ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

私は笑っていない

 
  私は笑ってはいない
 
   「宏洋の真相シリーズ」を見た (1) 信仰について
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41558585.html
   楽山のブログ記事の一部です。
 
 
楽山の、成りすまし疑惑を強めるところのシャロームとの類似点と
宗教について平気で詭弁を語るという飽くなき悪意が表れています。
 
>*人の信仰を嘲笑ってはいけない<
 
HSをネタに、楽山は、他者の信仰を、それが有害かどうかも、考えずに、笑ってはいけない、などと弁護しています。恐らくシャロームや、楽山が、キリスト者でもないのに、書いていた薄っぺらな宗教の話を、私が批判したことに当てつけているのでしょうか。
「寒気」https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12489898459.html
私は笑ってなどいません。
むしろ、あまりに無思慮で白々しい記事に憤って批判記事を書いたのです。
 

ところで、動画を見ていて思ったことだけども、HSの方々が、宏洋氏の信仰心を見下し、嘲笑っているのは残念だった。
信仰熱心な人を嘲笑するのはよくないように、信仰心の弱い人を見下し、嘲笑するのもよくないことだろうし、できる人が、できない人を見下し、嘲笑するという状況は、神様は決して良しとすることはないだろう。

 
楽山は、シャロームのことを、熱心な信仰と言ったことがあります。
 
文面はHSのことを書いていますが、楽山は、気軽にキリスト教の記事を書くくらい、宗教に対しては、いい加減な考えしか持っていません。そういう人が、信仰熱心な人を嘲笑するのはよくない、と言っています。
 
前に書いたと思いますが、楽山のようなボンヤリ言語によって、いい加減なことしか言えない者に対しては、全否定で臨むしかありません。書いていることが、いちいち、嫌がらせになり、詭弁になり、印象操作になるような、そういう言葉の使い方しかしない人です。
 

ところで話は飛ぶようだけども、人生の価値は、その長短で決まるものではないという意見はよく聞くところである。これはその通りであって、人生は長ければよいというものではないし、短ければダメというものではないだろう。そうであれば、信仰もこれと同様に、長ければよいというものではなかろうし、短ければダメというわけではないのではあるまいか。

 
シャロームの信仰の長さは知りませんが、この8年を思うに、訂正不能と不感不応の有害な信条を豪語し続けるのは、それだけ、思い込みが強く、妄想的であることを表しており、人の言うことを聞かず、その有害性を考えてもみず、物事の分別の付かない人であると判断するしかありません。
 
長かろうが短かろうが、自己中心の体質によって神を決めつけているだけであり、キリスト信仰に真っ向から反することで、信じ込むことが増えれば増えるほど有害であるが考えてみても分かるなら、それを理解せず聞こうともしないで宣伝を続けるシャロームを見過ごすなど出来ないのです。
 
そのシャロームの味方をして、楽山自身も、気に入らないことは無視する、というアドラー教を記事にしていることから、成りすましを疑いながら、批判してゆくしかないのです。
 

人には個性があり、神様はその個性に応じた役割を与え、御導きになるのだろう。そうであれば、神様が、みなに一律に同じような信仰心を持たなければならぬという義務を課すことはありえず、その人の個性によって信仰心の強弱、長短があったとしても、それは必ずしも否定したり、非難したりすべきことではないような気がしないでもない。むしろ神様はそのためにこそおられると言えなくもないではなかろうか。

 
また、楽山は、愚かなことを言っています。作為でしょう。
 
人それぞれ、というのは、神が個人に与える導きの中の使命とか役割のことであって、それを支える信仰そのものが、正反対などということはあってはなりません。楽山の詭弁ですが、同じことを、もう何年も前にシャロームは言っているのです。
 
楽山が、そのことを承知で書いているとすれば、意地悪く笑っているのはどちらでしょう。
やはり、楽山は、困らせて嘲笑うサディストである可能性が強くなります。
どうか、楽山の話を、やさしそうだからと、真に受けることのないように、祈っています。
楽山の、やさしさは、すべて、真っ赤な嘘だと思います。
 
この楽山の記事は、シャロームが、信仰は人それぞれ、と言ったことを、私が、キリストはただ一人の御方と言って、批判していることに当てつけたいようです。それに、シャロームと楽山の自己中心の信条は、どちらも社会にとって人間にとって有害な自己中心の極みであります。
 

思うに、結局のところは、その人の信仰が義であるかどうかを判断できるのは神様だけなのだから、人が他人の信仰について、あれこれ批判したり、裁いたりしてみても詮無いことである。人にできるのは、他人の信仰を批評することではなくて、自分の信仰を深める努力をし、神様に祈ることだけではあるまいか。

 
ここで、善悪の判断をするなと言っています。その根拠に判断できるのは神だけ、という、恐れを知らぬ悪用ぶりで語ります。正確に判断できないから、人は努力して考え、判断して、その結果を神に捧げるという信仰が成り立つのです。楽山の発言は、思考停止の勧めです。けっして受け取ってはいけません。楽山は、大嘘の詭弁家、神を少しも恐れない偽善者です。
 

もっともこれはあくまで私の信仰観にすぎず、HSの方々がこれに従わなければならぬということはないのは言うまでもないことではあるが、どうも宏洋氏の信仰を嘲笑っているように感じられたところが気になり、あれこれ書いてみた次第である。

 
偽善者の詭弁で、宗教について、あれこれ書くのはやめるべきです。
 

もしかしたら、HSの方々が宏洋氏の信仰心を見下し、嘲笑っているというのは当方の早とちり、勘違いであるかもしれないが、その場合はこの項に書いたことは的外れということであるし、どうかご容赦願いたい。失礼。

 
これだけ書いて、責任逃れの、・・かもしれない・・ご容赦・・ボンヤリ言語を逃げ道に使えると思っているのでしょうか。
 
楽山は、まるで、真剣味など、皆無であることを受け取りました。
ここでの、楽山は尊大に笑っており、他者をいつも馬鹿にしているナルシシストです。
 
そこが、荒らしの易坊にそっくりで、楽山、シャロームとともに
私は、3者の成りすましを疑っています。
 
シャロームと同様、とても卑しい根性の男(たち)です。
陰では人を嘲笑っている者(たち)です。
丁寧語を操り、取り入って相手に弱みを見せないための
言ってることは本質を外し、快感を求めるだけの
その笑いは・・テヘヘ・・だと感じます。
 
キリスト信仰と宗教の件で、私は笑ってはいない
 
 
思い出した旧作2題、再録:
  
  
   茶柱
  
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 (1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
哀しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
悲しい歌が今も好きです
 
 (2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
(2019年07月05日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html