ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰の保障?

 
  信仰の保障?
 
 バルトと歎異抄
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28930400.html
  by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
何も言えない、何を言っても成り立たないシャロームは、人に言わせて、また、自分が書いたかのように見せかけたいのか、リンクを付けていませんが、引用の許可は得たのでしょうか。
 
シャロームは、自己正当化のためなら、また、自分を飾ることなら、手段を選ばず何でもするし、聖句も悪用するし、知らないことにまで頷いて世辞を言うほどに、貪欲で自己中です。以前からです。
 
次のサイトからの引用です。
 
shirasagikaraの日記
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20151025
 
そして文末の僅かの文章で、自分の言い分が正しいことを主張しますが、いつもいつも、シャロームは、的外れなのです。
 
 
(引用はじめ)
262文字の「般若心経」は、日本人にもなじみ深いお経です。
この経典は、204文字のキリスト教の「使徒信条」と共に、
それぞれの信仰のエッセンスをしるします。
 
(私)
信仰のエッセンスは、信条にあるのではなく、罪の悔い改め、という、神への正直な告白にあります。そこにおいて、シャロームは、真っ向から背いているのです。
 
(引用)
わたしも「ぎゃてー、ぎゃてー、はらぎゃてー、
はらそうーぎゃてー、ぼじそわか」と、
「空即是色」の意味はつかめぬまま、
丸ごと暗誦できたときは「やったぞ」と喜びました。
 
(私)
キリスト教話の肴のように、般若心経を、冗談ぽく書いています。私は、よく知らないので、これ以上は、書かないでおきます。一面的なキリスト者にありがちな、異教の扱いのようです。
 
(引用)
しかし仏教経典なら、やはり日本人の書いた
歎異抄」(たんにしょう)が好きです。親鸞唯円
「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」の信仰は、
キリストの福音に近いからです。
 
(私)
今度は、歎異抄を出してきて、・・それだけのようです。私が洗礼を受けた教会の牧師も、キリスト教に似ていると言っていたのを思い出します。私も、文庫本の薄い「歎異抄」を読んだことがありますが、問答になると、私には、なかなか分かりにくかったです。
 
(引用)
「浦和キリスト集会」を主宰される
無教会の伝道者で精神科医でもある関根義夫先生は、
「パラクレートス」(慰め主、聖霊)という
月刊誌を出していられます。
その2015年10月号に「主われを愛す」を掲載され、
神学者バルトのことを紹介されました。
あるときアメリカの新聞記者が、20世紀を代表する神学者で、
ご自分の背丈より高いほどの著作がある
カール・バルト先生に、こう質問したそうです。
「端的に言って、要するに、先生は何をおっしゃりたいのですか」。
するとバルトは、しばらく考えた後、やおら答えました。
「それは『主、われを愛す』ということです」。
すごい答えです。「われ、主を愛す」ではありません。
 
(私)
キリスト信仰は、主が我を愛することに、我が答えて、主を忘れられず、主を愛することによって、成立します。ところが、シャロームは、主を愛していないのでしょうか、一方的に神に愛されていることばかりを言い張っています。神と人は双方向です。神が、そのように、人を造られたからです。そのことは、創世記をはじめとして、福音書に至るまで、聖書の至るところに書いてあるのです。
(私)
シャロームの信仰は、自分は神に一方的に愛され、奇跡で守られる、という、被愛妄想で出来ていて、自分が何をしても赦され、罪を悔い改めなくても赦される、という信条ですが、そのようなキリスト教は存在しません
(私)
前にも引用元サイトにはシャロームの勝手な引用について書いたような気がしますが、なぜ、引用元は、シャロームに抗議しないのでしょう。引用元は、シャロームのお味方なのでしょうか。コメント欄もゲストブックも、シャロームが閉鎖しているからでしょうか。ならば、ヤフーに抗議するべきなのです。
 
(引用)
すべてを知り尽くした人でないと言い放てない深い一句です。
 
(私)
「主、われを愛す」だけで深い、というのは納得できません。誰もが認めることだからです。そうして、現に、考えることが嫌で嫌でたまらない偽善者シャロームに、今までも引用され、神からの一方的な愛され妄想となって、いいように利用されてきたのです。
 
(引用)
わたしの信仰の師・酒枝義旗先生が1936(昭和11)年、
ドイツ留学の帰途、そのカール・バルト先生を、
スイスのバーゼルにたずねたときのこと。
酒枝先生が「歎異抄」の「善人なをもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや」の説明をしたところ、
バルトはテーブルを叩いて「それこそ福音だ」と
言ったそうです。
さすがバルト先生。
キリスト信仰の中核は「主、われを愛す」だと喝破し、
「いはんや悪人をや」を「これぞ福音」と評価する柔らかさ。
ただ「歎異抄」には、キリストの十字架という
贖罪の保証がありません。
そこがキリスト信仰から見て物足りないところです。 
 
(私)
異教批判をするつもりでしょうか。全く起源の異なる異教である仏教、しかも浄土真宗という宗派に対し、キリスト教の要素を持ってきて、これがないから物足りない、という批判は、まさに我田引水と言うべきでしょう。いわゆる、分かっているわけでもないくせに・・、ということです。
 
(引用)
しかし、罪人が真っ先に救われるという深い信仰の消息を、
福音を知らずに今から700年も前に教えた名僧が
日本にいたとは!。驚きであり、誇りであり、
日本人の宗教性の高さを示しています。
 
(私)
ここで、日本人の宗教性の高さと言って、日本人が優秀である、ということに持ってゆくのは不当です。親鸞という特別な宗教家の洞察を褒めるにとどめるべきでしょう。何故なら、キリスト教から見ると・・という立場からしか、キリスト者は語れないからです。
 
(引用)
「イエスはわたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました」
(第1ヨハネ3・16)
 
(私)
私たちキリスト者は、キリストの愛を知っています。命を捨てるほどの、キリストの愛は、命を捨てるという行為だけでなく、砕かれた魂で救いを求める人々への赦しと癒しと救いによって、受け取っているのが、私たちキリスト者の宗教と信仰の体験であります。
(私)
念のために言っておきますが、死んだくださってありがとう、とキリストに言って、感謝だけで表せるような信仰ではありません。
 
 
(私)
次の聖句は、引用元には、書いてないようです。シャロームの引用でしょうか。
 
(シャロームの引用聖句)
5:36わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
5:37また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。
ヨハネによる福音書5章36~36節)
 
(私)
人が見たことのない神が、キリストのわざによって、キリストを証したと、キリストが語っているのです。キリストが、神の子であり、神聖であり、救い主であることと、同値だと思います。
(私)
なぜ、この聖句を、「神、われを愛す」の文脈で出してきたのか、危険な感じがします。「わたし」は、もちろん、キリストのことですが、まさか、シャロームは、自分に、なぞられたりしていないでしょうね。何だか、いつもシャロームの引用と言説は、胡散臭いのですが。
 
 
>《shalomのコメント》

信仰は人による考え方を信じるのではなく、
信仰の保障を与えられた方を信じることです。
信仰の保障は生ける神のみが与えることができるからです。

 
(私)
シャロームは、保証ではなく、信仰の保障、と書いています。二度、書いています。
ネットで検索してみると
 

保証は、大丈夫だとうけあうこと。
 
ほしょう【保障】
《名・ス他》障害のないように保つこと。特に、現在・将来の状態や地位を(侵略から防ぎ)保全すること。 「安全―」
ある状態がそこなわれることのないように、保護し守ること。「国家の安全を保障する」「社会保障
 」
 
(私)
私たちは、神様から、私たちの持っている総てのものが、自尊も含めて、すべてOKのまま変えないで保持されるという「保障」は受け取っていないはずです。古いものは新しいものに改められるのが信仰です。
(私)
したがって、保証のほうが、どちらかと言えば、妥当なのです。シャロームの、いつも安全が保たれ不変の自尊が保たれる保障を求めて、得られているという信仰?は、明らかな誤用です。
(私)
シャロームは、保障などという言葉を使うことで、またしても、馬脚をあらわしています
 
>私たちはただ与えられる信仰を受け容れるのみなのです。
 
(私)
これを口実に、シャロームは、自分の言動を、正邪を問わず、すべて、神が与えた恵みと思い込んでいるようです。それゆえに、不変不応となり、聞かないが、言うだけは言う、という信仰?になっています。著しい誤謬であり、詭弁です。
(私)
何故なら、私たちは、信仰者でも、過ちを犯し、罪を犯すからです。その事実を認めないキリスト教もキリスト信仰も存在しません。
(私)
シャロームは、罪さえも、神の与えた恵みそして信仰と見なし、そのために、正直に告白することもせず、平気で嘘を吐きながら、罪であることを認めず、悔いることも改めることもしないでいるのです。神聖の名を利用した、このような自己正当化が、カルトでなくて何なのでしょう。
(私)
シャロームは、書けば、いつも、このような、極めて幼稚な詭弁の言い逃れを繰り返してきます。それは、キリスト教ともキリスト信仰とも真逆の、反信仰であり、正直言って、見るたびに、言い知れぬ不快と吐き気を催します。
(私)
シャロームは、いつまで性懲りもなく、嘘吐きの記録を積み重ねる気なのでしょう。恥ずかしいことです。批判記事を書くのは、シャロームの影響を、誰も受けてほしくないからです。
 
 
(2019年03月23日アップ、同日一部修正)
 
私が書いている「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp