
このシャロームの説~妄想は、キリスト教という宗教でもなければ、キリスト信仰という信仰でもありません。シャロームという偽善者が個人として吹聴してきた妄想に過ぎません。
 
総ての人が、シャロームが言うように信じたら、どうなるか、ということを考えれば、誰でも勝手なことをして悔いる必要なし、ということになり、めちゃくちゃであることは明らかであり、そのような解釈?をシャロームが言っていることがとんでもないのですが、「アレッどういうことだろう」と思うほど、シャロームにだけは分からないのです。
 

エスさまが公生涯の初めと終わりに神の宮である
エルサレムの神殿の宮清めをされ、また十字架に
ご自分の命をささげられたのは宗教化され、汚れている
神の宮である私たちのからだを清め、神の宮、
聖霊の宮としてきよめ、回復するためなのです。

 
前に、シャロームは、神殿荒らしと言っていましたが、のちに、宮清めと言っています
これもシャロームについて「アレッどういうことだろう」ということになります。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
2:13
さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスエルサレムに上られた。
2:14
そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、
2:15
なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、
2:16はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。
 (ヨハネ書2:13-16、新約聖書
 
キリストが、神殿の商人を追い出したのは、神の家を商売の家としていたからです
 

3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
(新約・第一コリント人への手紙3章16~18節)

 
ここを引用しながら、ここで記事が終わっています。(2019年03月13日15:48現在)
 
18節の、欺いてはならない、という戒めがいちばん当てはまるのは、嘘偽りで自分に都合の良い解釈を言い張ってきたのは、シャロームだからです。さらに、自分がこの世の知者だと思う人、これに、いちばん当てはまるのも、ボロクソ節で、社会と政治と歴史を、幼稚で一方的なボロクソ節で、けなしていたシャロームだからであり、インテリぶって、いろんなことに、のぼせ上がったように、軽口で、得々と、成り立たない解説を入れて傍迷惑なのも、シャロームだからです。
 
 
この御方しかいない、と言う信仰は強い。
 
 語りたがり、広めたがり、自尊だけ高い信仰は、福音伝道の障害である

 
「アレッどういうことだろう」というのは、シャロームだけであり、シャロームとは関係ないところで、信仰の話が進んでゆくということです。少なくとも福音伝道の邪魔だけはしてほしくないものです。
 
シャロームは、どんなに批判されても、反論も弁明も返すことは出来ないのに、相変わらず、同じ傾向の自己中心思想を持つ楽山のブログのコメント欄で、自説をぶって、満悦しているようです。二人の発言量と内容に注目してください。シャロームにとって、ボロクソ節による自己満悦の格好の場所になっています。
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/38803307.html
 
 
私のこの記事:
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12446599334.html
https://stdsts.hatenablog.com/entry/2019/03/14/002457
https://st5402jp.blog.fc2.com/blog-entry-2952.html
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/20123899.html 
 
 
(2019年03月14日アップ、同日一部修正)