ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

当たり前?

 
  当たり前?
 
   当たり前のこと
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568495.html
   楽山のブログ記事。
 
 
楽山は、小学校の道徳かと思うようなことを書いています。
しかしながら、コメントを隠すという当たり前でないことをしているのです。
 

当たり前のことを
当たり前に
できるようになりたい
と思う。

 
できるようになりたい、とは、当たり前にできていなかったことを認めるのでしょうか。
しかし、少しも変わっていないようです。
 

人と会ったら、
こんにちは、
と挨拶する。

 
挨拶するのですね、礼儀として。
普通の人でも、挨拶ですから、誠心誠意とは限りません。
しかし、楽山には、真実より、大事なことなのでしょうか。
 

何かしてもらったら、
ありがとう
とお礼をする。

 
小学生向きだが、今までのことから、世辞は言っても、
してもらった・・という気持ちは、厚顔のおっさん、楽山にはないような気がします。
 

まずいことをしてしまったら、
すみません
と謝る。

 
これも、小学生向きの説教のようです。
まずいことを、自分のこととしては謝りもせず、訂正もせず、継続してしているのが、楽山とシャロームであります。それでいて、他者について、上のようなことを言っています。
基本的に、彼らは、本気で、謝罪することなどなかったのではないかと思います。
 

こういう当たり前のことを
当たり前にできてると、
自も他も、
余計なストレスなく、
平和に生きられるからいい。

 
当たり前のことを、当たり前にせずに、にもかかわらず、砕けた言葉をわざとらしく使って、当たり前に勧めているのは、その狙い、決して、当たり前ではないことばかりでした。こういうやり方で、超常のことも吹聴して、気に入らないことを無視することで、自己中を勧めて、ストレスを排除して、安穏に生きているのが楽山の楽なのです。
 

若い時は、
当たり前のことを
偽善だといって
毛嫌いしたり、

 
楽山は、偽善を働いて、偽善を欲しがっているのでしょうか。
楽山は、当たり前のことを、偽善だと言ってきたのでしょうか。
 
当たり前のことは、当たり前であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。当たり前が、そのまま、真実というわけではなく、当たり前が、偽善と限るわけでもないのです。そういう弁えもないまま、書けば書くほど、ごまかしと偽善の作為が、表れてきます。
 
偽善の問題こそ、二千年前、既に、キリストが指摘して批判した大問題だ、ということに、何も気づかない楽山です。
 

当たり前でないことを
屁理屈言って
正当化したり
することもあったけど、

 
屁理屈、かたより、ひいき、月並み、短絡、自己正当化、などが、楽山の言論です。
 

やっぱり
当たり前がいいな。
平凡、普通というのが、一番いい。

 
受け入れないでください。今までの経過から、楽山は、自身ではなく、他者がそうあれば《都合が》いいと言っているのです。
 
楽山の作為は、他者への、印象操作と、詭弁と、臭い説教と、誘導と、刷り込みです。
この点、シャロームと、よく似ています。そこから、成りすましを疑っています。
 
 
   手厳しい(スピリチュアリズム、波長同通の法則)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41569715.html
 
 
楽山の宗教観が、当たり前でないことは、今までも、いっぱい表れてきましたが、今回も、その例に漏れないようです。超常の霊とかが大好きで、それを当たり前だと自分に当てはめて満悦し、本当に当たり前の現実の日常を疎かにして、その結果を、つまり現実の自らの人格の鈍麻と破綻を、シャロームと同じように、身に受けていることに気づかない楽山です。
 

マリアさんは、なかなかに手厳しい。
・ひさしぶりに訪問履歴を見たら
https://blogs.yahoo.co.jp/magtaranomaria/43322465.html
自分は聖書の話はよく分からないけど、
当該記事は、スピリチュアリズム的なので、
書いてあることは、まずまず分かります。

 
スピリチュアルというのも、人間とか心理とかを見て判断しているサイトもあるようですが、霊感の要素が強くなる場合というのは、信仰?に近くなり、ひどくなればカルトになるでしょう。楽山は、スピリチュアルが、分かるのだそうです。さりげなく言うことに本性は現れているようです。
 
自称マグダラ・マリアのことを言っているようです。前に批判したことがありますが、結局、神の正しさと、人の信仰による正しささえも、区別できない彼らを、私は、キリスト教とは思えないし、批判に対して罵詈雑言しか返せない人たちなので、今のところは、相手にしていません。向こうは、今も、軽口で、嘲っているかもしれませんが。
 

そういえば、
スピリチュアリズムでは、
類は類を呼ぶ
波長同通
というようなことを強調してると思うけど、
最近は、
このことを、
つくづくリアルに感じるようになってきた。

 
スピリチュアリズムの、類は類を呼ぶ、
ということを、楽山は、波長同通?で、リアルに感じるそうです。
 
楽山の話には、魔術的、超常的なことがメインになってきましたから、この発言は、楽山が感じていると言っている霊的超常的なことをリアルだと思っていると受け取っていいのでしょう。随所に、怪しさが漏れ出てくる楽山です。
 

霊界の話を持ち出すまでもなく、
この世を見回しただけでも、
人と人との関係において、
共通点があれば親しくなり、
共通点がなければ疎遠となるようなので。

 
人付き合いについての終わりの2行を、始めの2行に関連付けてくるところが、怪しい楽山の、何やら霊的能力の自覚と自尊を表しているようです。
 
霊界の話を持ち出すまでもなく、ということは、霊界の話を持ち出せば、いったい、どんなことを言い出すのか、霊能者を自負するのだろうか、と思われますから、近づかないのが一番でしょう。
 
楽山は、今まで霊的能力について書いてきましたが、「心の理論」という記事では、初歩的な理路を理解しないで、仏様の心が分かるようなことを言っていました。
 
私は、超常にばかり関心がゆくと、日常の配慮や感じ方が正常に学習されないという危惧をいだいています。シャロームや楽山には、如実に、それを感じています。しかも、自己中心で、訂正不能になるので、元の人間性へ戻れなくなってゆくようです。
 
例えば、シャロームや楽山のような、人間の豊かな情感が欠けていて、人間力の弱い人は、えてして、自分を改善することより、超常の助けや超能力を欲しがるようです。そして、それが手に入るといったことに関心があり、実際は、得られない、もどかしさから、一気に、あるいは、妄想的に、得ている、というような自覚と自尊を自慢し始めるのでしょう。
 
例えば、霊、霊的何々、神、奇跡、など、超常のことを分かる、あるいは、分かったつもりで語る人というのは、自分が、一般のヒトとは違った特別なの存在であると思いたい人でしょう。そう思わないではいられない人もいるのでしょう。それゆえ、人間と人間性を疎かにしやすいのです。
 
 
(2019年08月19日)
 
 
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