ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

基督の歌+2

 
  基督の歌+2
 
 
私は、昔から、キリスト信仰を考えるときに、体のいい言葉を並べることに、半端に抵抗がありました。感謝の言葉は使うことがありますが、特に讃美のための讃美と言うのは苦手です。
 
そして、私が現代のパリサイ人として、約8年間批判して、ヤフー終了とともに、所在不明になっている偽善者のブログの言葉が、
「神のみことばである聖書にはイエスキリストを信じる者は生ける神の宮であり(新約・第1コリント3章16節)、また讃美もまた生ける神の住まい(旧約・詩篇22篇3節)と記されています。生ける神の臨在と愛はわたしたちの神への讃美によってあらわされるのです。さあ、いっしょに讃美をしませんか?」です。
12月には消えてしまいますが、
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/MYBLOG/guest.html
讃美をするなと言いたいわけではないが、讃美しておけばいいだろ、という安易さで、やたら讃美しまくり、一方で、罪を認めず悔い改めもしない偽善者がいるのです。大嘘吐きです。
 
前から言っているように、信仰の言葉として、最も大事なのは、正直さであります。見かけの讃美言葉に騙されるのはいやです。
 
そういうことで、自分の本音と呼べる、かなり過激な言葉を用いて書いたのが、「基督の歌」:序+6篇です。これでもかと信仰に不都合なことを書いて、自分に問うてみるのです。
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
形而上の供え物というのは、頭の理屈だけの教条主義的な信仰?のことです。乞食にくれた残飯とは、薄っぺらな人の善行、受難に耐えんとする信仰は、被害者意識に走りやすい信仰?、旗がなびく、というのは、似た者同士が集まって、お仲間意識に凝り固まることです。カルトでは、よく見られることです。キリスト信仰においては、あってはいけないことです。
 
 
  不信仰告白
      (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
神の全知全能は、全面的に神のみに任される大いなる力であり、決して私たち人間の手には負えず、また、その神に対して、神の力に対して、私たちがとるべき姿勢は、恐れを知ること以外ではありません。
 
一本の髪の毛を火にかざすと、チリチリっと、あっという間に燃え尽きてなくなります。私たちは、神に対して、そのように小さい存在だということです。
 
私が近づきたいのは、人生の同伴者である主イエス・キリストだけです。
私が、神に祈りを捧げることが出来るのは、主イエス・キリストの執り成しがあってのことです。
 
神は、キリストの執り成しによらなければ、決して、やさしい父ではありません。罪は、救い主イエス・キリストの名によって、正直に、悔い改める罪の告白をしなければ、赦されることはありません。
 
偽善者シャローム shalom は、罪は、悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言っていました。
 
偽善者シャロームは、次には、悔い改めは、神が与えると言って、人に言われる筋合いはないかのように、悔い改めないことを正当化しました。
 
これは、悔い改めたとも、悔い改めるとも、言えないのは、神が与えないからだ、という言い逃れです。しかし、とんでもない、信仰の始めと、信仰生活において、神が悔い改めに導いていないのは、神が、その人に何も与えていない証拠にしかならないのです。
 
その者のお仲間、楽山は、白々しくも、それですっきり解決したと言い、キリスト信仰について何も知らないことを露呈しました。
 
偽善者は、罪には、いつも、さいなまれている、と言いました。罪を気にすると、罪がいじめてくるかのような、まるで、被害者であるかのような言い方です。
 
私は、生きるのに向かない、宗教に向かない、神の国に向かない、私は神を知らない、神を理解などしていない、私は、神の前では、主に執り成しを願うところの、水の泡のごとく無力な存在であるということを言いたいのです。
 
私たち人間そして信仰者は、不完全で弱く、水の泡のように現れ、水の泡のように地上から消えてゆく存在です。
 
私たち人間そして信仰者は、命さえも惜しまない救い主イエス・キリストを慕うゆえに、創造主であり全知全能の神を、神、そして、父よ、と呼んで、仕えることが出来るのです。
 
 
(2019年10月12日、同日一部修正)
 
 
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