ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

安易な信仰

 
  安易な信仰
 
 
偽善者は、基本的に、受け入れられるために、先ず、挨拶や社交の世辞や丁寧語を使う。
 
それを真に受ける人は、いい言葉は、いい意味に受け取りましょう、というような小学校の道徳レベルの単純さで受け取って、いい気持になり、善い交流を持ったつもりになる。
 
恐らく、学校でも、子どもの時から、そういう教育を受けてきたのだろう。そして、教会も、良いことばかりを強調することが信仰に相応しいと勧めてきたのだろう。教える側としては、そういう教え方が、楽で、負担が少ないからだ。
 
その善い事尽くしの教え方は、信仰を、めでたいだけのものにしてしまう。世の中には、悪も偽善も溢れているのに、その教え方は、世の凌ぎ方を教えていない負の遺産として、時代から時代へと、悪い時代が来て通用しなくなるまで、軟弱で感傷的なキリスト者を生んでゆく。
 
めでたくて、ありがたいことを強調するキリスト信仰?は、聖書から受け取るべき人間の厳しさも深みも教えないまま、神の名に親しみ、悔い改めよりも、感謝と讃美を重く見る傾向となり、構造的にカルトと大して変わらない体質を持ってしまう。暗い話や、悲しい話が、禁忌とされて控えられてゆく空気を作ってゆく。
 
そのような教育を受けた者は、そのようであることを褒められて育つので、実感もなく、感謝と讃美が信仰であるかのように思い、さらに他者に教えて盛んになり、悲しみと苦しみへの耐性が弱くなり、偽善者やカルト的伝道者の餌食となりやすくなる。
 
そして、とてもそれだけでは、使い物にならないような幼稚な道徳が、大人になっても大事にされてゆく。例えば、人それぞれ、押しつけはいけない、などであり、そういうことを盛んに言う人に限って、人それぞれと押し付けの深い意味を知ろうとしない。
 
信仰においては、信仰が人それぞれでは、カルトがいっぱいできて勝手に振る舞うようになるだけだということを知るべきである。押しつけはいけないからと、どんな考え方も、人は人それぞれと、受け入れてしまえば、好きなように勝手な解釈や信条が生まれ、カルトを喜ばせる素地をキリスト者が作ってゆくことになる。
 
そうして、キリスト教外のカルトだけでなく、キリスト教の中からカルト的信仰が生まれ、全体として、キリスト者は、幼稚で騙されやすい者たちとして、カルトの垂涎の的となってゆく。現時点で、その傾向を、特にネットでは、福音伝道や倫理的な教えの話において感じることは珍しくない。
 
悲しみのときには悲しみについて考えることが大切なのに、キリスト者はそんなことは言わないほうがいい、という空気になっており、いつも喜んで、いつも感謝して、いつも讃美しましょう、という姿勢となれば、カルトの盲従集団と、どこが違うだろうか。この問いに対して、常備されている答え?として、私たちの神は真実だからです、と言うならば、いかなる狂信であっても、真実?になるだろう。
 
やさしい言葉だけの安易で甘い信仰を教えられると、それを受け取ったキリスト信仰者の思慮は、一般の人よりも、ときに、驚くほど、呆れるほど、拙劣となる。神の言葉があるからと、考えなくなるからだ。より深い思考があることを弁えなくなるからだ。そこが、カルト的信仰の入り込むのに絶好の狙い目であり、キリスト教の脆弱なセキュリティホールとなってしまうだろう。
 
聖書の言葉を誤解~曲解して、悪い言葉を使ってはいけない → 批判禁忌、神様は愛であり優しいお方 → 戒める神と懲らしめる神を忘れる、幼児のように → 文句を言わずに盲目的に従う、などといった、それこそ悪魔が組織的に動いているのではないかと思われるような、とんでもないことが染み込んでいるような有り様を見ることがある。そういうパリピ的 → お祭り騒ぎ的な時代ということもあろうが、恐らく、指導者の質の低下も一つの原因なのかもしれない。
 
そこに、偽善者が、誰よりも気安い信条を持ってきて、やさしい声で、信仰は難しくないですよと、そして、ついには、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいんだよ、というようなことを言い、それに対して、キリスト者が許容してしまうような、看過するべきではない悪しき成り行きが起こっているようだ。こういう腐敗は、群れをつくるかもしれない。
 
 
戒める神と懲らしめる神を、聖書から学んでいない信仰?は、信仰ではない。
 
指導者に物を言えなくなる盲従信仰?は、信仰ではない。
 
さかんに讃美をしても、悔い改めを疎かにする信仰?は、信仰ではない。
 
自分が何をやっても救ってくれるような神を信じている信仰?は、信仰ではない。
 
 
神は、人がどんなことをしても救うのではなく、ただ、人が、神に対する低い立場という節操を持っているかどうかだけを見ておられる。
 
何故なら、正しそうに見える、親切そうに見える、やさしそうに見える、という、人の判断の基準?は、人の主観だけに頼ってなされているので、信仰全体に当てはめるには、正しくはなく、親切ではなく、やさしくもないからだ。それは、人の罪深い不完全として、聖書を通して、しっかり教えられていなければならないことである。
 
つまり、人の感じる正しさ、親切、やさしさなど、という評価は、到底、神の深く鋭い裁きに比べれば、0点の答案用紙と同じくらい拙劣で幼稚であり、人は、神とは比べようもないくらい、気づかないまま間違っているからである。
 
それら、人の感じることや、考えることは、その言葉の意味よりも、人の願望や欲望や機嫌に近いと言ってもよいくらいだ。
 
つまり、神を信じると言いながら、神の意志と行為を、人自らの安く浅い道徳心で、確信しているという惨状を目にすることが、決して珍しくないからである。このような、通念的に、キリスト者らしいと言われることは、先ず、何の価値もないと知るべきである。
 
では、私たちは、人の厳格な基準を作って正しさなどを決めるべきだろうか。否である。
そうではない。信仰の本質として、私たちは、信仰の正しさ、正しい気持ち、正しい態度、正しい姿勢について、自分の価値観という当てにならない基準で判断していることを自覚するべきである。それこそが、信仰が必要な理由だからだ。
 
その自覚に立つならば、人間が、神に捧げるに相応しい正しさを求めることは無謀であり、そこに神の御心が与える信仰の義があるのではない、ということが分かるだろう。神は、人間に出来ないし、無理してしようとすれば偽善にしかならないことを、人に要求することはないと考えるべきだ。私たちキリスト信仰者が信じている神は、無理をさせる神ではない。
 
つまり、信仰者に、神が求めておられるのは、正しさではない。ゆえに、私たち信仰者は、私たちの頭と心の、いかなる基準による判断も、とても神に捧げられるものではないことを知るべきである。ゆえに、いちばん大事なことは、自分の判断を、決して固定せず、修正可能としておくことこそが必須なのである。
 
つまり、いちばん大事なこととして、神は、私たち信仰者に、決して神のごとく誤りのない正しさを求めているのではないということだ。それは罪深い私たちには無理なのだという実感だけが、むしろ、信仰を求め、かつ支えるのである。
 
その罪深さの実感を持つ者は、まずい言動をしたときに、罪を犯したときに、祈りにおいて、正直な祈りを捧げるだろう。背教と言われるのを避けようとして、思わず、都合の悪いことを祈りから除外したり、話を作ったり、言い方を和らげたりして、ごまかすことがある。しかし、神の前で、偽ることこそが背教なのである。つまり、私たちは、しばしば背教を犯している。
 
その祈りの不備は、欠片ほどの敬虔によって、へりくだることが出来れば、そののち、改めて告白することによって、神の寛容に救われる。これが、神の寛容である。最初からペテンの根性で嘘を吐く者は、心を改めることがないゆえに、寛容な主なる神の救いを拒み続けるのである。
 
神は何をやっても赦す御方でないことは、聖書から明らかである。では赦しを与えられない者は見捨てられるのだろうか、否である。最後まで赦されない者というのは、最後まで悔い改めない者たちである。
 
救いを受けている信仰者の芝居をして、実は、何も悔い改めることがなく、人の前に尊大で、出来る人をアピールし続ける者は、自らの罠に堕ちてゆくだろう。そして、一生を、背教の見栄を張りながら生きて、福音の代わりに、反キリストの醜い姿を表し続けるだろう。
 
ゆえに、私たち信仰者は、正しさを求めるのではなく、ただ、できるだけの判断をして、できるだけのことを実行して、神の前に、祈りにおいて、精いっぱい正直な告白をすることだけが求められているのであり、言い換えれば、故意に嘘を吐かないことだけが求められているのである。
 
神の前に、正直であることが、信仰であり、
人の正しさなどは、信仰の結果であり、不完全であり、信仰の条件にも前提にも成りえない。
 
人にキリスト信仰の話をするときに、やたら、神、キリスト、聖霊、という名を使う者は、疑ってみることが必要である。偽善者やカルトは、いつも、神聖の名を持ち出して、豪語するからだ。
 
私たちが、信仰の話をするときには、人間の立場を強く意識して、自らの気持ちや経験から語るべきである。
 
神が、キリストが、聖霊が、さらに、聖書と教理からの、十字架の贖罪によって救われる、などという話ばかりするのは、多くの人にとってピンと来ないだろうから。また、それが、話すことが見つからないときに、熱心だと思わせるための、偽善者や反キリストやカルトの常套手段だからである。
 
 

 
修正可能であっても、修正に値するような材料が、長きにわたって表れない場合、最初の判断が持続することになり、それは、一見、決めつけているように見えることがあります。
 
私が訂正不能と批判しているのは、間違いであるという批判に対して、何の弁明も反論も出来ないのに、カルトまたは妄想によって、信じているというよりは囚われているために、全く反省も訂正もしようとしない異常な確信に対して言っていることです。
 
 
(2019年07月10日)
 
 
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