ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

終結と無視

 
  終結と無視
 
   時間を大切にするには… (気持ちの切り替え)
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41508615.html
   楽山の記事
 
 
楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているようです気に入らないことを無視する、という軟派カルトのアドラー教に、無視の仕方を教えられては人格破壊が広がるだけだし、それでシャロームの味方をされては自己中解釈の偽キリスト教が広がるだけです。批判を続けることになります。
 

世の中で生活している限りは、人との付き合いは必要だけれども、時間を大切にしたいという気持ちが強くなると、付き合いほど面倒なものはないと思えてくる。

 
だったら、教えるのは、やめるべきでしょう。言い訳ばかりの人です。
 

もうウン十年前のことだけど、飲み会で二人の先輩がひそひそ話をしていたのを、いまだに覚えてる。
「今日明日はもう諦めろ」
「でもなあ…」

 
今日明日ではなく、例えば私にとっては残り少ない一生の問題に、楽山は触れて障ってしまったのです。しかも、反省は皆無で、成り立たない言い訳ばかりの人です。
 

二人とも読書家だったし、付き合いで時間がつぶれるのが惜しかったらしい。一人は気持ちを切り替えていたけど、もう一人はそう簡単には割り切れぬらしかった。

 
割り切れぬとかではなく、楽山のひどいところは、反省を全くしないところです。シャロームとともに、そういう人は、不都合を忘れて、同じことを言い、同じことを繰り返します。そして、また、愚痴のような同じ言い訳をするのでしょう。
 

そういえばこれと似た話は、何かの本で読んだ記憶はある。その本の著者が学生だった頃に、田舎から出てきた両親の東京見物に付き合わなければならず、その間、勉強できないことに苛々したというエピソード。

 
親孝行と議論と、どこが似ているのでしょう。親孝行で時間がつぶれるのは惜しいのでしょうか。
 
時間を大切にするという価値観の持って行き方を履き違えているようです。このような非常識なところが、カルトに嵌ると、たくさん出てくるでしょう。価値観と分別の理路がおかしくなるのです。
 

著者はこの時、「どうせやらなければならないことならば、嫌々ではなく、それを楽しもう。勉強する時は勉強し、付き合う時は付き合おう。目の前の課題に集中しよう」などと気持ちを切り替え、その結果、両親にも喜んでもらったということだった。

 
このように切り替えるには価値観と分別を弁える理路が必要ですが、切り替え方を間違えた障り方をした人が、気持ちを切り替えようと言っています。まさしく、楽山のカルト思想に基づく自己中心が表れています。その結果、楽山だけが悦んでも、障られたほうは批判の決意が固まるということです。物わかりが良いように小手先で書き方を装っている分、言い訳は、いっそう醜いものになっています。
 

自分はどうも根がどこまでも優柔不断にできているせいか、この気持ちの切り替えがあまりうまくできないのが情けない。でもこういう切り替えはぜひとも必要なことだろうし、がんばらねば…。とりあえずは、お彼岸の親戚付き合いをがんばろう。〈了〉

 
切り替えてはいけないところで、何の解決も合意も成立していないところで、切り替えることを美徳のように刷り込もうとしている楽山です。こういう嫌らしい詭弁が楽山の技のようです。
 

*追記 20190321
気持ちの切り替えといえば、先日ネット上での論争を見ていたら、一方の当事者が論争を止めると宣言して、本当にピタリと止めてた。これには驚いた。

 
あるときの論争は、そのときにはどこかで一時的には止まるでしょう。しかし、無条件に無作法に、ピタリと止めることを、まるで美徳のように、いやらしく、吹聴してくる向きがあるのなら、根底において、いい加減な処し方では、決して止まらないものがあることを、広く敷衍する必要があります。
 
証拠不十分だからといって否定にはならず、証拠不十分ならば否定も肯定も出来ないのだから、知りもしないキリスト教というテーマについての話からは、楽山は引っ込むべきでした
 
しかし、反省しない自己中の図々しい根性をアドラー教から学んだ楽山は、快楽欲求だけに従って、平気で偽善者の味方をしたのですから、切り替えの美徳という詭弁は今さら利かないのです。詭弁+卑怯という嫌らしさになってしまいます。
 

ネット上の論争は終結宣言があっても、大概はその後もくすぶり続けるものである。当事者が「止める」と言っても、その言葉が守られるなんて期待できないのが普通だ。

 
一方、終結宣言がないことは、くすぶるのではなく、はっきり継続するということです。
 

だから、論争は止めると宣言して、それをそのまま実行した人がいたのには驚いた。これはすごい。こういうことができる人は、はじめて見たかも。

 
また、・・かも・・、で暗示したいようですが、終結されていなければ、少しも良くはないのです。ましてや、勝手に気持ちを切り替えるような人に対しては、切り替わっていないことを、明記してゆくしかないでしょう。また、とても、ねちねちした、いやさしさ、回りくどさ、婉曲、暗示などが、気色の悪い楽山です。カルトに嵌ると、自己中目的優先のあまり、体質も変わってしまうということでしょう。
 

自分は、ネットに時間を使いすぎてる、ネットから距離をとろうと思いつつも、ついついネットを覗いてしまうし、もうちょい自分を律し、自分で自分をコントロールできるようにならねば…と反省した次第である。

 
不都合を無視することを、自己コントロールと呼んで正当化する楽山を、もはや、私の議論や話し合いの相手にはしていません。楽山ブログにコメントを書くことは一応しない方針で、シャロームと同様、方向性としては、ただ一途に、広く警戒を促す批判を続けることになります。
 
悔いる心や反省力を持って、少なくとも持とうと心がけながら、ネットで何かを求めるために書き続けている人々と、シャロームと楽山は異なる種類の人間だと思っています。
 
シャロームと楽山は、気に入らないことを自分の都合だけで無視し続けられる異常な精神または信条を持ち、訂正不能で確信に満ちて他者を上から見下ろして、教えてあげるという迷惑な姿勢だけなのに、余裕ありげの丁寧な言い方で引き寄せようとして来ます
 
この丁寧さは、カルトや偽善者や荒らしなどに見られるところの、結果としては、自分たちにとっては自己満悦の、対象に対しては奴隷的な洗脳に向けた刷り込みに誘うための、体のいい導入部分として、共通しているのです。
 
第一印象だけで、シャロームと楽山をいい人だと思ってしまうと、正面を向いた真っ直ぐで正直で誠実な交流ではなく、同じような自己中の偽善の満悦境地に堕ちてゆくだけの、無条件賛同の御贔屓筋のお仲間になってしまうでしょう。
 
誰もが欲しがるような何かの悟りや安定の境地というものは、そこに立てたらいいな、と思っているあいだだけ、人間を活発にします。しかしながら、続けているうちに、そこに立っているような気持ちになるなら、むしろ、活発な心の動きを、思い込みによって封じ込める作用と持つようになるのです。
 
もともと、人間は、安定と不変の状態に自分を保つことなど、本来できるような生き物として造られてはいないのだろうと思います。
 
この揺れ動いて止まない地上世界において、人間は、心の安定に生きるのではなく、心の活性に生きるように造られているのだろうと思います。
 
したがって、終結することを、経過を無視することと勘違いしてはいけないのです。
 
 
(2019年03月24日アップ、同日一部修正)
 
敷衍(ふえん)
贔屓(ひいき)
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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