やはりアドラー教
自分に合った人生観とは?(利他と利己)
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41566565.html
楽山のブログ記事。2019/8/4(日) 午前 8:51
人生観とは、趣味のように、着物のように、自分に合ったものを探せばよいのでしょうか。自分を律する、ということを捨て去った者が、ボンヤリ言語で、勝手なことを書いています。
>
巷には、正反対の考え方がある。
<
ふつう、あるわけです。このあとが、怖いことになっています。
「
「自己中心はいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。
自分の為ではなく、
世の為、人の為に生きなさい」
「人のことなんか気にする必要はない。
まずは自分に正直になり、
自分のしたいことをするのが第一だ。
その結果、人に喜ばれたら結構なことだが、
喜ばれなくとも、それはそれで構わない」
」
両方あるのだ、ということが、ゆるせないのでしょうか。
>
これらの考え方は、
どちらも一理あるとは思うが、
自分の場合は、
前者のように生きようとすると
すごく疲れてしまい、
後者のように生きようとすると
生活が安定することが多い。
<
前者は、当為(「べき」の付くこと)が多いわけです。
楽山は、正しさを求めたくないのでしょうか、エネルギーを少しも人のために使いたくないのでしょうか、人のために何もしたくないのでしょうか、人のためにすることは楽山にとって、すごく疲れることなのでしょうか、生き甲斐など感じることはないのでしょうか。
後者は、過ぎると、欲望のままということにもなりかねませんが、楽山は、それを戒めるのではなく、生活が安定することが多いと言っています。何らかの作為か偏向が見られないでしょうか。
>
その原因を考えてみると、
自分は元々、利他に傾いているせいで、
その上さらに利他に徹しようとすると、
傾きが大きくなりすぎて倒れてしまうが、
<
楽山は、利他に傾いてはいないと思います。
そんなこと、よく言えるものだと思います。
とても、利他への方向が大きいとは思えませんし、
とても、倒れそうには見えませんが。
・・嘘ばっかり、白々しい・・
>
その反対に
利己に徹しようとすると、
利他への傾きを修正できて、
真っ直ぐ立てるようになり、
平穏な日々を送れるということらしい。
<
他者に無関心で、気に入らないことを無視するなら、傾きを、修正するのではなく、利己と自己中心に傾くのです。それで、平穏な日々を送れるのではなく、刺激をシャットアウトすることになり、感情は鈍麻し、思考は停滞して、人間ではなくなります。
やはり、楽山は、生粋のアドラー教徒、アドラー教宣伝者のようです。
>
人生観にはいろいろあるけれど、
誰かにとって有用な人生観でも、
自分には害がある場合もあるし、
そのことを考えれば、
自分に合った人生観を持つことは、
本当に大事だと思う。
<
ここで、既に批判対象となったのですが、
誰にとっても大事なことに、人それぞれ、を持ち出しています。
自分に合った人生観が、傍迷惑や自己中心や利己主義なら、
それは、社会悪と言い、盗人の人生観というべきなのです。
楽山の名を、アドラー心理学を悪用したカルト、アドラー教と言う名とともに、
ボンヤリ言語という特徴的な曖昧さと刷り込み表現とともに、覚えてください。
人生観は、好みで、あれがいい、これはいやだ、という、選び方をするものではありません。
甘いこともあり苦いこともある個人の経験の中から、きたえられ磨き上げてゆくものです。
拙劣な思想だと思います。万事について、今までも、気安さが目立ってきました。
不都合を無視していると、こうなると思ったほうがよいでしょう。
アドラー心理学から距離を置くようなことを言っていたが、
やはり楽山には根深い病巣がありそうです。
思考の深みのない言葉足らず、曖昧な表現で刷り込んでゆく卑劣なボンヤリ言語、幼稚な理路、共感性のない短絡、まずは否定されないような内容を書いてくる狡猾さは、カルトの入り口に共通。
ボンヤリ時が経つ
・時が経つのは早い
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41566641.html
楽山のブログ記事。2019/8/4(日) 午後 4:38
ボンヤリ言語を使っていると、
このような、焦点のない、風情のない、
ボンヤリ文章を書くのでしょうか。
>
いよいよ、八月末が迫ってきた。
やっぱり時が経つのは早い。
<
8月末ですか。
ヤフーブログに書き込みの出来なくなるとき。
>
ほんと、時は無常だ。
こっちの都合は全然考えてくれず、
たんたんと過ぎ去って行く。
<
言い古された当たり前の言葉。
こういうことから楽山は入ってくる。
>
一切は過ぎ去って行きます
というけれど、これは本当だね。
<
太宰の引用か。ボンヤリしながら。
>
そうであれば、
どう足掻いても変えることは出来ない
時の流れに抵抗したところで無駄であって、
それに適応するしかないってことか…。
<
これを言って何になる。
時の流れに抵抗が無駄だと言いながら
それに適応するというのは
ぞんざいに飾った言い方。
>
でも、
一切は過ぎ去って行きますというのは、
まるで、
一切は無意味ですと言われてるようで、
これを受け入れて生きて行くのは、
なかなかの難事業ではある。
<
無意味を受け入れることになるのを
空しいと言わず
難事業と言っている。
どんな大仕事が出来ると言うのだろう。
>
いわゆる
残酷な真実と
優しい嘘のうち、
後者を選ぶという人の気持ちはよく理解できなかったが、
このことを考えると、後者を選ぶのもアリかなとは思えてくる。
<
やはりアドラー教。
優しい嘘に生きるそうだ。
人の気持ちを理解してない者は
こういう結論の出し方をして、
刷り込んでくるボンヤリ言語。
アリかな、などと、
ろくに考えていないということ。
>
でも結局は、そんなことを思いつつも、
自分はやっぱり前者を選ぶんだけどね。
<
残酷な真実を人が選ぶことは出来ない。
残酷な真実が人を選ぶのだ。
(2019年08月06日、同日一部修正)
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