ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

削除魔

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  削除魔
 
 
シャロームと楽山、この二人は、削除魔である。
前にも書いたが、ブログは私有物ではない。公共の場であり、ブロガーは、管理の多くを任されているだけの立場である。それを、私物化して、自分の家だと勘違いしている者がいる。
一応、まとめとして、書いてみます。
 
 
(楽山)
私はブログは自分の家だと考えていますが、いろんな人がいますので、出入りは承認制にしたり、人によっては出入り禁止にします。お断りしているのに、出入りしようとすれば締め出したり、送り付けられるものは送り返したり、時には処分しますね。
自分の家、部屋と他者の家、部屋の違い、区別がつかない人にはそうした方がいいのではないでしょうか。
自分の家や部屋に他の人がヅカヅカと入ってくることに平気な人はいないでしょう。
夏ですが、しっかり戸締りはしたいものですね。
 
(私)
ヅカヅカ入ってくるのは、真実の追求のために議論が必要なコメント欄があるからです。それを嫌うのは、元々、人の言うことなど、聞く気のない者たちだからでしょう。
(私)
サーバーという他者の持ち物である家を、自分で戸締りすると言っています。それは管理ではなく、恣意による乗っ取りの立てこもり犯に近いでしょう。一国一城の主(あるじ)でもないのに、自分の趣味?で、相手を選んで、どうやって、人間が共有できる真実に近づけるというのでしょう。
(私)
こういうのは、公共物を、自分の要塞か城のように考えて、私物化することです。家主を超えて、自分勝手な王様になったつもりなのでしょう。「夏ですが、しっかり戸締り」などと、挨拶のような気やすい言い方をして、責任を全く感じていない様子です。
(私)
元々、罪悪感や、責任感や、恥ずかしさを、感じない体質なのだろうか。あるいは、アドラー心理学を利用したアドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、などという教えに従うと、こういう、わがままなことをして悔いない子どものような大人が出来上がってしまうのだろうか。
(私)
楽山は、あたかも、自分が常識あるブロガーのつもりで振る舞っていますが、実際は、とんでもない策士であり、詭弁家であり、アドラー教というカルトの宣伝者なのです。今までの経過から、それを前提にして考えないと、本人は全く自覚していないですから、楽山の見かけの丁寧なボンヤリ言語に騙されることになります。恐らく、既に、騙されている人がいると思います。
 
(私)
削除について、彼らの言い分は、社交の礼儀と、趣味が合わない、と言うことだけである。
真実の追求は趣味ではないのだから、実際には、削除こそ、最も礼儀に反する行為である。
(私)
礼儀で、ご機嫌取りをしたり、世辞の褒め言葉で持ち上げたりしていては、真実を追求することも、議論を掘り下げることも出来ない。
(私)
にもかかわらず、彼ら二人は、日記ブログでもなく、お付き合いのブログではなく、社交のブログでもなく、趣味の同好会のブログでもなく、
真実を追求もせず、掘り下げもしないのに、自前の不変の真実?を主張しているつもりなのである。
(私)
コメントを削除する者は、正常な弁明の理路を持たず、かつ、学習する気のない者。つまり、最初から自前の主張を言いたいだけの者。つまり、自己中心のナルシシストに近いだろう。
(私)
つまり、彼らが削除するのは、乱暴者が、邪魔者は消せ、ということと同じなのである。これは、それほど、暴力的で、悪質で、卑怯な振る舞いなのである。
 
(私)
そういう者が目指しているところは、必然的に、苦言を、一切、受け取らず、間違いは間違いのまま、正当の化けの皮をかぶったまま、学習もせず、成長もせず、一生を過ごすことになる。
(私)
都合の良いことだけを学習しても、それが間違っていても修正されないのだから、それは、つまり、一生、間違っていたい、それが、アドラー教であり、結局、それは、一生、治らない病的な精神を守り続けることに等しい。
(私)
何故なら、学習も成長もしない精神は、単方向に偏り、または、多方向に奔逸し散乱して、しまいには滅裂となって、病的にしかならないからだ。シャロームと楽山は、その経過と結果を表しているにもかかわらず、悟っているかのような、高慢と傲慢でネットに巣食っているのである。
 
(私)
なお、コメントを未承認のまま放置することも、削除と同様の意味を持ちますが、スクリーンショットで、その有り様を、表に出すことは出来ます。
 
 
(シャローム
私のやじろうべえの支点は人間ではなく、イエスさまなんです。十字架につけられたイエスさまの姿をよく見てください。まさにやじろうべぇの姿です。
 
(私)
シャロームは、平気で、キリストを、やじろべえに喩えています。やじろべえは、人を救いません。シャロームは、自分の中に、キリストがいる、という、真っ向からの背教を語っていることになります。
(私)
やじろべえの支点が、キリストであるなら、どうして、悔い改めよ、という言葉を裏切って、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていいと言ったのでしょう。しかも、間違いとして訂正することもないのは、何故でしょう。答えは、一つしかありません。信仰は嘘で、キリストを信じてなどいないということです。
(私)
こういう、真っ向から、キリストに反するような大嘘の大罪を、平気で、讃美言葉の口に乗せて並べて、ごまかしているのが、シャロームなのです。さらに、政治や社会や歴史についても、妄想的言辞を、節操もなく、あちこちに書きまくっているのです。
(私)
このシャロームを、好きなようにさせると、必ず、唯一の武器である世辞を使って、誰かをたぶらかし、自分の信仰の世界に引き込み、立ち直れないほどのダメージを、その人格に与えるか、あるいは、滅裂な豪語をもって、無駄な疲労を誰かに与え、迷惑をかけるだけになるでしょう。
(私)
カルトが与える悪影響は、ニュースなどで明らかですが、報道されるのは、大きい集団になって、社会に与える影響が顕在化したカルトだけですから、まだ、大きくなっていないカルトや、カルト的な人が広めている途上であるケースは、数えきれないのではないかと思います。
(私)
シャロームと楽山を受け容れてはいけないと思います。どうか近づかないでください。誰かが、彼らのことを言ったら、知らせてあげてください。
 
 
(楽山)
思い返してみれば、自分の場合も、ありのままの自分を受け入れるに従って、喧々諤々の議論をすることもなくなってきたと思うので。
 
(私)
ありのままの自分を、正しいと受け容れて、違う他者を、自分のブログから、自分の記憶から、存在から、削除してきたのです。議論をすることがなくなったのではなく、議論をする相手を趣味で選び、他を削除しているということなのです。
 
 
(シャローム
他の人との関係で悩んだりするのか、その原因は他の人にあるのではなく、自分自身と和解できないことに原因があることが多いようです。それを私たちは自分に向けたり、他の人に向けてしまうことで苦しんでいるのです。
 
(私)
共感を装う、相当な侮辱です。自分と和解しすぎて、神との和解も済んだことになって、自己中心と、自己と神格一体化、つまり、自己絶対化によって、他者を聞かなくなったシャロームは、理路も、情緒も育たないまま、コメントを、世辞の丁寧さだけで書いてくる分、その理路の妄想化と滅裂と、性根の悪さが、際立ってくるのです。
(私)
そうして、今まで8年もの間、ブログのテーマに関するような、いかなることについても、一度も反省も修正もしないという全能妄想ぶりなのです。はっきり、また申し上げますが、こうなったら、おしまいです。そういう、おしまいの人が実際にいる、ということです。
 
 
(私)
信仰は、人間が決め付けない限り、人間を救いますが、考え方を間違えると、人間ではなくなります。そして、自他ともに、人を滅ぼします。宗教の怖さは、ここにあるのです。
 
 
  続・削除魔
 
   オカルト兼自己啓発書とは? (『忘れられたベストセラー作家』小谷野敦著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41564903.html
   楽山ブログのコメント欄。
 
   記事については、既に、「霊感好き」という私の記事にしています。
   オカルト兼自己啓発書とは? (『忘れられたベストセラー作家』小谷野敦著)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41564903.html
 
 
(私)
コメントを削除する者は、弁明の理路を持たない者。
苦言を、受け取らず、かつ、理路を持たなければ、間違いは間違いのまま、正当の化けの皮をかぶったまま、一生を過ごすことになる。
一生間違っていたい、それが、アドラー教であり、それは、一生治らない病的な心を守り続けることに等しい。
2019/7/29(月) 午前 2:52st5402jp返信する
(私)
「削除魔」という記事を書きます。また、今後も、引き続き、批判してゆきます。
 
(楽山)
私は基本的には、コメント欄は自由開放か、または承認制にしても全て承認してきました。stさんのコメントも同様の扱いをしてきました。
 
(私)
真面目に書いたコメントだから、当たり前のことなのに、都合が悪くなると、このように、恩着せがましいことを前提として責めてくる。
 
(楽山)
でも今後については、stさんのコメントは承認しない方向で検討中ではあります。言い難いことですけど、stさんのシャローム批判は、やたらと喧嘩腰だし、誹謗中傷、ヘイトスピーチ寄りになってると思います。
 
(私)
根拠を示せないまま、喧嘩腰、誹謗中傷、ヘイトスピーチ、と激雑言を並べるほうこそがヘイトスピーチ。これは、ボンヤリ言語による、楽山からの脅しです。というより、既に、削除は始まっています。偽善者、楽山の、作為的丁寧語、ボンヤリ言語には、もうだまされない。
 
(楽山)
もしシャロームさんから、「楽山は、私に対するヘイトスピーチを容認し、野放しにすることで、名誉棄損に加担した。訴えてやる」と責められたら反論のしようもないです。
 
(私)
繰り返すことで、「ヘイトスピーチ」の印象をすり込んでくる。
(私)
楽山は、誰に対しても反論は出来ないでしょう。ボンヤリ言語では、反論にも、議論にもならない。嫌み、陰口、当てつけ、といった罵りにしかならない。楽山は、そういうものしか言わないし、そういう物しか返せない、という経過が今まで表れてきた。
(私)
シャロームが、何をしてきたか、という問題を、スコーンと無視できる偽善者、楽山。やさしく冷静を装う体裁だけの、説明にもコメントにもなっていない楽山の筆致。冷静を装う分、嫌らしさが際立っている。
 
(楽山)
まあシャロームさんはそんなことは言わないだろうし、匿名ブロガーに名誉棄損は成立しなかろうとは思うけど、それにしたって、自分のブログのコメ欄で、他者に対するヘイトを野放しにするのは、やはり気が咎めます。この辺りのこと、どうかご理解願いたく思います。
2019/7/29(月) 午前 6:40[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山は、アドラー教カルト宣伝の邪魔になるために、シャロームをかばうが、そのことで、ヘイト、という言葉で詰(なじ)る以外、何も言えなくなっている。楽山のヘイトは、道徳とも常識とも何の関係もなく、醜い。
(私)
「ヘイトを野放しにするのは、やはり気が咎めます。この辺りのこと、どうかご理解願いたく」
また、「ヘイト」を前提にしようと、繰り返して嫌らしさの印象操作。
さらに、常識人を装う、この丁寧語が、偽善者、楽山の特徴である。丁寧に書けばよいと思っているようだが、そういう丁寧さが、既に通用しなくなってきている経過を無視している分、わざとらしくて、気色悪い。恐らく、楽山は、文脈が読めないのだろうと思う。
(私)
それは、「心の理論」の、途方もない曲解に表れていた。
 
(楽山)
こう書くと、正当な批判と、ヘイト誹謗中傷との違いについての議論がはじまりそうですけど、
私には、stさんのシャローム批判を、ヘイト誹謗中傷ではなく正当な批判であるとすることは、論理でも感覚でも受け入れるのは難しいです。一部正当な批判もあるでしょうが、全体をそうだというのは無理です。
2019/7/29(月) 午前 6:48[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
恐らく、楽山には、隠蔽と偽装の目的はあっても、整合する論路と正常な感覚がないのだろう。楽山の、回りくどく、ねちねちとした、丁寧語は、「殴られるより悪いことがある」という三島由紀夫の言葉に相当する。この言葉は、三島原作映画「午後の曳航」の中の、子どもの台詞だ。
(私)
楽山は、整った理路を追えないために、丁寧ボンヤリのイラつかせ言葉を仕入れた。
シャロームは、理路そのものがないために、世辞が通用しないとき、削除を覚えた。
熟し損なった子供の精神と、大人の嫌らしさでは、正当な議論にも意見にもならない。
(私)
恐らく、楽山もシャロームも、人の言ったことなど、殆ど理解していない。だから、深い理解の必要な理路も情緒も汲み取れない。それで、代わりに、踏みつぶすことを覚えた。
(私)
「一部正当な批判もあるでしょうが、全体をそうだというのは無理です」
という部分否定の表現が、自分は思いやったが・・という、楽山の、嫌らしいボンヤリ言語の、文脈上の特徴です。私は、シャロームとの付き合いで、このような安い小細工が、いちばん嫌になりました。丁寧で、思いやって、の陰で、底知れない作為と悪意を感じます。それこそ、殴られるより悪いことがある、ということです。この三島由紀夫の感性は、カルトを考えるうえで、けっこう重要なポイントのような気がします。
 
(シャローム
>楽山は、アドラー教カルト宣伝の邪魔になるために、シャロームをかばう
これについては本記事を読んでもらえれば分かると思うけど、私の立場は、アドラー本などスピ系自己啓発本には注意が必要というものです。
ていうか、これと似た流れは前にもありました。stさんが楽山はアドラー信者と言い、私はアドラーには役立つ考え方はあるようだけども、のめり込むのはダメという立場ですと説明したのでした。
2019/7/29(月) 午後 8:10[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
カルトに対して、役立つ考え方があるようだ、ということが、既に、カルトとは見なしていない証拠です。カルトとは対決姿勢と、総てを振り出しに戻す全否定だけが必要なのです。あなたは、カルトに甘くしろと言っているに等しい。何を言っているのか。だから、あなたに対してもだ。
(私)
ちょうどいい柔和さで、正しいことを言っているつもりか、そのように、装っているのか。それは、カルトには通用しない。まず、つぶすことが大事であり、それをしないと、また、社交や世辞によって、諦めずに、広めようとするのがカルトである。あなたに対してもだ。
 
(シャローム
stさんによるシャローム批判については、当方はこんな見方です。
・巷には、カルトと言えば、献金詐欺、霊感商法、女性信者にセクハラなど、違法行為、人権侵害などを繰り返す反社会的団体というイメージがある。
・でもシャロームさんがそういうことをしたという事実はない。
・にも関わらず、シャロームはカルトだと言い募れば、シャロームさんがそういう違法行為を繰り返している人だという誤解を広めることになる。これはよくない。
これについても前に話したことがあったと思いますけど、また書いときます。
2019/7/29(月) 午後 8:12[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
犯罪に及んでいないから批判するな、というのは全く成り立たない。犯罪が起こってからは、警察の仕事である。一般人の出来ることは、おかしいところを見つけたら、批判の言論をもって、不正を訴えてゆくこと、すわわち、抑止と情報の拡散をすることが必要だし、それが一般人にも自由な言論をもって出来ることだ。
(私)
犯罪じゃないから?・・よくも、そんなことが言えるものだ。巷のイメージだと。今までシャロームと仲良くして理非も分別できないくせに、結局、ここでも味方している。あなたは、冷めた飲み物のように、感じないし、考えない、あなたの意見など、私は、全く聞いていない。理路がないからだ。
(私)
すでに、信頼など、微塵もない。だから、楽山、アドラー教のあなたも批判対象なのだ。今ごろ何を言っている。やはり、あなたは、一貫して、理路のない、情緒のない、疲労物質だった。今日も。ねちねち、クレームをつけてくるだけ。卑怯者。
 
(私)
楽山が、いかに丁寧言葉で、常識があるという装いで、まともぶって書いてきても、言っていることに理路と内容と内実がないことが特徴です。よく読めば、言い逃れだけなのです。シャロームは犯罪者ではないから・・と言いだした時点で、批判の意味を知らないのであり、既にアウトなのです。
(私)
自分が、カルトであり、いかに、シャロームの肩を持ってきたか、いかに、楽山と、楽山のボンヤリ言語が、有害であるか、まるで、分かっていない。あるいは、これも、とぼけているだけなのか。そういう感慨しか、楽山については残っていない経過なのです。だから、そのことを、公共に知らせるためだけに、書いています。
(私)
シャロームとは、もちろんのこと、楽山と交流する意志など、とうの昔に失せています。批判記事ですが、公共の読者に読んでほしくて書いています。隠蔽と偽装のカルトそして偽善者の、シャロームと楽山に騙されないように。
 
 
(2019年07月30日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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