ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神は死んだか

 
  神は死んだか
 
 
先ずウィキから引用
 
神は死んだ
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズム虚無主義)を表す言葉として広く引用される言葉である。ニーチェによれば、神・霊・魂といった虚構によって、栄養・健康・住居といった人生の重大事が軽んじられてきた[1]。神が死んだ(そして神を冒涜することも出来なくなった)からには、最大の問題は地上やからだを冒涜することである[2]。地上的・身体的な人間は「超人」である[2]。一方で、超地上的・超自然的な事柄や魂といったものは、不健康な嘘とされる[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0
 
私、この解説を分かってはいないと思います。
地上や体を冒涜、とか、超人とか、
そういうこと、分からないし、あんまり考えたくありません。
 
>神・霊・魂といった虚構
 
存在の証明は出来ないということです。
 
>栄養・健康・住居といった人生の重大事が軽んじられてきた
 
これらを軽んじるのは間違いだと思います。
これら以上に重要なことが、時として、あるということでしょう。
 
>超地上的・超自然的な事柄や魂といったものは、不健康な嘘とされる
 
これらを、人が決めつけるのは間違いだと思います。
信仰は超常ではなく、現実において受け取れるところがあり、それが重要だと思っています。
 
 
私は、哲学書とか、だけでなく、読書障害の傾向があるので、大学入ってから、ずいぶん苦悩もありましたが、今でも、読書は、殆どしていないと言ってよいでしょう。だからブログが好き、とも言えるかもしれません。私は、読書家なんかにはなれない、1ページなら、程よい長さなら、読める・・というところです。
 
 
前に書いたことですが、
「客観的に言えば神はいないかもしれない」
このことはキリスト者言ってはいけないことではありません。
と書きました。
 
しかし、私は、神を信じて、キリストを信じて、その信仰が間違っていたとしても、今まで生きてきました。信仰がなければ、生きていなかったかもしれない、と思うことがあります。
 
神が、いるか、いないか、という議論は、果てしないものです。信仰について、禁句があってはいけないと思いますが、信じる者にとって、いなければ生きてゆけない、というのが真実です。
 
個人的には、神を信じて、キリストを信じて、祈っていたからこそ、私は、今も生きているのです。これは個人的に、真実なのです。この場合、真実というのは、それがなかったら、生きていないよ、という次元で語られることです。神は、いるか、いないか、という問題は、結論は出ないし、あまり意味がありません。
 
ニーチェが、神は死んだ、と言ったことが、どういう意味なのか、そのレベルで、私は分からないのですが、では、私は、私が生きた時間を否定できるだろうか、・・できないでしょう。
 
ですから、私は、神によって見守られている、という信仰で生きてきたのです。だから、私にとって、神は死んだ、神はいない、というのは、成り立ちようがない。それは、思慮によって、無理はない、と言えるけれど、だから、違います!神はいます!と、神は死んだということを頑固に否定はしないけど、私は次のように言う他はないのです。
 
それでも、私は神を信じたから生きている・・と。
 
この地上は、人を失望~絶望させそうなことがいっぱいあります。見せかけの希望で溢れているとも言えるかもしれません。神などいなくても生きて行ける、と言う人がいるのなら、たぶん、いっぱいいるのでしょうけれど、他者の生き方として否定はしないわけです。
 
それで、信仰者の、神はいないかもしれないけど、いないと生きてゆけないから、というような発言を、私が是とするのは、というより、非としないのは、何よりも、神はいる!と、言い張る信仰者に、その人の強い思い込みがあるような気がしてならないからです。
 
聖書の奇跡だらけの神、自分を高めてくれる神、絵のような姿と顔を持っている神、人間みたいな神、殆ど怖いだけの全能神、逆に、やさしいだけの慈愛の神、聖霊がいつ来たとか今ともにいるとか、これらの神は、本当の神でしょうか。私たち信仰者が、知っているつもりになるとき、言い張るとき、神は限りなく気味の悪いものになって、本当の神は限りなく遠くなるような気がしてなりません。この場合、まさに、人の心において、神は死んでいます。それは、すなわち、信仰が死んでいるということです。
 
こういう気味の悪いことは、超常世界の信じ込み、という、人間の身の程知らずの背伸び現象として、信仰者ゆえの傲慢によって、血も涙もなく、人間から離れてゆく、そして人間を超えるものになりたがる欲望となります。
 
これこそが、心の中の偶像であり、この偶像は、訂正不能に、妄想化し、肥大化し、誇大化するものとして、批判してきたような気がします。まさに、ここにおいて、人の心において、神は死んでいます。
 
 
私は、神を知りません。しかし、キリストの慈しみ、同伴の永遠性、孤独からの解放、という自分に起こったことは知っています。神は知らないが、神を信じることで自分に起こってくることは、自分にとって必要不可欠のものなのです。それが、心理現象と言われても、必要なものは必要なものなのです。同じことは、神はいないと信じることからは生まれてこないからです。
 
私は、神を知りません。しかし、神が何を喜び、神が何を嫌うかについては、勉強することは出来ます。つまり、神の前には、正直でなければならず、嘘や飾りは一切通用しないことくらいは、聖書から学んでおり、これからも、死ぬまで、学んでゆくからです。
 
神の民としての人間の立場、キリストによって救われる人間の立場、それを守ることは、道徳ではなく、戒律ではなく、行為義認ではなく、決して完全でも勧善でもなく、人間としての身の程を知り、その身の程に合うところの、温もりと潤いを賜ることに他ならないのです。余計な理屈は要らず、これだけで、教えは心になり、心は命となり、人は人間になると思っています。
 
 
(2019年04月09日アップ)